マイロウド


 いつか遠のいた春のにおいが、いつの間にかこんなに近くで咲いていた。
 今日の日にちは正確には思い出せない。ただ、けもの歌の月の何日か、ということは間違いないはずだった。自分の日付の感覚はもうずっと朧なままで、ほとんど毎日付けていた手記でさえ、ここ数か月間、ペンを持つことすらなかったように思える。
 羊皮紙が切れたわけではない。また、インクがなくなったわけでも。何も書かれていない紙束はずっしりと荷袋に収まっている上、インクなどは相も変わらず嵩の減らない様子で、硝子瓶の中で揺らめいている。ただ、自分は、走っていただけだ。とにかく、走っていただけだった。それ以上でも、それ以下でもない。東の海は遥か遠く、今や目に映るのは、鮮やかな香りを放つコーデリアの蕾ばかりだった。
 朗らかな春の陽気を纏う風が、ぬるい熱を保って肌を撫でる。上がった息と火照る身体に決して心地好いとは言えないその温度に、けれど冷たい風を欲しないのは、ずっと春を捕まえたかったからかもしれなかった。この町の春を。心臓の位置に在る、この町の。
 ほとんど吐くだけの呼吸で町を走り抜け、郊外へ向かう。思えば、自分はこの町の中を走り抜けてばかりで、ろくに見物もしたことがなかったな。おおよそ一年前、高台から旅立ったときだって、自分の胸中はこのように形容しがたいものでいっぱいで、夜明け前まで走り続けたのだから。今日と同じように。いや、今日の方がもっと酷いかもしれない。目指す場所がただ一つ、揺るぎなく決まっているために。
 そうして走り続けた先、目の前に現れた階段を駆け上る。怖じ気付いてしまいそうだから、極力上は見ないで歩を進めた。だというのに、階段の半分まで辿り着いた自分の片足は自分にしか見えない何かに引っ掛かり、つんのめってはその場に縫い止められる。疲労以外のもので息が苦しかった。
 転びかけた身体を立て直して、急いた呼吸を整えようとする。それから背後を振り返り、眼下の町を見下ろしながら、ゆっくりと息を吐いた。
 刻花の町。今の今までこの町の名前さえ知らなかったのだから、自分自身で呆れてしまう。東の港町から飛び出して数か月、ただひたすらこの町を目指して引き返してきたというのにもかかわらず、だ。遊覧船のチケットを買ったためにほとんど尽きた路銀を細々とした食糧に変え、当たり前だが馬車に乗ることもできないから、自分の記憶と足だけを頼りに此処まで走ってきた。時折、気の良い商隊の荷台に乗せてもらったり、天幕に泊めてもらったりをくり返しながら、ずっと。この、地図に記されないほど小さな町まで。
 風が自分の背を叩き、こちらよりも早く階段を上っていく。後ろを振り返っていた視線を前に戻して、杖を握り締めながら一段、歩を進めた。滑り止めがすっかり擦り切れた靴が石造りの階段と擦れて、ざり、と鳴る。空気を含んで揺れる髪が重たい。そうしてもう一段上って、吹く風が示す方角へと視線を向けた。
 開かれた門の隣に木製の看板が立っている。そこには焦げ茶色の文字で、何かの名前が書かれていた。勢いに任せて、階段を上りきる。けれど近付いてみたとて、看板に記された文字は正しく読み取ることはできなかった。文字はおそらく経年によって劣化し、そのほとんどが掠れてしまっている。これは、ずっと此処に在ったものなのだろうが、自分は知らず知らず、訊くことを避けていたのかもしれない。目の前の看板に記されている文字はきっと、この場所の名前だったから。
 息を止める。耳を澄ませると、門を越えた遠くから、幼い笑い声が聴こえてきた。それを耳にした途端、どっと心拍が速くなるのと同時に、存外、誰の笑い声なのかが未だに分かるものなのだな、ともう一人の自分がやけに冷静に呟いたような気さえして、己がいかに緊張しているのかが自分自身で手に取るほどによく分かった。
