ナイト


 気が付けば、一年が終わろうとしていた。
 星のぞみの月、二十九日。一年をめぐる十二の月の中で一番最後に数えられるこの月は、一年の内で最も星が美しく望める月だと伝えられているらしく、そんな話もあってか、このところ、人々に交じって自分もまた空を見上げる回数が増えたように思う。
 今、頭上に在る、深い青と光の滲んだ薄紫を湛えたそれは、もうじき昇る太陽を迎える支度をしているようだった。町と名は付くが、この国で最もその規模が小さいと言われる此処、夜草の小さな町≠ヘ人通りも少なく、物音も漂う香りも静かなもので、なんだか他の場所よりも時間がゆっくりと流れているように感じられた。
 うっすらと明かりの落ちる石畳の上を歩く。朝の早いパン職人の店ではすでに、その煙突からもくもくと白い煙と柔らかなパンの香りが立ち昇っていた。町に立つ看板をふと見てみれば、地図上では海はもうすぐそこというところまで歩いてきたように思える。あとどれほどだろうか。指で軽く距離を測る。ひと月か、或いは半月くらいかもしれない。
 なんだか息が詰まるような気がして、呼吸をする。それから吐いた空気が白かった。
 杖を握る。それからそこに備えられている、橙色の球体を撫でた。
 今日は町を出よう。今日こそは。あと数日、もう数日と先延ばしにしている内に、夜草の小さな町での滞在がもう一週を越えて八日目を迎えようとしていた。看板の地図から視線を外す。町を出よう。今日の太陽が昇り切ったら。
 また少し歩を進める。小さな町だ、もうほとんどの店や道には入り尽くしたと思うが、それでもやはり自分の足は同じところに止まることを嫌う。何処を目指すわけでなくとも歩みは拾われた。たとえ同じ町に数日留まっていたとしても。こんな夜明け前に目が覚めたときは特にそうだ。少しだけ呼吸が苦しいような、それでいて肺が空気ではない何かで満ちているような、こういった気分のときは特に。
 そうして当て所もなく朝の気配が潜んでいる町を歩いていれば、ふと、まだ入ったことのない小路が目に入る。もうこの町は歩き尽くしたと思っていたが、自分の視力もそう当てになるものでもないようだ。数日前に小路を見付けたとき、入り口に荷台が置かれていたから後でまた来ようと思っていてすっかり忘れていたのを、そういえばと思い出す。ああ。ぼうっとしているのだ、もうずっと。
 この町を出て、歩き続ければ、もうじき海が見えてくるのだろう。
 海へ行く。
 海へ行って、それから。
 それから、何処へ往く?
 いや。
 何処へ往けばいいのだろう、自分は。
 往きたいところへ。そう言ってくれたあの声のかたちが、歩を重ねるたび、日々を見送るたび、少しずつ薄れていく。
 ──自分は、何処へ往きたいのだろう。
 つま先を小路の方へ向け、その中を進んでいけば、まだ眠りに落ちている住居たちの一番奥に、ぽうと小さな明かりが灯る店の看板が見えた。少しだけ紫を帯びている淡い灰色の壁に、紫苑色をした屋根の小さな店。扉の色は深い夜の蝋色だ。随分奥まった場所に在るみたいだが、一体なんの店なのだろう。そんな光が灯る方へと自分はいつもの好奇心のままに近付き、頭上の壁掛け看板を見る。どうやら骨董店のようだった。
 そうして視線を下ろしてみれば、その扉の鈍い金の取っ手に掛かっているプレートには、開店、の文字。それを目にした自分は、やはり好奇心のまま、眼前の扉を開いた。
「──いらっしゃいませ」
 扉に取り付けられた鈴がシャラ、と鳴る音と共に、それよりも更に柔らかな声が漂ってくる。静かな店内でなければ、夜の闇に溶けてしまいそうなほどにやさしい色をしたそれにつられて声のした方へと顔を向ければ、店の奥、レジカウンターらしき場所で、女性が一人こちらを見て微笑んでいた。
