※君の事を想うからこそのつづき
この世から消えゆく彼女の欠片を、ひとつでも手元に残しておきたかった。手紙をよこせといったのは、そのせいだ。こうして目に見える形で残しておきたかったのだ。今、テーブル越しに座る彼女の首筋は細く、頬は不健康に蒼白い。微笑みを浮かべる唇だけ、熱っぽく火照っている。
出会ったときの面影は消えつつあった。ほっそりとして美しかった彼女の横顔。つねに人々の憧憬と注目の的であった彼女の姿は、すでにない。ここにいるのは弱弱しい病人だ。夜になると熱をだす身体と執拗な咳に苦しめられる、か弱い女だ。癖のある、しかし、流麗な文字だけがかつての色香を残している。かつて、闇夜を縫うように可憐に飛んでみせた蝶。砂時計がサラサラと零れ落ちるように、流れゆく時間は無情に彼女の命を奪っていく。病が彼女の身体を端から蝕んでいく。
攫ってやっても良かった。欲しかった。そうして、のこす時間をすべて所有してしまってもよかったのだ。だが、そうしたら最後、彼女の持つやわい殻を破ってしまう気がした。精神が崩れるとなだれおちるように身体も弱る。健康な人間ですら、そうなのだ。弱った彼女にはいっそうのことだろう。彼女がこうしておれと距離をおくことで、毅然としていられるのなら、それでいいと思っていた。
1週間ぶりに訪れた彼女の家に家の主がいないのをみてとったときも、おおきく動揺はしなかった。いつか聞いた猫の最期のようだと思ったのだ。死期を悟ると、人知れず姿を消す、という。なまえはそういうことを、如何にもしそう女だった。心の何処かで理解っていた。悔しくはあった。叶うなら、おれの腕の中で息絶えて欲しかった。だが、愛したのは猫のように気侭で自由ななまえの姿で、彼女が最後まで彼女でありつづけてくれたことを哀しくも嬉しく思う。
テーブルの上には、一枚の紙きれ。几帳面に二つ折りにされたそれが、窓からふきこむ穏やか風に煽られ、はためいていた。はいった瞬間から気づいていた。手にとって確認することができなかった。この世に彼女が置いていった残滓。最後の一滴。それをみるのを躊躇っていた。
だが、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。手をのばして、ひらひらと揺れる紙切れをとる。片手でそっと押し開くと、そこにはひと言。
わたしの心は貴方のものでした、と。
いつもは流麗な色気のある字を書くのに、それだけは震えた小さな文字だった。ずっと欲しかった、等身大の彼女がそこにいた。遅ェよ、と気づくと呟いていた。
風はやまない。彼女が愛したこの家のこの窓の景色は変わらないのに、風はいまも変わらず吹きつづけているのに、なまえの姿だけが、どこにもなかった。この世のどこを探してもなかった。