Blow, wind, bow-wow!

わざわいの毛並みを撫でてくれ


 ひどい雨だ。すさまじい雨。
 大音声の雷が咆哮みたいに空を裂き、雨粒の大群が蹄を鳴らして地面を打っている。ひどい雨だ。せっかく掃除を終えた場所に、わざわざバケツの水をひっくり返すかのような、何か嫌がらせじみた苛烈な雨。すさまじい雨。高級なドラムの価値も分からないまま、そのヘッドを思いきり叩き破るような、どこか皮肉じみて猟奇的な雨、雨、雨、雨だ。
 チモシー・ロックブーツは傘を持っていなかった。思えば、雨傘など生まれてこのかた持ったこともない。
 彼の故郷である夜明けの湖畔には、その名の通り砂漠の地下水脈から湧き出た水によってつくり出される湖があり、そこは熱砂の国の中でも降水量の多い地域ではある。が、雨が降るその時期も雨量も不確定で不安定、更に他国と比べてしまうと極端に少ないために、雨が降ったら傘を差す≠ニいう習慣が根付かなかった。
 そしてまた、ナイトレイブンカレッジがそびえるここ、秋の賢者の島に降るにわか雨や霧時雨は、故郷に時折降るそれよりずっと穏やかで、学園内でもその程度の雨で傘を差す者は一部の例外を除いてほとんど存在しなかった。ゆえに、今日この日までチモシーは雨傘の必要性を考えもしなかった上、この気まぐれな天候による突然の暴挙には不本意ながらも泡を食わざるを得なかった。
 楽器を手にする軍資金を集めるため、数日前からモストロ・ラウンジでアルバイトを始めたチモシーは、もうすっかり日の落ちた空の下をへとへとと──今日は皿を三枚も割ってしまった。毎回毎回、自分の腕の長さを買い被りすぎるのだ。正直なところ、自分に給仕は向いていないような気もする──サバナクロー寮へと向かって歩いていた。そんな哀愁漂う少年の背中に、突如として雨の乱射である。まったく慈悲も慈愛もあったものではない。
 ばしゃばしゃと跳ねる足元の水飛沫は、しかしごうごうと鳴る雨音とざあざあと流れる雨水のそれに掻き消され、自分がほんとうに前に向かって走れているのかすら疑わしい。それでもチモシーは濡れそぼった視界をどうにか開いて、眼前に見えた建物の中に飛び込む。それから両開きの透明な扉を慌てて閉めて、少年ははああ、という大きなため息を吐いた。ワイシャツの裾をぎゅうと絞ると、ぼたぼたと落ちる水滴が地面に染みを作っていく。染み? チモシーは顔を上げた。見れば、自分が転がり込んだのはまさしく植物園であった。またしても。
 チモシーは頭から被っていた制服のジャケットを荒っぽく雑巾絞りにしながら、満身創痍な他の部分に比べて多少ましな頭をぶるぶると振った。膝下まであるロングブーツの中にまで水が入り込んでいて気持ちが悪い。ガラス越しに外を眺める。雨はすぐには止みそうにない。まったくなんて日なのだろう。まだ月曜日だというのに、一気に木曜日辺りまでの疲労感に襲われる。チモシーは先ほどよりも脱力した溜め息を吐いて、地面にへたり込んだ。
「おい、濡れ鼠」それから、背後から声。「いつからここはお前の巣穴になったんだ?」
「え!」チモシーは突如として掛けられたそれに、大雨に降られるよりも驚き、思わず立ち上りざまに振り返った。「あ」
 ばちり、と目が合う。チモシーの眼前で、雷みたいな紫電が弾けて喉の根っこで言葉が焦げた。緩く跳ねて流れるチョコレートブラウンの間から、薄暗がりの中でも色鮮やかな緑色がこちらをぬるく見下ろしている。
 チモシーはちりちりと焼き切れてしまった思考回路をなんとかかき集めて繋ぎ合わせ、視線を彷徨わせながら──結局は相手の緑色に吸い寄せられてしまっていた──とにかく、言うべきことを探した。授業中に当てられたときとは比較にならないほど、少年は必死になった。何故? 分からないが、今だけはずぶ濡れでよかった。そうでなければ、おかしな汗をどばどばと垂れ流していただろうから。
「あ──あの、髪に」そうして眩暈を起こしそうになりつつも、チモシーはなんとか言葉を引きずり出した。「か。髪の毛に葉っぱがついてます、レオナ、先輩……」
 異様に自分の声を遠くに感じながら、「あ、いえ、レオナ寮長?」としどろもどろに言い直して、チモシーはレオナの三つ編みの一房へと視線を向けた。名前を呼んだ喉が痛い。しわくちゃのジャケットを手に、チモシーは相手の顔色を窺った。
