02:指先にキス

嫌味なくらい雲ひとつない、よく晴れた日だった。太陽がようやく顔をだし爛々と照りはじめようという頃。快晴の青空とは裏腹に、気分は曇天の如く鬱蒼とし、険しい顔の眉間には小難しげに皺が寄っていた。

連日の睡眠不足に、慣れない航海がたたっているのだろう、なまえは血の気の失せた青い顔をしながら、甲板の階段に腰掛けて、柱にぼうっと寄りかかり、そうして呆けたように空を見つめている。用意された朝食も、半分ほど手をつけた後、申し訳なさそうに残していたなまえは、久しぶりの海に明らかに衰弱していた。

それを見て、密かに唇を噛む。心配でたまらない。そんなこと、おくびにもださないが。
態度でしめせるわけがなかった。なまえを連れてきたことが、俺の自己本位的行動に基づくものであることを、そしてその行いの過ちを認めてしまう気がして、できなかった。


かつてのように、盤石な地位と富を持ち、なまえをただ甘やかしてやれるような生活を与えてやれるわけでもなく、ただなまえの平穏な生活を奪ったのだ。こんな自分勝手な振る舞いが、なまえに赦されるのだろうか。一蹴した一抹の不安がじわりと再び胸の端から浸食をはじめる。特に、弱る一方のなまえを眼前にしたらことさらだ。


今の自分は、危険な海の航海に挑む、いち挑戦者でしかない。なまえのように、庇護対象としかならない弱者など、本来ならば切り捨ててしかるべきなのだ。なまえをどうしても手放せないなんて、そんな甘ったるい感情で、自己を賤しめ、なまえをふりまわしているだけと、そんな風に自嘲せざるを得ないときすらある。なまえを連れてきたのは、己の我儘であり、エゴである、そんなこと、わかっていたはずなのだが。


参ってしまっているのだ。優しさなど、情などと、馬鹿にして切り捨ててきたつけだろうか。手元においた可愛いペットを、どう扱ってやればいいのかわかりかねてしまっている。


そうして、余計気にかかり、無理にでも目の届く範囲になまえを置くよう強いてしまう。滑稽だ。己でも気づいている。だが、どうしようもない、止められない。

航海は、順調に進むものの、目的とする島への到着はまだ数日後となりそうだった。穏やかな海を、それに不釣合いな厳しい瞳でみつめる。胸中穏やかではない。どこまでも変わらない景色は、ただ思考を五月蠅くさせる。いっそ、荒れてくれた方がましだった。そうすれば、天候に気をとられて、思索に耽る時間がなくなるだろう。


ふと、なまえをみやると、うつらうつらと船をこぎはじめていた。あのままだと、そのまま横に倒れて寝こけはじめるのに、時間はかからなさそうだ、と考える。相変わらずだな、と胸の中でひとりごちる。しっかりしていそうでしていない、与える印象と実態がちぐはぐなやつだ。だからこそ、こうも目が離せないのだけれど。


なまえのそばまで歩いていくと、横に腰をおろす。その衝撃に、なまえは、寝ぼけたように瞼をうっすら開けて、それからすぐに眩しそうに目をきつく瞑り、何度が曖昧な瞬きを繰り返すと、また瞼を閉じてしまった。なんだか間抜けなその様子に、苦笑もしたくなる。起きることもなさそうなので、頭を片手で引き寄せると、膝枕をするような体勢にもっていってやった。

大人しくされるがままに体を投げ出したなまえは、もぞもぞと姿勢をととのえると膝の上ですやすやと寝息をたてはじめた。いったい誰に膝枕されているかも気づいていなさそうだ。普段の恐縮しきった態度との落差が強調され、いっそう間抜けに映る。俺がひそかに悩んでいることなど、阿呆らしくかんじるほどだ。


弛緩して床に落ちたなまえの片手を持ち上げてやると、ゆっくりとその指先ひとつひとつに丁寧にキスを落としてゆく。己を安心させるように、納得させるように。穏やかな海、晴れ渡る空の下で行われた、静かで、厳かな儀式のようだった。



――――自己中心的な俺には、お前にかける気遣いの言葉が見つからない。だが、それでも、お前を手放せない俺を許してくれ。


最後のキスを指先におとすと、すべらかななまえの手の甲に唇を押し付けた。どこまでも穏やかな空の下でのことだった。

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