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「こんばんは」

私は待ちわびた顔をしていたらしい。挨拶をした彼はどことなく呆れた表情だった。

「よくもまあ律儀に待ってるもんだ」
「あなたが気が向いたらって言ったから。いつ来るか分からないし」
「…そうだったね」

彼が隣に座る。

「血はいらないの?」
「…いや、そのために来たんだから」

何となく歯切れが悪い。自分に言い聞かせているようだった。
気になったけれど、私の頑張りが報われているかを早く知りたくて先に袖をまくった。夜の空気よりも冷たいナイフを手首に当てて線を引く。

「…っ…」

こんな痛みだったっけ、と脳が少し覚醒する。そういえばここしばらく、彼を待っているだけで儀式はしなかった。
けれどこの感覚は正常なはず。昔よりも健康的な感覚。
上手く血が滲み始めたことに安堵のため息をつき、手首を彼に向ける。

「どうぞ」

彼はどうしてだか眉をひそめていた。いらないと言われるかと思ったけれど、無言で手首を持ち上げられたのでほっとした。
舌が傷をなぞるのと同時に彼の前髪にそっと触れる。さらさらで、揺れると香水の香りがする。珍しい香りだけれど、私にとっては安心する匂い。
彼の視線は微かに揺らいだ。戸惑ったようだった。でも止められはしなかったので、しばらく子供の頭を撫でるように髪の感触を味わう。黙々と血を舐めている彼を可愛いと思った。

「おいしくなってる?」

いつもより早く舌を離した彼に問うと、ハンカチで口元を押さえた後「まあまあ」と言った。

「そう…」
「…何て顔してんの」
「顔?」
「血を飲まれて嬉しそうにする?普通」

自分の顔を手で確かめてみた。口角が上がっている。

「嬉しい、のかも」
「変なの」

ばっさり会話を終わらされてしまった。でも私は満足した。彼を満たす血の味が、彼の好みに沿いつつあるという事実だけで明日も頑張ろうと思える。
密かに達成感を覚えている私の横で、彼は頬杖をついて黙りこんでいた。

「次は、いつ来る?」

そう聞くと、彼は目を閉じた。

「もう来ない」

予期せぬ答えだった。
頭がぼうっと白くなっていく。この感覚も久しぶりだった。

「………私、食糧として優秀じゃない?」
「そんなこと言うなよ」

半ば呆れつつも諭すような口調でたしなめた彼は頬杖をついたままうっすら目を開けた。

「だって…私、非常食なんでしょ」
「そうだったけどもういいよ。お役御免で」
「普通に会えないの?」
「そうだね」
「…あなたに会うのが楽しみだったのに」

自分でも分かるぐらい落ち込んだ声。それに被さるように、冷たい風が木々を揺らして音を立てる。

「血をあげるのが?不健康な楽しみだな。まあ…僕のせいでもあるのか。それは悪かったよ」
「それもあるけど、あなたとこうして話せるだけで楽しいの」
「……そう。それでも…やっぱり不健康だね」
「…まだ私が、おいしいご飯には程遠いから?」

手首に目を落とすと彼は短く息を吐いた。

「そういうことじゃないよ」
「……」
「…ねえ、そんな顔するほどじゃないだろ?」

俯いたままの私の髪をかき上げて耳にかける彼の手つきはどことなく優しい。その優しさが、きりきりと胸を刺してくる。

「君は人間なんだから、昼の世界に戻った方がいいと思っただけだよ」
「…私は、あなたといたい」
「我が儘言うな。もうここにも来るなよ。いいね」

耳にかけた髪を撫で付けて立ち上がった彼は、マントと共に翼を広げた。どうにか彼を引き止めたかったけれど、未だ白く濁っている私の思考は上手く言葉を繋いでくれなかった。その間に、彼はさよならも言わず立ち去ってしまったのだった。
呆気ない幕切れに呆然とし、家に帰ったのはもう夜明けも近い頃。すっかり冷えた体を布団にねじ込み目をつぶる。
彼と出会ってから今までの出来事全てが夢だったら良かったのに。でも、そうではない。
もはや私は彼に依存しきってしまっている。おかしな話だと思う、搾取される立場が恋しいだなんて。
彼はいつか、直接血のやり取りをすれば主従関係が発生すると言っていたけれど、彼が知らないだけで本当は血を与えるだけで成立してしまうのではないだろうか。だからこんなにも彼に惹かれてしまうのか。そんな気もしてきた。
それならそれでもいい。彼の側にいたいという私の気持ちは変わらない。
もしどこかで偶然にも出会えるようなことがあれば、その時には彼が理性を忘れるぐらい、魅力的な血を宿していよう。
そう決めた私は今までの生活を崩さず、彼に来るなと言われたあの窪地へ行くことも止めなかった。
いっそう厳しくなる冬の最中も毎晩森に忍び込み、例の場所で彼を待ち夜空を見上げる。そして、ここで彼と話したことを一つ一つ回想しながら過ごす。
儀式はしなかった。これは彼のための血と決めたから、もう一滴も無駄には出来ない。
あの頃よりいくぶん薄れた手首の痕を撫で、彼のことを想えば想うほど、会いたい切なさと一途な祈りによって私の血は透き通っていく…そんな、気がする。
きっと吸血鬼に恋する女の血はおいしい、と彼みたいに良し悪しが分かるわけでもないのに思う。彼の口に合うように、と全細胞が叫んでいるのだから。



