ウィッチ


 白粉を振りまいたような霧が視界を染めている。
 何処をどう歩いてきたのか、振り返れど目に映るのはくらくらするほどの白。かろうじて足下の土が見える程度の狭い視界で、あっちこっちへ向きを変える自分のつま先を眺め、一度立ち止まる。ああ。心の中だけで絞り出すような溜め息を洩らした。次第にどくどくと、どうにも嫌な音を立てはじめた心臓を宥めるために深く息を吸い、それからゆっくりと吐く。知りたくもないのに、冷や汗が背を伝うのを感じた。
 たぶん、おそらく、そろそろ認めるべきなのだろう。
 言葉にすると更に気が滅入るような気がして、あえて頭でも考えないようにしていたが、このままではほんとうに何処へも行けなくなってしまうかもしれない。それは困るし、嫌だ。覚悟を決め、再び水気の含んだ空気を吸い込み、今度はそれを本物の溜め息として外に吐き出した。
「迷った……」
 そうだ──そうなのだ。
 自分は、森の中で迷ってしまった。
 だって、肌寒さを感じて瞼を開けたら、視界一面が真っ白だったのだ。一瞬自分が何処にいるのか分からなくなり、焦っては辺りを歩き回って、そうしてそのままほんとうに、自分が今何処にいるのかが全く分からなくなった。
 そう──この森の中で、どれくらいの時間かは確かではないが、自分は眠っていたのだ。
 陽が傾く直前まで、アンダインと川で泳ぐ練習をし──泳げはしないが、水に浮かぶくらいはできるようになった──それから、ああ、眩しくて、少し暑かったのだ、夕焼けの光が。だから、彼女と別れた後、居心地のいい日陰を求めてもう少し森の深いところまで潜ってみたのだった。そこでは、さわさわと心地好い風と音が鳴っていた。西日に自分の長い影が伸び、濡れた髪から落ちた雫はその中に吸い込まれていく。穏やかな静けさの中で噛み殺した欠伸に、涙が滲んだ。先ほどまで水の中に浸かっていたことと、よく歩き回ったこともあって、身体はちょうどいい怠さを訴えている。
 そうして、背にした木の幹にもう少しだけ身体を預けてみた。
 記憶はこの辺りから段々と薄れたが、それでも柔らかく浮かぶような、或いは沈むような心地好い感覚ばかりが、自分のすべてを支配していったことだけはなんとなく覚えている。目には見えないがひどく抗いがたいその布に全身を包まれながら、しかし意識をそれに委ねる少し手前で、ふと思った。
「そうか、あまり……」
 あまり、自分は眠ってこなかったな、と。
 眠りに落ちる前に浮かんだ言葉を今、口の中で呟いてみれば、その音はすとんと胸の底へと落ちてくる。確かに、眠ってこなかった。高台の草原を離れ、旅に出てから、あまり。
 夜遅くに浅い眠りをくり返し、早くに起き出してはまた歩を進め、ぎりぎりまで意識を手放そうとしないために時折こうしてぱったりと記憶に穴が空いてしまうのだ。何故なのだろう。確か、高台の家にいた頃は、こんな風ではなかったはず。自分は眠るのが、いつの間にか嫌いになってしまったのだろうか。だが、夜の帳にそのまま包まれるようなあの感覚を、自分は未だ心地好いと思うのに。
 ただ、その安らぎに身を任せて、標もない森の中で眠りこけた結果、こうして朝か夜かも分からない深い霧にくるまれてしまっているのだったが。
 どうにかしてこの霧が届かない場所、せめて森の外には抜けたかったが、しかし、こういう場合はあまり動かない方が良いとも、風の噂で聞いたことがある。何処かに腰を下ろして、ゆるゆると流れ動く霧でも眺めているのが賢いだろうか。一歩、足を進める。きっとその内、霧は晴れるだろう。木には困らない森の中だ、背を預けられる木が近くに在るはずである。
 そう思い、もう一歩足を動かした瞬間、足首の辺りに強い引っかかりを感じ、同時に心臓が止まるような浮遊感を覚えた。ちらりと視界の隅に太い木の根が映ったが、しまったと思ったときにはもう何もかもが遅く、片手に杖を握り締めながら目の前に迫る地面に瞼をきつく瞑る。
