死なない


 青と桃色。
 目を開けると、それだけだった。一面の花畑。交互に並ぶ、青い花と桃の花。その名前は知らない。ただ、花、花、花。青、桃、青。そんな、果てしなく続くような色彩の中心に、泉が一つ揺らいでいる。見上げた空は夜明けのような、それでいて宵の入りであるかのような濃紺を湛えていた。天上で曖昧に輝く光の輪郭は太陽でもなく、きっと月でもない。風がほんの少し吹いていた。肌に触れるその透き色が冷たいのか、暖かいのか、それがよく分からない。ただ、暗くはなかった。明るくも。花の色が、確かに分かるから。
 青年はゆっくりと瞬きをし、辺りを見渡す。彼にとって、それは当たり前の行動だった。塵ほどの疑いも不安もなく、青年はどこかも定かではないこの場所で、しかし自分の探しものがここにいることだけを、ただ唯一、確信していた。それは、息を吸うことよりも、水を飲むことよりも、彼の生命を繋ぐ一つの輪郭。いのちよりも、より深いところを生かす小さな呼吸の持ち主だった。
 いつだって、その見えない光は、或る一つに注がれていた。
 そうして青年はその心通りに、視界の端でたった一つの小さな影を見つけると、強張っていた顔の眉間に深い皺を刻み、握り締めていた手を更に固くして、一歩を踏み出そうとし、しかしその場で踏みとどまる。青年は息を吸った。まるで、粘土を飲み込むようだった。
 そんな青年の視線の先で、一つの影は頼りない切り株の上に座り、背を丸めている。
 歌はない。歌が、なかった。忘れゆく歌の詩を、旋律に乗る言葉たちを、それでもなんとか響かせようと喉を絞り、唇を動かす、あの痛々しげないつもの仕草さえ、そこには存在しない。それだけで、そんな少年の姿を見ただけで、青年は彼が最後に何を選択したのかが分かった──分かってしまったような、分かっていたことをわざわざ突き付けられたような心地がして、握り締めている手の中にきつく爪を立てた。震える睫毛を抑え付けるために、一度瞼を強く瞑る。そして青年は、息を吐いた。今、空気は鉛だった。
「──そこで何してるのさ、バニティ!」
 それから青年が口を開いたのは、柔い風が数回、広がる花畑を波打たせた後であった。
「……何って、暇だから、なんにも……」
 切り株の上に座る少年は、突如投げかけられた声にも茫漠とした様子で、返答というよりはそう呟くのみだった。けれども、そのあまりに聞き憶えがある声に、彼はたったいま気が付いたという風に身を強張らせると、錆び付いた視線をゆっくりと声が聞こえた方へと向け、そうして自身の赤い目を驚きに見開き、唇をはく、と動かした。
「ト、──」
 瞳の中には、驚きとないまぜに悲しみに似た何かがある。そして、それからもう一つ。
「トロベリー……?」
「ッ、バニティ……ッ!」
 少年に名を呼ばれた青年は、堪らず地面を蹴り、そんな相手の元へと走り出した。握り締めた手はそのままに、青年はその足で草を踏み、咲き乱れる花を折った。らしくもなく息が上がる。心臓の音が軋んでいた。きっと青年にとっては、そのすべてがどうでもよかった。そうして彼はほとんど転がるようにして少年の前に辿り着くと、半ば頽れながらその目の前に膝を突き、また相手の名前を呼ぶ。少年は、自身の黒い睫毛を伏せ、震えている青年の肩を見下ろした。
「──トロベリー。怒ってるんだな」
 それから少年の唇が微かに動き、ぽつ、と言葉が零れ落ちる。静かに降り始めた雨みたいな声色。吹く風の温度も分からない青年は、しかし少年が吐き出した言葉が乗る声の、その寂しげなぬるさだけははっきりと感じ取り、思わずぎり、と自分の唇を噛み締めた。
「……どれのことだろう。朝、おまえに嘘を吐いたこと? おれの夢に付き合わせて、悪いことをさせたこと? 優しいおまえに、ずっと甘えていたこと? 魔法を解いてやれなかったこと? おまえを……」
