世界は五分前からはじまった



 ふわりと意識が首をもたげたのは、同じような柔らかさで漂う甘い香りが、自分の鼻腔をくすぐったからであった。
 少年はまだくっついていたがる瞼をなんとか引き離して、視界に靄がかかったままに映る天井の色をぼんやりと見つめる。息を吸うのと同時に、くあ、と控えめなあくびを洩らした彼は、目に映る紫色の天井に、こんなホテルに泊まってたっけ、と心の中で曖昧に首を傾げる。なんだかひどく馬鹿げた夢を見ていたような心地に、それから少年が身を起こそうとして、けれどもその身体にはどこか軋む感覚があった。
「う……」
 思わず油を差したくなるそのさまに、少年は軽く呻き声を上げる。舞台稽古で疲れ果ててソファや床で眠ることもしばしばあるが、それにしても今日のこれは格別な気怠さだった。それでも彼は、自身が眠りに就いていたダブルソファの上から今度こそ身体を起こすと、ゆっくりと瞬きをし、辺りを見回して──夜に溶ける紫色の壁紙、すぐそこに見えるアイアンベッドの上には黒っぽい青のシーツ、枕、毛布、ぺちゃんこのまま床に落っこちているワイン色のクッション、ベッドサイドの黒木のチェストにはシェードランプとキャンドルと多肉植物がそれぞれぽつんと佇んでいる。窓は一つきり、そこに掛かる閉ざされたカーテン──それからまた瞬きをする。目に映る光景が馬鹿げた夢さながらの記憶を呼び起こして、少年は頭のてっぺんからつま先までが一気に目覚める心地を覚えた。くしゃりと前髪を握り込み、息をつく。ホテルではない。悪夢だと思われたものは夢ではなかった。或いは、まだ夢の続きを歩いている。気怠さはそのままに、頭痛までもが少年の身体に這い寄り、彼は眉間に皺を寄せた。
 彼はソファから降りる直前、自分の身体に掛けられていた大量の毛布に気が付くと、それの持ち主と今漂っているこの香りの出所を早々に察して、ほんの少しだけ安堵したような表情を瞳の中だけに浮かべる。そうして薄暗い部屋の中を、自分を落ち着かせるために一回りして、ベッドサイドのランプのスイッチを入れ──眩しすぎるそれに、すぐさま再びスイッチを切った。ランプの隣に置かれたキャンドルはよく使われているのだろう、蝋が溶け、もう残り少なくなっている。しかし少年はそのキャンドルではなく、横に佇んでいる小さな多肉植物を手に取ると、受け皿にまでたっぷりと水の注がれているそれをじっと眺めて、そんな小鉢を片手に寝室から外へと出た。
 歩くたびにちゃぷちゃぷと音を鳴らす多肉植物と共に、青い廊下を抜け、少年は薄暗い家の中、光の洩れ出る方へと進んでいく。どうやらこの家は、部屋ごとに壁紙の色が異なるようだった。そのセリビアの理髪師さながらの構造と色彩には多少馴染みがあったから、屋外に広がるあの出来損ないの白黒映画景色よりは、この家の方がずっとましに思える。ダリの絵画のように、どこか空間が捻れたような外装を目にしたときは眩暈がしたものだったが、不思議なことに内側は見た目ほど歪んでいないのだ。欲を言うならば天井や床板が多少皮肉っぽく、斜に構えている程度であった。
 そして、そんなこじんまりとした舞台装置のような家の、廊下の窓から差し込む色は紫と濃紺の淡いを示し、夕暮れの終わりを告げていた。それを眺めながら、少年はなんとなく、このおかしな国にも朝や夜の概念があることに多少の安心を覚える。太陽は西から昇るかもしれないが、それでも。
「──あっ、バニティ!」
 そうしてコツコツと靴を鳴らして廊下を進んだ先、扉の開け放たれたままである、光が洩れ出る場所へと足を踏み入れれば、決して広いとは言えないキッチンの前に立つ青年が、ぱっと顔を輝かせて少年の方を振り返った。
