Twinkle Twinkle Little Star

「見るに堪えない月ですね」


「乗れ」
「え?」
 こんな台詞と共に夜は始まった。静かに立つ、冬の気配を引き連れて。

 産声を上げたばかりの小鹿ですらこれほどまでの醜態は晒さないだろう。そう自分自身で思えるほど、チモシー・ロックブーツの身体は震えていた。いや、身体だけではない。頭の中だって洩れなくぐわんぐわんと揺れていたし、視界さえも上手く定まらない上、耳に入ってくる音のすべてが遠かった。
 しかし、いま少年がこうして震えているのは、庭園を守っている伝説のミューズ像たちと一昼夜歌い明かして学園長に叱られたためでも、錬金術の授業で鍋を盛大に爆発させた挙げ句、近くに立っていたクルーウェルの上着の裾を焦がしてしまったためでも、眼前に控えた期末テストの出題範囲の広さのためでもない。もちろん、初冬を迎えたこの夜の寒さのためでも。
 チモシーは飛行術が苦手だった。脚の間に挟まっている箒の柄を見下ろして、少年は内心頷く。そう、飛行術がすこぶる苦手なのだ。様々な種類の授業の中で、ここまで心からおそろしいと思うものは他にはなかった。
 とにもかくにも、浮くという行為がだめなのだ。
 両足を慣れ親しんだ地面からわざわざ離して、空気を蹴って舞い上がるというそれが理解や納得よりも先に、少年の元へは恐怖を呼んだ。こうして箒に跨るだけで両の手の中にはじっとりと熱い汗が滲む上、背中には冷や汗が伝い、血管が沸騰して心臓がのたうち回って恐怖に喘ぐ。己の中身という中身が空気を含んで浮かび上がるあの感覚を思い出しただけで吐き気さえ湧き上がるものだった。このように恐ろしさに思考を支配されているせいで飛ぶ高さのコントロールもろくに効かず、安定の一文字目すら存在しない箒の操縦になってしまうことは頭の奥では理解しているのだが、それでもやはり身体は石像のように固まり、こちらへと納得を示すことはない。今だって案の定、両手は接着剤でくっつけられたかのように箒の柄を握り締めて動かなかった。
 空を見上げて、微かに白む息を吐く。藍色の帳に飾られた夜の星が天上に光り輝いていてきれいだった。風も雲もない、静かですばらしい夜だ。わざわざ飛んで近付かなくとも、星が美しいことくらい地上にいたって分かる。だというのに、一体全体どうしてこんなことになったのだろう? こんなところで、日頃の行いのつけが回ってきたというのか? チモシーはぐるぐる回る頭で考えながら、より一層強く箒の柄を握り込んだ。
「おい」それから不意に、呟きめいた声が呼びかける。
 その呼びかけに、チモシーは気を抜くと下がる視線を慌てて上げた。「は、はいっ?」
「その乗り方でいいっていうなら止めはしないが」チモシーの跨る箒の隣に立ち、こちらを見下ろすレオナは平たくそう発する。「落ちても助けが来るとは思うなよ」
「えっ、お」相手の言葉に、チモシーは足腰に全く力が入っていない状態で懇願するようにレオナを見た。「落ち、落ちますか、やっぱり?」
 命の危機に瀕した仔犬だって、もっとましな声を発するだろう。惰弱を極めた後輩の姿に、最早レオナは頭痛も覚えない様子だった。未だ浮かび上がってすらいないのにもかかわらず、すでに満身創痍の表情をしているチモシーを眺めて、レオナは呆れ混じりに鼻で笑う。「そのよわっちい手の力だけで、テメェの重心が支えられるほど器用なら話は別だがな」
「無理ですよう……おれ、そうまでして飛びたくねえです」レオナの指摘に、チモシーは項垂れた。手の内側に込めた力を緩める。
「べつにお前が飛ぶわけじゃない」そんなチモシーを横目に見て、レオナが箒の柄の上に片足を掛けた。「飛んでやるのはこの俺だろうが?」