 そうして少年は胃の少し上辺りで両手を組み合わせて、おのれが思い付く限りの罪を数えた。一度言葉を呑んだ俯いた彼の黒い髪が、その小さな顔を覆い隠して表情が見えなくなる。それは、咲き誇る花には、息づく土には、見下ろす空には、照らす光には、吹く風には、ただ、青年以外には。けれども、青年には見えていた。いつも見ていたから、見えていた。斬首刑を受ける囚人さながらに頭を垂れる少年のことを、泣きながら歌うようにものを言う少年のことを、彼はいつも。音がなくとも、少年が息を吸う音すら、彼には聞こえていた。
「……おれがおまえを、好きになったこと? 殺して、しまったこと? どれのことで怒ってるの?……全部、かな」
「そんなの、」
 少年は切なげに微笑んで、そう首を傾げる。それは、随分とやさしい雨が青年の頬を打つようだった。そのさまに、青年は間髪入れずに声を投げると、音を立てて息を吸い込み、
「──そんなの、バニティが俺を置いていったことに決まってんだろ!」
 と、相手の頬をはたくために振り上げた手のひらで、自分の脚を殴ってそう叫んだ。怒気をはらんだ青年の声に、湖の水面が震え、少年はびく、と自身の肩を揺らして縮こまる。それから少年はほんの少し視線を上げようとし、それでも相手の顔を見ることができないままにまた睫毛を伏せた。青年の血が出るほどに握り締められた手が、少し浮かんで、ぶるぶると震えながら、けれども上がりきらずに力なく膝の上に落ちていく。そんな青年の横では、青い花が一輪、ひっそりと揺れ動いていた。それは、青年が少年に向かって両手を伸ばしたときでも変わることはなかった。
「あ、」
「バニティ……」
「ト、」
「バニティ……!」
 青年の両腕が少年の薄い身体をかき抱き、ぎゅう、と音が鳴るほどに、彼は目の前の小さな輪郭に縋り付いた。存在を確かめるよう何度も名を呼ぶ彼の声は、嗚咽にも似たものに少年にとっては聞こえる。どうしても少年のことを傷付けることができない青年の手のひらが、少年の着ている背中側のシャツを破れそうなくらいにきつく握った。少年は、相手のことを抱き返せない。小刻みに震える両の手のひらが、資格がないと大声で喚き立てていた。
「……なんで」
 ややあって、青年の唇から涙みたいな呟きが洩れる。少年はそんな相手の言葉に視線だけを青年の方に向け、きっとこれから紡がれる彼の言葉に対して、やはり切なげに眉尻を下げていた。
「なんで」
「トロベリー……」
「なんでなんだよ、バニティ。俺なんかより、きみ、君には、君がずっと……命懸けで、たくさん、拍手貰って分け与えて、そうやってつくってきたものがあったんでしょ……ここまでずうっと、選んできたものが、君には……なのに……」
 青年のそれは、もうほとんど独白に等しかった。彼は目を閉じ、少年の顔の横で力なくかぶりを振る。そのために青年の柔らかな、毛先に向かうにつれて水色へと変色するストロベリー色の髪が相手の目の端っこを掠めて、少年はなんだか長いこと離れていたように思える懐かしさに、おおかた郷愁にも近いそれに、片方の指先で自身の目を擦った。眠いからではなく、それ以外のものに対して。
「なんでだろう」
「え……?」
「なんで、なんだろうなあ」
 それからややあって、青年のあたたかさとにおいに包まれていた少年は、結局その言葉だけを返事として相手へと発した。その言葉と共に困ったように笑う少年の表情は、まるで青年にそっくりだった。青年に抱き締められたまま、少年は深い呼吸をくり返し、そうして自分の中で喚く自分の声が遠ざかった頃、彼はようやく青年のことをおそるおそる、けれども確かに抱き返したのだった。
「……でもね、トロベリー。おれはさあ、ただ、おまえにこれ以上、痛い思いをしてほしくなかったんだよ。……おまえに、死んでほしくなかっただけ。ほんとに、それだけ……」
「な……、……」
「だって、おれ。おれは、おまえのことが好きなんだよ、トロベリー。……あれ?」
 少年は、青年よりも一回り小さな手のひらで、しかし相手と同じくらい強くその背のシャツを握り締める。それから答えの続きを継ぐ途中で、少年は何事かに気付いて言葉を切り、ぱちりと瞬きをした。
「あれ……? ねえ、おれ、もしかして、ちゃんと言ったことがなかった? おまえのこと、それ以外のことどうでもよくなっちゃうくらい、世界でいちばん大好きだよって、言ったことなかったっけ……? あ……」
