シグナル


 この道の上で、何度立ち止まっただろう。
 薄葉緑の街を出て二日。コーデリアと、淡い黄緑色をした薄葉を湛える高木──ゼン曰く、いろんな地域でそれぞれが様々な葉の形で育つために、リバティベルと名付けられた木らしい──は、街道の左右に陽をめいっぱい浴び、そよそよと吹く風を受けて緩やかに揺れていた。耳を澄ませば、リバティベルの枝から生えている、乳白色をした小さくて丸い木の実が、風に揺れるたびにころころと控えめな鈴のように鳴っている。
 ふと立ち止まり、後ろを振り返れば、薄葉緑の街はもう見えない。
 歩き、歩き、ただゆっくりと歩き、時にはなだらかな坂道を上ったり下ったりしながら、薄葉緑の街から伸びる街道の煉瓦が時折剥げ、土が顔を覗かせているところを見付けたりして、また歩いた。そうして何度も立ち止まり、何度も振り返っては、しかしまだ歩いている。
 大きくて透明な川の上に架かった、灰白色の石橋を渡ると、煉瓦づくりだった街道は舗装のされない土の道へと変わった。リバティベルはそこここで朝の光に輝いていたが、石橋を渡ったところからコーデリアは段々とその数を減らしたようである。
 日が昇ったばかりの空はまだその青が浅く、ただ差す光だけが眩しい。
 ゼンの話によると、旅人用の小屋というのは、先の石橋を渡って少し行ったところ、街道沿いに在るらしい。次の町までは距離があるから、そこで一度休憩を取るといいというのが、彼ないし彼女からの助言であった。
 しかし、薄葉緑の街から旅人用の小屋までの距離は、休み休み歩いても一日半だと聞いていた。そう考えると、自分は随分とのんびり、迷い迷いにこの一本道を歩いてきたようだった。自分のこれは、焦る旅でもない。けれども、この足の重さはどうにかならないものか。こんな気持ちで旅を続けては、きっと──
 突如身体が傾いて、視界が揺らぐ。地面に突っ伏す寸前でなんとか持ち堪えれば、地面に突いた杖に自分の片足を引っ掛けたのだということが分かった。
 心の中でかぶりを振る。あんまりぼうっと歩いていたせいだ。片手で握っている杖を自分の隣に引き寄せて、顔を上げる。目を瞑り、息を吸って、また吐いて、それからまた目の前に広がる世界を目に映した。
「あ」
 そうしてみれば、続く道の途中に、リバティベルの枝葉で少し隠れてはいるが、木でできた旅人用の小屋が建っているのが見えた。少しだけ息を吐いて、橙色の硝子玉が填め込まれている杖と共に、自分の片足を前に出す。ひとまず、小屋を目指してみよう。
 それからしばらく振り返ることもなく歩を拾ってゆけば、小屋は存外すぐに目の前に現れた。小屋の周りには満開のコーデリアとリバティベルの木々が立ち並び、下草は色いぶきの月に相応しく瑞々しい緑の輝いている。街道から細く続いている獣道を辿って歩き、小屋の扉の前に立つ。
 きょろりと辺りを見回すが、特に人の気配は感じない。扉の近くには丸太が幾つか積み上げられており、視線を巡らせれば、小屋の脇に在る切り株の上に斧が刺さっていた。割られた丸太がその隣に小さな山となって積まれている。
 確か、こういった小屋に丸太を補充するのは木こりの仕事だったか。ゼンによると、此処を利用する者は、必要な数だけ丸太を割って使える──という話だったはずである。ならば、まさに今、此処を使っている者がいるということだろうか。
 扉を三回叩く。けれども、特に返答はない。
「すみません、誰かいませんか?」
 そう呼びかけてみても返事はない。もう発った後なのだろうか。
「……失礼します」
 一応断りを入れながら、扉の取っ手に指先をやる。少し力を入れて押せば、鍵のかかっていないらしい扉は簡単に開いた。
 きい、という音ばかりが耳に木霊し、外の光を受け入れた小屋の中で細やかな埃が金色に舞う。窓は小屋の右側と左側に一つずつ。その右側だけが少し空き、部屋の中に風を取り入れているようだった。定期的に管理人が手入れをしているのだろう、これといって薄汚れているところも見当たらない。
