ブレイヴ


 夜明けが灯りはじめていた。
 高台の足下に在る町をほとんど駆けるように抜けた後、きつく締め付けられるようなのに、それでいて激しく鳴る自身の鼓動を落ち着かせるには、そこから日が暮れるまでに進めるだけの歩が必要だった。
 ただそれでも、コージィが持たせてくれた地図によれば、次の街まではまだ多少距離があるようである。
 道に沿って生える木の一つに預け、少しだけ休めていた身体をゆるりと起こし、立ち上がっては再び歩きはじめた。日は未だ昇っていないが、それでも東の空は段々と白みはじめている。
 別れと旅立ち、その両方によってもたらされた熱がまだ少し頭で燻っていた。きっと今日はもう、此処で眠ることはできないだろう。
 そうして緩やかな下り坂となっている街道を進みながら、つと、平地となったところで足を止めた。
 咲き誇るコーデリアの低木が連なっている茂みの前に、自分の腰ほどの岩がある。それを認めるのと同時に、その上に人が座っているのが目に映ってきた。どうやら男性のようだ。
 夜の星が薄れ、今日の陽も昇っていない空の下、彼の太ももの上できらりと光るものがある。抜き身の長剣。だが、それよりもこちらに鮮烈な印象を与えるのは、彼のもつその燃えるような赤髪だった。
 一歩進む。ざり、と砂を踏む音が静かな辺りに響いた。
 何処か遠く空を見やっていた彼の肩が微かに揺れて、こちらを振り向く。少しだけ驚いた顔をしている彼につられて、再び足を止めた。どちらからともなく数度瞬き、そして、またどちらからともなくくすりと笑った。
「──随分とお早い出発ですね。急ぎですか?」
 風に乗った互いの笑みに導かれるようにして、その人の前まで歩を進める。軽く片手を振って、岩に腰掛けたままそう声をかけてきた彼は、肩で揺れる赤々い髪とは対照的に、優しく掠れるような声色をしていた。そう、その微笑み方と同じくらいに。
「いえ、ほとんど夜通し歩いているんです。少し、眠れなくて」
「ああ、なんだ。それだったら俺とおんなじですよ」
「あなたも眠れなかったんですか?」
「まあ、そうですね、少しだけ」
 言って、彼はくしゃりと笑う。見たところ、目の前の彼は自分とそこまで年の差がないように思えた。
 肩まで伸ばされている炎のような色の髪は、しかし夜明け前の風にさらりと揺れ、胡桃色の瞳は穏やかで優しげである。彼が身に着けている青みがかった胸当てには、その中心に、彼の髪にも似た真っ赤な石が填め込まれていた。ふと、それを囲うように施されている装飾がちかりと輝いた。金の片翼。
 二の腕までを覆う黒いアームカバーや、それと同じ色をした、腹部を守る肌付きから、うっすらと鍛えられた彼の筋肉が見える。おそらくは、腿の上に乗っている長剣を扱うのだろう。
 コージィの元で働き出してから多少は筋力が付いたものだが、あの剣を振るうとなったら、自分は身体がその重さに持っていかれるような気がする。
「もうじき夜明けだな」
 呟いて、彼はふっと微笑んだ。
 そんな相手のどこか大人びた見目と声の感じから、もしかすると彼は自分よりもう少し上の年なのだろうかとも思ったが、こちらを見て笑ったその顔の歪め方には、ほんの少しだけ幼さが滲んでいた。少年と呼ぶべきか、青年と呼ぶべきか。或いは、自分は兄というものを知らないが、年上というよりはたぶん、彼は兄っぽいのかもしれなかった。
 彼は剣の上に乗っていた磨き布でその刀身を一拭きすると、それらを片手に岩から下りて立ち上がる。背丈は自分とほとんど同じくらいだろうか。長剣を背面の腰部に備えている鞘の中に収めた彼は、こちらを真っ直ぐに見つめ、その胡桃色の瞳を少しばかり細めた。
「俺はブレイヴって言います」
 ブレイヴ。口の中だけでそうくり返せば、彼はこちらを見やったまま、ほんの少しだけ首を傾げた。その拍子に、赤色から覗いた左耳だけで飾りが揺れる。
「あなたは? 何処へ往くんです、お名前は?」
「あ……ええと」
 どう答えたらいいのだろう。名前は失くしてしまった。きっともう取り戻すこともないだろうという、そんなどこか確信にも似た思いすら有る。これといって決まった目的地もない。
 心を巡らせるようにゆるりと視線も巡らせれば、ふと、ブレイヴが腰掛けていた岩の隣に咲いているコーデリアの花が目に映った。何処へ往くのか?