「不思議な時間にいらっしゃること。こんばんはとも、おはようございますとも言いがたい。夜更かしさんなのかしら、それとも早起きさん? ふふ……ようこそ、梟の巣へ」
「梟の巣?」
「あら。外の看板をご覧にならなかった? 店名ですの。この店は夜通しやっていますから。夜更かしに梟は欠かせないでしょう。ナイトオウルと、オールナイトですのよ。うふふ……」
 声に導かれるようにして店内を進んでゆけば、彼女はカウンターの向こうで淡く微笑んだまま、その両手を卓の上で組み合わせる。月光に照らされた木の幹さながらの、茶寄りの金髪はうなじの辺りほどの長さで、その瞳はと言えば菫色とも葡萄色とも言いがたい紫色を湛えていた。
「申し遅れました。わたくしはナイトと申します。僭越ながら、こちらで骨董店を営んで……もうどれほどになるかしら。あら、いやだ。その辺りは伏せさせてくださいませね」
「僕はマイロウド、と言います。すみません、変な時間に来てしまって……」
「いいのよ。だって、開店中ですもの」
 首を傾げるようにして、自身をナイトと名乗った彼女は、薄い唇に指先を当ててまた柔く笑んだ。彼女の瞳は、まるでその角度によって色の深さを変えるように感じられる。ナイトがもつ紫色の澄んだ目は夜明け前の空の色にも似て、また、夜が訪れる前の空にも似ていた。果たして今はどちらだろう。彼女はそっと瞬きをした。
「……もしかして、なのだけれど……鏡をお探し?」
 顎の下で人差し指を折り曲げて、ナイトはこちらに向けてそう問うた。鏡。その言葉に心の中で疑問符を浮かべれば、彼女は自分の目を真っ直ぐに、けれども射貫くような鋭さはもたないままに見つめる。その紫色の空に、不思議な光が浮かんでいた。
「いえ、失礼。なんだかそんな気がしたの」
「……何かを探しに来たわけではないんです。こういうのは失礼、かもしれませんね」
「まさか。誰もがそんなものよ」
 ナイトはそう発して、ゆっくりご覧になってね、と薄く笑った。そんな彼女の言葉に甘えて歩を進め、ぐるりと店内を見回す。
 骨董店とはもう少し物が入り乱れるように並べられているものだと勝手に想像していたが、けれどもこの店では、品物はそのほとんどが棚にきちんと収められており、どれもにきちんと品名と価格が記された下げ札がつるされていた。床に置かれているのは、机や椅子などの大きな家具や、画架に載りきらなかった絵画のみである。決して広いとは言えず、どちらかと言えばこじんまりとした店内だったが、それでも粗雑な印象を一切受けない此処は整然と美しく、そしてどこか静かだった。さながら、ナイトの目に浮かぶ空のように。
「……じつのところ、この店をあまり開けることはないの。だから、こうしてお客さんとお話するのもほんとうに久しぶり」
 店内を一周したところで、琴の弦を淡く鳴らすようなナイトの声がそのように響く。人が一人行き来できる程度の、必要最低限の広さしか宛がわれていないこの通路すら、整頓されているから腕をぶつけて何か割ってしまうという心配がないのはいいものだな、と未だ店の内装に関心をしていた自分は、そんな彼女の言葉にぴたりと足を止める。振り返って、カウンター向こうからこちらを見やっているナイトへと小首を傾げた。
「そうなんですか? 綺麗なので、てっきり頻繁にやっているのかと」
「ふふ、ありがとうございます。外に出ていることがほとんどだから、管理は弟に任せきりなところがありますの。お褒めの言葉は、わたくしから彼に伝えておくわ」
「……あっ、そうか。ナイトは普段、仕入れに出ているんですね」
「と、言っていいものか、微妙なところではあるかしらね……」
 ナイトはそう緩くかぶりを振り、膝の上に乗せていた白い膝掛けをケープのように肩から羽織った。そして首元に身に着けている、彼女の瞳によく似た色をしている紫色のリボンに指先で触れると、その結び目の上に設えられたカメオの飾りへと視線を落とす。此処からでは、その装飾にどんな浮き彫りがされているかは見えなかった。ただ、そのカメオの色が深い夜の色に塗れているのだけは分かる。