 瞬いた少年の瞳が動きを止め、その中で赤い色が少し揺れる。そうして微かに震える睫毛と唇を引き連れたまま、彼は青年の肩に頭を埋めると、そこで自嘲にも嗚咽にも聞こえる色で小さく、ほんとうに小さく笑い声を立てた。
「あ。はは……そっか、馬鹿だなあ、おれは……」
 そんな相手の様子に、青年の肩が少年の睫毛や唇よりも大きく揺れる。青年はきつく噛み締めていた唇を言葉を発するために薄く開き、それでもやはりわななく口につられて、青年が吐いた息は輪郭は持たずとも目に見えるほどに震えていた。
「お、俺……」
「ん……?」
「俺だって……俺だって、そうだよ……死んでほしくなかった……バニティだけには……」
 訥々とそう呟いて、青年は息継ぎだけには大きな音を立てて呼吸をする。少年の耳に、青年が奥歯をすり減るのではというほどに強く噛む音が聞こえてきた。その眉間にきっと深い皺が刻まれているのが見なくとも分かって、少年は相手の柔い癖毛をそうっと撫でる。
「馬鹿だよ、バニティは……いないよ、そんなやつは。俺なんかのことを考えて死ぬやつなんて、そんなのは、バニティだけだよ……」
 やさしく行き来する少年の手のひらに、青年は泣き出せない代わりに小さく唸った。そうして彼は握り締めていた相手のシャツから片手を離すと、それを拳の形に握り直し、とん、とん、と抗議するように少年の背を叩く。撫でると呼ぶには少し強く、殴ると呼ぶには弱すぎる青年の手は、少年にとって彼のもつ心臓の音を聞いているのとなんら変わりがなかった。だから少しだけ、少年の視界は水中にいるときみたいに滲んだのだった。
「……馬鹿でいいよ。死ぬときに、おまえのことを考えられないおれになるくらいなら」
 少年は相手の肩に埋めていた顔を上げると、青年の頭を撫でたまま、遠くで輝く太陽みたいな月みたいな光を見た。暖かくも冷たくもない、人の手で造られたような明かり。青年が吹く風に凍えなければいいと、少年は抱き締める腕にもう少し力を込めた。
「バニティ……」
「……トロベリー?」
「ごめん……ごめんね。俺も馬鹿だから……あんなことされて、ほんとうは……嬉しい、んだよ……」
 それから数呼吸、互いの熱とにおいを分け合った二人の内、先に口を開いたのは青年の方だった。彼は少年の両肩を掴んだまま、ゆるゆると自分の身を相手から離し、真正面から向き合うように少年を自分の前に座らせる。どこか頼りなげな声色で、ひどく困ったように唇を歪めてみせた青年に、少年の小さな唇が少し開いて、そこから震える呼吸ばかりが吐き出された。
「ト、トロ、ベリー……」
「……うん」
「おれ、……おれこそ、ごめ、ごめんなさい……。おれは、おまえをたくさん縛って、傷付けて、甘えて利用して、ころ、殺して、挙げ句の果てに、こんなところまで来させてしまった……」
 少年ははくはくと小刻みに空気を呑む唇からどうにか言葉を絞り出して、青年のやさしい水色の目を不安げにじっと見つめた。そんな少年のウサギみたいに赤い瞳にはみるみる内に水の膜が張って、それが溢れ出さないように彼は瞬きすることをやめる。
「それに、痛い思いをしてほしくないなんて言って、最後の最後でおまえにいちばん痛い思いをさせたのは、きっとおれ、なんだろ……」
 そうして自身の心臓の辺りを少年はぎゅうと握り締めると、唇に歪な形で弧を描かせて、今にも泣き出しそうに笑ってみせた。そんな少年に青年が何かを言うより早く彼は俯き、心臓にやっていた手で今度は耳ごと髪の毛をくしゃりと握る。息を吸った喉の奥が、虚ろに鳴っていた。
「全部、おれのせいだ。全部、ぜんぶ。ぜんぶ。分かってたのに……分かってたんだ、おれは……」
 少年が力なくかぶりを振るために、彼の細い黒髪が言葉と同じ速度で揺れていた。そして少年は、息をするのも苦しげな表情で眉間に皺を寄せながら、自身の白い指先を青年の左手の方へと伸ばして、その薬指に収まっている銀色の指輪を取り外してしまおうと、隙間の見当たらない輪の上を爪の先でかりかりと引っ掻く。
「俺も、分かってたよう……」
