雷鳴


 遠雷が鳴っている。
 荒い息づかいが、夜の中で赤く染まった指先を動かし、地面の土を掻いた。耳の中に鼓動が聞こえる。もう片方の手の上には、何か淡く光る、拳ほどの大きさをした橙色の球体が乗っていた。雷が鳴っている。鼓動もまだゆっくりと鳴っていた。遠い。遠い。何もかもが遠い。動くのは目、指先、そして、かろうじて唇だった。しかし、そこから発された声が音になっていたかどうかは分からない。もう、何もかもが分からない。背から流れ出ている血は、この髪すらも赤黒く染め、夜の中へと沈めてしまった。何色だったろう、この髪は? 血は未だ止め処なく溢れているが、匂うそれに反して傷の痛みは薄れていく。ただ、すべてが遠くなるばかり。雷が鳴っている。雨は降っていない。月は、星は出ているだろうか。空を見上げることすらもできない。目の前が暗いのは、夜の闇のせいか、それとも? 光が淡く手のひらを照らしている。星月の光ではない。手にしている球体が発している光だった。耳の中で鳴っていた鼓動が更に遠くなっていく。この闇の深さも、まるで眠ってしまえと言わんばかりだった。落ちかけた瞼が、遠雷の音に開かれる。凍えるような寒さを唐突に感じて、歯ががちがちと鳴った。寒い。寒い。寒い。何もかもが遠く、何もかもが凍っていくようだ。唇を噛んだ。土に爪を立てていた片手をなんとか動かし、おぼろげな熱を送って寄越す球体を両手できつく掴んだ。もう、これがなんなのかも思い出せない。どうしてこんなことになった? いや、おれはこうなりたかったのか? 死のにおいがする。何処から香ってくるのだろう。此処には、自分以外に誰もいない。死の淵の前では、すべてが空に、無になる前では、自分に纏わり付くしがらみは、なんの力ももつことがなかった。そうだ、自分はこうなりたかったのだ。このしがらみから逃れて、自由に。ああ、自由だ。確かに今、おれは自由だ。自由。自由、自由、自由。自由? こんなものが、自由か? ああ、なんて日だ。自由などない。これは自由などではない。おれがおれで在る限り、自由など。人影の中で生きたおれに、自分の影はなかった。闇夜ばかりだ。光る球体を見る。そこから淡く放たれる光に、黒い影が地面に浮かんでいた。自分の手のひらの影だ。今、影が生まれた。影を与えたのだから、光だって与えられてもいいだろう、ひとつくらいは。ねがいを口にしたっていいだろう、一度くらいは。唇を開こうとする。乾ききったそれは張り付いていた。無理やりに広げる。皮が切れたようだった。あ。発した一音はほとんど声になっていなかった。それでも言葉を口にする。手にしている光が温かい。ああ……ああ、そうだ。こんな、こんなおれなど、くれてやる。そう、くれてやる。すべて、すべて、くれてやる。だから、そう、だから……

 ──生かせ。

 雷の音が大きく響いた。
 はっとして目を開き、思い切り身を起こす。驚きにばくばくと鳴る心臓に、息が荒くなるのが分かる。同時に、自分の中から何かがするりと抜け落ちていくのを感じた。それが何かも分からない。
 ほとんど力を込めず右手を握り、また開いてみる。そうしてみて初めて、今視界に映っている手が自分のものなのだということが分かった。
「目が覚めたのね」
 ふと、隣から聞こえてきた声に、ぼんやりとしている頭をゆっくりと向けた。柔らかな声だった。
「随分うなされていたわ。悪い夢を見たの?」