 その言葉に次いで、ぐっと箒が重くなる。レオナの体重が乗せられた箒の重さにがくんと引っ張られたチモシーは前のめりに箒ごと地面へ突っ伏しそうになったが、今まで力の入っていなかった足腰をどうにか奮い立たせてはそれを堪えきった。チモシーがほんの少しばかり恨めげにレオナを見やれば、相手は微かに目を細めてくつくつと喉を鳴らしていた。
「や、やっぱり、考え直しませんか?」それから珍しくもスタンダードに箒へと跨ったレオナに対して、分かり易く焦りを滲ませながらチモシーは言う。「先輩が飛行術得意なのは知ってますけど、こんな夜中に飛ぶのは危ないですよう」
「真夜中にマジホイのスピード違反をしてたヤツの台詞とは思えねえな」チモシーの提案めいた懇願も意に介さず、レオナは溜め息混じりに吐き捨てた。「お前、昼だろうが夜だろうが飛行術ってだけで渋るだろうが」
 その言葉を合図にして、再び箒ががくんと揺れる。しかし、今度は下ではなく上に向かって。自分の服が空気をふうわりと含むさまを見て、チモシーはぎょっとした。風もない夜だ。風もない夜に、なんなら髪まで梳いたように軽い。それを自覚すると共に、チモシーの心臓は身体の外側に反比例して、どう、と音を立てて重くなった。
「え、あ、ま、待って」喉の奥から生まれたばかりの獣の脚ごとく震える声を絞り出して、チモシーは箒の柄に全身でしがみついた。「うっ、う、うい、浮いてま、せん?」
 レオナは、くあ、とあくびをしながら箒の上であぐらを掻いた。「浮かせてるんだから当然だろ」
「で、でも、心の準備がまだ、」
「心の準備だなんだとほざいてるヤツほど、準備というものをする気がないよなァ」狼狽という言葉が服を着ている様相の後輩を振り返って、愉快そうにレオナが笑う。「お勉強しろ。準備ってのはいつでもしておくもんだ」
 砂を攫う風のようなレオナのどこか軽やかで気分好さげな笑い声とは反して、チモシーの嫌な音で鳴る心臓は不出来な玩具の楽器のようだった。内蔵が浮き上がる心地がすればするほど地面と己の身体は悲運な恋人たちのごとくに引き離され、目の前がくらくらと揺れては今にも暗転しそうだ。目眩に動悸に息切れに冷や汗に挙げ句の果てには吐き気ときては、まるでこの世の災厄を一身に背負ったふうな気持ちにさえなる。
 目を瞑る。薄目を開ける。サバナクロー寮の無骨な壁に、頤を上げているレオナの影が映っていた。浮遊感に下を向く。息が詰まる。やはり再び目を瞑る。瞬間、ぐらりと自分の重心が傾いて、思わず手を伸ばした先にあったものにきつくしがみついた。それからしばらくのあいだ聞こえたのは、身が風を切るひゅうひゅうという音と楽器気取りの心音ばかりだった。
「おい」ややあってからつと、レオナが呼びかける。
「わ、ううっ?」
「腕」レオナは情けない声で鳴いた後輩に短く溜め息を吐くと、自身の腰にぎゅうと巻き付いている相手の腕をぺし、と叩いた。「絞まってんだよ」
「え?」はっとしてチモシーは瞼を上げる。「あ、あ! す、すみませ、痛いですかっ?」
「誰が。痛いわけないだろうが、こんなもん」
 不平そうに乾いた声色のレオナに、しかしチモシーはどうやら彼が腕を離せという意味で言葉を発したわけではないらしいことを悟って、多少安堵しながら今一度目を瞑った。どう考えてもこの頼りない箒の上で最も安定した土地は眼前のレオナ・キングスカラーただ一人なのだから、その命綱を失っては飛べない鳥にも等しい自分は落下の一途を辿るばかりだ。その光景を想像して息が詰まったから、空気を吸う。息を吸う。思い出したみたいに吐く。暗やみの中、頬に風と寒さだけを覚える。まるで、こちらが嵐となって空を吹き飛ばしているような錯覚さえ感じた。ああ、それにしても、いま自分たちはどれほどの高さを飛んでいるのだろう?