 けれど、青年は息を洩らすようにそう言って、少年の頭をそっと撫でた。
「バニティと一緒に過ごしてたら、俺は色々間違ってるってことに気付いたんだ。でも、……俺のことを認めてくれて、笑ってばっかのことを心配してくれて、はじめて俺に居場所をくれたバニティに、俺は、ちゃんと幸せになってほしかったんだ……」
 言葉を発する青年の手のあたたかさに少年はぴた、と手を止めて相手の方を見上げ、自身の震えてやまない唇を鎮めるためにきゅっと引き結んだ。青年は眉尻を下げたまま、それでも少年のことを覗き込んでは、その口元に胸が軋むほどに柔らかい笑みを浮かべてみせる。
 そうして青年は自身の左手の上に乗っている少年の片手を取ると、その細い指たちに自分の左側のそれらを絡めて、ぴったりくっつき合えるよう、ぎゅうと握り込んでしまう。少年は繋ぎ合った左手同士と、青年の顔を交互に見やると、少しだけ仕方がなさそうに自身の口元を緩めて、淡くあわく呼吸をしていた。
「おれ、幸せだったよ、トロベリー……」
 ややあって、ゆっくりと瞬きをした少年の瞳から、静かに発された言葉と共に一粒涙が零れ落ちる。
「トロベリー。おまえがいたから、幸せだったんだよ。おまえはおれの、トクベツなの……」
 少年の涙は、彼らの周りに咲き乱れる花の一輪の上でぱたりと弾け、すぐに目には見えなくなる。彼は、青年の方を一心に見つめ、微笑んでいた。微笑みながら、泣いていた。堰を切ったように溢れ出した涙が、少年の涙を止め処なく濡らしている。少年もまた、相手と絡めている自身の指先を握り込んだ。
「……こんなとこにまで来させてごめん。こんな、何もない、寂しいところにまで。でも、おれもやっぱり馬鹿だからさ、……追いかけてきてくれて、嬉しいんだ。怒ってくれたのも。嬉しいんだ。全部、嬉しい、んだよ」
 青年は再び少年のことを抱き締める。風が、少年の涙を攫っていってしまいそうだった。
「ごめんね、トロベリー。ありがとう……」
「うん、うん……それでいいんだよう。俺のためにありがとう、バニティ……」
 少年の元からやってくる柔い雨が、青年の心臓に降っていた。青年にとって虹架かる昼間の天気雨よりも、無数の光の中を降る夜の雨よりも、何よりも美しいそれは、やはりどんな春風よりもやさしく、あたたかいものだった。
「……もいっかいだけ、おまえの料理が食べられたらな。きっと、夕ごはんのオムライス……用意しててくれたんでしょ?」
 それからしばらくの間、青年の胸の上で泣きじゃくっていた少年は、その鼓動からそっと顔を上げ、少しばかりばつが悪そうにそう発し、相手のことを下から見上げた。そんな、なんとなく家出をした後におずおずと帰ってきたかのような少年の様子に、青年は思わず控えめな笑い声を立てると、相手の頭をゆるゆると撫でながら目を細めてみせる。
「あはは。バニティが全然来ないから、もう冷めちゃってるよう……! またお腹が空いたら作ろうか。ね?」
「あ……えっと、お、おれも」
「うん?」
「おれも、料理、してみたい。教えてくれる? トロベリー……」
 その言葉に、青年はぱちり、と水色を瞬かせる。少年の口から思いも寄らなかった願いが発せられたことに、彼はちか、と自分の瞳を輝かせると、心底嬉しそうに喉の奥をくつくつと鳴らし、絡めた指に更に力を込めた。
「もっ、もちろんだよう! バニティなら、きっとすぐ上手になるよ……!」
「そ、そうかな。でもまあ、おまえには敵わないと思うけど……」
「ええ〜? そんなことないと思うなあ」
「そんなことある」
 青年の緩い否定に、しかし少年はきっぱりとそう発すると、意義は認めないという風に口元をへの字にして相手の方を見つめた。そんな相手の様子に青年は、ふふ、口の中だけで愛おしげな笑みを形づくり、片方の指先でこちらを見上げる頬の輪郭をそっとなぞってやった。
「だったら、俺はバニティに白い服を着てほしいなあ」
「白い服?」
「うん。なんか、ずうっと前から思ってた……ような、気がするんだあ」
「はは、何それ」
「ふふ、変?……じゃあ、ないよね」