 もちろんそれで地面との激突を避けられるわけではないから、自分は思いきり土とぶつかった。目を上げれば視界は白く、だからといって下げれば土の茶色しか見えない。唯一の救いは、転んだのが街道の硬い煉瓦道の上ではなく、霧で湿った柔らかい土の上ということだが、口の中に入り込んだそれはお世辞にも美味とは言えなかった。
 足首の痛みと身体への衝撃で、ほとんど放心状態のまま地面に転がっていたが、けれどいつまでもこうしているわけにはいかない。流石に、と立ち上がろうとしたとき、しかし自分の身体に違和感を覚えて眉をひそめた。
「……う」
 動けない。
 それを認めまいと全身に力を込めようとしてみたが、足は一向に上がらず、腕すら動かすことが叶わなかった。立ちこめる霧のように、内側からも白んできた視界を感じ、そういえば、最後に水を飲んだのは、食事を口に運んだのはいつだっただろう、と思う。水でさえ、鏡池の湧き水から後は口にしていない気がする。かろうじて動く指先が、緩く土を掻いた。ああ、前にもこんなことがあったな。ちか、と目の端に雷の幻を見て、ふ、と笑いが洩れる。こんなでは、きっとまた怒られてしまう。
 そう思うと共に、息が詰まる。道に迷ったことを自覚したときよりもずっと嫌な音を立てはじめた心臓を、ずりずりと片腕を引きずるように動かしては抑えた。そうしてもう片方の腕は、背に在る荷袋をひっくり返したがり、けれども叶わず手元の土を強く握り締めていた。
 荷袋の中に在る、羊皮紙の束。自分の手記。それを今、どうしても手にしたかった。手にして、読み、もう一度──確かに、自分の中に書き記しておきたかった。自分が、自分を、もう二度と──
 握り締めていた土を離し、代わりに指先をゆっくりと動かす。どんどん重くなる身体と、靄のかかっていく思考や視界の中で、土にせめて名を刻もうとした。
 だが、それも思うようにはいかず、どんな文字とも取れない奇妙な線が土に記されるばかり。早鐘のように鳴る鼓動とは逆に、思い出したかのように寒さを訴えだした身体が、ついに空気を鉛に変えたようだった。土の上に水滴がぽたりと落ちたが、それが自分の汗なのか、それとも髪に絡まっていた霧の集まりなのかはもう分からなかった。
 爪の中に土が入る感覚と、だんだんと遠くなっていく自分にきつく唇を噛む。悲しみでもなく、痛みでもなく、嫌悪感ともどこか違って思える何かに、なんだか息も苦しくなってきた。なんて。なんて言えばいいのだろう、この気持ちは。訊けば、教えてくれるだろうか。訊けば。訊く。誰に? ちかり、幻が瞬いた。
「──」
 名前を紡いだはずの口は、しかし声を発することができなかったようだ。
 何かに──誰かの──彼女の体温に縋りたくてなんとか持ち上げた手のひらは、けれども空気すらろくに掴むことができず、ぱたりと再び地面に伏した。それと同時に、この瞼は自分の言うことを聞かないまま、やはり勝手に落ちていく。ああ、一気に暗くなってしまった。また遠のいてしまう。景色の色や音と一緒に、自分が。やめてくれ。やめてくれよ。だって、自分は此処にいるのに。もう、此処にいるのに。
 浮かぶように落ちていく感覚の中で、ふと、しんとした森の中がより一層の静けさを纏ったような気がした。閉じた瞼の中、暗闇のいちばん外側で少しだけ受ける、しかし光と呼ぶには頼りない白を感じる。そして、その向こうから淡い気配が霧を縫い、土を踏む控えめな音が聴こえた。
 それでももう、瞼も指先も唇だって動かすことはできなかった。
 ただ、その誰かが呼吸をした音は、確かに聴こえていた。







 なんだか懐かしい香りがして、誘われるように瞼を上げた。
 次いで、かたり、という音が耳に入り込み、視界よりも先に聴覚の方が鮮明になっていくのを感じる。それに対し、張り付くような瞼と睫毛が重くて、抗えずにもう一度目を閉じた。そうしてもあまり暗くないと感じたのは、瞼が光を透かしているからだろう。もう朝か。そろそろ起きて、支度をしなければ。それにしても、いつの間に眠ってしまったのだろう。そもそも、自分は何処で宿を取ったのだったか……
「えっ」
「あら」
「え?」