 青い口紅がべったり塗られては弧を描く唇、ぼんやり光るティファニーブルーの瞳、癖っぽいストロベリー色の髪、そのてっぺんに生える一対のウサギの耳。そんな相手の姿に、少年はまた一つ瞬きをする。やはり、夢ではないのだ。何もかもが。彼は身体よりも更に軋んだ音を立ててなる心の臓に、少しだけ息を吐いた。俯けば目に映る、髪の毛のような焦げ茶の垂れ耳。それは野を駆け回るウサギのものではなく、他でもない、自分のものであった。
「目が覚めたんだね! ええっと、俺ねっ? バニティがハラ減ってないかなあと思って、ほら、色々作ってたんだあ!」
「腹……」
「うん! どう? オナカ、空いてない?」
 フライ返しを片手に、こちらを向いたままそのように問いかける青年に、少年は自分の腹部を軽くさすった。そうしてダイニングテーブルの上にことり、と多肉植物の鉢を置くと、青年の方を見て、なんとなくぼんやりとした笑みを浮かべる。自分の摂る食事のことなど、今の今まで頭からすっぽ抜けていた。
「……そうだな。いいにおいがしたから、少し……」
「ホント? よかったあ。たくさんあるよう! 好きなだけ食べて、バニティ!」
 そう言って、青年はフライパンに掛けていた火を一度止めると、その視線で流しの横の調理台を指し示す。それにつられて少年が調理台の方へと目を向ければ、そこに所狭しと密集している料理料理料理に、彼はぎょっとして自身の赤い目を見開いた。
「随分……作ったんだな。この家にはおまえ以外も住んでるのか……?」
「ううん、俺だけ! バニティが好きなものが分かんなくてさあ! 俺が作れるだけ作れば、一個くらいキミの好きなのがあるかなあと思ったんだよう〜、アハハ!」
「いや、そんな……べつにおれが好きなものじゃなくたって……」
「だめだよう! バニティは大事な──えっと、大事なお客さん! なんだから!」
 首を傾げ、視線をきょろりと動かして、青年はそうにこにこと笑って言った。それから彼はテーブルの前の椅子を引き、少年に座ってて、と声をかけると、調理台の上からいそいそと料理を運んでくる。青年に肩を押され、半ば無理やりに椅子へと座らせられた少年は、青年が器用に腕の上に幾つも乗せている料理たちをぼうっと眺め──カップケーキ、ホットケーキ、マルゲリータピザ、フライドポテト、マカロニサラダ、コーンポタージュ──それらが載っている、このダイニングの壁紙にも似た小花柄の皿を目に映しては、そういえば自分の母親もああいう柄物が好きだったな、とちょっとばかりくすりとした。
「今ねえ、オムライスも作ってるんだあ。バニティはオムライス、好き?」
「オムライス?」
「うん! ふわふわの!」
 卓につく少年の前へ、順に料理を並べていきながら、瞬きも少なに水色の瞳がそう問いかける。少年はそんな青年の方を見やりながら、その目が合うようで合わない相手のまなざしを別段気にならない様子で受け止めては、目の前に並べられていく料理たちや青年の口から発せられる料理の名前にどこかほっとした呼吸を継いで、その唇に形の良い笑みを浮かべた。
「……うん、ありがと」
「好き? アハハ、やったあ。俺ねえ、オムライスとホットケーキには自信があるんだよう! シュギョーしたからね! ほらほらっ、ホットケーキはこれ! 食べてみて? あ! ナイフとフォークがいるよねえ! ええっと……」
 にっこりと口角を上げたまま、青年はぱっと瞳の色を明るくすると、ぱたぱたと慌ただしくキッチンの引き出しという引き出しを開け、その中をがちゃがちゃと探り出した。口出しする権利もないだろうと黙ってその姿を眺めていた少年は、けれども青年の焦って指でも切ってしまいそうな危なっかしさに自分の椅子を引こうとして、
「あっ、あった!」