 白。二人が暮らしていたかつての王国で、赤と黒ばかりを身に纏ってばかりいた少年にとって、その色はあまりに眩しすぎる色のように思えた。まなざしで首を傾げている相手の睫毛を甘やかに撫でてやりながら青年は、きっと今まで少年が見てきたどれよりもひどくやさしい顔をして笑った。
「──きっと、世界一似合うよ、バニティには」
 白。喩えるならば、白だった。青年が浮かべる笑みの色があまりに美しくて、少年はまた涙を流した。赤い瞳を甘く灼くそのまばゆさに、ぱちぱちと瞬きをくり返しながら、それでも彼は目を開けていた。青年の胸に耳を当てれば聞こえる、心臓の音さえも澄んでいた。少年は呼吸と共にゆっくりとした瞬きを一度すると、相手の唇に向かって片手の指先を伸ばす。神さまみたいに美しかった。神さまになってほしくなかったから、少年は手を伸ばして、言葉を吐いた。さいごの罪は、これがよかった。
「……おまえは綺麗な人だね、トロベリー。ここではおまえの顔がよく見える……」
「俺、ちゃんと嬉しくて笑えるようになったからね。これも……バニティのせいで」
「そんなの……おまえが頑張ったからだよ。おれは何もしてない」
「あはは。俺を頑張らせたのはバニティだよう。俺のつまんねえ人生、すっかり変えちゃったくせしてさあ」
 ころころと仕方なさげに笑い声を上げた青年に、少年は変わらずぽろぽろと涙を流し続ける。泣かないでとは今は言わない青年は、それでも少年の薄い背中を彼のものよりも一回り大きな手のひらで撫でながら、時折とんとん、と柔らかく叩いてやっていた。
「……二人きりでよかったな。そんなに優しく笑ってたら、みんなおまえのこと、大好きになっちゃうぞ……」
 そうして青年のあたたかさと、手のひらの熱と、確かに鳴り続ける心音のすべてに安堵した少年は、涙を少し落ち着けて、再び青年の瞳を見やった。湿りながらもからからに渇いてしまった鼻声で彼はそのように発すると、顔を濡らす涙を未だ拭えないまま、青年の唇の端を指先で軽く叩いて口角を上げてみせる。
「そしたらおれは、ちょっと困っちゃうからな」
「ふ……優しいね、バニティは。でも、バニティが知っててくれるなら、俺はそれで十分だ……」
「……優しいってのは、おまえみたいなことを言うんだよ」
 青年の囁いた言葉に、少年は緩くかぶりを振って、呆れたように眉を下げて笑った。そんな少年の目尻に溜まる涙を、青年は親指でもう慣れた風に拭ってやると、水の底できらきらと光っているその赤色を覗き込み、微笑みながら首を傾げる。
「あのね、バニティ」
 その呼びかけに、目と目が合う。いつもみたいに。
「バニティは、自分が俺のことを殺したって言うけど、それは違うよう。全然、違うんだよ。だって俺、生きてられたんだよう。バニティのおかげなんだよ。バニティがいたから、俺、生きていられたんだ。バニティがいるならさ、俺、どこでだって生きてられるんだ。死なないんだよ。死なないの……」
「……そんなわけないだろ。相変わらず、大げさなヤツ……」
「ほんとだよ……! 全部、ほんとのことなんだよう」
 青年がぽつぽつと、けれど確かに発する言葉たちは、随分でたらめで、まったく現実味のないものである。死なない。死なないなどとは。信じようがない言葉だった。きっと、この少年たった一人を除いては。
「ああ……」
 少年は呟いて、自身の額を青年の心臓の上に押し当てた。そこでしばらく何かを確かめるように呼吸をしていた彼は、ふと顔を上げ、そうして半ば呆れたみたいに青年の方を見て微笑んだ。相手が発したその有り得るはずもない言葉に、一度は軽く否定した言葉に、けれど少年はついに頷いて、それから笑ったのだった。
「うん……うん、そうだな。おれも、そうだ……」
 そう呟いては滲むように目を細めている少年に、青年は呼吸をするのと同じくらいの自然さで口元に柔い笑みを浮かべると、自身の手のひらで相手の黒髪をやさしく梳いてやる。それから少年の赤い瞳を、自身のあたたかな水面でじっと見つめ、喉元まで上ってきた願いを一つ、唇から紡いでみせた。
「──ねえ、バニティ、歌って。なんでもいいから」
「……歌えないよ。全部、みんな、忘れちゃったんだ」