 息を吸う。春を眺め初夏を待つコーデリアの香りに混じって、野草のにおいが胸を満たした。息を吐く。ようやく此処まで辿り着いたというのに、いざこうして目の前にしてみたら中々決心が付かないのだから、自分という人間はほとほと面倒なつくりをしているものだと、幾度目かの自覚をする。握り締めている両手に汗が滲む。力を緩めたところから、杖を取り落としてしまいそうだった。呼吸をする。呼吸をする。心臓がうるさい。いま一歩が踏み出せない。
 けれど。
 けれど、そうだ、行かなくては。行きたいのだから、行かなくちゃ。旅立つ前、彼女にかけられた言葉を想い出す。それは今ではもう自分を示す言葉と化しているが、それでも不思議な言葉だと、ふと思った。突き放すようで、みんなゆるしてしまうような言葉。思えばそれは、彼女の得意技だった気がする。自分にとって、きっと、子どもたちにとっても、彼女の言葉は優しかった。
 なら。
 なら、それなら、いいか。自分の旅が、他の人々からすれば無価値で、意味のないものに見えたとしても、彼女がゆるしてくれるのなら。行ったり来たりの優柔不断で、迷ってばかりの順路でも、彼女が呆れてくれるのなら。帰り道で花が香る意味がやっと分かったこと、彼女が怒ってくれるのなら。
 吹けば飛ぶような手記の頁が、出会った人々の顔や声や表情が、言葉が、過去よりも未来を選んでしまった自分の心が、そんな背を押してくれた人たちの笑顔が、そのためにきっと傷付けてしまった或る人の笑顔が、旅の記憶そのすべてが、嵐が来ても決して飛んでいかないことをただ希ってふらふらと帰ってきた、どうしようもない自分の歩みを、彼女がゆるしてくれるのなら。それなら。
 顔を上げる。歩を進める。それから、門を通り抜けた。そうして思わず止めていた息をするため、少しだけ肩の力を抜こうとしたとき、しかしふと足元で、
「え」
 ぶち、という音が鳴り響き、視界が斜めになる。
 これから何が起こるのかを悟った頭が、目を通して身体が傾いていくさまをゆっくりと見せてくれたが、為すすべもない自分は眼前の地面に向かって無様に頭から倒れ込んだ。或いは、すっ転んだ、と言う方が正しいかもしれない。思いきり擦った額がひりひりと痛んだが、唐突に鳴り響いた異様な物音に子どもたちの数人がこちらに気が付いたであろうその気配が、上ってくる気恥ずかしさのために居たたまれなく感じた。
 全身を地面に突っ伏したまま、情けなさに溜め息を吐く。こちらに駆けてくる何人分かの小さな足音が聞こえた。それを聞きながら、つと、彼女らは自分のことを覚えているだろうか、という思考が、稲妻のように瞼の裏を走った。
 そんなこと、今まで考えたこともなかった。だけど、そうじゃあないか。有り得ないことではない。だって、現に自分は、昨日のことをすっかり忘れてしまったために僕≠ノなったのだから。目を瞑ったまま瞬いた。だとしたら、どうしよう? 彼女たちが、自分のことをもう忘れてしまっていたら? 足音がすぐそこで止まる。子どもたちが、何かひそひそと話す声が聞こえる。恐ろしくて、顔が上げられなかった。だって、知らなかったのだ。忘れるのが怖いのは当たり前。けれど、忘れられるのがこんなに怖いなんて、知らなかった。港町でのやり取りが全身で蘇る。耳が痛くなって、目頭が熱くなった。自分は、彼の身をこの存在で、言葉で裂いたのだ。頬が冷たい。地面も冷たかった。彼女たちが自分のことを忘れていたら。もし、そうだとしたら。そうだとしたら、自分は笑って去ろう。彼がそうしてみせたみたいに、誰も傷付けないよう、微笑んで。
「おうい……」
 いつまで立っても身動きをしないこちらを不信に思ったのだろう、子どもの一人から不安げに声をかけられる。つやつやと輝いて跳ねる木の実に、柔らかさを内包しているまだ幼さの残る声。紛れもなく、間違いなく、ラフの声だった。閉じていた目を、更にぎゅっと瞑る。先ほどとは別の理由で──なんて表現すればいいのか分からない──目の奥が痛くなったからだった。おうい、とまた呼ばれる。そっと肩に手を置かれた感触がした。