「──骨董とは、平たく言えば古い時代に使われていた道具たちのことですわ。すなわち、遠い過去に生きた方々の遺品。持ち主不明のね」
「遺品……」
「ええ。けれどね、遺品というものは、この現代でもそこここに溢れているでしょう。人が死ぬということばかりは、どんな時代でも変わることがないですから」
 店内の月光よりもあたたかな色をした灯りが、ナイトの睫毛をそっと照らしている。彼女は呟くように言葉を発して、なぞっていたカメオから指先を離した。
 自分は、なんとはなしに眺めていた品物の前からつま先をナイトの方へと向け、そちらへと歩を拾う。彼女はそんなこちらの様子に気が付いて、少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。もしかすると、買い物の邪魔をしてしまったと思っているのかもしれない。しかし、何かを買う気があるのだろうか、自分は。微妙なところだ。今の自分に何が必要なのか、自分自身ですら分からないのだから。
「……どちらかと言えば旅人なのかもしれませんね、わたくしは。探す方ですの。主を亡くした道具たちの寄る辺を」
 カウンター前までやってきた自分を見て、ナイトは少し思案するような、それでいてやはり淡く微笑むような表情でその目を伏せる。旅人。こちらのまなざしが無意識にそう問うていたのかもしれなかった。彼女はちらと自分の方を見上げ、それからこちらの持つ杖へと視線を移す。その視線につられて自分も片手の中に有る杖を眺めてみた。
 透き橙をした硝子玉が填め込まれている、変わった形に先が湾曲している杖。歩を進めるたびに揺れ動く、コーデリアの葉を模した飾り。歩くことが困難なわけでも、また、そう険しい道を行くわけでも、魔法を使うわけでもない。けれども、ひどく自分の手に馴染む杖だった。手放しがたい。離れがたい。いつもほのかに春のにおいがするこれの感触を確かめるたびに、自分は一体何を想い出しているのだろう。この冬が過ぎればまた、ほんとうに春がやってくるというのに。
 睫毛を上げる。目の前のナイトもまた杖から視線を外して、こちらを見た。彼女は音もなく小さく笑うと、きっと言葉を編むためにそうっと呼吸をしたようだった。
「骨董と呼ばれる時代のものとなると少し難しいのだけれど……わたくしは普段、持ち主が不明の遺品を集めて、それらを出来うる限り、元の持ち主の親族の元へと返す……といったお仕事をしておりますの。多少気味悪がられたり、親族の方々も必ず好い顔をするというわけではないから、物の墓守、なんて呼び名が付いてしまったけれど……それでも、これはわたくしにとって誇りあるお仕事なのですよ」
「物の、墓守? でも、なんだか……どちらかと言えば、ナイトの仕事は送り出すもののような気がします。今聞いただけの、勝手な僕の感想ですけど……」
「ありがとう。そう在りたいものですわ」
 彼女の言葉に少し瞬いて、首を傾げる。そうして率直な意見を発してみれば、ナイトは口元に指を当ててくすりと微笑んだ。それから彼女はカウンターの上に載っている真鍮のトレイへと目を向けると、その中で柔く光っている真珠のネックレスや、宝石をくわえる鳥の形をしたブローチを撫でるように片手で触れた。右手に着けている白い手袋が、壁に灯っている橙の明かりに照って、やさしい色の輪郭を帯びている。そして、そんなナイトのまなざしが今、自分を通り抜けて、店内に並べられている骨董たちへと向けられた。