「だいじょうぶ。歌えるよ、バニティなら」
 その言葉に、少年はおそるおそるといった様子で喉の少し下、肺の少し上辺りに片手を置き、さながら何かが起こるのを待って、黒い睫毛に覆われた瞼を音もなく閉じきった。そして少年は、頭の中で何百冊分もある脚本を、楽譜を、歌詞カードを片っ端から捲ってみる。けれども、或る頁は破られ、或る頁は丸ごと切り取られ、また或る頁は水をかけられて滲み、或る頁はそもそも白紙だった。少年は、は、と短い呼吸で息を呑む。幾ら待ったとて旋律は流れ出さず、詩も息を吹き返さない。彼はぎゅっと片手を握り締めると、うっすらと目を開いて、苦しげに青年の方を見た。青年はひどくやさしい表情で、けれども何か確信めいた瞳をして、少年の方を見つめている。あ。繋いだ指の先から、そっと旋律が流れ出した。そういえば。
 そういえば、在った。一つだけ。
 出会って間もない頃、青年がピアノででたらめに弾いた歌。きっと何か元があるのだろうその歌を、音が外れた部分をそうだと思われる音のところに、一つずつ戻していったあの遊び。歌詞は分からない。分かるのは、青年が弾いたお世辞にもあまり上手とは言えないピアノの旋律と、彼のハミングだけ。たったそれだけ。たったそれだけで、一体何が歌えるというのか。でも、けれど。
 けれど、それだけ在れば十分だった。少年は青年と指を繋いだまま、青と桃の花絨毯の上へと共に立ち上がる。次いで彼は切り株の上へ乗り上がると、その上でしゃんと背筋を伸ばして、濃紺の空から降りてくる淡い光を自身の輪郭に帯びた。少年は、息を吸う。舞台に上がる前の、あの呼吸を。太陽か月かと思われた天上の光はきっと、奈落の底から見えるスポットライトの明かりだった。
 そして、吐いた息から歌になる。少年はただルの音だけで歌をうたった。その音だけで、声だけで、文字にはできないことばで、彼は青年との日々を描いた。それから睫毛の間から光が散って、少年の口元が弧を描く。何もかもでたらめみたいに聞こえる歌をうたいながら、そんな毎日を想いながら、彼は笑っていた。微笑んでいた。甘い涙を堪えきれないほどに、愛しい日々だった。そういう人だった。少年は歌った。はじまりからそうだった。だから、少年は歌ったのだった。
 ややあって、少年が歌を閉じると共にそうっと息を洩らす。そのさまに青年は彼の目の前で立ち上がったまま、ぱちぱちと惜しみなく拍手を送り、永遠に賛美を贈りたい気持ちの代わりとして、やはり少年のことを強く抱き締めたのであった。大げさなヤツ。青年の行動に対しての口癖を、少年は今だけは喉の奥に引っ込めた。
「俺、バニティがいるならどこでもいいよ。でもね、一個だけワガママ言うなら、やっぱり……」
 そうして青年は少年のことをかき抱いたまま、嬉しさともう一つ、何か滲むものを声に乗せて、それを相手の耳へと届けた。
「バニティが舞台に立って、スポットライトを浴びて演じて、俺だけじゃない……たくさんの人にいっぱい拍手を貰うところを見たいなあ」
 願いよりももっと青年の感情の溢れるそれは、喩えるならば希いだった。自分のことを離れがたいというようにぎゅうと抱えている青年に、少年は、ふ、と仕様なさそうな笑みを洩らすと、彼の頭の後ろでパチ、と軽く指を鳴らしてみせる。
「そんなの……これから、見せてやるよ。いくらでも」
「ほんと?」
「うん。約束、しただろ」
 瞬きをして、声ばかりで首を傾げた青年に、少年は当然といった声色でそう返してくつりと笑った。
「──おれたち、一緒に行こうよ。……まだ、約束、だめになってないよな?」
「なんにも、……なんにも、だめになってないよう」
「じゃあそれ、ちゃんと果たそう。今度はきっと、だいじょうぶだよ。おれ、おまえのこと、もう置いていったりしないから」
 そう言って、青年の肩越しに少年は自分の左手へと視線を向けた。薬指に残る、少年にだけ見える透明な歯の痕を見つめて、彼はもう片方の指先でその上をそっと撫でる。
「だから……おれのこと、ちゃんと見付けてね、トロベリー」