 森の中で倒れたのだ、宿を取った記憶などあるはずもない。それを自覚すると同時にがばりと起き上がれば、その近くで発された声を耳が拾って、疑問と困惑ばかりを乗せた音が口から零れ落ちていく。
「きっと目が覚める頃だと思ったわ。だから紅茶を用意しておいたの」
 自分の上に掛けられた、華美過ぎず、上品で慎ましい花の刺繍が刺された毛布から目を離して声のした方へと視線をやれば、寝台の上から降りている天蓋の帳より向こうで、椅子に座る人の影が目に映る。天蓋の色は透き色とは少し距離のある白で、それはまるで霧のようにも見えた。ただ、これは手で払える霧である。毛布を掴んでいた手の片方で柔らかな寝台の敷きを押し、空いたもう片方でそっと天蓋の帳を除けてみれば、漂ってきていた懐かしい香りが更にはっきりと感じられた。
「おはよう、坊や。寝る子はよく育つと言うけれど、随分ぐっすりだったわね」
 ──少女だった。
 美しい花の意匠が施された布張りの椅子に腰掛け、落ち着いた様子で紅茶を口に運んでいるのは、年齢もまだ幼く見える一人の少女であった。
 見た目には、十一から十三歳くらいに見える。穏やかな気配と、どこか懐かしく感じる紅茶の香り。そして、葉擦れのように優しい声。身を起こしたとき、助けられたのだと直感した。土の上に倒れ、段々と落ちていく中、霧の向こうからやってきた人物に。そして、その人がこの天蓋の向こうにいる人なのだと、自分は信じて疑わなかった。だから、目の前の霧を払うことに躊躇わなかったのだ。
 けれども、その人の姿を見て、驚いている自分がいる。何故だろう、もっと──もっとずっと、年が上の人だと思ったのだ、根拠もなく。老人かもしれないとすら、理由も分からず思っていた。
 そんな自分の戸惑いを見抜いたのか、椅子に座った少女はカップとソーサーを一度、クロスの掛かったティーテーブルの上に置き、こちらを振り向いては薄く微笑む。
「坊や、挨拶をお忘れ?」
「……お、はようございます」
「はい、おはようございます。坊やの太陽が西から昇ったみたいだけれど、まあ、そういう日もあるわよね」
 少しばかり可笑しそうな表情をして、少女は柔らかく手招きをした。彼女の声は驚くほど優しい音をしているというのに、けれどもその響きは揺るぎなく、それはどこかこちらの背筋を自然に伸ばしてしまうようなかたちをしている。たぶん、少し緊張するのだ。そろそろと毛布の中から抜け出せば、その途中で自分の服が変わっていることと、髪がほどけていることに気付いて、また少し驚いた。服は、汚れもなく壁に掛けられているようだった。
「さあ、どうぞお掛けになって。お目覚めに一杯いかがかしら?」
 示されるままに少女の向かいの席に腰を下ろせば、彼女はその赤みがかった灰色の瞳を淡く細めて、毛糸で編まれた被せで包まれているティーポットから、半透明に輝くこがね色の紅茶を硝子のカップへと注ぎ込んだ。そうしてふわりと立ち上る香りに、ふと懐かしさの理由を掴み取る。
「この香りは……」
「あら、ご存知? ディリィの花を香り付けに使っているの。わたし、この花がお気に入りなのよ」
 そう発すると、少女はこちらが何かを言うよりも早く、更に自分の言葉を紡いだ。
「心臓の花、ね」
 そしてそれは、自分の口から発せられそうになったものと全く同じかたちをしていた。
 ふんわりと波打つ、肩までよりは短い金の髪を淡く揺らし、少女は再び自分の分の紅茶を口に運ぶ。その伏せられた長い睫毛に従うように、自分も硝子のカップに口を付けてみた。澄んだ紅茶の香りに乗って、コーデリアの気配が更に鮮やかになる。一口分だけ飲み下したそれが少しだけ喉に沁みたのは、たぶん、紅茶が熱かったせいだろうと思えた。
「あの……」
 紅茶の風味に一息吐き、そうしてカップとソーサーを手にしたまま、ちらりと少女に声をかける。あまり大きな声ではなかったが近い距離だ、耳には届いただろう。その証に少女は金色の睫毛を微かに上げて、視線だけをこちらへと向けた。
「ええ」
「その……助けてくれて、どうもありがとうございました」
「どういたしまして。困ったときはお互いさまよ」