「あン?」興味なさげに葉の一枚を払った後、怪訝そうにチモシーの方を見た。「……ああ、なんだ。よく見たらお前、この間のヤツか」
 チモシーはたった今やり方を思い出したみたいに瞬きをした。「この間?」
「調子っぱずれなお歌のご披露をどうも」レオナは皮肉っぽく口角を上げた。「なかなか心に響いたぜ」
「嘘」驚きのあまり、囁くみたいに声が洩れる。チモシーはつり目がちの瞳を、しかしまんまるにして見開いた。「は、外れて? ました?」
「それはもう芸術的になァ」
「うわ、う」弱った犬のような情けない声が口の端から出ていく。燃えるみたいに頬が熱い。今一度外に出て思いきり雨を浴びたいくらいだった。「あ、あ、ち、ちなみにどの音?……です?」
「なんで俺が教えてやらなきゃなんねえんだよ」チモシーの質問に片手をひらりとさせて、レオナは鼻で笑った。「お歌の練習ならお友だちとやるんだな」
 チモシーは肩をすくめて、レオナに向かって曖昧に頷いた。
 どっと肩に重たいものが乗ったような気分だった。日曜日の夕暮れみたいに苦々しい気持ち。他のすべてはうっちゃっても、歌だけは自信があったのに! チモシーは眼前に自寮の寮長がいることをすっかり忘れて、幼い頃からそうしているように頭の中でピアノを鳴らし、ドレミファソファミレド、その音に合わせて頭の中だけで歌った。それから言い訳をやはり頭の中だけで捲し立てる。いや。いやいや、そうだ。あのときはいつもと少し違う気分だった。たぶん、ちょっと高揚していた。緊張もしていただろうし、浮かれてもいたはず。そう。そうだとも。
「そう、ええと、その」およそ自分のためにこくりと頷いて、チモシーはぐっと自身の片手を握った。「……練習して、リベンジしますね!」
「そりゃ光栄だ。頼んでないがな」気のなさそうにそう言ってレオナはチモシーの横を通り過ぎると、しかしつと思い出したみたいに立ち止まった。「で、お前。いつまで濡れ鼠のままでいるつもりだ?」
「え」はたとして、チモシーは自分の姿を見下ろした。「あ、ああ……でも先輩こそ、こんな雨の中どこに行くんですか?」
「あ?」レオナが眉根を寄せる。「帰るに決まってんだろ」
「え、今?」
「その耳はお飾りか?」レオナは自分の耳を軽く示す。
「かもしれないですけど」チモシーも困惑ぎみに自身の目元を指した。「でも、ライオンはライオンで夜目が利かないんです?」
「かもな」そんな相手にレオナはわざとっぽくかぶりを振り、意地が悪そうに目を細める。「お前の腹が立つほど間抜けな顔もよく見える程度には利かない」
「だって、雨ですよ?」それでもチモシーは、思わず音が鳴りそうな勢いで外を指差した。「ものすごい雨!」
「いきなり大声を出すんじゃねえよ。見りゃ分かる」溜め息交じりにそう言って、レオナはガラスの外側を見る。そうしていつの間にやら手にしていたマジカルペンで、彼は自分の肩を軽く叩いた。「こんなもん防水魔法使えばいいだけだろ、鏡舎だって遠いわけじゃない。クルーウェルに説教される方がめんどくせえ」
「防水魔法? へええ、全身が撥水加工にでもなるんですか。便利そう──」チモシーは聞こえた魔法のおうむ返しをして、水を吸収しきれていない自分の制服をちらりと見、それから植物園の出入り口に向かって歩いていくレオナを視界に映してはぎょっとした。「え! ほんとに行くんです!?」
「ぴーぴー喚くな、うるせえ」耳の代わりにこめかみを押さえて、レオナは苦虫を噛み潰したようにチモシーを見る。「これだからガキの相手は嫌なんだよ」
「帰るんです? ほんとに?」レオナの元へと駆け寄って、チモシーは秋を追い立てるような轟音と、遠くで空を裂いてうねる閃光を視界に映した。「その──かわいい後輩を置いて?」
 懇願するように首を傾げる。最早なりふり構ってはいられなかった。授業で失敗したわけでもないのにクルーウェルに駄犬とどやされるのも、いつ終わるのかも分からない狂乱に囲まれ、ずぶ濡れのままでこの箱庭の中に放置されるのもどちらもごめんだった。そう、雷鳴を聞いてせいせいとした好い気持ちになるのは、祭囃子を聞いているような気持ちになるのは、総じて自分の身の安全が保障されているときだけである。真夜中、稲光に驚いたマンドラゴラたちが土から抜け出して、八つ当たりみたいにこちらへ襲い掛かることがないと、一体誰が保障できるだろう!