 もう、これ以上はいけない。いい加減に、覚悟を決めなくては。
「あっ、起きた」
 しかし、とてもそうとは呼べない思いを抱えたまま顔を上げれば、自分の方を覗き込んでそう呟いたラフのまあるい瞳と目が合う。それは、太陽の光を受けて輝く、あのどんぐりまなこだった。その瞳がほっと緊張を緩め、まだまだ幼さの残る口元から、ふうっと溜め息が洩れる。そんな懐かしい目の光と輪郭に、胸の奥が痛みのないものでとくとくと鳴り、片目から熱いものが零れた心地がした。
「よかった、生きてたあ。だいじょう……って、ええ? な、なんで泣いてんだよお……」
「え……あ……ラ、ラフ、その、僕……」
「そんなに痛かったのかよお。もう、ほら、しょうがないなあ、イソウロウは」
 しょうがないという言葉とは裏腹に、困り顔でおろおろといった表情を浮かべるラフが、自身が着ているシャツの裾でこちらの目元をごしごしと拭った。自分の周りに集まってきていた他の数人の子どもたちが、地面に落ちてしまった荷袋や、服に付いた土を払ってくれているのが視界の端に映る。木の杖も、そこに飾られている硝子玉も無事だった。
 瞼を閉じる。ラフの服から、この高台での生活のにおいがした。喉の奥が鳴る。立ち上がれすらできていないのに、すべてを見たような気がした。彼らがみんな、あの旅立ちの日から昨日までを生き、そして今日も、こうして此処に在るのだということを。
「な……なんでまた泣くんだよ? やめろよお。おれがいじめてるみたいじゃんか……」
「僕の……」
「え?」
「僕のこと、憶えてるんだ……」
「ええ?」
 ほとんど無意識に近い思いでそう呟けば、ラフの丸い瞳が更に丸みを帯びて、困惑した光がその表面に浮かび上がった。そうして少年は小首を傾げると、こちらの涙を拭うことを止めないままで、
「そんなの、当たり前じゃん」
 と、言った。
 それはほんとうに、なんでもないことのように呟いたのだった。むしろ、少しだけ唇を尖らせていたから、疑いにも似たこちらの言葉に、彼は多少気を悪くしたのかもしれなかった。そして自分はあろうことか、そんな少年の様子を見て、涙と一緒に熱いものが喉元まで上ってくるのを自覚した。焦りや後悔ではない。ただ、安堵と呼ぶには少しばかりあたたかすぎるものだった。
「おうい、なに笑ってんだよお。泣いたり笑ったりいそがしいやつだなあ、イソウロウは。せっかく心配してやってるのにさあ……」
 ラフに頬を軽く抓まれる。そのちり、とした痛みに小さく笑って、地面からようやく身を起こした。
 少し風が吹いている。周りの子どもたちが、呼吸をする音が聞こえる。背の低い草花が、辺りでさらさらと揺れる。草のにおい。花のにおい。緑は春の色を身に宿し、空の色はこちらを圧倒するほどの青ではなかった。
 なんだかやっと、目を開けたみたいだった。草原の中心には、一人で暮らすには大きく、たくさんの子どもたちと暮らすにはちょっとばかり狭い家が建っている。大きくて、狭い家。物干し竿にぎゅうぎゅう詰めに干された、幾つもの洗濯物たち。野菜を育てる畑と、それを耕すための鍬。初めてできた血豆の痛いこと。眩しい日差し。飲み忘れた水。冷たく濡らされた手拭いは、花の刺繍が施されていた。飲み干したグラスの水。鏡に映った子どもみたいな笑顔の自分。夕暮れに吹く寂しい風と、温かい胡桃粥。飛び立つ鳥。春林檎の種。コーデリア。ディリィの花。息を吸う。喉の奥で変な音が鳴ったから、何度も瞬きをした。
 それでも、自分は未だ地べたに座り込み、両手に杖を握り締めたままでその場を動けない。そうしてしばらくの間、ラフにごしごしと目元を拭われ、子どもたちの一人のファインがこちらを泣き止ませようと頭を撫でたり、肩を叩いたりするのをされるがままになっていれば、遠くの方からぱたぱたと小刻みな足音が聞こえてきた。
