「森で、寄り道をしてはいけないよ。悪いオオカミがいるからね、どんな風に話しかけられても、そそのかされても、絶対に、絶対にこたえちゃあ、だめだよ」

祖母の優しい声が頭の中によみがえる。

―――あぁ、でもおばあちゃん。わたし、寄り道もなにもしなかったのよ。それなのに、オオカミに無理やりさらわれてしまったときは、どうすればいいの?


おおきな漆黒のオオカミが、わたしの上にのって、おおきな口をぱかりと開けて笑っている。覗く舌の、血のような紅さと、対照的な牙の白さに、何故か背筋に震えが走った。


わたしは、このオオカミに飼われている。名前を、クロコダイルというらしい。おおきな身体に、冷たい薄黄色の瞳、それと生々しい傷がひと筋、顔の中央を横断している。髪の毛は夜の闇のように深い黒で、その中から生える獣耳も、同じように艶々とした漆黒の毛で覆われていた。

どこで手に入れるのかはしらないけれど、いつも品のいいシャツと質感の良いトラウザーを履いている。背骨の付け根、腰のところからは、ふさふさのシッポが生えていて、それは感情に伴って揺れた。骨ばったおおきな手のひらに、節くれだった指。その先にある爪は野生の獣よろしく鋭く尖っている。

いま、組み敷かれるのは、むかし、祖母が寝ていたはずの古びたベッド。わたしは、そこに捕らわれている。こっそり町に抜けだそうとしたのが、またばれてしまったのだ。




数か月前、祖母が亡くなったという連絡を受けた。亡くなっていた、という連絡だった。葬儀はもうひっそりとすまされていたようで、亡くなる前に会いに行けなかったことを酷く後悔した。はやくに両親をなくしたわたしにとって、祖母は唯一の肉親だったから。


小さな頃、育ててもらったときのやわらかい声が脳内に甦る。優しい笑顔をいつも浮かべながら、歌をうたってくれたり、文字の読み方を教えてくれたりした。赤いビロードで赤ずきんをつくってくれた。それはとても可愛くて、ずっとお気に入りだった。

おおきくなって、わたしが町にでることになったとき、本当はついてきてもらいたかった。けれど、祖母は、祖父との思い出が残る森の奥の家を離れたがらなかった。


「残り少ない余生をね、あの人を偲んで生きたいの」

そういう祖母の顔が乙女のように可愛らしかったことを想い出す。だから、時々見舞いにいっていたけれど、まさか、祖母が、亡くなったなんて。

あまりに突然の知らせだった。人ひとりがこの世から消えたはずなのに、まったく実感がわかない。あの小さな小屋を訪ねたら、まだ、祖母がしわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして迎えてくれるような気がしてならなかった。


せめて、お墓をみれば実感も湧くかもしれない。

そうおもって、懐かしの森へ踏み入った。昔好んでつけていた赤ずきんを久しぶりにかぶる。これは、祖母の墓においていくつもりだった。祖母がぬいあげてくれた赤ずきんをひきさげて、目深にかぶる。涙がこぼれた。

そして、お墓にお参りをしていたところ、このオオカミに捕まった。このオオカミーーークロコダイルは、わたしの何が気に入ったのかわからないけれど、わたしを捕えて飼うことにしたらしい。とらえられて、数か月。わたしは、この祖母の家に、クロコダイルとふたりで暮らしている。




実は、何度も隠れて町へ帰ろうとした。でも、そのたびにばれて、引きずられるように連れ戻されてしまう。そうして、罰として、蕩けさせるように甘い責め苦を味わさせられる。

「俺から逃げだそうなんて、なめた真似してくれるじゃねぇか」なんて、怒ったようにクロコダイルはいう。でも顔は言葉ほど怒ってはいない、どこか余裕のある表情だった。逃すつもりなんて、もともとないんだろう。きっと、わざと隙をつくって逃げだす口実を与えているのだということに気がついた。

「躾が必要だな」

わたしを捕まえて、抱きかかえて、ベッドまで連れて行くと、甘えるように鼻先を首にすりつけた。


「あァ、なまえ、好きだ」と、クロコダイルは何度もいう。でも、なぜこんなにわたしに執着するのか理解できず、混乱してしまう。

「だから、もう、逃がさねェよ」

もう、逃がさない?逃げられたことなど一度もないのに、なぜそんなことをいうのだろう。


わたしを束縛するその言葉に、確かに恐ろしさを感じるのに、そういうクロコダイルの目がとびきり寂しそうで、「逃がさない」というより「行かないでくれ」と懇願しているように思えた。

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