 しかし、そんな困り果てた後輩の様子にレオナは肩をすくめて、心底残念そうに首を傾げた。「へえ、どこにかわいい後輩がいるんだ? 俺は夜目が利かないから見えねえなァ」
 チモシーは荒れ狂っては世界の終わりめいた景色と、それを後ろに背負ってもいやに様になる自らの寮長を交互に見やった。なるほど、慈悲がないという点で両者は似ている。
「ここにいるじゃあないですか!」手のひらで自分自身の胸元を叩いて、チモシーは相手の視界に無理やり自分の姿を捻じ込んだ。「かわいいネコちゃんのチモシー・ロックブーツ後輩が?」
「ネコ?」レオナが怪訝そうに片眉を吊り上げる。「ミーアキャットだろ」
「おんなじことでしょう?」やけに自信ありげにそう言って、チモシーはレオナの顔を覗き込んだ。「それでそのう、ところで、防水魔法ってどうやるんですか?」
 レオナのぬるいまなざしが、言外に苛立ちと呆れを滲ませる。「なんでもかんでも人に訊くんじゃねえよ」
「う」チモシーは呻いた。それ以外に正しい返事も分からない。「いやあ、でも、まだ授業で習ってなかったので……」
「習ってなきゃ何もできないのか? いよいよガキだな」息を洩らすように笑って、レオナは指先で未だ水を被ったままのチモシーを示した。「乾燥魔法も使えないヤツに教える義理はない」
 そうしてちかりとマジカルペンを光らせたのち、レオナは踵を返しては扉を開けて植物園の外へと出て行った。それはまさに一瞬のことだったので、どんな魔力のやり取りが彼の中で行われていたのかなどチモシーには分かりようもなかったが、あの様子ではおそらく防水魔法とやらは成功し、我らが寮長は授業の出席放棄は元より、矢のごとく降りしきる豪雨さえもものともしない存在になってしまったのだろう。
 チモシーは暗やみの中に消えていく背中をぼうっと見送って、理不尽な人だなあ、だとか、なんだか凄い人がリーダーをしている寮に入ってしまったなあ、だとかを思うのと同じくらい、けれどあの人が部屋に戻るまでの間、吹く雨風の嵐が少しだけでも収まることを願った。わけも分からず。わけもなく。
 さて、しかしながらこれで一人である。こんな自分はどうすべきか? チモシーはまだ少し湿ったままの手で、痒くもない首筋をかりかりと掻いた。それから再びその場にしゃがみ込んで、買ったばかりのスマートフォンを起動する。
 三日分のバイト代で買った、店で一番安価だった中古のスマホである。最低限のアプリとちょっとした遊びのアプリが起動できる程度の容量の、フリーの電波が飛んでいなければインターネットも使えないようなその代物は、しかして夜明けの湖畔という閉鎖的な限界集落で育ったチモシーにとっては確信的で先進的な都会的デバイスだった。
 昨今、大抵のことはこれ一台が教えてくれる。そして幸い、この学園には植物園も含めて電波が満遍なく張り巡らされているため、目に見えないその蜘蛛の巣が雷に打たれない限りはどんな荒波の中でも調べ物をすることができるのだ。もちろん、魔法学のことであっても。チモシーは覚束ない手付きで画面をタップし、最も世界的で一般的な検索ブラウザに漂っているそれらしいサイトを開いてはそれらしい資料データを開き、そこに羅列されたそれらしい平坦な文章と簡素な図解を眺めて、胸元から自身のマジカルペンを取り出した。
 インターネットの海原曰く乾燥魔法とは、主に濡れた衣類を瞬時に乾かすことを目的として古来に編み出された魔法だが、それは時を経るごとに木の実や果物を干し物にしたり、生花をドライフラワーに変えたりと、様々な分野で無数の形に応用され、いま現在でも世界中で広く扱われている魔法の一つであるという。チモシーはマジカルペンを手の中で回して、頭の中で洋服が皺一つも残さず完ぺきに乾ききるさまを想像した。そして、そのために必要な要素を一つずつ、恐る恐ると積み上げる。彼は少しばかり目を細めて、マジカルペンを振った。ふうわりと、ぬるい微風によって前髪が浮き上がる。なんの役にも立たない風。これではだめだ。チモシーは立ち上がる。外で雷鳴が轟く。思いきりが足りない。自分の想像する熱風には一体何が足りない? 無論、熱だ。熱が足りない。熱は光。光なら太陽。太陽なら──