「出来るなら、足を止めないでほしいの。眠るならば、然るべきところで眠ってほしい。けれど、この思いは完全に、完ぺきに、わたくしのエゴです。そして、その最果てがこの店──わたくしの力だけでは、どうしても帰るところが見付からなかった道具たちの眠るところ。そして、同時に再出発を待つ場所でもある。見る人が見れば、墓場のように見えるでしょうね」
 だからきっと、物の墓守なのね。そうどこか寂しげにも見える表情で目を細めた彼女に、自分はちょっとだけ呼吸をして、杖を握る手にもう少し力を込めた。
 振り返り、背後を見やる。そこには、彼女の語る、過去現在の様々な人が生きた証が並んでいた。そんな彼らは埃など被ることのないようきちんと手入れされており、選ばれたなら、いつでもまた道具としての役割を果たすことができるのだろう。店内の明かりは、何度見てもちっとも冷たくなかった。熱くも。夜明けの火とも、夜更けの火とも違う灯。それは人の灯した、明かりの色だった。
 ナイトの方へと向き直り、少し唸る。そんな自分の方を見上げた彼女に、けれども未だ言葉が纏まらないまま、困ったみたいな笑みが口元から零れてしまったのを感じた。
「なら、なおさら墓守じゃあない気がします。えっと、そうですね……たとえば……」
「たとえば?」
「……騎士、とか」
「騎士?」
 言ってから、ああ、と思う。ああ、そうか。自分には、とても死んでいるようには見えないのだ。此処に在る何もかもが。確かに、眠っているのかもしれなかった。けれども、見えない。そうは思わない。彼らが皆死んでいるとは、とても。
「うん。騎士っていうのはどうですか? 此処はきっと、墓場なんかじゃないですよ。確かに静かなところですけど、野ざらしではなくて、もっとあたたかい……」
「そう……騎士さま、ね。ふふ、もしかして、わたくしの名前に掛けてらっしゃる? わたくし、そういうのが存外好みですの。うふふ……」
「え……名前、ですか?」
「あら、ご存知なかった? 昔の言葉ではね、騎士のことをナイト、と言うのよ」
 知らなかった。ぱち、と瞬いて、かぶりを振る。思わぬ偶然になんとなくこそばゆくなって、首の後ろを痒くもないのに掻いた。そんな自分の様子にナイトはその紫色を細めたまま、何度か口の中だけ呟くようにして、こちらの発した騎士、という言葉をくり返していた。
「騎士……いいわね、それは。墓守よりずっと、夜の明ける香りがする」
 そうして彼女はそのまなざしを店の入り口の方へと向けた。そちらには、扉の両脇を挟むようにして大きいとも、また小さいとも言えない窓が二つ在る。視線をやれば、そのどちらにも掛かっている遮光幕は、月明かりすらも透かしていなかった。窓辺には、おそらく売り物ではない造花が一輪、素朴な意匠の花瓶に飾られている。
「──死者に歩く力がないように、道具にも足はないわ」
 つと響いた、彼女の柔らかくとも震えることはない声に視線を戻せば、今度はその手元からカラ、という音がそっと鳴る。
「けれど、道具に死ぬ必要はありません。だって道具は、人の手によってまた、人の手へと渡っていくことができる。だからわたくしは一時、彼らの足の代わりになりますの。わたくしの足で届かなければ、この店で、次の主との出会いを見付けるまでの寄る辺にもなる」
 言葉を継ぐナイトの右手は再び、真鍮の受け皿に浮かんでいる白いネックレスを撫でていた。けれども、考えるように伏せられた彼女のやさしい金の睫毛は、きっとその視線の下に在る真珠たちを映してはいない。彼女は何か、もっと遠い景色を思い浮かべるような光を自身の紫に浮かべていた。
「……ナイトは、どうしてそこまで道具に寄り添うんですか?」
「もちろん、勝手な理由ですわ。このわたくしにも、探しものがありますの。もう、ずうっと探している……」
 そのように呟く彼女の目が、もうほとんど閉じきっているように見える。眠ってしまったのではないかと思われるほどに静謐な呼吸をくり返すナイトは、しかしその息遣いよりも更にひっそりと自身の睫毛を上げると、