それは雪の降る夜だった。
しんしんと降り積む雪を踏み固めながら私は森にいた。いつにも増して音のない闇を、すっかり使い古したランプがぼうっと照らしている。
こんな日は思い出を懐かしむのにうってつけ。コートの袖と手袋の間から覗く手首は、ほとんど何もなかったような素肌を取り戻している。目に見える傷は消えても、彼の面影はなかなか消えてはくれない。心に深く刻まれた一生の痕。
雪は止む気配はない。この中に彼が降りてきたなら、きっとその姿は映えるだろう。自然と口元が緩む。あの頃に比べて、感情表現が素直にできるようになってきたと思うのだけれど、彼は今の私を見て何と言ってくれるだろうか。
冷たい風が晒した手首を撫でていき、体全体をぞくぞくするような寒さが覆う。思わずくしゃみを一つ。真っ白な息が雪景色の中へ消えていく。


「ほんっと、馬鹿じゃないの」


突然上から降ってきた声は言うまでもなく心から待ち望んでいたもので、いっそ幻聴ではないかと思った。
ゆるゆると頭を上げると、あの時と同じように翼を広げながら雪の中へ降りてくる男。どことなく呆れた不機嫌そうな顔も、華奢な体つきも、育ちの良さを窺わせる優雅な仕草も、何も変わっていない。

「来るなって言ったのに」
「……あなたこそ、もう来ないって」

彼はため息と一緒に「その顔」とこぼした。自分でも分かるぐらいに笑顔になっている。
彼は翼を折り畳み、私の隣、薄く雪の積もる石の上に座った。

「元気だった?」
「ほぼ不死身の僕に聞く?それ」
「ふふふ」

彼が目を丸くしたのが分かる。予想よりも顕著な反応にまた声を上げて笑えば、彼も薄く笑みを浮かべた。

「まったく、君は人間だろ?風邪でも引いたらどうすんだよ」
「毎晩ここに来てるから慣れてる」
「毎晩って…あのなぁ」
「あなたは、どうしてこんな所に?」
「…変な奴がいるなと思って降りてきちゃったんだよ」
「そう」
「うん。…けどね、これが本当に最後」

意志の強さを感じさせる、静かで穏やかな言葉。きっとこれを伝えるためだけに来たんだろう。
恐らく彼は、今日限りで私の前から永遠に姿を消す。確信に近い直感だった。

「ちゃんと、理由を教えて。私がもうここに来なくて済むような」

どうしても知りたかった。
彼は人間の私を気遣ったような理由を口にしていたけれど、それだけじゃどうにも腑に落ちない。何か違和感があった。彼に未練を残しているのは、その納得できない部分がわだかまっているせいもあると思う。
彼を探るように見つめると、じっと雪景色に視線を投じてから口を開いた。

「……吸血鬼ってのはね」

静まり返る森の中で、彼の声は別の場所から響いてくるみたいに聞こえる。

「血がないと生きていけない」
「……」
「君が考えるよりももっと、悪魔の如く貪欲に血を求める種族なんだよ」
「……」
「君は人間のくせになぜかおいしく頂かれることに心血注いでるみたいだけど、そんなんじゃいつか必ず一滴残さず絞り尽くされる。…僕に」

だんだん彼の瞳が炎のように赤く燃え上がるのがはっきりと見えた。彼は私の前では吸血鬼の力をセーブしてくれていたのだと、この時に知った。

「吸血鬼は義理堅いなんてうちの馬鹿な兄が言ってたけど、んなわけあるかよ。僕らは血をもらえればそれでいい。人間の言う『情』なんて血を前にしたらゴミクズみたいになるんだから」
「……」
「いつか僕が本能剥き出しで襲ってきたらどうすんの。どうもしてあげられないよ、僕には」
「いいよ」

きっぱり答えれば、彼は言葉に詰まった。
言い含めるように繰り返す。

「それでもいいの」
「何言ってんの?」
「眷属だっけ。あなたのならなってもいいよ」
「は……」
「好きだから」

石の上で体育座りをするように足を縮こませ、膝の上に頭を寄せて隣の彼を見上げる。彼は真っ赤な瞳のまま見たことのない複雑な顔をしていた。一食糧の私がまさかそんな感情を抱いているなんて思いもしなかったんだろう。
まっさらの手首を彼の方に向かってさらけ出す。