 そして、ああ、と想う前に言葉は口から零れていた。
「──マイロウド=v
 そんな自分の言葉を真正面から受け止めたブレイヴは、その顔をぱっと明るくして、人懐っこい笑みのまま一つ頷いた。
「いい名前ですね!」
 ブレイヴの返事に、思わず呼吸を忘れ、辺りの音も消えた。ふっと自分の息が戻ってくると同時に、瞬きをくり返す。緩やかにだが、音も戻ってきたようだ。唐突に動きを止めた自分に、疑問を洩らすブレイヴの息づかいが聞こえてくる。
「どうしたんです?」
「あ……ああ、いえ」
「街まで行くんですか? だったら、途中まで一緒に行かないですか、マイロウドさん」
 マイロウドという言葉は、何処へ往くのか、という問いに対する答えだったはずだ。
 けれども、ブレイヴの口から自分を指す名として発せられるそれは、この手に有る杖が肌に馴染むように、ひどくこの心に馴染んでみせる。まるで、自分の心臓がどのような形をしているのかを言い当てられたかのようだ。
 その響きは咲いたコーデリアのように愛おしく、風に流れる高台の草花のように懐かしく、そして、ほんの少しだけ気恥ずかしくて、こそばゆい。
 自分の口角が目元が、締まりなく緩むのを感じる。たぶん今、自分はひどく情けない顔で笑っているのだろう。これの止め方も、自分には分からないのだから困ったものである。
「──はい。よろしくお願いします、ブレイヴ」
 先の問いかけにそう答えを返せば、彼はその胡桃色の瞳をほんの少しだけ丸くする。しかし、ブレイヴはすぐに嬉しそうな表情になると、ふっと優しげに笑み、それから確かめるように頷いたのだった。
「よろしく、マイロウド」







「大人っぽいから、年上なのかなって思ってたんだ」
 赤い髪が揺れる。
 歩を進めるごとに、彼の腰で長剣の鞘がかしゃりと微かな音を立てていた。その隣を歩きながら、そんな風に言って軽く笑うブレイヴの方を見る。こうしてくしゃりと笑ったときの彼は、どちらかと言うと少年のように見えた。
「僕もそう思いましたよ。大人びて見えたから、もしかすると自分よりもっと年上なのかと」
「でもまさか、あんたが記憶喪失だとは思わなかった。そんな風には見えないからさ。落ち着いてるし……」
「そうですか? でも、僕は記憶を失ってから、もうけっこう経っているので」
「へえ、どれくらい?」
「四か月半は」
 そう告げれば、ブレイヴはそっか、と特に深く追求することもなく微笑んだ。
 ブレイヴには年齢を問われたときに自分の記憶がない旨を伝えたものだが、彼といえば、えっ、と軽い驚きの声を上げたばかりで、さしてこちらの話を怪しむことなくすんなりと信じてくれた。高台ではこうはいかない。少なくとも数日間は訝しげな目で見られていた記憶がある。
 それをブレイヴに問えば、彼は少しだけ子どもっぽく口角を上げた後、その瞳を優しげに細め、
「初対面の人を信じる義理もないけど、疑う義理もないだろ? どっちか選ぶんだったら、こっちの方がいいさ」
 と言って、その重たそうな剣とは対照的に、軽やかな笑い声を上げていた。
 なだらかに続く街道を進む。遠くではこんにちの太陽がもう姿を現していた。
 ブレイヴの身に着ける胸当てと同じ色をした青みの銀の長靴が、確かな強さで地面を踏み締めていく。彼と出会った辺りにはまだ背の高い木々が多く生えていたが、そこを過ぎればコーデリアや野いちごの低木が高木を追いやって数を増し、道を進む自分たちの視界はかなり拓けた。