「……夢……? いいえ、何も見てない……と、思います。自分は、眠っていたんですか」
 そう返事をしたのは、おそらく自分だろう。思ったよりも淡々とした声が発せるものだった。
 今、自分の目に映っているのは誰なのだろう? 柔らかな金と深い緑。自分の視界に映るものは何もかもがおぼろげで、空っぽのようだった。何も分からない。分かるのは、身体が動くことと目が見え、耳が聞こえること。それから呼吸ができることと、心臓が確かに脈打っていることだった。
「此処……は……?」
 心に浮かんだ──どうやら心も有るらしい──問いを目の前の人に向ければ、その人はこちらの額を軽く押す。柔らかな綿のような感触が頭を包み、目には木の天井が映った。そこでようやく、自分が寝台の上にいるらしいことを悟る。
 つと、雷の音が近くで響いた。その轟音に思わず肩が揺れる。
「だいじょうぶよ」
 目の前の人は、どこか安心させるかのような口調でそう言った。自分はそちらへと視線を送ることしかできない。自分は今、雷を怖がったのか、それともただ単に驚いただけなのか、それすらもよく判別できなかった。
 しかし、少なくとも今自分がいるのが何者かの家で、身を横たえているのが寝台の上だということが分かると、靄がかかっていたような視界も多少は拓けて見えた。おぼろげな輪郭を保ちながら、こちらへと声をかけてきているこの人のことをもっとよく見ようと、ただじっと視線を注ぐ。
 何処からか、その人へと光が差し出されていた。
 窓からだろうか。雷のものではない、もっと優しい光だった。朝焼けの色か、夕暮れの色。その色に照らされたその人の輪郭が、淡く光を纏って輝いて見える。蜂蜜色の髪が微かに揺れ、深い森のような丸い瞳がこちらを見ていた。
 ──誰なのだろう。あなたは誰だ?
 そう訊いてみたいのに、何故だか今は言葉が出なかった。代わりに自分の右手を、緑の瞳に向かって伸ばした。その手を何か、柔らかなものが包む。それが何かを知った瞬間、思わず口から息が洩れた。手。ああ、人の両手だ。
 何処かで雷が鳴る。
 一瞬だけ、視界が鮮明になった。目の前の人の顔を見上げる。
「もう少し休みなさい。手を握っていてあげるから」
 そしてそう微笑んだのは、一人の少女だった。
 まだ、言葉が出ない。いいや、もう、言葉が出ないのか。
 少女の手のひらから、自分の手のひらへと送られてくる緩やかな熱に、だんだんと瞼が重くなるのが分かった。温かい。そのぬくもりに、できれば微笑みたかった。
 けれども、自分の顔を上手く動かすことができない。ほんとうにこれは自分の身体なのだろうか。身体すら、自分の思うようにできないとは。そもそも、自分がどんな顔をしているのかも分からないのだ。襲ってくる眠気に、視界が滲んだ。
 右手に与えられるぬくもりが続いていく。ただそれだけのことなのに、それは、きっとなんでもないことなのに、心臓の少し下辺りが、締め付けられるようにぎゅうと痛んだ。
 手を握られることが嬉しかったのかもしれない。或いは、哀しかったのかもしれなかった。分からないことではなく、知らないということが、ひどく。
 そう、自分はこれ≠知らない。こんな温かさを、自分は知らなかった。
 誰なのだろう。
 あなたは誰だ?
 誰。
 自分は誰だ?
 違う。
 意識をこの手から離す直前、耳の中に自分の声が響いて、今この場で、たった一つ確かなことをこちらへと告げた。
 自分は誰だ。なんだ。何処から来たんだ?