「ところで、あなたは……?」
 部屋の窓から差している陽が、天蓋の帳をすり抜けてこちらまでやってきている。少しばかり橙を帯びたその光に、確かに自分の今日は、太陽が西から昇ったのだということを悟った。夕暮れの色を反射して輝く硝子のカップを少し傾け、少女はその目をどこか困ったような、或いは呆れたようなかたちに眇める。
「人に名前を訊くときは自分から名乗るものよ、坊や」
 その言葉に、思わずぴっと姿勢を正した。動揺にかちゃりとカップとソーサーが鳴ったが、それにも構わず、慌てて少女に向かい自身の言葉を紡ぎ直す。
「すっ、すみません。マイロウド。僕は、マイロウドと言います」
「そう、マイロウド。素敵な名前ね」
 柔らかく微笑み、真っ直ぐにこちらの目を見て発した少女の言葉が、純粋にひどく嬉しく思えて、自然に口角が緩むのを感じた。伸ばした背筋から少し力を抜いて、少女の穏やかな赤みの灰色を見つめ返す。
「ありがとうございます。……それで、あなたのお名前を伺ってもいいですか?」
「ええ。けれど……」
 視線だけで頷き、少女はほとんど音も立てずにカップをティーテーブルの上へと置く。それから両の手のひらを組み合わせ、睫毛を伏せるようにして彼女は笑んだ。
「──名前は秘密。強いて言うなら魔女(ウィッチ)、よ」
「ウィッチ?」
「ウィッチ。そう呼んで頂ける?」
 微かに首を傾げた少女──ウィッチの瞳に、音のない言葉、或いは毅然とした者が知らず知らずの内に発する圧力のようなものが宿っているように感じて、声で返事をするよりも早く頷いてしまった。けれども心は疑問をもって、魔女か、と呟いている。同時に、見えないな、という本音も奥の方では覗いていた。ただ、もちろん、魔女を見たことなどあるわけもなかったが。
「ところで、坊や。あなた、自分の心を入れ替えたいってわけじゃあないのよね?」
「え? はい。そんなこと、思ったこともないですが……」
「じゃあ、ほんとうにただの迷子ちゃんだっただけなのね。あなたみたいに即答する人も珍しい気がしますけれど」
「はは。でも、たぶん、僕はそれをもう経験してますから」
 ウィッチの表情がほんの少しだけ変わって見えたのは、何気なく発したこの言葉のせいなのだろうか。彼女はその白い指を小さく動かすと、細く長い睫毛を上げ、しかしすぐにそれを伏せてはふっと口元を緩めた。そんな様子がどこか戸惑っているようにも、呆れているようにも、或いは諦めているようにも映ったものだから、急いで言葉を継ぐ。そんな自分は、たぶん彼女よりずっと困惑した表情を浮かべていることだろう。
「僕、その、前の自分の記憶がなくって。つまり……記憶喪失、なんです」
 言えば、ウィッチの赤焼けた灰色と目が合う。それは夕焼けの気配が残った、夜の一歩手前に在る空の色にも似ていたかもしれない。彼女は卓に載った透き色のティーカップに少しだけ触れると、問いかけのかたちを取りながら、しかし問いかけよりも静かな温度で言葉を発した。
「坊や、心は記憶だと思う?」
「心?」
「記憶が心を形づくるのか、それとも心が記憶を形づくるのか。何が自分を形づくるのか。自分が、自分を自分であると認められる理由。ねえ、あなた、どう思う?」
 彼女の突飛にも聞こえる質問に、心の中だけで首を傾げる。記憶が心を形づくるのか、心が記憶を形づくるのか? まるで卵が先か、鶏が先かと言うような問いかけだ。少しの間宙を見つめ、それから視線をウィッチへと戻してかぶりを振る。
「分からないです」
 そう答えれば、ウィッチは微かに目を細める。その細め方はどこか笑みとは違って見え、しかし困惑とも違って見えた。そんな彼女を見やりながら、もう少し言葉を継ぐ。
「見ての通り、僕は自分の身体だって思うようにはできていません、行き倒れるくらいには。だから……何が僕を僕としているのかなんて、僕には分からないです。僕は、僕としての記憶をほんの半年程度しかもっていない。それにきっと、心だって不完全だ」