 それでも、まだ街の姿は遠くおぼろげに見える。昼の直前か、昼過ぎに着ければ上々といったところかもしれない。
「なあ、マイロウド。あんたって、魔法使いだったりする?」
 歩きながら、日の出ではなく何処か遠くの空を見やっていたブレイヴは、ふとこちらに向かってそんな風に問うた。
 魔法使いというものを自分は高台に在った絵本──子どもたちに読めとせがまれた──でしか知り得ていないが、しかし自分はそんなにも魔法使いに似ているだろうか。なんだか少し可笑しい。微かに笑い、ブレイヴに向けてかぶりを振った。
「違いますよ。ただの旅人です。しかも、そうなったのはつい昨日のことだ」
「ええ、ほんとう? なんか正体を隠してるわけでもなく?」
「ぜんぜん、なんにも」
「なんだ、そっか」
 ブレイヴが語るには、魔法使いというのは自然の力を意のまま操る者たちのことであり、そして、その魔法使いの中にもまた様々な種類がいるのだという。たとえば或る者は風を操って、その風によって傷を癒やすが、しかしまた或る者は髪を炎のように逆立て、辺り一面をその火によって焼き払ったりするのだと。そういえば、絵本に描かれていたのは前者の方だった記憶がある。
 彼ら──魔法使いは、神官や巡礼者、隠者などに扮してひっそりと生活していることが多いために、どうすればそういった力を得ることができるのか、また扱うことができるのかはこの長い歴史の中でずっと霧に覆われたままだが、それでもそういった力を操る者たちは数は少なくとも確かに実在するらしく、しかし、此処──緑の大陸ではまだそういった者の噂を聞いたことがないな、と、どこかほっとしたようにブレイヴは呟いていた。
 ただ、魔法使いたちも代償なくその力を用いているわけではなく、彼らは魔法の力を得る前に自分の中に有るものを一つ、この世界へと捧げるのだという。
 一つ捧げれば、一つ得られる。その力の対価は大きい。しかし、それが魔導の理なのだと。
「たとえば、速さだ」
「速さ?」
「ああ。たぶんそれがいちばん多い」
 彼はこちらを見て頷いた。日の出に吹く風が、少しばかり熱を宿してブレイヴの赤い髪を揺らしている。
「たぶん、見たら分かるよ。あいつら、──彼らの多くは、ゆったり動くんだ。話し方も、笑い方も、歩くのも、……こっちを振り返るのも」
 言いながら、ブレイヴは少しだけ何処か遠くを見たようだった。軽くかぶりを振って、彼は再びこちらへ視線を戻す。
「それに、ゆっくりなのは何も、身体を動かす速度だけじゃない。心や、命の速さだって遅いんだ」
 そうして彼は少しだけ歩みの速度を上げた。そんなブレイヴに合わせて自分の歩も速めながら、前を見据える彼をちらと見やる。彼のもつその胡桃色が、今、ちりちり焦げてゆくような光を宿していたかもしれない。
「こんな風には歩けないよ。こんな風には話せない。俺たちのようには年をとれないし、怪我の痛みだってその瞬間にはほとんど感じれないだろう」
 彼は速度を緩め、自身の心臓の辺りに軽く触れた。
「……いつになったら、痛みを感じるんだろうな」
 困ったように微笑み、しかし視線はこちらへは向けずにそう呟いたブレイヴの横顔が、まばゆい陽の光に照らされていた。その眩しさに彼は目を細め、額に片手を当てては彼方の太陽を見やる。
 自分もつられてそちらへ視線を向ければ、遠くに見える街の更にずっと向こう、地平線の果てが赤々い朝焼けに染まっていた。天上に在る青い夜がその光に当てられては紫へ、また桃へと移ろう。