 違う。そうじゃない。
 自分は誰か≠ネんかじゃあない。
 ──誰でもない。
 もう、誰でもない……







 目を開ける。
 微かな物音がした。
 ゆっくりと身を起こし、首だけを動かして辺りを見回す。自分がいるのは未だ寝台の上のようだった。斜め後ろに窓が在る。部屋の中はほとんど真っ暗だったが、白い光が淡く硝子窓から差し込んでいた。夜。それもおそらく深夜だった。
「……なんだ、起きたの」
 低く落とされた声が響いて、ぼうっとしたまま顔をその方へ向ける。
 夜のひんやりとした空気が肌に伝い、ほんとうに少しずつだが頭が起き出してくるのを感じた。だが、それでも、まるで何も掴めない。掴もうとしたところには何もないのだ。そう、何もない。
 毛布から出した手のひらが冷たい。その冷たさで、今声をかけてきたのが、自分が眠る前、手を握っていてくれた少女ということが分かった。月明かりばかりの部屋の中で、彼女の輪郭はどこまでもおぼろげだったが、それでも。
 ──自分は、虚ろだった。
 けれども、虚ろだと思う心は有るらしい。少女の冷たい声色にも、闇の中で鋭く光った目にも、何者かの鞄の前で片膝を突いているその様子にも、床に散乱しているその鞄の中身らしき物たちにも、特に驚きも焦りも、疑問も覚えなかった。ただ自分の目がぼんやりと、そのすべてを見つめているばかりだった。
 少女は右腕は後ろに回して、左手の上に乗っている半透明の球体を、ぽんと軽く宙に投げ、手元を見ないまま、それをまた左手に受け止める。月明かりだけではよく分からないが、目を凝らしてみれば、手のひらほどの大きさのそれは、どうやら橙色に薄く色付いて見える。
 少女の手に有る球体自体が光っているわけでもないのに、何故だろう、そこから熱を感じた。橙色をしているからだろうか。そういえば、手を握られる前、彼女には光が当たっていた。朝か夕暮れの、暖かな橙……
 つと、彼女が立ち上がり、やはり右腕は後ろに回したまま、左手には球体を、視線はこちらを向く。どこか無表情に閉じられた唇から、言葉はない。ただ、彼女の冷えた視線がこちらの目の上を滑り、またその下も滑っていくばかりだった。
 まるで値踏みをするかのような様子でこちらを眺めていた少女は、もう一度宙へと球体を放り投げる。先ほどより高く投げ上げたようだった。それがまた彼女の手に収まる。同時に舌打ちが聞こえた。
「──亡命中の貴族か何かかと思ったんだが……おれのとんだ見当違いだったぜ」
 暖かな日差しを受け、柔らかな笑みを浮かべていた少女は今、月明かりに冷たく照らされていた。彼女はつまらなそうな表情で、しかしどこか皮肉な笑みをその唇に浮かべると、深い緑をしている瞳に怪しげな光を宿し、まるで三日月のようにそれを細める。
「ろくなもんを持ってやしねえ。鞄の中には何も書いてない羊皮紙が何枚かと、インク壺、鵞ペン。食糧はなし、水入れは空。あんた、一体どうやって此処まで来たんだよ?」
 そう言い放って、彼女は床に転がっている革水筒を軽く靴先で蹴ると、軽く溜め息を吐く。
「着てた服は上等もんだが、生憎血まみれ。さしずめ貴族の従者か何かってとこか、ん? あんた、綺麗な顔してるもんなあ。それで、ま、知らなくてもいいことまで知っちまったのか? 背中をざっくりやられてたぜ。あれでよく生きてたよな、いつの間にか傷も塞がってるみてえだし……」
 その口元に微かな笑みを描きながら、彼女は左手の球体を窓から差し込む光にかざし、深い紺色をした闇の中でそれを矯めつ眇めつ、ほとんど興味もなさそうに片手で回した。
 その透くような橙色を通った月の白が、彼女の顔を照らしている。その光が彼女の瞳に入り込み、冷ややかだったそれを、更に鋭くした。刃交じりの緑色が、すっとこちらへ向けられる。どうやら嗤ったようだった。
「……ああ、もしかして──従者じゃなくて、マホウツカイ=H なるほどな。じゃああんた、その指先で、おれの心臓を止められたりするのかなあ? あーあ……」