「あっ、いたいた! おにいちゃ──ん! ほらっ、コージィ、おにいちゃんだよ! ぜえったい、ほんもののおにいちゃん!」
 その声に、はっとする。思わず声のした方角へと顔を向けると、この一年で随分身長の伸びたチャクルが、けれどまだ少し舌っ足らずな声を上げ、ぶんぶんとこちらに向かって手を振っていた。
「チャクル……」
「ああっ、おにいちゃん、だいじょうぶ? 痛くない? けっこう派手にころんじゃってたよね」
 葉擦れよりもずっと頼りない自分の呟きは、目の前で立ち止まったチャクルの明るい声に上書きされる。一年前には両腕いっぱいに一つの籠を抱えていた少女は、こんにちでは籠の上へ更に籠を一つ重ね、それでも特に身体の釣り合いを崩すことなく、そこに積まれている芽どき胡桃は地に転がり落ちることさえなかった。自分が器用だな、と思っている間にチャクルはその籠をみんな地面に置いてしまうと、上着の隠しから手拭いを取り出し、それを宙でぱんと広げる。それから、ラフが腰から下げていた水袋を、まだ飲んでないでしょ、と半ば強引にもぎ取り、抗議の声を上げたラフそっちのけでその中身を手拭いにばしゃばしゃと浴びせかけた。
「ほうら、おにいちゃん、痛いの痛いの飛んでいけ! あ、ここ擦りむいてるねえ。でも、もう安心だよ。いま、手当してあげるからね」
 コージィが! にっこりとそう笑って言ったチャクルの後ろから、ばたばたとざくざくの間くらいの音で土と草を踏む足音が聞こえてくる。チャクルに濡れた手拭いで顔を拭かれながらそちらの方を見やれば、片腕に春林檎の籠、そしてもう片方の手には木製の箱と何故か毛布を抱えて、焦ったような青ざめたような顔をして駆け寄ってきていた。
 ぱち、と瞬きをする。それから、葉の緑によく似たあの瞳と目が合った。はく、と口を動かしたが、上手く言葉が出てこない。彼女はそんなこちらの姿を見ると、ぎゅ、と眉間に皺を寄せ、何も言わなかった。そのさますら少し懐かしかったが、それにしてもいの一番に眉根を寄せられるほど気に障ることを、自分はしでかしてしまったのだろうか? なんとなく不安に思っていれば、コージィは地を這うほどに低い溜め息を吐いた後、ゆっくりとその視線をチャクルの方へと向けてみせた。
「……チャクル」
「なあに?」
「聞いてた話より、随分軽傷のご様子じゃねえか」
「うそ、コージィ! けいしょう、に見えるの、これが? どう見ても、じゅうしょう、でしょ!」
 どっと疲れた様子のコージィに、チャクルがどこか芝居がかった口調でこちらの肩をとんとんと叩いた。重傷か軽傷かと言われると、軽傷であることは明白なので首を傾げる。それより、土と少量の血が付いてしまったチャクルの手拭いの方がよっぽど重傷な気がした。だというのにチャクルはひどく機嫌よさげにひらりと手拭いを振ると、じゃあ後はよろしくね、と誰に向けてなのかいまいち分からない言葉を発し、颯爽と家の方へ向かって走り出してしまった。
 自分のすぐ隣で、おれの水! とラフが叫ぶのと同時に、コージィの視線がじと、とこちらを見る。口からは出てこなかったが、呆れがそのまなざしから洩れ出していた。彼女は手にしていた毛布をぽいとこちらに放って、木箱も地面にどさりと置いてしまう。白い十字架模様が書かれたそれは、よく見ると救急箱のようだった。
「あんた……やっぱり、ぶっ倒れるのが趣味なんだな」
「す、すみません……」
「ストラップが限界だったんだろ。階段で切れなかっただけましだな。つか、これ……もう靴としてどうなんだ? いい加減、新しいのを買えよ」
 ぶっきらぼうに聞こえる声色でそう発すると、コージィは留め革の外れてしまった片方のサンダルを摘まみ上げてゆらゆらと揺らした。揺れと共に、サンダルの底がぱかぱかと鳴った。