 しかし相手の安堵したような声に、何か言葉を発しようとした自身の唇を閉じた。青年の片手の中で銀色をした食器がちかりと光っている。そうして彼はタオルラックの上できちんと折り畳まれている白い布でそれを丁寧に磨くと、その銀食器を少年の前にかちゃりと微かな音を立てて置き、自身の目を三日月状に細めては、テーブルの上に並べられた料理の大群たちを示して笑った。自分自身は少年の横に立ったまま、ぱちんと手のひらを合わせ、軽く頭を下げる仕草をして。
「──じゃあ、はいっ、イタダキマス! さ、バニティ。どうぞ召し上がれ!」
 けれども、あまり馴染みのないその動作に、少年は小首を傾げて青年の方を見た。
「イタダキ、マス?」
「うん、ゴハン食べるときの挨拶だよう〜。俺以外だあれも言わないけどねえ、アハハ!」
「……ふうん。でも、なら……」
 からからと空洞の中で木の実が跳ねるように冗談めかして笑い飛ばした青年に、少年はゆっくりと瞬きをしながら、こくりと淡く頷いた。それから彼は先ほどの見よう見まねで自分の手のひら同士をそっと合わせると、
「イタダキマス」
 そう言って、ぺこ、と軽く自身の頭を料理に向かって下げてみせた。
 そして、そんな少年の仕草に、青年はその唇に依然くっきりと弧を描いたまま、目を見開いてはぱちぱちと瞬きをくり返す。彼は、椅子に座っている少年が銀色のナイフとフォークを手に取り、目の前のホットケーキを小さく一口分に切り分けるのをじっと眺めながら、何か言葉を発したそうにその口を開け、それでもそこから一言も発することなく再び唇を閉じていた。まるで困惑しているように指先同士を擦り合わせている青年の様子などつゆ知らず、少年は切り分けたホットケーキをフォークで刺し、ふんわりと甘く香るそれを見つめている。
「……美味し、」
 ややあって、おそるおそるといった調子でそのホットケーキを口に運んだ少年は、想像していたよりもずっと柔らかくて温かい食感と、舌の上に控えめに広がるやさしい甘味に、ほんとうに純粋な気持ちで思わずそう言葉を零した。ぴく、と長く黒いウサギの耳を動かしてその呟きを聞き取った青年は、少し伏せていた睫毛をぱっと上げ、首を傾げては慌てたようにべったり張り付いたままの笑顔を少年の方へと向ける。
「わ……わあっ、ホント? どんどん食べてねえ。オムライスももうできるから!」
「あ、ありがと……」
「待ってて! すぐ用意するからねえ」
「や、そんな急がなくても……」
 すでに声色から走り出した青年の方を向いて、少年は少しだけ困ったような表情を浮かべた。けれども振り向いた先の青年はもう早々にキッチンへと戻ってしまっており、少年はちょっとばかり仕方なさそうに唸ると、ぽり、と痒くもない頬を掻いて再び卓の上に整列している料理たちの方へと向き直った。
 すぐそばのキッチンでは、フライパンを火に掛け、卵を割っている青年の後ろ姿が見える。その様子を視界の端に映しながら、少年はまたひとかけホットケーキを切り分け、それをゆっくりと口へと運ぶ。口内へ入れた柔らかいものにもくもくと静かに咀嚼をくり返して、彼はそうっと自身の睫毛を伏せた。
 不思議なものだった。
 そう、不思議だった。目を開ければ絶望感にも似た不安と疑念と恐怖ばかりが視界いっぱいに広がるこの国で、それでも尚、この小さな家の中では安堵していられる自分がいることに。身の安全も、元の世界へ帰ることができるという保証も何一つない、誰とも知らない青年の家で、呑気に眠りこけ、食事の香りで目を覚ましている自分がいることに。暗い寝室、閉ざされたカーテン、眩すぎるランプ、眠る自分に掛けられた、重たいほどの毛布たち。寒々しい青の廊下。窓から入り込む、寂しい色の光。ダイニング。白い小花模様に、桃色の壁紙。火の温度。流しに落とされる卵の殻。食器同士がぶつかり、微かに響く音。溶けるバターのにおい。青年の足音。生活の気配。ホットケーキを口に運ぶ。温かかった。柔らかくて、甘かった。そして、それから。