 彼女は、距離を取った位置からこちらを覗き込むような仕草でそう問うと、どこかわざとらしく肩をすくめ、その背を壁へと預けた。そうして彼女はすっと息を吸い込むと、その唇をにっと歪めてみせる。
「──なら大変だ。がきども!」
 彼女がそう声を上げると、視界の中で影が幾つも横切った。
 床下から、天井裏から、窓掛けの影から、衣装箪笥の中から、壁の綴織の裏から、果ては自分が今、身を起こしている寝台の下から、小さな影たちが跳ね出てきて、自分の上に勢いよく飛び乗った。そのまま乱暴に寝台に沈められる。両耳の横で幾つもの声が鳴り響いていた。まるで、小さな雷がたくさん鳴っているかのようだった。
 自分の上に加えられる重みたちに、微かに身を動かせば、両腕と両脚を力強く押さえ付けられる。幾つもの手の感触。顔を動かせばその顔すらも押さえ付けられそうだと、なんとなくそう思いながら、目だけを動かして自分の周りをぐるりと見た。
「わるく思わないでよね、にいちゃん」
「そぉそぉ、運がわるかったんだよ。このセカイにはしらなくていーこと≠ェいっぱいあるってだけ」
「いのちがおしけりゃ金だしなってねえ」
「でもこいつ、はずれなんだろ?」
「はずれぇ。っていうかおまえ何? 誰? どっから来たんだよ?」
 見えるのは子どもの顔。聞こえるのは子どもの声。感じるのは子どもの手。
 ──子ども。
 自分を今、こうして押さえ付けているのは、しかしまだ年端もいかない幾人もの子どもたちだった。
 目を瞬く。できれば擦りたかった。けれども、どれだけ見つめてみてもその姿たちは一つ足りとて揺らがない。見間違いではないらしかった。
 子どもたちの様々な形をしている瞳が、しかしどれも爛々と輝いている。こういう目をしている者たちのことを狩人と呼ぶのだろうか、それとも悪党と言うのか。そのどちらも自分は知らない。子どもがどれほど小さく、どれだけ突飛なのかも、まるで今初めて知ったかのようだった。自分にもきっと、彼らと同じような姿をしていた時期があったはずだというのに。
 おそらく、自分はそのどれもに驚いたのだろう。自分に己の心を伝えるための自分が、自分の中にもう一人いるかのようだ。それほどまでに今、自分には何もなかった。だって、何を言えばいいのかすらも分からないのだ。唇からは息しか洩れない。
「さあ、どうだ。心臓が射抜けるか?」
 その声が響くのと同時に、寝台が軋む音がした。
 そっと視線を上げる。見えたのは天井ではなく、かの少女の顔だった。それを自覚すると共に、ひゅっと白い光が閃く。瞬間、首元に微かな痛みを感じた。気が付けば、彼女の右手に握られた短剣の切っ先が、こちらの喉元に突き付けられていた。
「ま、おれは神も魔法も信じないがな。あんたには在るかもしれないが、おれには──おれたちにはない。神も、魔法も」
 どこか憎々しげにそう吐き捨てて、彼女はこちらの目の前に左手の球体を差し出した。
「あんたが後生大事に握ってたこれ、値打ちがあるもんかと思ったが……馬鹿らしいな、ただの硝子玉だ。明日の夕飯にもなりゃしない。あんた、魔法が使えるなら、こいつを宝石に変えてみろよ。そうしたら、おれだって多少は魔法を信じてやってもいい。あんたの命を取っといてやる程度には」
 言うと、しかし彼女は鼻で嗤い、左手の硝子玉を床へと放り投げる。けれどもその透き色の橙を惜しんだのか、一人の子どもが床の上に落ちる直前にそれを受け止め、胸の辺りでぎゅっと握り締めていた。
 そんな幼い子どもに、彼女は少しだけ冷えたような、或いは悲しむような一瞥をくれると、すぐに視線を戻してこちらを見る。
「──で、あんたはなんなんだ? 名前は? なんのために、何処から来た? あんた、誰なんだ?」
 そう問う彼女の目や唇、その表情は皮肉な笑みに歪められていたが、しかし笑ってはいなかった。瞳の緑が、無表情に燃えている。