「せ、先輩、先輩」たまらずチモシーは問いかけた。「いっ、いま、今どれくらい浮いてます?」
「あ? 二百メートル」そんな相手の問いに、レオナが淡々と言い捨てる。
「ぅ、ええっ?」
「よく見ろ、冗談だ。生まれたての子猫じゃあるまいし、お前、目くらい開けてられねえのか」言いながらレオナの指先が眼下を差した気配を感じたが、チモシーはその目くらいを開けられないままその言葉の続きを聞いた。「まあ、これから本当になるわけだがな」
「ひっ、ひえ」
「おいおい、情けないもんだなあ」一層強く腰にしがみつき出したチモシーに、レオナの声色が皮肉っぽく肩をすくめた声がした。「腐ってもここは名門校だぜ? 空も飛べない魔法士がいるかよ」
「い、……い、いますよう!」レオナの言葉に、チモシーは威力のない抗議をする。「いっ、いますよね、先輩の周りにも?」
「他寮の連中がどうかは知らねえが」じつに平坦な声で、当たり前のことを言うようにレオナは発した。「少なくともサバナクローにはいない」
「おれがいるじゃあないですかあ……!」
 それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。一分が一時間にも思えるこの状況では正しい時間感覚など持てようもなかったが、それでも決して短い時間ではないことは目の前の安全地帯にしがみついているこの両腕の痺れが教えてくれていた。頬を刺す初冬の夜風がどこか湿ったものへと代わり、けれどそれもまたすぐに冷たいものへと戻る。はじめよりずっと冷たい風だ。いや、思えばそれは風ではなかった。風はとうに止んでいた。頬に触れるのはただの空気。きんと冷たく、静かで澄みきった夜の空気だった。
「チモシー、いい加減目ェ開けろ」
 言われて、チモシーはようやく閉じきったままだった両の瞼を恐る恐る上げてみせた。
 そうして、視界いっぱいの光、光、光。地上で両足をつけていた頃とは比べ物にならないほどの星々が、睫毛の先にも感じるほどにすぐそばで空一面に煌めいていた。地上から見る雨上がりの夜空程度を無数の砂金めいてきれいだと感じていた己の世界はなんて狭く、なんて小さいものだったのか。知らなかった。驚いた。星というものがこんなにも凍ったまま燃える火のように美しいものだとは!
 チモシーは喉の奥から幼い獣の笑い声を洩らしながら、自分自身が雲海の上に在ることも、おそろしさのあまりレオナにしがみついていることも忘れて、頼りない箒の上で片腕を離してはその指先で星明かりの小川と遊んだ。この世の災厄すべてをこの身に振りかけてきた嵐自身がその災厄をみんな吹き飛ばして、今度はこの世の幸運すべてを引き連れてきた。風もない夜だ。風もない夜に、しかし酷い気分は皆どこか遠くへ吹き飛んでいった。心臓が楽器みたいに叩かれ、視界にはばちりと稲妻が弾けたが、身体の中で鳴る不協和音に目眩を起こすことはもうなかった。ああ、今なら歌さえ歌えそうだった。こんな細い木の枝の上で、歌さえも。
「なあ、お子様」楽しげな後輩を尻目に、レオナは視界のあちこちで光る星々を見るともなく見ながら問いかけた。「お前は百獣の王の時代、星がどんな存在だったか知ってるか?」
「星?」チモシーはちらりとレオナの方を覗き込む。「星は星でしょう?」
「それが古来のロマンチストたちにとっては違ったようでな」は、と鼻で笑いながら、レオナは誰かを挑発するみたいに両目を細めた。「星は、蛍とも過ぎ去りし偉大な王とも言われていたらしい。それこそ、悩んでいる時に導いてくれる空の王だと」
「へええ」
 レオナの言葉に、チモシーはぱっちりと瞬きをしてからもう一度視界一面に広がる星空を目の中に映した。冷えた川の中で輝く星たちは、しかし彼が心の中で何を問いかけたところでどんな言葉も返してくれることもない。差し出されるのはまばゆく青白い光ばかりで。