 ふとブレイヴの方を見る。すると、彼もこちらを振り向いた。彼の赤い髪が一瞬、朝焼けの光に溶けたように映った。
「僕は、魔法使いの方がよかった?」
「……いいや、あんたはいい人だからさ、魔法が使えなくてよかったよ」
「ブレイヴは……魔法使いが嫌いなんですか?」
「その力の使い方によるよ。いろんなことがそうだ」
 両手の指先を組み合わせて、ぐっと伸びをしながら彼は笑った。
 こちらを向いているブレイヴの赤毛が風を含んで、さらりと背後に流れている。そのたびに彼の心臓側で揺れている橙色の耳飾りが、朝の色に照らされてちかちかと光を反射していた。
 彼は再び空へと視線を向けると、まるで太陽すらも越えた遙か遠くを眺めやるように、その穏やかな茶の瞳を細め、それからこちらの目へと自身の視線を戻す。
「マイロウド。あんたはなんで旅をしてるんだ?」
 ブレイヴの歩が止まる。水袋の口を開きながら、ふとそう問うた彼の瞳が、しかし真っ直ぐにこちらを見つめ、逸らされることはない。ブレイヴの瞳に少しだけ乞うような色が浮かんだような気がしたが、瞬きの合間、それは朝陽の光に塗り潰されてしまった。
 そんな彼の胡桃色を見つめ返しながら、自分は少しだけ唸って、問いの答えを内側で手探る。
「今はまだ、はっきりとは分からないんです。ただ……強いて言うなら、たぶん、僕は僕になりたい」
「僕は、僕に?」
「はい。だから──なんのために、と言われたら、それは自分になるための旅……かなって」
 探りさぐりそう返せば、ブレイヴはその瞳をぱちりと瞬かせ、自分になるため、とこちらの拙い答えをほとんど口の中だけで呟いた。
 そうして彼はこちらを見つめたまま、しかし少しだけ視線をこちらの瞳を過ぎるように遠くへ伸ばす。緩やかに息を吐き出すのと同時に、彼はそっと目を細めた。
「ははっ、──いいなあ、それは」
 そう発した彼の笑みに違和感を覚えたのは、どこかそれが自嘲的だったからだ。彼の赤い睫毛が微かに伏せられ、ほんの少しだけ震える。そんな睫毛の隙間から、胡桃色に混じって様々な感情の色が浮き沈みして見えたのは、果たして自分の気のせいだったろうか。
「じゃあ俺も、それを志望理由に入れようかな」
「志望理由?」
「ああ。俺、士官になりたくて。それで、ずっと遠くの国を目指してる」
 言いながら頭の後ろで両手を組み合わせて、ブレイヴは再び歩を拾いはじめた。
 付かず離れずその隣を歩きながら、ブレイヴを挟んで向こう側に咲いているコーデリアを見やる。花びらや葉で朝露が光を反射して、きらきらと輝いていた。そして、唐突に自覚する。自分はブレイヴに対して、彼はよく空を眺めるな、と感じていたが、しかしそれは自分だって同じだろう。コーデリアが咲いていれば、視線を持っていかれる。きっとそれは、そこにたいせつな想い出が在るからだ。
 今日が昇る方角に在る街を目指して進みながら、視線をブレイヴに戻す。欠伸を噛み殺しながら歩く彼は、それでも背筋をしゃんと伸ばしていた。
「……ブレイヴは、どうして士官を?」
「うん? ああ……」
 ふとそう問えば、ブレイヴは先ほどの自分のように少しだけ唸った後、そっと胡桃色の目を細める。
「復讐のため、かな」
 それは、音のない微笑み。