 それから少年は、少しだけ青年の鼓動が、彼のやさしいたましいの音が聞きたくなって、履いていたハイヒールを脱ぎ捨てた。青年のこら、という困ったような笑い声が心地良くて、少年はくすくす声を洩らしながら、自身の耳を相手の心臓へと押し当てた。とく、とく、とく。柔くて、強い音。ぽっかり空いた穴を、埋めてくれるやさしい音。少年は瞬きのために閉じた瞼が中々上がらないことに気が付いて、慌ててぱちぱちと瞬きをくり返した。
「……バニティ、眠いの?」
「ん……ちょっとだけ……おまえの心臓の音、あったかいから……」
「そっか、よかった……ここならいくらでも眠れるよう。だから、もう寝ちゃいなよ、バニティ」
 その言葉に、少年は心の中だけで首を左右に振った。いま眠ってしまったら、次起きたとき、隣に青年がもういないような気がしてしょうがなかったのだ。それでも青年のやさしい心音からは離れがたく、また彼の発した安堵の声は少年の心を揺りかごのように柔く揺らした。そして、青年の大きな手のひらでゆるゆると背を撫でられるのも微睡みをひどく助長して、少年はついにこみ上げてきた欠伸を隠すこともできずに、相手の身体にぎゅうとしがみ付いた。
「トロベリー……」
「うん」
「おれのこと、忘れないで……」
「うん……」
「おれのそばにいて。おれのこと、離さないでね……」
 うとうとと舟を漕ぎ、あたたかな海の中へと落ちていこうとする少年は、ほとんど寝言のようにそう発して、自身の頭を青年の心臓の上へと擦り付けた。青年はそんな相手の丸い頭を、背を撫でるのと同じ速度でゆったりと撫でてやりながら、余っている方の腕で少年が苦しくない程度に彼の身体を自分の方へと近付け、微笑む。
「忘れないよう。絶対に離さない。バニティがまた起きるまで、俺はここでずっとこうしてるよ」
「うん、ありがと……」
「起きたらさ、また最初からやり直そう。誰も傷付けないように頑張ろう。そんで、バニティが欲しいもの、全部取り戻そうよ」
「うん……」
 少年はもう瞼を開けることもままならなくなって、それでもなんとか青年の言葉に相槌を打った。大人みたいな顔をして笑う子どもが、すっかり子どもの笑みですやすやと寝息を立てようとしているさまに、青年はくす、と微かに声を洩らすと、そのつむじへと小さく口づけを落として、
「だから、今はおやすみ、バニティ……」
 と囁き、自身も少しだけ睫毛を伏せた。青年の声に少年は何事か返したようだったが、それは最早聞き取ることができない眠りの国の言語だった。青年は、すっかり眠りに落ちてしまったのだろう少年の背を、けれども絶えず撫で続け、心の中だけで先ほど少年が歌っていた詩のない歌を口ずさんでいた。
「トロベリー……」
 ややあって、腕の中で身じろぎをした少年が、眠りながら青年の名を呼んだ。その声に青年は薄く瞼を開けると、自分の心音を聞きながら瞳を閉じて寝入っている少年の睫毛を視界に映した。
「おやすみ、トロベリー。また、明日ね……」
 少年の口から発せられた、そんな当たり前の挨拶に、青年は少しだけ目尻の先が痛むような心地がした。それから、なんとなく少年が泣いているような気がして、青年はその目尻を起こさない程度に柔く拭う。そして、その通りに指先は濡れた。青年は、自分の目元は触らなかった。
「うん。また明日、ね。バニティ……」
 安心して眠りに就いた少年を、おそらくほんとうの意味で初めて目にした青年は、彼自身もまたひどく安堵して、開けていた瞼を静かな呼吸と共にそっと下ろした。ここには自分がいて、少年もいる。花の香りももう分からない微睡みの中、腕の中に在る微かなチョコレートとバニラのにおいだけが確かだった。それでよかった。それだけで。再び目が覚めたら、寝惚けまなこの彼に、きっとおはようが言えるだろう。よかった。当たり前の挨拶を、自分たちはこれから、これからも何度だって交わせるはずだ。何度も。
 何度も。
 少なくとも、百万回。




 Strawberry Vanilla Ice cream
 20200613 執筆

 …special thanks
 トロベリー・クラウン @橋さん


- ナノ -