 片足を浮かせて、一歩小屋の中に踏み入る。おそらくそれなりに古い建物なのだ、歩を進めるために踏んだ床板がところどころできしりと鳴った。
 扉から向かって正面には、煉瓦造りの暖炉が在る。その前には古ぼけた緑色の絨毯が敷かれており、上には割った後の丸太が、木の籠に入れられて置かれていた。暖炉近くの小さな机には、一人分の白いマグカップ。いいや、使われずに布の上にひっくり返されているのがもう一人分置いてあった。暖炉の中に在る丸太や木片は黒ずんでいる。
 小屋の中心で立ち止まり、ぐるりと視線を巡らせた。
 開け放ったままの入り口からは強く、右側の窓からは淡く、今日の始まりよりやってきた白い光が入り込んでいる。そこから零れた光を受ける部屋の隅に、何者かの布袋が置かれ、それに封をしている紐には小さな水晶玉のようなものが幾つも飾られていた。
 そちらと反対側を向けば、部屋の左端に一人用の寝台が置かれ、その上にはきちんと畳まれた上掛けや寝具が載っている。枕の近くには何枚かの色とりどりな布の上に、布袋の紐にくっついているものより何倍も大きな水晶玉が載っていた。
 その表面が、ゆらりと虹色に揺らめく。美しい遊色に、思わず瞬いた。目の錯覚だろうか。しかしなんとなく、それが一瞬、確かに虹の色を纏って煌めいたように思えて、水晶玉の方へと歩み寄っては目を凝らす。
 瞬間、何かと目が合ったような気がした。
 けれどそれもつかの間、凝らして見た水晶玉からは、虹の色も何者かの視線のようなものもしゅるりと消え去り、そこに残されたのはただ透き色に輝く美しい球体ばかりだった。
 思わず息を少しだけ吐き、内心で首を傾げる。視線を少し落とせば、右からやってくる陽光に照らされる分厚い一冊の本が目に映った。
 拾い上げ、表紙に目をやる。自分の持つインクのように深い茶色をしたその革表紙には、金糸で草花の刺繍が施され、それを指でなぞれば、きらりと光の粒子のようなものが宙に舞った。
 しゅるしゅると蔦か、或いは枝葉のように伸びていく光を無意識に指先が追い、そっと触れる。
 すると瞬間、光の蕾が開き、花を咲かせた。
 まるで先の水晶玉や自身の持つインクのように緩やかに色を変える光の花は、よく見てみるとコーデリアの花の形をしている。その光が扉や窓から差す朝の光に溶け消えるのに合わせて、視線を本の表紙に走らせた。金糸の刺繍も、コーデリアや春林檎、あの高台に息づく草花たちの図柄である。
 偶然と呼ぶには、不思議だった。
 先ほどから刺繍よりも強く存在を放ち、こちらの視界へ入ってきていた文字列を正面から目に映す。この本の表題だ。指でなぞりながら、金糸で刺されたその題名を口にする。
「──マイロウド=c…」
 それと同時に、誰かが駆けてくる足音が聞こえてくる。はっと本の表紙から顔を上げると、しかし振り返るよりも早く明るい声が小屋の中に飛び込んできた。
「旅人くん!──マイロウドくん!」
 確かにそう呼びかけた声に驚いて振り向けば、開け放たれた扉の向こう、光を背にした女性が、両腕に紙袋を抱えて楽しげな笑みを浮かべて小屋の中へと駆け足で入ってきた。
 肩ほどまでの柔らかな橙色をした髪と共に、赤くて大きい球体の耳飾りを揺らして、彼女はまず暖炉脇の机の上に紙袋をどさりと置く。
「ようこそ、いらっしゃい!……って、此処、わたしの家じゃないんだけどね!」
 半月型をした、緑色の布地に白い円や線が描かれている帽子を両手で整えて、彼女はぺこりとお辞儀をした。緑色をした、膝裏ほどまでもある長い前開きの上着が、彼女の動きに合わせてひらりと揺れる。その上着の留め具も赤い球体だ。
 相手の様子につられてこちらも頭を下げれば、彼女はふふふと笑いながら顔を上げる。
「わたし、シグナル。どうぞよろしくね、マイロウドくん!」
「よ──よろしくお願いします。あの……どうして僕の名前を?」
「んん? うん、ふふふ」