「だ、だって……」
「だって?」
「だって、コージィたちに貰ったものですよ」
 横で、ラフが嬉しそうにぱしぱしとこちらの背中を叩いた。見上げれば、コージィが林檎の籠を抱えたまま、はあ、と溜め息を吐いている。サンダルを指差して、直してやれよ、コージィと言うラフに対して、彼女はこんなもの直せるわけないだろうといったまなざしを向けた。コージィが直してくれるって、と楽しげに発するラフに、再び彼女の眉間に皺が寄るのが見なくても分かった。
 目まぐるしく、忙しなく、眼前の状況が変化する。それは季節のためでも、自分の足が別の場所へと向かうためでもない。子どもたちの足音、喋る声、叫ぶ声、笑う声、少し乱暴な行動、奔放で自由な彼ら彼女らのためだった。旅の中では触れることのできない自由のかたち。少しばかり窮屈で、その上で果てしのない小さな雷鳴たち。言うなれば、振り回されている! それはきっと、コージィでさえも。
「……坊ちゃん。知らないのかもしれないが、靴ってのは消耗品なんだよ。あんた、人から貰った土産をずうっと取っとくたちだろ」
「あっ、ぽい! でもイソウロウ、食べものは早めに食べないとくさるんだぞ」
「いや、貰った食べ物は食べるよ。ずっと金欠でしたから……」
「ちえ。かくし持ってるのがあったら食べてやったのになあ」
 そう言って、ぷく、と分かり易く頬を膨らませたラフに笑いを洩らせば、頭上でコージィがやれやれとかぶりを振った。
「……お行儀のよろしいこった」
「お行儀がよろしいのは、だめですか?」
「べつに……」
 問えば、彼女は興味なさげに顔を背けた。緩やかに吹く風が、コージィの持つ春林檎の香りまで連れてくる。緑のエプロンが規則的に揺れるのと合わせて、彼女の蜂蜜色が穏やかに揺れ動いていた。わざわざ太陽の方角を見やったコージィは、自身の目を眩しさに細める。それから、ちかり、と眩むほどではない光。そして、その正体に気が付いたとき、自分は思わずくすりとした。
「コージィも、お行儀がいいですね」
「あ?」
「それ」
 自分の言葉に、こちらを向いたコージィの首元を片手で指し示す。そこにはいつか彼女に手渡した、太陽の耳飾りが在った。正しくは、それを首飾りに作りかえたものが。そういえば、彼女は耳に穴を空けないと言っていたな、とあの旅立ちの日を想い出した。
「着けててくれたんですね、ありがとう」
「たっ……今日は、たまたまだっての。気に入ってるやつが壊れたから」
「たまたまでも、ありがとうございます」
 そう言えば、コージィは口元を真一文字に引き結んで、刻まれ続ける眉間の皺を更に深いものにする。自分の周りで、子どもたちが何かを言うために息を吸う気配がしたが、それよりも早く彼女は手持ちの春林檎を子どもたちへとぽいぽい放り、それ一つで彼らの口を塞いだらしかった。林檎をしゃくしゃくやる音と、喉元に残る甘い香り。子どもたちはコージィの掟に従って、口に物が入っている間は驚くほど静かだった。
「それで……なんだ。あんたは、春になると帰ってくるツバメか何かなのか?」
 林檎を丸かじりする音ばかりを耳にしながら、コージィは腰に片手を当て、皮肉っぽく首を傾げてそう問うた。ツバメ。この高台の家にも、ツバメの巣は在るのだろうか? 自分はそれを見たことはなかったが、ぶつくさ文句を言いながらも、結局巣を取り壊さない彼女の姿を想像するのは容易かった。
「コージィは、ツバメが嫌いですか?」
「そうだな。あんたのせいで嫌いになりそうだよ」
「はは。でも僕、ツバメじゃないですよ」
「あっそう……」
 彼女は溜め息混じりに呟いて、視線を子どもたちの方へと移す。彼らは粛々と本日の臨時おやつを頬張り、こちらがツバメであるのか人であるのかなどという話題には、きっと微塵も興味を示さないだろう。
「ねえ、コージィ」