 チモシーはマジカルペンを振った。それから首の後ろでぼうと鳴る音、そして、
「おい、馬鹿!」
 鋭い声と、冷たい水。
 少年は大いに混乱し、それでも反射的に後ろを振り返った。何がなんだか分からない。分からないが、どうやら頭から水を被ったらしかった。しかし、自分は確かに今しがた乾燥魔法を使ったはずである。脱水のイメージはしても、水を出す蛇口のイメージなど毛ほどもしていない。チモシーはぶるぶると頭を振って、これで完全に全身濡れ鼠と化した自分の不遇を嘆きながら、濡れた袖で濡れた目元を拭った。そうして、うっすらと目を開ける。
「テメェ、死にたいのか」
 けれども、低く飛んできたその言葉が他の何よりも早かった。瞼の向こうには、今まででいちばん深く眉間に皺を刻んだレオナがマジカルペンを片手に立っており、両目の中に苛立ちや呆れに似た色を多く泡立たせながらこちらを見下ろしていた。
 そのまなざしに胸がざわつき、心臓が嫌な音を立てて鳴る。チモシーはぱちぱちと数度瞬きをくり返し、水浸しの自分の足元、一緒に水を被ったスマートフォン、水滴の滴る両手、その中にあるマジカルペンを順番に見た。違和感は一つ、焦げ臭い。チモシーはそろそろとにおいの元を辿るように片手をうなじの辺りに伸ばした。髪を触る。ざり、という、柔らかくも固くもない、何か尖った感触。見なくても分かる。焦げている。
「乾燥魔法に火をイメージするヤツがあるかよ」呆然としている後輩に、最早レオナは溜め息を吐くことさえできないようだった。「お前、人の縄張りを焼け野原にでもするつもりか?」
「す──す……すみま、せん」動揺と寒さで舌も頭も身体も上手く動かないまま、チモシーは感情だけで頭を下げた。「あの、ネットに書いてあったのを想像してみた、だけ、だったんです。『パリッとした衣服のための乾燥魔法3ステップ』。水を絞る=A熱風──回転していると尚良し──を当てる=Aアイロンをかける=c…」
「一つでも過剰だったり手間を省いたりすると発火の恐れもある」教本を捲ってそこに書かれた一文を当たり前に読み上げるみたいにレオナが呟く。「ネットの情報を鵜呑みにするな。頭が痛くなってきた」
「き、気を付けます」
 チモシーはレオナのマジカルペンとその呆れ返った表情を交互に見やってこくこくと頷いた。そうしてみても未だ心臓が軋むのは、眼前に見える緑色の双眸が──いつでも目を背けたくなるほどに美しいその濃い緑の草原が、青白い光を照り返しては葉裏をちりちりと焦がしながら、微かに霧めいた煙を上げていたためだった。燃えたところから、ぱきぱきと緑色がひび割れて地面に欠片が落ちてしまいそうだった。いけない。チモシーはかぶりを振る。だめだ。マジカルペンを握り直し、水の魔法を使おうとする。レオナが怪訝そうに瞬き、それから、チモシーは自分の行動の不可解さにはたとした。
「あ」茶化すみたいにへらりと笑って、チモシーはマジカルペンに握り締めていた手の力を緩めた。「……だせえ髪型になったら一年中式典服のフード被ってなくちゃだし、ほんと、気ぃ付けねえと」
 チモシーは首の後ろを掻いて、こわごわとレオナの目を見る。彼は腕を組んでその場に立ったまま何も言うことはなかったが、しかし瞳の緑はもう煙ってはおらず、きちんと休むための夜の静けさを取り戻していた。
 チモシーはほっと胸を撫で下ろし、レオナがいつも休んでいる方角を見やって呟いた。「まあ、でも。先輩の寝床まで燃やさなくてよかった」