 窓から差す陽が、先ほどよりも激しさを増した。思わずそちらへと顔を向ければ、窓硝子の色はもう透き色を残さないほどに黄金だった。意識を目の前の少女から少し引いて、それとなく視線を巡らせれば、部屋全体は自分が思っていたよりもずっと橙色に染まっている。ふわりと、コーデリアの香りがカップの内側から浮かんできた。
「でも……」
「ええ」
「僕は僕だって、それは思います。僕は、どこまでいっても僕なんだろうって」
「ええ、そうね」
 腹の辺りで指を組み合わせているウィッチが、今度は眉を下げるようにして微笑んだ。いいや、微笑みとは違うような気もする。もしかしたら、夕陽が眩しかったのかもしれない。
「たぶん、両方要るんです」
「両方、ね」
「はい。どっちか欠けたら、きっと、僕は今の僕じゃあなくなってしまうような気がする」
 ウィッチは自身の首元につけている緑色のリボン、その中心で鈍く輝く銀色の飾りに触れた。自分の考えを言葉にするのは難しい。思いはこめかみの辺りで渦を巻き、それを声にして編もうとすれば、言葉は喉の奥で螺旋を描いては絡まってばかり。今の回答以上に、自分はなんと答えればいいのだろう。
 舌に乗らない言葉を彷徨わせながら、花の形をした銀飾りを触るウィッチの指先辺りを見る。よく見てみればそれには、何か開閉のための小さな突起のようなものが付いていた。ロケットだろうか。斜陽に照らされて、銀の花がちかりと光を放つ。
「完全な心なんて存在しないわ。だからわたし、魔女なんですもの」
 こちらがロケットについて何か問おうとする前に、ウィッチはその首飾りから指を離して、まだ半分近く残っている紅茶に再び口を付ける。言葉を発した彼女の声は、凪いだ水面のように静かで、耳に残るほどにひどく易しかった。それからしばらくの沈黙。その静寂の中で、ああ、と気付く。今の言葉は、自身の心を不完全と表現した、自分の言葉への返答か。
「──ウィッチ」
「ええ」
「時計、止まってます」
 ややあって、そう伝える。ウィッチが紅茶を味わっている間、夕陽が眩しいのもあったが、それよりもなんとなく気になって辺りにそれとなく視線を巡らせていたのだ。たぶん、なんとなく気になっていたことも、それとなく視線を巡らせていたことも、彼女には見透かされているような気もするが。
 よく磨かれた寄せ木細工の床の上に、細やかな花の模様が描かれた長春色の絨毯が敷かれている。壁紙はほんのりと紫がかかった薄い灰色で、その霞色の上には淡い琥珀色で草花の意匠が凝らされていた。飴色の棚の上には──ああ、これは知っている。貴族しか持たないものだ──さながら大輪の花のような蓄音機。革張りの箱鞄には、何冊かの美しい装丁の本が積まれ、更にその上には深緋色の艶やかな宝石入れが腰を据えていた。こがね色の額に収まっては、壁の至る所に絵が飾られている。静物画や、きっと此処ではない、何処か遠いところを描いた風景画ばかりだ。人の描かれているものは一つもなかった。
「ああ……」
 自分の指摘に、ウィッチが息を吐く。室内の内装や家具、調度品はどれも格式高そうに映ったが、共通しているのはどれも古びているように見えることだった。決して、汚れているわけではない。むしろ、塵一つ見当たらないほど、完璧に手入れがされている。ただ、時間が経って見えるのだ、どれも、これも。年を食って見える。暖炉の上に載っている、針の動かない時計を見やった目の前の少女のまなざしすらも。
「失礼、すっかり忘れていたわ。わたしにとって、あまり重要じゃあないものだから」
「そういうもの……ですか?」
「そうね。朝、誰かを起こしたり、待ち合わせをしたり、そういうことがわたしにはないもの」
 残念そうな笑みをつくって、ウィッチは緩くかぶりを振った。
 時計を示していた指先を下ろせば、そうした後に彼女は暖炉の上の置き時計へと顔を向ける。それにつられるようにして時計の方を見るが、やはり針は梃子でも動かない様子だった。止まっている時計など見たことがなかったから、違和感が胸の辺りに網を張っている。時計の針が規則正しく動くのは、太陽が空へ昇っては、月と入れ替わるようにして沈み、そうして影が動いていくのと同じくらい自然なことだと思っていたからだ。