 呼びかければ、彼女の目はこちらへ向く。問いかけのかたちをしたまなざしが、首を傾げていた。
「──表の看板って、なんて書いてあるんです?」
「……は? テラーだけど。テラーの高台」
「テラー……それって、どういう意味ですか?」
「意味も何も、おれの家名だけど。コージィ・テラー。言わなかったか?」
 そこでなんだか、初めて呼吸ができた気がした。吹いている風が、ほんとうの意味で空気として自分の胸を満たすのを感じた。分からないから決定できなかったわけではなく、決定したくないからわざと曖昧なままにしていた自分の心臓の形が、今、突然に明確な輪郭をもって鼓動を打ちはじめた気さえする。そんなもの、はじめから分かっていたというのに。春雷が鳴り、名を問うたあの瞬間から、ずっと。
「あはは、そっかあ……テラーの高台。そっか、そうなんだ……」
「……そうだけど。なんだよ、その顔は? まさか、そんなことを訊くために帰ってきたわけじゃないだろ」
「そうですよ」
「はあ?」
「コージィ。あなたのことが知りたいから、僕は帰ってきたんです」
 それから口を突いたのは、飾り立てする余裕もないくらい、率直でありのままの言葉だった。
 すると、コージィはぴし、と音を立ててその動きを止める。緑の瞳を子どものようにまんまるに見開いた彼女の眉間からは、ほとんど常である皺がすっかり取り払われ、先ほどまで白けていた頬には夏の農作業後ほどの赤みが差していた。と、いうより、小刻みに震えているので、雷を落とす前の表情に似ている。心なしか、髪の毛も逆立っているふうに見えた。あ、なんだか物凄く怒られるような気がするな、と思うのと一緒に、けれど自分は彼女のこういう顔をずっと見たかったのかもしれない、と呑気に感じていれば、突如として額に何かが勢い良くぶつかった。ちょうど擦りむいたところに当たったから、痛みに多少呻く。
「──それでも食ってろ! おれは消毒液を取ってくる!」
「えっ! あ、はい……? 救急箱、此処にありますけど……」
「がきどもは仕事に戻れよ、いいな!」
 それだけ叫ぶと、彼女は足を踏み鳴らして家の方へと帰っていった。
 そのさまをぼうっと眺めていたら、隣のラフから脇腹をこつんと小突かれる。いつの間にか林檎を丸々一個平らげ終わっていた少年は、何か訳知り顔でにんまりと笑いながらこくこくと頷き、地面に落ちていた春林檎を拾い上げた。どうやら、自分の額に直撃したのは今ラフの胃の中に収まっているのと同じものだったらしい。それを彼の手から受け取ってしゃく、とかじり付く。不思議なことに、空腹を感じなかった。







「……コージィ、身長縮みました?」
「馬鹿にしてんのか? あのな坊ちゃん、あんたが伸びたんだよ……」
「いてっ」
 容赦のない消毒液の濁流と、止め処が無い薬品のにおいに思わず声を上げる。これでもかというほど消毒液を染み込ませた綿布で額をべちべちやられながら、コージィの方を見れば、彼女は未だ機嫌悪げに唇をへの字に曲げていた。
 そうか、自分は背が伸びたのか。言われてみれば、子どもたちもみんな伸びていた。きっと、目の前のコージィも。それと同じように、幹を背にしているこの木も、身長が伸びただろうか? 見上げると、枝葉の隙間から陽光がちかりと差して眩しかった。まるで、その間の不在を責め立てられているみたいで、なんだか少しくすりとする。
「……それにしても、よくこんなサンダルで旅ができたよな。歩きにくいし、痛かったろ」
「あはは……まさか、僕が音を上げて帰ってくるとでも?」
 片手に綿布を持ったまま頬杖をつくコージィにそう返せば、彼女は一瞬息を止めた後、眉根を思いきり寄せては、靴擦れを幾度も起こしたこちらの足に向かって、消毒液を無慈悲にばしゃりと浴びせかけた。
「いっ、痛いですって、コージィ!」
「我慢しろ。これしきで男がぎゃあぎゃあ喚くな」
「ええ……? う、……」