 チモシーは肩をすくめた。「……だとしたら、今じゃすっかり無口になっちまったんですね、その王様たち。それともおれみたいな庶民は導いてくれないとか?」
「悩みなんてなさそうな面して、どの口が言うんだかな」
「まさか」チモシーは片手を振る。「今まさに悩んでるとこですよう!」
「何を」
「そりゃあもちろん、こんな高いとこまで来ちまってどうしようって」
 相手の言葉に眼下の雲海と後輩を交互に見て、レオナは淡泊に言った。「どうもしないだろ」
「落ちるかも?」
「俺を誰だと思っていやがる?」レオナの眉間に皺が寄った。
 チモシーは首を傾げて悪戯っぽく言った。「サバナクローの王様?」
「スケールが小せぇよなァ、お前は」
「スケールの小さいところで育ったので」ぎゅうぎゅうと物を握り締めるような声はミーアキャットの笑い声だ。「でも、これから大きくなる予定です」
 未だレオナにしがみつきながらも声色だけは自信たっぷりに胸を張ってチモシーは宣言した。そんな後輩にレオナはそうかよと気もなさげに返して、空中に留まったままだった箒をするりと動かしてはライオンが崖を登るよりも柔らかく上へ、更に上へと浮上する。
「先輩、先輩」そうしてより研ぎ澄まされた空気の中で、チモシーがすっと指を伸ばして笑った。「見てください、月があんなに近いですよ。手が届きそう」
「そりゃそうだ。飛んでる」
「あれもいつかの王様?」
「さあな」
「やっほう、まんまるの王様!」チモシーのよく通る声が死者の星小川の中に響き渡る。彼は不敬にも月に向かってその片手をぶんぶんと振った。「夜の玉座の座り心地はどう?」
 そんなチモシーの姿に軽く息を吐いて、けれどレオナは後輩よりもずっと礼儀に欠けた笑みを浮かべながら自身のあぐらに頬杖をつく。
「自分の力だけじゃあろくに光れもしないやつが、夜の王気取りで座っていやがる」それから彼はひらりと片手を振った。「いいご身分なこったな」
 レオナの言葉を聞いて、チモシーが瞬きをした。「ぶっ壊しますか?」
「何?」
「そしたら今日からあなたが夜の王様!」
 そう発して、あろうことかチモシーはしがみついていた腕をレオナから離しては、彼に向かって諸手を広げた。それから胸ポケットのマジカルペンを取り出し、星明かりを受けてきらきらと光を反射するこがね色の魔法石を月へと向ける。
「おれこそが……」
 そう言いかけて、チモシーがふと思案するように天を仰ぎ、眉根を寄せながら咳払いみたいに喉を鳴らす。あ、アー、ア。チモシーの喉から発せられる楽器のチューニングめいたそれをレオナが肩越しに眺めている。チモシーはその緑の瞳と目が合うと、何か満足げににっこりとしては相手に向かって頷いてみせた。
「俺こそが……」
 少年が呼吸をした次の瞬間、チモシーの喉から常よりも低く硬質で、どこか渇きを伴う輪郭の声が絞り出される。
「俺こそが飢え、俺こそが乾き。お前から明日を奪うもの=vそれはほとんど歌うようだった。「平伏しろ──王者の咆哮キングズ・ロアー!=v
 彼はペンを振り下ろした。ちかり、と魔法石が光る。そうして一つの瞬きの後、月はさらさらと黄金色の砂と化して、吼え叫ぶ獣の王の声によっていずこかへと吹き飛ばされていく。砂金みたいなそれはきっと砂漠へと埋もれて、いつかの未来、運の良い誰かによって掘り出されて売られ、月とは程遠い姿のアクセサリーに加工され市場に並ぶ。自分はそいつを買い求め、この身を月の灰燼できらきらと飾ってやろう。獲物の首を壁に飾る趣味の悪い狩人のごとく。この妄想のように、月を壊せる日が来たならば。月は先ほどと同じ位置で、冷ややかな凍った光をこちらに向けている。
「おれ、自分のユニーク魔法をつくるなら、ムカつくもんをみぃんな灰にしちまう魔法がいいや」言いながらチモシーはマジカルペンを仕舞い込み、再びレオナの腰にしがみついた。「どうです? すっごい怖いでしょ?」