 それから、目を瞑りたくなるほど、やさしい味がした。
 少年の睫毛が震え、銀食器を持つ両手に力が込められる。少しだけつんと痛みはじめた目頭と、眠気ではないもので滲んだ視界に、彼はゆっくりと呼吸をすると、数回の瞬きの内に正常な視力を取り戻した。寝室や廊下に比べて柔らかい色使いに、あたたかい照明のダイニングは、けれども他よりもずっと寂しいにおいがする。朝でもなく、夜でもなく。ここはきっと、夕暮れだった。息を吸う。飲み込んだ空気はどこか震えていた。
「……クラウン」
「うん? ごめんねえ、もうちょっと!」
「いや、そうじゃなくて……おれも、何か手伝おうか」
「えっ? う、ううん! いいのいいの、バニティは座ってて!」
 どうして彼は、少し息を止めるのだろう。たとえば挨拶の模倣、たとえば美味しいという言葉、たとえば手伝いの申し出、自分が行う、当たり前に思える動作すべてを目にするたび、青年はきっと息を止めていた。相変わらず笑んだままの表情で、驚いているような、それでいて困惑しているような光を目の内側に湛えて。
 何故だろう。さながら、自分が見えているのか、とでも問うような瞳。或いは、彼に声をかけられた自分もまた、同じ目をしていたのかもしれない。差し出された銀食器は、使われた形跡もなく傷知らずにぴかぴかとしている。誕生日でもないのに、作りすぎの料理。自分は、相手から見たら得体の知れない存在だろう。それなのに、料理はテーブルから溢れ出してしまいそうなほどの数が用意されている。そんな、なんとなく空回りしたもてなし方。まるで人を招いたことなどないというようだった。毎日、一人きりの食卓。夕暮れの陽の中で、生活の音を立てて、一人きりで。ベッドサイド。水をやりすぎた多肉植物。ぽた、と一粒、テーブルの上に雫が落ちる。それが自分のもつものなのか、それともこのダイニングに元々漂っていたものなのかは分からない。その水滴をそっと指先で拭って、息を吐く。震える睫毛と唇を抑えて、手に込めた力を緩めた。青年は振り返らなかった。一口、ホットケーキを口に運ぶ。
「はあい、オムライスもできたよう。どうぞ、バニティ!」
 それからしばらくして、少年の元にオムライスが運ばれてくる。その頃には心の乱れも収まり、すっかり彼らしい落ち着きを取り戻していた少年は、三分の一ほど平らげていたホットケーキから一度目を離して青年の方を見た。口が小さいために、少年は食の進みが遅い。料理は他にもまだまだ残っている。青年はテーブルの上でまだ少し空いている場所にオムライスをことりと置くと、少年へと向かって首を傾げた。
「オムライス、何かける? チョコレートソース、マーマレード、イチゴジャム?」
「い、いや……ケチャップ、あるか? あるならそれがいいんだけど……」
「ケチャップ? あるよう。でも……いいの? ライスもおんなじ味だよう?」
「おれはそれが好きなんだ。いろんな味がすれば美味しいってわけでもないだろ」
「……そっかあ! バニティがいいなら……はい、ケチャップ!」
 頷き笑って、青年はテーブルの端にずらりと並んでいる調味料らしき列の中から、ケチャップのボトルを少年の方へと差し出した。少年は軽く礼を言ってそれを受け取ると、ボトルの蓋をぱこんと開けて、ふんわりと黄色くまあるいオムライスの上へ、そのケチャップで味付けついでに思い付いたまま絵を描いていく。青年は向かいの席の方へともう一つ、自分の分のオムライスをとんと置きながら、そんな少年の様子を興味深そうに見つめていた。
「バニティ。それ、なあに?」
「何って……王冠。クラウンが作ってくれたから、なんとなく」