「──愛した人の、遺品ですの」
 そう発して、手袋を着けていない左手の指先で首元のカメオの輪郭を確かめた。呼吸よりも、仕草よりも、いっとう静かな声。まるで月明かりのような彼女のそれに少し息を呑み、しばらくの間、互いに沈黙を守った。 
 だけれど、どうしても、言葉は胃の少し上の辺りから喉元までやってくる。きっと知らず知らずの内に余計なことまで口走っている自分の唇を抑え付けるため、一度だけ深呼吸をした。片手の杖を、ぎゅうと握り締める。何も言わない自分を不思議に思ってか、ナイトの視線がこちらを向いた。彼女の空は相も変わらずどの時間とも表現しがたい紫に染まっていたが、それでもやはり、その空は夜の色を湛えている。息を吸う。それから、少しだけ笑ってみた。きっと、あまり上手くない笑い方だった。
「その──それは、どんなものなんです?」
「あら……どうして?」
「ええと、嫌だったらごめんなさい。でも、僕は見ての通り旅人ですから……もしかしたら、訪れた先でナイトの探しているものに出会うかも、と思って」
「……優しい人。ありがとう」
 囁くように言って、ナイトは笑んだ。静かでやさしい、綺麗な微笑み。それがかえってもの悲しく映ったのは、それでも自分の独り善がりなのだろうか。分からない。自分のことすらろくに分からないのだ。自分の視界がどの心に依っているかなど、分かるはずもなかった。けれど。それでも。
 彼女は溜め息にも似た、しかしそれよりはもう少し淡い息を吐く。そうして今しがたその形を確かめていた首元のカメオを手のひらに乗せると、目を開いて、何か意思を固めたかのようにこちらの瞳をじっと見つめた。
「こちらと同じものですの。浮き彫りまで、わたくしのこれとそっくりそのまま同じもの。ただ、リボンの色だけはこれと違って、赤をしておりますわ。朝焼けみたいな、夕焼けみたいな赤……」
 ナイトのカメオには、少女の肖像が白く彫られていた。
 草花の絡んだ剣を眼前に掲げる、正面を向いた少女の肖像。思わずそれをまじまじと目に映し、そうして、これは一体誰なのだろう、と心の中だけで疑問に思う。ナイトとは顔立ちがまるで異なっているから、きっと彼女ではない。ちら、と窺うようにナイトの方を見やれば、そんな自分のまなざしから問いかけを読み取ったのだろう。彼女は唇の端から洩らすように笑って、カメオの中からこちらを見ている少女の頬に触れた。
「なんてことはないわ。わたくしたちが少女の頃に憧れた、物語の主人公よ」
 言って、彼女はそのカメオから手を離すと、どこか空を見上げるような仕草で視線を少し上へとやった。天井越しに夜空を透かし見るナイトは、まるで今日の月が何処に在るのかが分かっているような瞳をしていた。
「……不思議ね。この話を誰かにしたことはなかったの」
「え……そう、なんですか?」
「意固地になっていたのね。わたくしの心もまた、陽を拒む墓守だったわ。彼女の遺品を見付けるのはわたくし自身がいいと、……いいえ、違う」
 ナイトは微かに目を伏せ、自分の中で何かを纏めるように卓の上で両手を組み合わせる。祈りの姿にも見えるそれを、しかし彼女はすぐにほどくと、次に両手同士を重ね合わせた。手袋を着けていない左手の爪が、右手の布の上に音もなく立つ。それからはっきりと呼吸をした彼女は視線を上げ、自分はその瞳と真っ直ぐ目が合った。
「──遺品が見付かるのが嫌だったのね。彼女の死が、眼前に見えてしまうから。わたくしは彼女の遺品を探し回りながら、けれども内心そんなもの出てこなければいいと、夜なんて明けない方がいいと思っていたんだわ」
 変わらずやさしい声で、けれど断じるようにそう言いきって、ナイトは椅子から立ち上がった。それから彼女は自分の横を通り過ぎていくと、店の入り口の両隣に在る窓の元まで歩いていく。そんなナイトを目で追って、その背中へと言葉を発するために息を吸い込んだ。