「全部あげたっていいの。本当」
「全部って、それじゃ死ぬよ」
「いいの」
「自分が何言ってるか分かってる?ちょっと頭冷やせば」
「あなたこそ、どうして私の血はいらないの?血が全てって言ったのはあなたなのに」
「……」
「ああ、眷属はいらないんだっけ。でも、主人の思い通りにできるんでしょ?私を、あなたの邪魔にならないようにしておくこともできるんじゃないの?」

彼の瞳の赤が揺らぐ。少し泣きそうに見えたけれどそうはならなかった。
後一押しすれば、彼は理性を殺すだろうか。
邪な考えが脳裏をよぎり、コートのポケットからナイフを取り出した。彼の前で手首に押し当て、一気に引く。

「っ…!」

久しぶりで加減を間違えたかもしれない。私の心拍に合わせて手首がずきずきと痛む。一方で、ぽた、と赤く染まる雪を見てもったいないと思った。
それに綺麗。今の彼の目のように鮮やかで。今まで見てきた中でも一番、全ての欲を眼球に宿しているかのようにぎらぎらと燃えている、その目。

「最後、だったら」

そう言って彼に差し出せば、震える手で掴まれた。剥き出しの牙は鋭く、それ自体が意志を持ってすぐにでも私の肌を食い破りそうに見えた。
けれど、牙が刺したのは彼の唇だった。
音がしそうなほど強く食いしばられた唇からは、白い息が立ち上る。いつも冷たい彼の舌は、今は熱を持っているんだろうか。どれだけの熱量をもって、彼は本能と闘っているのか。
どうして。

「…ごめんなさい」

思わずついて出た言葉と共に、今度は私が泣きそうになる。自分勝手に彼を困らせて追い詰めていることに、今ようやく後悔を覚えて。
しかし引こうとした腕は、彼に掴まれたままで動かなかった。逆に口元に引き寄せられた傷に、牙ではなく舌が近付く。つうと一度だけ舐め上げられた手首は確かに熱を感じ、彼は固く目を閉じた。
手首から顔を上げ、次に目を開けた時には瞳はもう赤色ではなくなっていた。ハンカチを取り出した彼は、それを口ではなく私の手首に当てて巻いていく。
少し血が滲む部分を隠すように端を結び、ようやく手は離れた。

「君じゃない君といたって、しょうがない」

私は目を閉じて、か細く長い息を吐いた。
捕食される側でありながらそれを渇望した私のように、彼にも矛盾が生じてしまったことを理解した、悲しくて、幸せなため息。
私達はきっと同じ想いのはずなのに、二人の願いは同時には叶わない。どれかを諦めなければ。

「……一年に一回、でも、だめ?」
「そうだね」
「十年は?」
「僕にとっての十年なんて一秒にもならない」
「じゃあ百年」
「絶対君死んでるだろ」
「私が死ぬ間際なら?」
「…なら、いいよ」
「約束」

私の人生は、これからきっと素敵で豊かになっていく。死に際に彼におやすみを言ってもらえる日を夢見て。
小指を絡ませて指切りの歌を歌うと、彼は「恐ろしい」と身震いした。

「針を千本も飲まされるの?」
「しかも銀製の」
「…誓うよ。約束は忘れない」
「ふふふ」
「……それじゃ」

片方だけ見える目が細められ、彼は立ち上がった。翼を広げた背中に向かって、私は声をかける。

「最後に一つ質問させて」
「何?」

彼はこちらを見なかった。雪が二人の間に降り落ちていく。

「私、仮説を立てたの。吸血鬼に恋した人間の血は、とてもおいしくなるんじゃないかって」
「……」
「好きになればなるほど、血の味が吸血鬼好みになる気がしたんだけど…私の血、おいしかった?」

彼は一度翼を揺らした。少し笑ったみたいだった。

「…まず、君の血はおいしかった。人生の中で一番」
「嬉しい」
「そういえば前に言ったっけ。血がおいしくなる方法、昔からある噂」
「もしかして、当たり?」
「……惜しいね」

翼越しに彼が振り返る。けれど、その表情は前髪に隠れて見えなかった。

「逆だよ」

その言葉の真意を理解する前に、彼は姿を消していた。夜空に見えるのは、ランプの灯りを反射してきらきらと光る白雪だけ。
私は手袋を外して座っていた石の側に穴を掘り、雪と土にまみれた手でナイフを埋め、その場を去った。
冬が終わり季節が巡っても、手首に巻かれた彼愛用のハンカチにはもう血が染むことはない。きっと、人間の涙が染み込んでいくのも今日限り。



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