 今、彼女の顔は月の光にではなく、手にしている刃の光によって照らされていた。けれどもその姿に、眠りに落ちる直前に見た、橙色の光を浴びる彼女の姿が重なる。蜂蜜色の髪に、深い緑の瞳。どちらも彼女のものに変わりはない。光の中で見た彼女にも、今、夜の中で見ている彼女にも、それは在った。
 ──ああ、やはり、彼女だった。
 そういえば、恐れもない。ふと、唇を開く。今になってやっと、言葉の発し方を思い出したような気がした。
「……雷は……」
「あ?」
「──雷は、止みましたか」
「はあ?」
 しかし、自分の喉の奥から出てきたものは、そんな可笑しな言葉だけだった。未だ短剣を片手に突き付けている彼女は、隠すこともなく変な表情をすると、苛立ったように短く舌を打つ。
「……止んだよ。よかったな」
「それより前は、ありません。忘れてしまったんです。思い出せない。雷の音が聞こえて、目を開けたらあなたがいた。自分には、それだけです」
「妙な口説き文句だな。あんたの故郷ではそうするのか?」
「それも思い出せません。自分が何処から来て、何処へ往こうとしていたのか……故郷のこと、家族のこと、いたのかは分かりませんが、友人のことも……たぶん、自分に関わることは何も──自分の名前すら」
 訝しげにこちらを見下ろす彼女に、自分はただ、目の前に在る事実だけを淡々と告げた。嘘はない。おそらく、表情すらなかった。それ≠フやり方を自分は知らない。だからこんなにも冷たい声が出るのだろう。たぶん、本物だ。ほんとうに、本物の空っぽだった。
 自分を見下ろす彼女の緑色を見つめる。それ以外に今、自分にできることはなかった。
 眉をひそめ、唇を引き結んだ彼女の瞳の中で、様々な感情が入り混じった色が、忙しなく浮かび上がったり沈んでいったりをくり返している。先に目を逸らしたのは彼女の方だった。
 ふと、目まぐるしく移り変わる彼女の瞳が少し羨ましくて、右手を少し動かしてみる。思っていたよりもあっさりと、子どもたちの手は腕から離れていった。
「あの……自分は、逃げませんよ。だから……」
 言いながら、いつかと同じように、彼女の瞳へと手を伸ばした。
 しかし、そんな自分の手に視線を向けた彼女の瞳が、濃紺の闇に浮かんでいるのが目に映ると、その夜の深さを思い出して、ゆっくりと手を下ろす。彼女の緑に向けて伸ばした手は、ほとんど無意識に彼女の右手へと向かい、短剣を握り続けるその手のひらを、どうやら自分はそっと包んだようだった。
「もう、眠りましょう。雷だって止んだ。今日はこんなに、静かな夜です。……休んで、ください」
 剣を下ろしてくれと、そう告げるはずだった唇からは、何故だろう、こんな言葉を紡ぐことしかできなかった。
 彼女が制止するよりも早く、子どもたちの手のひらが自分の上からばらばらと離れていく。それでも自分が微動だにしないことを見やると、彼女は軽く唸って、怒りと呆れが混じったような舌打ちをし、そうして疲れきった溜め息を吐いた。
 それからこちらの手を振り払うように、短剣を喉元から離すと、音も立てずに寝台から飛び下りて、しかし剣は当てつけるような音を立たせて鞘に仕舞う。
「興が冷めた。どのみちあんたは無一文、はずれだ。何もしねえよ、あんたがほんとに、今日生まれたてのがきだって言うならな」
 疲れた、おれはもう寝る、と呟いてこちらに背を向けた彼女に思わず、手を伸ばす代わりに声をかけた。
「名前……教えてくれませんか。僕はあなたにあげられるもの、なんにも持ってないですけど……」
「そりゃ、でかい貸しになるな」
 頷いた。
 窓から淡く、白い光が差し込んでいる。夜だ。それは、彼女の声ばかりが響く、ほんとうに静かな夜だった。
「コージィ」
 ──そしてこれが、自分にとって、初めての出会いとなったのだった。



20180210

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