「ナイト」
「ええ」
「話してくれて、ありがとう」
「……いいえ。こちらこそ」
 こちらの言葉に、彼女は振り返りながら窓に掛かっている遮光幕を両方とも開け放つ。そうしてみれば、店内の明かりよりもずっとまばゆい光が視界を染め、多少の痛みをもって自分の瞳を刺した。ああ、そうか。
 朝なのか。
 いつの間にか、今日の太陽は昇っていたのだ。ならば、往かなくては。もう往かなくては。何処に? 分からない。なんのために? 分からない。それでも、歩を進めなくては。こんなに激しい光の中を。ナイトの輪郭が、朝日のしたたかな白に塗れて、その瞳などはまるで泣いているかのようにすら映った。彼女の後を追いながら、自分の手のひらを見る。太陽のまなざしの中ではこんな自分の輪郭など、なんだかひどく曖昧なものに思えた。
「鏡……」
 顔を上げる。ぽつりと洩れた呟きが彼女にも届いたのだろう。ナイトはこちらを見やったまま、少しだけ瞬く。窓の向こうからやってくる始まりの光に思わず目を細めながら、片手の杖を自分の心臓に当てて、小さく笑った。
「その。やっぱり、鏡を頂けますか」
「……あら! 旅の供を増やすのね。もちろんいいわ──素敵な意匠の子が一つ、こちらに」
 自分の申し出を聞いたナイトは、嬉しそうな、それでいてどこか安心したようでもある色をその顔に浮かべて頷いた。そうして素早くつま先の角度を変えていそいそと歩を進めると、彼女は陳列棚の引き出しから一つの手鏡を取り出し、眩しさとは別の理由で自身の紫色を細めたようだった。
 外の空気に触れた金色の手鏡が、陽光にちかりと煌めく。象牙の花がその縁取りを立体的に飾っている手鏡の裏面には、少年とも少女ともはっきりしない、幼い容姿の横顔が、一輪のバラにも似た花を見つめている彫り物が施されていた。ナイトの隣でそのさまを目に映していれば、彼女は早くも手鏡との別れの対話を終えたのだろう、こちらを向いて首を傾げるように穏やかに微笑んだ。
「何処までも往けるのよ。何処へかは分からない。でも、この子たちが望むならきっと、何処までも、ね」
 その言葉に、ふと、自分の付けているこの手記と、インク壺、鵞ペンのことを想い出した。彼らもまた、往くのだろうか。この手を離れた後、何処までも。今この手の中に有る、杖もきっとそうだろう。道具は死なない。何処までも往ける。自分が灰になった後、手記を、インクを、ペンを、杖を。目を瞑る。それらを最初に受け取ってほしい人の顔が瞼の裏に浮かんで──浮かんだから、また目を開けた。
「さあ、どうぞ。ご覧になって」
 そう差し出された彼女の手から手鏡を受け取って、それを顔の前に掲げる。
 そして、そこには、あの日──けもの歌の月に、あの高台の草原で目にしたものと同じようで、それでも見た目ばかりは多少成長したように見える青年が一人、はっきりと映し出されていた。長い金髪に、ややつり目がちの青い瞳。その目が迷いも憂いも隠し立てすることができないまま、困ったようにこちらを見ている。陽の光も眩しそうだ。そんな、目の前のなんだか情けなく映る顔に可笑しくなって笑えば、鏡の中の彼もまたあまり上手くない表情で笑った。
「──僕、ですね」
 ナイトの方を見て、肩をすくめてまた笑う。分かっていたことだが、鏡に映るのは、此処にいるのは、紛れもなく自分だった。今までも。これからも。残酷なほどに。
 そして、自分の言葉を聞いて、彼女もまたかぶりを振って笑った。それから頷く。
「ええ、そうよ」
 朝陽を浴びるその横顔がやはり、どこか泣いているように見えた。
 だから、自分は鏡を裏返して、少しだけ息をした。
 今日も。



20200318

- ナノ -