 レオナの喉から呆れを通り越した笑い声が洩れる。「お前が? 冗談も大概にしておけよ」
「だって、スケールは大きい方がいいんでしょう?」まったく軽やかにそう言って、チモシーは手の甲で月を殴る仕草をした。「おれ、先輩よりもおそろしい魔法士になりますよ」
 口にしてみるとその宣言は無謀で恐れ知らずで身の毛がよだつ、なんとも甘美な響きの言葉であった。そうとも、彼の役に立つ長靴を履いたネコ≠ノなるためには、彼よりもずっとおそろしい存在にならなければならないのだ。そんな当たり前のことをたった今、口にするまで気が付かなかったとは自分はどれほど愚鈍を極めれば気が済むのだろう? 長靴を履いたネコは芝居上手で、自身の信じた者を王とするためには人々のことを騙されたとも感じさせずに騙し、魔王すらも食べてしまうのだ。だから……
「だから、時代遅れの王様ども」チモシーは思わせぶりに人差し指で空中をくるくるとした。「まっ、精々おれを怒らせないことですね?」
「まったくおそろしいことで」口元に笑みを浮かべながら、慇懃にレオナは言った。「もったいない。このしがみついてる腕がなけりゃあ、もっと様になるだろうになァ」
 チモシーはレオナの尤もな嫌味に聞こえないふりをして、くるくるさせていた指先をめいっぱいぐるりと振り回した。「さあ、先輩。片っ端から尋ねて回りましょう」
「あ? 何を」
「おうい、そこの王様!」レオナへの返答の代替として、チモシーは手始めに月のすぐそばで琥珀色に輝いている星に向かって大音声で問いかけた。「おまえさまは生前、一体どんな功績を残したんだ? 無知なおれに教えてくれよう!」
 伸びやかなチモシーの声はすうっと呼吸するみたいに夜の中に吸い込まれ、辺りは瞬く間に再び光ばかりがうるさい静けさに包まれた。レオナはすぐそばで鳴った大声に額を押さえて溜め息を吐いていたが、それでも箒は揺るがないまま宙に留まっている。チモシーはレオナへの謝罪の代わりに自身の両耳を澄ませた。
「それで、回答は? ロマンチスト」ややあって、レオナが呟くように問いかけた。
「特になし、ですね」片手を耳に当てながらチモシーは白々と首を傾げた。「どいつもこいつも、言葉にできるような功績を残さなかったみたいです」
「そりゃ結構なことだ」言葉とは裏腹に冷ややかにレオナは言った。「まったく、さぞかし良い時代だったんだろうな」
「今ほどじゃあないですよ」レオナの物言いに、チモシーはからりと笑った。「だって、結局先輩がいちばんすごいんですから?」
「お前、なに当然のことを言ってやがる?」レオナが振り向きざまにチモシーの片耳を抓った。
「いっ!」チモシーは突然の痛みにびっと背筋を伸ばした。「てて、し、しつ、失礼しましたあ……!」
 ふん、と鼻を鳴らしたレオナの手が耳から離れていく。箒はレオナの操縦によって再びゆったりと旋回を始めた。ひりひりする片耳を心の中だけで撫でてやりながら、チモシーは過ぎ去る光を背にして、目に付いた星を今しがたレオナが自分にしたようにぎゅっと抓ってみた。
「時代遅れの王様ども」再びチモシーは辺りに向かってそう発する。「精々先輩に平伏すことですね。どうせおまえらは自由に空も飛べないんだし」
「ならお前はどうなるんだろうな、チモシー?」
「おれはいいんです、夜の王様の世界一おそろしい仲間なので」からかい混じりのレオナの言葉に、けれどチモシーは額面通りの返答をした。「それに、空が飛べなくても月を灰にできる──ようになる予定──ですから!」
 そうして不意に、チモシーは星を抓る仕草をしていた片手を離す。それから辺りをきょろりと見渡して、彼は空いっぱいに広がるきらきらとした光とまあるく輝く夜の王の姿をじいっと見つめた。