 彼の瞳から色と呼ぶべきか光と呼ぶべきか、何かがするりと静かになるのと引き替えに、その髪の毛が更に燃え立つ赤に染まったように見えた。まばゆい朝焼けに照らされる彼の右半身が、金のような白の輪郭を保ち、対してその反対側、心臓の在る方には色濃く影が落ちている。ただ、それでも左耳に揺れる橙色の耳飾りはちかりと輝き、彼の睫毛を照らしていた。
「復讐?」
 その言葉があまりにも自然に彼の口から紡がれたものだから、思わずおうむ返しをしてブレイヴの目を見つめた。そうすれば彼もまたこちらの瞳をじっと見つめ──それは長く感じたが、おそらく数度瞬くの間ほどの時間だったのだろう──ふは、と吹き出すようにして笑った。
「──うそうそ! そうだったらドラマチックだけどね。お金のためだよ」
 からりとそう言ってのけたブレイヴは、その顔に悪戯っぽい表情を浮かべて、明るく笑い声を上げる。そんな彼につられて微笑み、なんとなく自分の頬を掻けば、冗談があんまり通じないたちだろ、と脇腹を軽く小突かれた。
 ふっと息を吐いて、ブレイヴがまた遠くの空を見やった。その横顔には、輝くこんにちの陽光は映っていない。目の前に在る道よりもずっと先を見るような彼の視線に、ふと、問いかけたくなって口を開く。
「ブレイヴは、何処まで往くんですか?」
「ああ、それなら、──ほら」
 分厚い革手袋をした彼の片手が、その視線の向かう先を指し示した。
「いつも雲の色が変なところだよ」
 言われて、彼の手が伸びた方へと目線を向ける。
 ブレイヴが示したのは、日が昇る方角と沈む方角、そのちょうど真ん中辺りに位置する空だ。ただ、どれだけ目を凝らしてみても、空の色は朝に染まりつつある夜のそれだった。
 ブレイヴの言う、変な色とは一体どのような色のことだろう。もしかすると、彼と自分では色に対する認識が少しばかり違っているのかもしれない。それとも、彼はものすごく目が良いのだろうか。
 微かに首を傾げながらブレイヴの方を見れば、それだけで彼はこちらの視界を察したように、一瞬だけ胡桃色を驚愕の形に見開き、それからまた一瞬だけ、ほんの少しばかり傷付いたような表情をした。そうしてかぶりを振った彼はひらりと片手を振って、こちらを見ながら穏やかに微笑む。
「……今日は、見えにくいかな。ただ──それでも、俺にとっては往かきゃならないところなんだ、どうしても」
 それからしばらく、互いに言葉はなかった。ただ緩やかに歩を拾い、柔らかに流れる風の中を速くもなく、また遅くもない速度で進んでいく。
 そんな穏やかな静けさの中でふと思うのは、彼が夜明け前に発していた、あまり眠れなかったという言葉。そして、何か強い想いを込めて遠い空を見つめるそのまなざしと、心臓側の耳元で揺れる橙色の飾りだった。それはまるで──そうだ、それはまるで、この自分と……
「ブレイヴ」
 そう名を呼べば、彼は赤い髪を揺らしてこちらを振り向き、小首を傾げた。耳飾りが光を反射している。それを目に映しては、自分の左耳でも揺れている太陽の飾りに指先で触れた。
「──誰かと、別れたんですか?」
「えっ?」
「いえ、すみません。……なんとなく、そんな気がして」
 自分で発しておきながら少し困って、ブレイヴに向かって緩くかぶりを振った。そんな自分を見やったブレイヴは洩らすように息を吐き、それからくしゃりと笑んで小さく呟く。
「そう……なのかもな」
 それは、ほんとうに小さな声だった。けれども、こちらの耳に微か届く程度の声は、この心にゆっくりと広がる波紋を残してゆく。別れ。ブレイヴもまた、自分と同じようにたいせつな誰かに見送られて旅立ったのだろうか。けれども、それに対する彼の微笑みは、あまりにも切なげなものに見える。