 時を刻むための道具の時が止まっているのは、なんだか、すべてが止まってしまったように感じる。そんなことは決してないというのに。だって、夕陽はどんどん部屋の中を金の色で満たそうとしているのだから。
「ウィッチ」
「あら、まだ何かお気付き?」
「……と、いうか」
 名を呼んでも、彼女はこちらを見はしなかった。けれども、時計を見ているというわけでもない。彼女の赤みがかった灰色の瞳は、置き時計の少し上、壁に掛けられた赤紫色の幕を見つめていた。窓に掛ける遮光幕にも似ているが、窓なら寝台の向こう側に在る上、遮光幕の色は柔らかな白である。ならばきっと、ウィッチが視線を向けているのは、絵を守るための幕なのだろう。ただ、彼女が今見ているのが、その赤紫の幕なのかは分からなかった。今、彼女の瞳は少し、何処か遠くを見ているような気がしたのだ。
「どんな絵が飾ってあるんです?」
 自分の直感を信じて、そう問うてみる。それを聞いたウィッチは金色の睫毛を伏せ、ほんの少しだけ笑ったようだった。
「飾ってないわ。在るのは額だけ。空っぽの額」
「額だけ?」
「そう。絵は、わたしが破ってしまったから」
「えっ、ど、どうして」
「呪いみたいだと思ったのよ。それだけ」
 絵を破く。その言葉によぎったのは、薄葉緑の街、風車の高台、美しいものを描く美しい人のこと。思わずきょろりと壁一面を見回す。どれも呪いのようには見えなかった、とても。
 心臓がどくりと鳴り、指先が熱くなるのを感じる。カップの熱が移ったわけではない。それに、きっともう紅茶はぬるくなってしまっただろう。気付けば、右の指に力がこもっていた。紅茶の水面に映る自分の顔に、分かり易く眉間の皺が寄っていて自分で自分に呆れてしまいそうだ。そうしてしばらく琥珀色の水面を見つめた後、視線をウィッチへ向ければ、彼女もまたこちらへと顔を向け、薄く口を開いた。
「だいじょうぶ、分かっているわ」
 そう笑った彼女の瞳が一言で表すにはあまりに哀しげで、何か言葉を発しようとした口で空気を呑む。そして同時に、はたとした。
 どうしてこの少女は、どうしてこんなにも深い瞳をしているのだろう。
 加えて落ち着き払った所作、やさしくも揺るぎない声色、薄く膜を張るような笑み方。美しいが、古びて見える調度品。止まった時計、布に覆われた額。彼女が纏っているすみれ色の洋服も、今までどの街でも見たことがない意匠だ。引いて見れば、彼女は貴族の少女にしか映らないだろう。けれどもこうして言葉を交わすたび、ウィッチという人物の輪郭が少女のそれから離れていくようだった。
 ただ、自分にとってそれがどうというわけではない。
 それよりももっと自分を不思議な気持ちにさせるのは、ウィッチの表情だった。
 分かっていると発した彼女の表情は、胸を衝くほどに哀しげで、その中に寂しさや苦しさすら在ったようにも見えたのに、自分には彼女が、それをどこか慈しんでいるようにも映ったのだ。そして、そんな彼女にどこか納得している自分も不思議だった。ウィッチの表情を見て何か腑に落ちたように感じるのは、あの目を見たからだろうか。あの、深い瞳を。
 ふと、ウィッチがティーテーブルの上に載っている角砂糖入れへと手を伸ばした。陶器の蓋を開け、しかしシュガートングは使わずに、自身の指で角砂糖を摘まみ上げる。その様子をじいと見つめて、そうしておやと首を捻った。
「なんだか変わった形の砂糖ですね」
 ウィッチの手のひらにころんと落とされた角砂糖は正方形ではなく、ひし形をしていた。それに、ほんの少し桃色をしているようにも見える。差し込む夕陽の角度にとっては、もっと赤く見えるかもしれない。
 自分の言葉にウィッチは息を洩らすように笑んで、それから首を左右に振った。
「砂糖じゃあないの。これはね、ココロ、よ」
「……ココロ?」
「ええ。砂糖と言うよりは石ね」
「ココロ……そういう名前の石なんです?」
「あなた、誰と会話をしているのかをお忘れ?」