 琥珀色のどんぐりまなこを楽しそうに細めながら、シグナルと名乗った彼女は、暖炉の中に吊されている鉄鍋に紙袋から取り出した瓶からその中身をとくとくと注ぎ込んだ。牛乳だ。それから石をかちかちやって暖炉の火を起こした彼女は、木の籠に入っている小さな丸太片を幾つか暖炉の火にくべて、そうしてこちらを振り返る。
「わたし、占い師だからね!」
「占い師?」
「そう。その人のことは、なあんでも分かっちゃうんだから!」
 自信ありげに頷いてそう言った彼女は、一拍置いたのち、なんでもは嘘かも、とはにかんで笑った。ぱちりと爆ぜる暖炉の火に、彼女の眉間に飾られた赤い石がきらりと輝く。シグナルの両頬に塗られた白い二本線の模様が、彼女が笑うたびに少しだけ上に引っ張られていた。
「シグナルは──しばらく此処で滞在を続けているんですか?」
「そうだねえ、そろそろ発てるかなとは思ってるけど」
「発てる……かな?」
 おうむ返しをして、ふと、シグナルの隣に在る机を見る。その上に載った二人分のマグカップを視界に映して、そういえばと口を開いた。
「誰かを待っているんです?」
「うん、そうなの」
 こくりと頷いて、シグナルは暖炉の隣に立て掛けられていた鉄杓を手に取り、それで鍋の中身を緩くかき混ぜた。段々と熱されていく牛乳のにおいがふわりと鼻を抜けていく。
「この緑の大陸って、北西から北東までを囲うようにたくさんの山が連なっているでしょ? その中でもいちばん高い山──宝樹峰って言うんだけどね、大きな樹みたいな形をした山で……そこの頂上には、巨大な岩を大樹の形に彫り削った遺跡が在るの。そしてその奥には、すべての闇を吸い込み、光として弾き返す、鏡の盾が眠っている」
「伝説……ですか?」
「手に入れた人がいないから、そうかもね。そこまで辿り着くのも、盾を手にするのも、一人では無理。遺跡に辿り着くにはどうしても魔法が要るし、鏡の盾は一つではなくて、一対。台座から手にするのも、大きな力を弾くために使うのも、同じ血を引く者同士が二人で息を合わせなくてはならない」
 火を見つめてそう語るシグナルは、つと顔を上げて窓の方を見た。
「だから彼≠ヘ山を下る。そしてきっと、この小屋を見付ける」
 暖炉の前に膝を突いていたシグナルは、よいしょ、と短く発して立ち上がる。そうして机の上の紙袋からすでに切り分けられているバタールを取り出すと、彼女はそれをぱくりと一つかじった。
 それからシグナルは紙袋の中から更にバタールをもう一枚、そして薄めに切られた黄色いチーズと串を取り出すと、暖炉の前でチーズを串に刺し、垂れてもだいじょうぶなようにそれをパンの上で炙りはじめた。その本人はまだバタールをもぐもぐやっている最中である。
「シグナルは、僕が此処に来ることも分かっていたんですか?」
「ええ? うーん、どうかなあ」
「でも、あなたはまるで、未来が見えるようでしたから……」
「あはは、違う違う。わたしが見えるのはその人の断片的な──たいせつに想っていたり、印象に残っていたり、強く心に在る過去だけだよ。そこから、可能性の未来を導くの。それがわたしの占い」
 バタールを飲み込み、チーズをゆらゆらと揺らしながら、シグナルは笑い声を上げた。彼女はちらりとこちらを振り向き、にっと口角を上げる。
「わたし、見習いだからね!」
「見習い……」
「そうそう。それに、約束された未来なんて、きっとないでしょ? 人は迷うし、悩むし、もがく。立ち止まったり、転んだり、起き上がってまた歩いたりする。だから、占いの未来は可能性なの。未来が約束されているなら、人は迷わない。夢を見ることもない。占いだって要らないわ。そうじゃないから、わたしたち、未来を占うの。なるべく明るい方へ往けるようにね」
 そう言うと、シグナルは鼻歌交じりにチーズの串をくるりと一回転させる。朝の光が差し込む小屋の中で、赤と橙色に燃える火に照らされる彼女の横顔は柔らかな笑みを浮かべ、そして、そこには揺るがない何か──覚悟のようなものが、少しだけ滲んでいるように見えた。
「友人も言っていましたが──たぶん、きっと、迷ったり悩んだりすることは、悪いことではないんですよね」