 そして、足元の水たまりの中に水没しているスマートフォンを拾い上げる。防水ではなく防滴仕様の安物の電源を点けてロックを解錠すると、ホーム画面ががたがたと震え出し、あちこちでアプリケーションが起動したり消えたりをくり返した。思わず電源を切る。バイトで失敗し、雨に殴られ、髪は焦げ、寮長には迷惑をかけ、スマホは壊れる。チモシーは再びぶるぶると頭を振って顔を上げた。ほんとうになんという日なのだろう。厄日にも程がある。
「あ、レオナ先輩」それでもチモシーは、視界の中に映り込んだものに少しくすりとした。「また、髪に葉っぱが……」
 言われて、レオナはちらりと自分の髪に引っ掛かっている木の葉を見た。そうして形の良い唇を少し開くと、彼はそこから音を立てて重たい溜め息を吐き出し、じつに気怠げに手にしていたマジカルペンを緩く振った。
「え?」
 瞬間、チモシーの足元から突如として突風が吹き、少年はその陽光を含んでは暖かいものに全身が一気に包まれたような心地がする。瞬き。なんだか身体が軽くなり、ひたりとする気色の悪い冷たさも消え去っていた。髪を触る。濡れていない。シャツを見る。張り付いていない。足元を見る。水たまりがない。上着を絞る。水が出ない。
「わ──わ!」チモシーはその場を軽やかに飛び跳ねた。「乾いた!」
「そりゃ乾くだろ」彼の乾燥魔法よりずっと乾いた声色で、溜め息交じりにレオナが言う。
「すげえ!」そんな相手の声が聞こえているのかいないのか、くるくると片足を軸にして回転しながらチモシーは両手を広げて楽しげに笑った。「天才ですね!」
 脳天気な独楽めいた後輩にレオナは眉間に手を当て、心底疲れた顔で首を振った。それから自身のマジカルペンでチモシーのマジカルペンを指し示す。
「水を弾くもの=A薄い膜=A身に纏う──着る=B自分の身体が水を弾くさまをきちんとイメージしろ」
「え?」
 レオナはまなざしだけで舌を打った。「一音飛ばしだ、さっさとやれ」
「はっ、はい!」チモシーはぴっと背筋を伸ばし、マジカルペンを構えた。「ええと。水を弾く、薄い膜、身に纏う……?」
 今しがたレオナから言われたことをくり返しながら、チモシーは軽くなった脚で辺りをうろうろと歩き回った。目を瞑っては、その想像力に対してひどく数の少ない頭の中の引き出しをすべて開ける。その引き出しの一つに、ちかりと緑色に輝くものがあった。閉める。また開ける。開けて、チモシーはレオナの方を見た。
 その視線に、助けを乞われたのだと思ったのだろう。レオナはやれやれと息を吐いて、マジカルペンで自分の手の甲を叩き、それから頭上でペンをくるりと回した。「こうだ」
 そんな彼の言葉を合図に、ざばり、とレオナの頭上から雨が降る。薄い膜が張られているように彼の身体が細かな水滴を弾き、落下していくそれは足元にぱたぱたと水たまりをつくり出していく。植物園の常夜灯が、外の雷光がレオナに降る雨粒の輪郭を白く光らせていた。どうしてかチモシーにはそのさまがひどくゆっくりとした光景に映り、彼はそこで弾ける水滴の一つを奥歯で噛んだような心地さえした。
「あ」チモシーは呟き、マジカルペンを指の上で回転させた。「植物?」
「あ?」
「水を弾くものです」にっと笑って、チモシーはレオナの髪の毛をペンで示した。「葉っぱ!」
「……お前、全身に葉を貼り付けてる自分を想像できんのか」呆れを通り越して困惑した表情でレオナは眼前の後輩を見下ろした。「相当間抜けだぞ、お似合いだが」
「傘よりはイメージしやすいかもです、使ったことがないんで」気にせずチモシーはからりと言った。「傘って、空を飛ぶもののイメージがあります。ほら、伝説の家庭教師がいるでしょう? 傘を広げて空から降りてくる……」
 マジカルペンを傘の柄に見立ててぴょんと高く跳躍したチモシーが、靴の踵同士をくっつけ、足元を扇形にしながらそうっと着地した。そして、次の瞬間、ふわりとマジカルペンを振る。ぴか、とその場が光り、チモシーの魔法の発動が成功したことを告げた。
「……おい」しかし、チモシーの頭上から降ってきたものを見て、レオナは眉間に皺を寄せた。「なんだそれは」