 言われた通りに口を噤み、少しだけ唇を噛んだ。コージィは消毒もしたことのなかった足の傷跡に、よく化膿しなかったな、だとか、痛覚まで忘れちまったわけじゃないだろうな、だとか、様々な言葉を投げかけると、ちら、とこちらの方を見て眉間に皺を寄せたままその眉尻を微かに下げ、は、と溜め息を吐くふうに笑った。
「……冗談だよ」
「え?」
「べつに喚いてもいい。痛いんだったら」
 あんた、がきと一緒だしな。仕方なさげにコージィはそう呟いて、清潔な手拭いでこちらの足先の消毒液を拭った。それからそこに平織りの綿布を置くと、真っ白な包帯で足の指をぐるぐる巻きにした。なんだか大げさな気もしたが、長期間歩く予定もないから、ほとんど無意識に鼻歌交じりで片足をぶらりとさせる。
「……コージィ」
「なんだよ」
「じつはね。僕、魔法使いなんですよ」
 喉から上って、鼻先から外へと出ていく歌の代わりに、唇はそんな秘密の言葉を紡いだ。それを耳にした彼女はどんな顔をするだろう? その想像よりも早く、コージィは片眉をつい、と吊り上げて、目を細めては喉の奥でくつりと笑った。
「へえ? ま、だと思ったけど。それなら、硝子玉を宝石に変える魔法は覚えてきたかな?」
「ううん……魔法は、使えないんです」
「はあ?」
 コージィが、まなざしだけでがく、と滑る。半分は子どもの戯れ言を聞き、もう半分は悪戯の計画を練る顔をしていた彼女は、こちらの言葉を受けて本日何度目かの長い息を吐き、手にしていた救急道具を木箱に仕舞いながら、やれやれと言うふうに肩をすくめた。
「……知ってるか、坊ちゃん? そういうのを人はな、ただの人間って言うんだぜ」
 ただの人間。彼女の口から発せられるそれは、なんだか、とても好い響きに聞こえた。木陰の下で、コージィの深緑の瞳が、差し込む光にぴかぴかと輝いている。ただの人間。彼女らしい、素敵でどうしようもない言葉。分け隔てのない、おそろいの言葉だった。
「……うん、そうですね」
「何が言いたいんだよ、あんたは……」
 その言葉に少しばかり息が詰まる。とくとく、と耳の中で自分の心音が聞こえた。コージィの目が、不意にこちらを見ていた。彼女の目の中には、呆れと疲労の上澄みが、そしてその奥には、やはり何もかもゆるしてしまうような、彼女特有の不思議な光が宿っている。
「コージィ。僕、たくさんの人に出会いました。いろんな人がいた。様々な表情を見て、たくさんの言葉も聞きました。いろんなことを考えた。考えたけど、伝える相手がいなかったから、最終的な相談相手はいつも紙だったよ。口だけじゃあ、まだ、ほら、上手く言えないし……」
 心臓からやってくる言葉が、頭を介さずに、そのまま口から滑り出ていく。そのために不格好な輪郭を保つ自分の話をそれでも聞こうと、コージィは頬杖をつくのを止め、こちらの目をじっと見た。きれいな目だった。きれいな。
「僕はいつも、出会った人のことを考えているような気がしていたけど、だけど実際考えていたのは自分のことばかりだった。でも、自分のことを考えると……」
「考えると?」
「──いつも、あなたの顔が浮かんだ」
 言いたいこと。何が言いたいのだろう。言いたいのだろう。何もかも。
 彼女は怒らなかった。林檎の代わりに、消毒液を投げ付けることもできたのに、彼女は黙ったまま、何も言わずにこちらを見ていた。
「けどね、コージィ。僕、忘れてしまったんだ、あなたのこと。いつだったかな……でも、旅立ってからそう長くはなかったと思う。急に想い出せなくなったんです、あなたの声が。あなたの言っていた言葉は分かるのに、声だけがしなくなった」
 今、目の前にすれば、こんなに簡単に想い出せるというのに。一息で話すにはとても息が足りなくて、微かに頭上を見やる。たぶん、コージィは見なかった。
「……どんなにたいせつにしていても、紙に記しても、それでも人は忘れてしまうってそこで初めて知ったんです。コージィ、あなたはきっと知っていたんだね」