「それってきみが生きてる証拠だよ、マイロウドくん。きみがきみで在る証!」
「僕が、僕で……」
 自分の名前が表題となっている本を抱えたまま、絨毯の上、シグナルの少し後ろに腰を下ろす。橙をした髪の向こうで、彼女の琥珀色の瞳がぱちぱち爆ぜる火を見つめていた。その横顔を見やりながら、ふと言葉を宙に浮かべる。
「……シグナルも此処に来るまで、たくさん悩みましたか? 立ち止まった?」
 その問いかけに、彼女は淡く笑ったようだった。
「もちろん。これでも、たぁくさん悩んで此処まで来たんだよ。少なくとも、まだ零歳のきみよりは! わたし、もうすぐ二十歳だし、マイロウドくんよりずっとお姉さんなんだから」
「それも、シグナルがシグナルで在る証、なんですね」
「そうだよ。わたしがわたしで在る限り、わたしはこれからも悩み続けるし、何度も立ち止まる。これからは、これまでよりももっと、きっと」
 言いながら、シグナルはとろけはじめたチーズを、片手に在るバタールの上にそうっと載せた。パンの上で黄色く輝くチーズを見て満足げに頷いた後、彼女は振り向いて、その手のバタールをこちらへ差し出す。
「それでもわたしはわたしでいたいから、ちゃんと悩むし、ちゃんと立ち止まるし、占いだってもっと上手くなる。きみだってそうだったし、マイロウドくん、これからもそうでしょ?」
 あ、それ熱いから気を付けてね、と付け加えたシグナルに、こくこくと頷いてお礼を言う。そうしてバタールを受け取れば、チーズが輝きながらも熱を放っているのが手に伝わってきた。
 それに数度息を吹きかけ、その熱さに恐るおそる口を付けようとする。しかし、きらきらと琥珀の目をチーズよりも輝かせてこちらを見ている視線がつい気になり、顔を上げれば拳をぐっと握って笑うシグナルと目が合った。その瞳は少し、水晶玉のようだった。
「いいなあ、美味しそう! やっぱりわたしももう一枚食べようっと!」
「あ、そういえばこれ、何処で買ったんですか?」
「行商人さん! 食いっぱぐれちゃう人がでないようにね、毎朝一回は行商人さんが寄ってくれるの。この大陸に在る大体の旅人小屋はそういう風になってるんだ。美味しい朝ごはんを食べるのと食べないのじゃ、その後の一日の心持ちがぜんぜん違うでしょ?」
 そう言いながら、シグナルはことこと温められていた牛乳を鉄杓で掬い、二人分の白いマグへとそれを注ぎ込む。心がほぐれるような甘いにおいがふわりと舞い、目の前に差し出されたマグカップをそれにつられるようにして受け取った。
「あっ、それも熱いから気を付けてね」
「はい、ありがとうございます。頂きます」
「はいはぁい、遠慮なくどうぞ」
 バタールに載ったチーズが、ほんの少しだけだが先ほどよりは冷めたところで、いいにおいと輝く黄色に堪えきれずにがぶりとパンにかじりついた。
「あつ……っ!」
「ほらあ、気持ちは分かるけどね」
 シグナルは自分の様子を見てころころと笑っていたが、しかし予想以上の熱さにこちらはそれどころではない。噛み切ろうとしてもにゅんと伸びるチーズのおかげで、なんだか歯まで熱いようだ。口の中が熱いというよりは痛い。申し訳ないことに、こうなっては味もよく分からなかった。
「悩んでも、迷っても、立ち止まっても、ごはんはちゃんと食べなくちゃね。そうじゃないと、目がよく見えなくなっちゃうから。それに慣れると、自分が何が見たかったのかも見えなくなる。それって、占い師にとっても旅人にとっても、かなぁり致命的だと、わたしは思うし」
 微笑んで、シグナルはホットミルクに口を付ける。こちらはチーズパンを舌の上で幾度か跳ねさせて、それをなんとか飲み込んだ。熱いものが通った後の喉がじりじりしている。
 確かに熱いが、それよりも身体の方が先に動いて、その輝くチーズと香ばしいバタールに何度もかじりつき、そうして許される限り飲み込んだ。少し固めのパンに、とろりとしたチーズが美味しくて止まらない。自分が思うより、自分は腹が減っていたのか。そういえば、薄葉緑の街を出てから何を食べたのかが思い出せない。