 彼女のどこか悪戯っぽい、少し挑発的な目の細め方に、反射的にウィッチ、と答えを返した。そうすればウィッチはくすりと笑みを零して、そう、魔女よ、と自信ありげに頷く。しかし、頷いた彼女の眉間には、気付かないほどにひっそりと皺が寄っていた。
「この手に有るキレイな石ころ。これは、わたしがお客さんに頼まれて創ったココロ。わたしの商売、わたしの売り物よ」
 ウィッチはにっこりと口元を歪めて、完璧に整った笑みを浮かべた。
「坊や、絵の具の作り方をご存知?」
「あ……はい。石を砕いて作ることが多いと聞きました」
「それと同じような感じよ。砕けばいい」
 言って、ウィッチはとっくに空になっていた硝子のティーカップへと、そのひし形をした砂糖のような石──ココロ≠落とす。からんと軽い音を立てたそれは、確かに角砂糖の立てる音よりも石の立てる音に近い気がした。
「これを砕いて、相手に飲ませるの。まるで紅茶に溶かす砂糖のようにね。そうすれば、相手の心はこのココロの通りになるわ。理想通り。これを飲ませた者の理想通りにね」
「理想通りの心……?」
「けれど、記憶はそのままに。カンバスに描かれた風景画の上から油絵の具で描くのよ、そっくり同じ風景を、別の色でね──そしてそこへ、ごく自然に、自分の姿も描き入れる」
 ウィッチは歌でも歌うかのような気軽さでそう告げると、角砂糖入れからもう一つココロを取り出して、それをまたカップの中へと落とし込んだ。からんと鳴った音が、先ほどよりも虚ろに聞こえる。
「心はいつも不完全。だからわたしは魔女で在れる」
 彼女の言葉を聞いて、自分はおかしな顔をしていたのかもしれない。また記憶を失えば、自分は自分であったことさえ忘れるのだ。けれども、この記憶をもったまま、マイロウドという名を、マイロウドという人間として名乗ることができながら、しかし心を塗り替えられるというのは? それは、果たして自分か? それは誰だ。一体、誰だ?
 分からない。さながら、思考が足に絡まる蔦のようだ。ただ、それを無理やりに引き千切ることも自分にはできなかった。少しだけこめかみを押さえ、最早冷たくなってしまった紅茶を一気に飲み干した。時間の経ったそれは、なんだかざらりとした味わいをしている。
「心って……」
「ええ」
「心って、なんなんです……?」
「あら、坊や。あなた、自分で言っていたじゃあない」
 目の前の女性は微笑んだ。
「記憶と合わせて、自分を自分たらしめるものだって。だからあなた、眠るのが怖いんでしょう?」
 ウィッチの言葉が、まるで指を差すようだった。心にぽっかり空いていた穴を。今はあたたかな湯で満たされている、その穴を。
「坊や、また記憶を失うのが怖いのね。あなたの眠り方は睡眠じゃあないわ、気絶よ。しかも気を失う寸前、地面に名前を書くなんて……ああ、こんなこと言いたくないですけれどね、坊やは重症なのよ、重症」
「だって、僕は忘れたくない……」
「何故? 一度忘れたなら、二度も三度も同じじゃあない?」
「違う。違います。……」
「流石、魔女に拾われるだけのことはあるわね、坊や」
 ウィッチはにっこりと笑みを浮かべる。部屋を満たしていた黄金の光はいつの間にか去り、微かに夜の気配が漂ってきていた。
「まともじゃない」
 その言葉を受けると同時に、ばちりと指先に稲妻が走ったように感じた。それを誤魔化したくてティーカップの取っ手を強く握れば、カップの底とソーサーが擦れて震えるような音が鳴る。いっそ笑い声を上げてくれた方が良かった。湯で満たされた穴に填めたのは、きっと硝子の板だ。嗤えばいいのに。それがいつかの、ちょっとした拍子に粉々に割れ、そうして湯のすべてが溢れて出ていってしまうことを恐れている、こんな自分のことなど。
 顔を上げる。目に映ったウィッチの表情は、哀しいくらいに優しかった。
「人の心のかたちなんて、誰かに決められるものなんですか?」
「いいえ」
「……心って、誰かが形を勝手に決めて、その型に無理やり填め込んでもいいものなんですか?」
「少なくとも、人のやることではないわね。まともじゃない」