「そのう」チモシーは降ってきた緑色のものを受け止めながら、ばつが悪そうに呟く。「大きい葉っぱ、ですね……」
「俺は召喚魔法をしろと言った覚えはないんだがな」
「す、すみません。傘の話をしてたからでしょうか」しゅんと眉を下げながらチモシーは長い茎の柄を握り、ちら、と自分の身体を覆うほどの大きな葉を見上げた。「でも、あー、傘代わりにはなる……かな?」
「風で折れる」レオナはぴしゃりと言った。
「ですよね。じゃあ気を取り直してもう一回──」
 チモシーが再びマジカルペンを振る。ぴかり、と白い瞬き。チモシーがあれ、と思うのと同時に、今度はレオナの頭上に先ほどと全く同じの葉の傘が降ってきた。
「おい」レオナはいよいよ顔を顰めた。「おい、ふざけるなよ」
「や、いや、ふざけてないです!」顔色を赤くしたり青くしたりをくり返しながら、チモシーは顔の前で両手をばたばたと振った。「至って大まじめです……」
「余計悪い」レオナはぽいと巨大な葉っぱをチモシーの方へと投げた。「付き合ってられるか。俺は帰る」
 くるり、とレオナが踵を返したのはこれで本日二度目になる。チモシーはそんな相手の背中を心細げにじいっと見つめたまま、なんの役にも立たない大きな葉を二つ抱えて、はい、と誤魔化すみたいに少し笑った。
 まあ、そのうち雨も上がるだろう。そんなことを考えていれば、出入り口の辺りからチ、という短い舌打ちが聞こえてきてチモシーは肩を揺らした。それと共に、視界の向こうで光が一つ瞬く。
「わ、……わ?」ぴたりとした不思議な感触の光に包まれて、チモシーは目をぱちぱちとさせる。
 そして、そんなチモシーに、レオナがすっとマジカルペンを向けたまま平たい声で呟いた。「貸し一つだ、いいな」
「え? あ、はっ──はい」わけも分からないまま、けれどチモシーは瞬間的に頷いた。「お、おれ、きっとお役に立ちますよう」
「そうかよ」ひら、と緩く片手を振ってレオナが言った。「まあ、精々尽くすことだな」
 そうして扉を開けて出ていった相手の背を、両腕に葉っぱを抱えたままチモシーは追いかけた。
 植物園の外は先ほどよりも勢いが削がれた雨が、しかし未だにばたばたと駆けるみたいに降っている。それでも、風はほとんど止んでいた。風が止んだために夜空では灰色の雲が渋滞を起こし、月明かりも、星の一つも見えはしない。こんな空の下で瞬くのは遠くで落ちる雷と、おそらく、自分の少し前をすたすたと歩くレオナの緑色の瞳のみだろう。自分も彼も、その身体に当たる少し手前で、雨粒が弾けて霧散し続けている。光があれば、それは先ほどみたいに美しいことだろうと思えた。雷は少しうるさすぎるから、星月の明かりが良かった。ああ、風が吹けばいいのに。もっと、風が吹けばいいのに!
 レオナが踵を返して出ていった一度目とは全く真逆のことを考えながら、チモシーは大雨にも負けないよく通る声で、ドレミソラシド、一音飛ばしの発声練習をする。レオナは振り返らない。チモシーはすうっと息を吸って、歌った。吹け、吹け、風よ! 回れよ風車! チモシーの喉から獣の笑い声が上がって、彼はレオナの隣を駆け抜け、ぴょんと花壇の柵の上へと跳び上がる。吹け、吹け、風よ! マジカルペンを振る。嵐には到底満たないぬるい風が吹いた。回れよ風車! 柵の上でチモシーは回った。そうしてレオナと目が合ったから、少年はまた獣の声で笑った。不思議そうな光を宿す緑色の目が、暗やみの中でもきれいだった。
「……なんでガキってヤツは、総じて歌が好きなんだ?」
「そりゃまあ、単純なことですって」
 レオナの純粋な疑問に、チモシーは声高く笑った。そうして月のこがね色を宿した瞳で、少年はまるで歌うみたいに発する。
「だっておれたち、自分のことしか考えてないから!」


20220206 執筆



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