「──シグナルは、誰を待っているんです?」
 バタールをすべて平らげ、ホットミルクを半分ほど飲んだところで、ふとそうシグナルに問うた。
 早朝とはいえ夏だ。暖炉の火によって暑くなった小屋に風を入れるために、右側の窓も左側の窓もすべて開け放った彼女は、先ほど自分の分も用意したチーズ載せバタールを片手に食べながら、こちらを振り向く。さらりと吹き抜けていく風の中に、緑のにおいが在った。
「勇気ある者に導きを与えるのが、わたしたち一族の使命なの」
「占いの一族……ですか?」
「平たく言えばね。わたしの導くべきは、闇覆う雲を晴らす者。だから、その者──彼≠待っているのよ」
「シグナルは、その人の過去も見えるんですね」
 こちらの手元に在る本を見つめていたシグナルの、その少し翳った瞳を見てそう問いかける。彼女の纏う上着の、その留め具となっている赤い球が陽の光にちかりと煌めき、両耳や眉間の赤色も同じように朝の輝きを受けていた。シグナルは少し、その光から顔を背ける。
「見える……相手からしたらいい気分じゃあ、ないだろうけど」
「確かに、はじめはそうかもしれません。でも僕は……なんとなく、シグナルの占いによって救われる人もいるんじゃないかなって、そう思います」
「救われる?」
「だって、導くってことは、寄り添うってことでしょう? 寄り添うってことは、たぶん、相手のことを知るってことです。話をするってことじゃないかな。あなたはきっと、相手の過去を見るだけじゃなくて、相手自身のことを見ることができる。それって、救われます。少なくとも僕は」
 上手く言葉にできたのかは分からないが、シグナルがぱちりとその琥珀色を瞬かせた。彼女が驚いたようにこちらへ向ける視線がなんとなく気恥ずかしくて、ぽり、と首の後ろを掻きながら言葉を継ぐ。
「どんなかたちでも自分のことを知っていてくれる人がいるのは、力になるなって思って」
 言いながら、ふと気付く。
 だから、戻りたくもなるのかもしれない、と。だから、立ち止まって振り返るのかもしれない。だから、自分の目はコーデリアを追うのかもしれない、と。これからもきっと、そうかもしれない。けれどこの想いを後悔と呼ぶには、あまりに春と夏の香りがする。
 ──だからこれは、想い出だ。
 名付けるなら、想い出。歩むための、立ち止まるための、振り返るための、迷うための、往くための、自分が自分で在るための、そうして生きていくための、想い出だ。
「──シグナル」
「えっ?」
「僕の過去が、見えますか?」
 訊けば、彼女はその目を更に丸くしたのちに数度瞬く。それから思い出したように、片手に乗せていたバタールの残りを一口に飲み込んで、右手を軽く上げてはこちらの手元に有る分厚い本を指し示した。その人差し指の指輪から揺れている、水晶のペンデュラムがちかりと輝く。
 それに導かれるようにして、本に触れ、ゆっくりとその表紙を開いた。
「見えるよ。マイロウド≠ュんの過去はね」
 その言葉を聴きながら、頁を捲る。
 白紙、白紙、更に白紙が続く本の頁に、しかし根気強く頁の続きを追い続けていれば、或る地点でびっしりと文字の書かれた頁が突如として現れる。
「……それより前はだめ。だってそれは、きみ≠フことじゃないんだもの」
 本の文章に目線を走らせる。よく見れば、その筆跡は自分のもので、そこに書かれているのは自分がいつも付けている手記の内容そのままの写しだった。
 書かれている高台での生活に、まだそう遠くはない日々だというのに懐かしさがこみ上げてきて、少しだけ笑みを洩らす。シグナルも少しばかり笑んだようだった。
「きみは、印象に残ったこと──想い出をくまなく言葉にするから。まだまだ見習いの占い師としては、助かっちゃうたちのお客さん」
 なるほど、確かにこれを読まれると考えると、かなり恥ずかしい部分はあるかもしれない。もうすっかりぬるくなったホットミルクを誤魔化すように喉に注ぎ込んで、指を滑らせて頁を巻き戻した。