 ウィッチは金の髪を揺らしてかぶりを振った。
「けれど、わたし、魔女になってしまったんですもの」
 言って、彼女はまるで老いた女性のように優しくも深い笑みを浮かべると、
「分からなくていいわ、坊や。でも……」
 カップの中に収まっているココロ二つに、指先でくるりと撫でるように触れた。
「愛されたいように愛されず、愛したいように愛せないのは、とても苦しいの」
 それは、今までいっとう静かな声だった。彼女の真っ直ぐなまなざしに捉えられ、何も言えないままにその瞳を見つめ返す。夜の色に包まれ、段々と薄暗くなっていく部屋の中で、ウィッチの瞳に宿る光だけが吸い込まれるような白をしていた。
「──拷問よ」
 彼女の睫毛が伏せられ、その指先が今度は首元の銀飾りの上を滑っていく。ウィッチの落ちた視線につられるようにして、自身の手元へと目を向けてみたが、そこに収まるカップには何も入っていない。顔を上げ、ウィッチの方を見た。
「それが愛ですか?」
「愛?……まさか!」
 ウィッチが笑い声を上げる。彼女がこうも分かり易く声を上げて笑ったのは、たぶんこれが初めてだった。
「勘違いしないで、坊や。これは呪いのお話よ。魔女の呪いのね」
 ひとしきり笑った彼女は目尻を拭い、未だ口角を緩ませながらそう告げた。それからかぶりを振って、ふっと息を吐く。
「愛は人を縛ったりしないわ、絶対に」
 そう言い切ったウィッチは、それからしばらく言葉を発さず、月の輪郭を纏った沈黙が室内を支配した。しかし、その中でふと、何か扉を叩く音のようなものが遠くで聞こえてきて、思わずその方向へと顔を向けた。来客だろうか。そう問いかけるようにウィッチへと視線を戻せば、彼女は少しだけその睫毛を上げ、諦めと愛おしさがないまぜになったような笑みを口元に湛える。
「──じゃあ、わたしは行くわ」
「ウィッチ。一つ、いいですか?」
 音も立てずにふわりと立ち上がったウィッチが、視線だけで言葉の先を促した。
「明日の朝、起こしてください」
「……え?」
「きっと一人では寝過ごしてしまうので。僕の太陽だけ西から昇ってばかりじゃあ、ちょっと寂しいかなって思います」
 言いながら、かたりと椅子を引いて立ち上がり、暖炉の前まで歩いていく。ウィッチの困惑したまなざしを背中で感じたが、それには構わずに両手で針の動かない時計を持ち上げた。後ろ側のねじを巻いて、時間を合わせるだけだ。自身が身に着けている洋袴の小物入れから懐中時計を取り出して、その時間とぴったり合わさるように置き時計の針を進めていく。
「これ、持っててください」
 何か言葉を発せられる前に、ウィッチの手のひらに自分の懐中時計を乗せる。彼女は手の上の時計とこちらの顔を交互に見やった後、ぱちぱちと困ったように瞬きをくり返した。ウィッチが視線を逸らすと同時に、急かすようにまた扉を叩く音。目が合って、彼女は少しだけ苦しそうに笑った。
「坊や、やっぱりおかしな子ね」
 ウィッチの空いている方の指先が、とん、とこちらの心臓の辺りを軽く叩いた。楽しげに目を細める彼女は、なんだかひどく子どもっぽく自分の目に映る。彼女の見た目からして、何もおかしいことはない。おかしいことはないのに、それがどうもまともじゃないことのように思えて、うっかり小さく笑い声が洩れた。
「時計を動かしてくれたお礼に、まじないを一つあげるわ、坊や」
「まじない?」
「特注よ。いい、よく聞いてちょうだいね」
 言われて、耳を澄ませる。
「──みんな、あなたを憶えているわ」
 まじないの言葉を紡ごうとするウィッチの瞳が、月のように優しく光っていた。遠くから、また扉が叩かれる音がする。それすらもまじないの一部のようで、どこか祈るように目を瞑っていた。
「だから──忘れてもだいじょうぶなのよ、マイロウド。あなたは、想い出せる」
 そして、まじないの言葉は締め括られる。
「絶対に」
 ──と。



20190217

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