 言えば、彼女はほんの少しだけ眉を下げて、そうしなければいけないのだ、というふうに眉間に皺を寄せた。その喉から、掠れた笑い声が洩れる。ひらりと手を振る動作は、普段より位置が低かった。
「は、……べっぴんさんに出会いすぎて、忘れちまっただけだろ。それか、あんたの記憶力が最悪か。だって、おれは……」
「おれは?」
「……おれは、憶えてたよ。あんた、そう簡単に忘れられるたちの人間じゃないしな」
「ほんと?」
「嘘に決まってんだろ。今日の今日まで、すっかり忘れてたね」
 それだけ発すると、コージィは瞬き一つでいつも通りの表情に戻った。皮肉っぽく口角を上げる彼女をぼうっと眺めて、気付かれない程度に笑む。宛先も宛名も書かなかった白紙の手紙は、彼女の元には届かなかっただろう。けれど、もしかしたら、おそらく、きっと、果樹園の春林檎の木は一年前より一本増えているかもしれない。
「騙される方が悪い?」
「そうさ。よくお勉強してるな」
「じゃあ、騙されてますね。僕が悪いということで」
「おい……あんた、さっきからおれのことをおちょくってんだろ……」
 彼女の乾いた声に、かぶりを振る。自分が誰かを茶化せるほど器用な人間でないことは、たぶんこのテラーの高台に住む者なら全員知っているはずだ。日はまだ暮れない。差し込む陽光が、彼女の輪郭を白く輝かせていた。その首元で光る、太陽の形も。まだ、手を伸ばせなかった。代わりに、自分の心臓に手を置いた。
「ねえ、コージィ。僕の手記を全部あげます」
「や、いらねえなあ……」
「コージィは日記、書きますか?」
「書くように見えるか?」
「なら、僕に言葉をください。上手く言えないけど……僕はあなたを知りたいし、僕のことも知ってほしいんです。……だめ、ですか?」
 言ってしまえば、コージィはほとんど頭を抱えて俯いた。きれいだな、と思う。それと一緒に、これが恋なのだろう、とも思った。美しい横顔の奥にある理由を知っていて尚、それでもきれいだと思うこれが。どんどん酷い人間になっていくこれが、きっと。
 彼女は顔を上げ、不機嫌な赤い顔でこちらを見た。言葉が欲しいと言ったくせ、その表情を見ただけでもう言葉もいらないな、と思うのだから、救いがたい。そして、そんな思いと裏腹に、自分は彼女の言葉を待った。
「……毎日、ぶっ倒れるまで働けよ」
「もちろん。それが趣味ですからね」
「悪趣味だな」
「そんなことないですよ」
「違う。おれの話だよ」
 首を振って言うコージィに、思わず笑い声が洩れた。彼女の言う通り。その通りだった。誰が見たって、そう答えるに決まっている。彼女はこちらを見、それから目を逸らし、先ほど自分がしたように枝葉の隙間から零れる陽光を見た。そして、それはどれほどの時間だっただろう。コージィは思い出したみたいに、ふと視線をこちらへと戻した。
「……おかえり」
「うん、ただいま」
 彼女は小さく笑った。すぐにいつもの表情で上書きされてしまったそれは、なんだか見たことのない笑い方だった。淡く、やさしい、柔らかな笑み。コージィはまるで自覚がないようで、後ろに両手をついてはあっと溜め息を吐いた。不思議なことに、今は世界ですべてが生きているのだ、という気さえした。
「あーあ。ったく、なんで帰ってきちまうかな。せっかく送り出したってのによ」
「あはは、すみません。でも、コージィ。あなたが言ってくれたんですよ」
 そう、あなたが言ったのだ。彼女は小首を傾げてこちらを見た。だから、自分は言った。それ以外には何者にもなれなかった、何者でもない、ただの自分の名前を。
「──マイロウド(往きたいところへ)!」



20201227 了

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