 そうして戻った白紙の頁には、持ち上げて陽に当てても、逆に手のひらで陰をつくってみても、どんな文字や模様も浮かび上がることはなかった。そのまっさらな紙を指先でなぞれば、シグナルが自分の前にしゃがみ込んではこちらの目を見て微笑んだ。
「それはきみのことじゃあないけれど、きみのものだよ。その空白も、きみを──マイロウドくんを形づくるものの一つ」
 その柔らかな笑みと、穏やかながらも揺るがないシグナルの言葉に、つられて笑みながら頷いた。そうしてシグナルに本を差し出せば、彼女は両手でそれを受け取り立ち上がる。
 そんな彼女を見上げながら、ふと心配事を一つ口にした。
「あの、シグナル。それ……読むんだったら、なんとなくで読んでもらってもいいですか……? 流石にちょっと、恥ずかしい気持ちもあるので……」
「えっ」
「え?」
「……い、いやあ……ごめんね、マイロウドくん」
 こちらを見て、シグナルが苦々しいような、申し訳ないような笑みを浮かべる。彼女は少しだけ自身の帽子を触ると、本を抱きかかえて頬を掻いた。
「もうけっこう……じっくり読んじゃった!」
 その言葉に思わず立ち上がれば、勢い余った自分のつま先が空になったマグカップを転がした。それに慌ててもう一度しゃがみ込み、倒れたマグを拾おうとすれば、頭上から優しげな、それでいてどこか悪戯っぽい声が降ってくる。
「──きみはもう、導かれてるんだね」
 顔を上げる。細められた琥珀色が、橙色の睫毛の間できらりと輝いていた。
 立ち上がり、その瞳を真正面から見つめれば、シグナルは浮かべた笑顔を更に深いものにする。
「……マイロウド=H」
「そういうこと!」
「そう、か……」
 小さく笑みを洩らす。参ったな。少しだけかぶりを振って、それから頷いた。
「そう──そうですね」
「おっと、その顔! 迷うのはもうおしまいって感じ?」
「ええ、今日のところは」
 いいね、と笑ったシグナルは、一度本を机に置いて、その両手でこちらの両肩をがっと掴んだ。それから有無を言わさず自分の身体を小屋の入り口の方へと向けると、今度はこちらの背を両手でとん、と押す。
 思わず一歩踏み出して、そうしてシグナルの方を振り返る。彼女はこちらを見やりながら、ぐっと片方の拳を握って笑っていた。
「時に旅には勢いも大事! 占い師が言うんだから間違いないよ」
「あ──」
「わたし、見習いなんだけどね!」
 言いながら、シグナルが机の上の本を再び持ち上げる。
 彼女のペンデュラムがその表紙に触れると、柔らかな虹色を纏う光が舞って、本の様子が少し変わった。赤い革表紙。刺された刺繍は一対の剣の模様に変わり、その色は輝く刀身のような銀色となる。表題は光に包まれてよくは見えなかった。
 自分の視線に気付いたシグナルが、ちらりとこちらを見る。
 それから右手の人差し指を口元に当ててそっと微笑むその姿は、魔法にも近く、また魔法から遠い、どこか太陽と月の間の気配がした。占い師──そうだ、これが占い師の気配なのか。
 シグナルの手のひらの下で揺れる透き色のペンデュラムを目に映し、少しばかり息を零す。それから扉の隣に立て掛けておいた杖を手に取って、彼女に向かいそっと笑いかけた。
「ありがとう、シグナル。ごちそうさまでした」
「いえいえ! ちゃあんと、ごはんは食べてね! それと……」
 本を両腕に抱いて、シグナルは微笑んだ。
「忘れないで。きみが目を開いたところから、きみの世界は始まって、広がっていくってこと。きみの見たいもの。きみの名前──マイロウド=v
 その言葉に強く頷く。それを目に映したシグナルも満足そうに頷き、それから楽しげに扉の方を指し示した。
「じゃあ再出発だね。行ってらっしゃい、マイロウドくん!」
「──はい。行ってきます!」
 そうして踏み出した足は、先ほどよりも軽い。
 緑の大陸最後のコーデリアは、朝の風に吹かれて柔らかく揺れていた。



20180911

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