「ねえ、先輩」どこかはたとした様子でチモシーが問う。「昔は、王様が星だったんですよね?」
「さっきそう言ったろうが」レオナは呆れた様子だ。
「蛍も?」
「ああ。どでかい黒い罠に捕まった蛍だってな」
 レオナの答えに、チモシーは口元で弧を描きながら首を傾げる。「じゃあおれ、王様が食べられますね?」
「はあ?」
「だって、星が王様で蛍なら蛍も星で王様でしょう」鼻歌でも口ずさむみたいな気軽さでチモシーは微笑んだ。「蛍なら、地上にいっぱい落ちてます。空から落っこちてきた憐れな過去の王様ども──食べちゃいましょうか?」
 したり顔でそう問いかける後輩のあくどい目つきに、レオナはその夜の中で浮かぶ緑色をほんの少しばかり見開いてはどこか面食らったような表情をした。
「……ハ──ハハ!」それから呼吸一つにも満たない短い間の後、レオナは堪えきれないという様子で声高に笑ってはこくりと頷いた。「ああ、ああ。そりゃあいいな、やってみろ」
 彼の肯定にチモシーは喉の奥の方で嬉しげに笑って、辺りに散らばる星明かりが目に入るたびに口元をもぐもぐと動かした。
「先輩」少年は瞳をきらきら輝かせながらレオナの方を覗き込んだ。「王様どもの喉越しはまろやかでしょうか? それともさわやかだと思います?」
「あ? そんなもん、脂ぎってしつこいに決まってるだろ」
「やった! おれ、唐揚げって大好きなんです」
 ぐっと片手を拳の形に握り締めて、チモシーは勢い良くレオナの腰に抱きつき直してぐつぐつと笑った。少年があまりに強い勢いでしがみついたために、衝撃を受けたレオナは微かに呻き声を出して箒も少しぐらりとしたが、咎める視線がチモシーのそれとかち合うと同時に、しかし彼は眉間の皺をすっと緩めた。
「だから、なあんも心配ないですよ、先輩」
 それはおそらく、彼の後輩がこんな言葉と共に随分と救われたみたいな顔で笑ったせいだった。レオナはついとチモシーから視線を外し、ふと思い出したみたいに天を仰いだ。
「ハクナ・マタタか、お気楽なこったな」
「そう、そうです!」チモシーはレオナの言葉をおうむ返しした。「ハクナ・マタタ!」
「お前……意味を分かって言ってんのか?」
 怪訝な声色で問いかけたレオナに、チモシーがこくこくと自信ありげに頷く。「もちろん分かりません!」
「能天気なヤツ……」
 付き合ってられないというふうにかぶりを振るレオナに、チモシーは小さく笑い声を上げては、肺からせり上がってきた歌をそのままに吐き出した。それは空のいっとう高い場所で輝く星の正体を問う、普遍的で凡庸な子どものための童謡だった。きらきらきらめく小さな星よ。あなたは一体何ものなの? 耳のすぐそばで鳴るその歌声を、けれどレオナは咎めなかった。
「ま、期待せずに待ってるぜ」歌の狭間で、レオナはひらひらと片手を振って呟いた。「上手くやれたら、星の一つくらいはくれてやるよ」
 彼が仕方なさそうな声色でそんな言葉を寄越すものだから、チモシーはレオナの視界に映らないところで、礼儀正しく大気を、見えるものの向こうにある過去の王たちの柩を三回ノックせざるを得なくなったのだ。
 きらきらきらめく小さな星よ。あなたは一体何ものなの? 何ものだって構わないから聞いてくれ。そうして少年は問いかける。ああ、なんてすばらしい夜! だからこそ、悩みがあるんです。敵がいる。この夜を切り裂こうとする敵が。どうか教えてください。過去の栄光にしがみついたまま、美しく眠っていたいのなら。どうか。どうぞ。どうぞ、教えて。
「ねえ、先輩。あの月はほんとうに……」
 朝焼けを噛み殺すには一体どうしたらいいだろう?
 なんて。


20220313 執筆





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