 だが、そのようにして心に広がる模様がすべて描き切らない内に、自分たちの足は目の前の分かれ道へと辿り着いてしまった。
 右と左に分かれゆく道の中心に、こちらの背丈よりも少し低い、木の看板が立っている。それによると、右に進めば自分の目指している街、左に進めば連なる山岳へと続く登山口へ向かうことができるらしい。
 自分のつま先を右へと向けたとき、当然のように同じ方へ向くだろうと思われたブレイヴの足がついと左を向いたのが視界の端に映り込んで、驚きに思わず短く声を上げる。こちらの声を拾ったブレイヴが、少しだけ困ったような、呆れたような笑みを浮かべながら、ぽり、と自分の赤い頭を掻いていた。
「だってさ、途中までって言っただろ? 俺、こっちなんだ」
「そう……なんですね。それだと、ちょっと寂しくなるな」
「だからって追いかけてはこないでくれよ。あんた、いいやつなんだから」
 その意味が分からず視線だけで問いかければ、ブレイヴは小さく笑って、こちらの肩を軽く叩いた。
「俺はこれから険しい山を登るの! 危ないから、来るなってことだよ。せっかくできた友だちだ。会いたくなったら、俺から会いに行くからさ。きっと、また」
 そうして、じゃあ、とだけ言ってひらりと片手を振った彼は、くるりとこちらに背を向けて分かれ道の左を選び、陽の光を浴びながら去っていく。赤色が揺れて、橙色の耳飾りが煌めいた。青みの銀色をした胸当てが朝陽を吸い込み、白い輪郭を纏う。背中側の腰に帯びた剣の柄が彼の歩みに合わせて微かに揺れ、まるで呼吸をしているかのようだった。
 少しだけ、寂しそうに笑う人だ。そんな彼の髪が背が、また身体が、まるで朝焼けの色に溶け消えるかのように思えて、気が付けばその背中に思いきり声を投げかけていた。
「ブレイヴ!」
「……マイロウド?」
 振り返ったブレイヴがこちらに向かって、あんた、けっこう大きい声出るんだな、とからかうように笑っていた。その姿になんとなくほっとしながら、こちらはこちらで言葉を発するために息を吸い込む。
「ブレイヴ。──何処まで、往きたいですか?」
 面白そうに笑っていた彼の目が大きく開かれて、表情が少しだけ静けさを纏ったのが見えた。
 彼との距離はもう大分空いてしまったが、それでも目は合う。どこか切なげに微笑んでいたブレイヴがこちらの目を見た瞬間、しかし何かはっとしたような色をその瞳に宿しては、少しだけ泣き出しそうな顔で──彼は、自身の心臓を指し示した。
 そうして再び歩き出したブレイヴが振り返ることはもうなかったが、朝焼けが彼を呑み込もうとすることも、そこから先はないように思えた。旅を続けていれば、また会うこともできるだろうか。彼の歩む先にも、自分が歩む先にも、未だコーデリアの花は咲き誇っている。
 心臓の上に片手を置く。マイロウド。勇気の名をもつ彼が、こちらの名として呼びかけたこの言葉が、また一つ内側に火を灯すようだった。己の往き先を示す言葉は、今、自分を表す名ともなった。
 そうか。
 ──そうだ。
 きっと、この旅の往き先は──他ならぬ、この自分自身なのだろう。
 光を受けるコーデリアを目に映し、輝く今日の空を見上げる。そうして地面に杖を突いて、自分も再び歩を運びはじめた。



20180804

- ナノ -