「王冠? アハハ、俺のクラウンはピエロのだよう!」
「知ってるさ。でも、このキッチンの主ではあるだろ」
 しれっとした態度でくつりと笑って、少年は新たに差し出されたスプーンでそのまん丸い山の端を少し崩した。厚めの黄色い衣を被ったケチャップライスには、同じく厚く切られたベーコンが見え隠れしており、少年は思わぬところで青年と好みが合致したことに無意識にほくそ笑んだ。ほかほかと白く湯気が立つそれは、温かいというよりはまだ熱く、けれども鼻腔を擽るバターの香りに、誘われるまま少年はスプーンで掬ったオムライスのひとかけを口の中へと運ぶ。トマトの酸味が控えめな、バターでタマゴを引き立たせた甘めの味付け。思わず口の中で笑んでしまうその味に少年はもう一口分、目の前の山を切り崩そうとして、はたとする。青年が食べていない。スプーンを片手にしたまま、少年は少し後ろを振り向いた。
「それで……おまえは食べないの?」
「えっ、俺? 俺は後でいいんだあ。バニティが食べた後で!」
「……なんで? おまえも腹、減ってるんじゃないのか」
「ん、んん? だって、俺は後じゃないと怒られちゃうし……?」
「誰に?」
 自分の少し後ろで突っ立ったままの青年に、少年は心底疑問だという表情を隠すこともなく顔に浮かべて、じっと相手の方を見つめた。
「誰が怒るんだ? 少なくともおれは怒らない。というか、怒るわけないだろ、おまえが作ったんだし……。それに、ここはおまえの家でしょ、クラウン。食べてよ。そもそも、おれ一人じゃ食べ切んないし……冷めちゃうだろ。もったいない」
 そして、言いながら結局我慢できずに、彼はオムライスを口に運ぶと、それをもぐもぐやりながら飲み込みついでにその片手をひらりと振って、自分の向かいの席を示す。そんな少年の様子に、青年は困ったように眉間に皺を刻み、笑みの角度を上げたり下げたりをくり返した。
「い、いいのかなあ。変、じゃない?」
「どこも……」
「そ、そっか。バニティが言うなら……」
 笑み続ける青年の睫毛が、けれども口角のかたちに反してそうっと伏せられる。彼の髪の毛は頭のてっぺんから毛先にかけて、ストロベリー色からミントブルーへとグラデーションしているが、しかし睫毛はその限りでもないらしい。それでも、ただ少し瞳の水色が反射して、睫毛の先が淡く海の色に染まっているな、と少年はぼんやりと思った。
「──イ、イタダキマス」
 少年はオムライスを口に運びながら、視線で青年を追う。彼はおずおずと向かいの席の椅子を引くと、そこに緊張したように腰を下ろし、それから両手を合わせて、あの挨拶を行った。そののちに、ちら、とこちらを窺うようなまなざしが注がれて、少年は反射的にこくりと頷いてみせる。そうすれば青年は曖昧な笑みを口元というよりはまなじりに浮かべて、まずはテーブルの中心に置かれている、切り分けられたピザの一つを自分の皿の上へと乗せた。それから彼が列の中から選び取った調味料に、少年は多少ぎょっとして、オムライスを切り崩す手をちょっとだけ滑らせる。
「……マルゲリータに、マーマレード?」
「うん! 街ではこれが定番なんだあ〜」
「へ、へえ……?」
 試してみて、と言わんばかりに青年から差し出されたマーマレードジャムを一掬いして、少年はほんの少しだけマルゲリータピザの端にそれを乗せてみる。そうして彼はそのピザを一口かじると、
「……おれは、こっちのバジルソースにしよっかな」
 特にマーマレード乗せマルゲリータへの感想は述べないまま、バジルと思わしきソースの入っているガラス瓶を手に取った。それ、葉っぱのジャムだよう、甘くないんだよう? と心配そうにこちらを見ている青年に、少年は好みは人それぞれあるからな、と模範解答極まりない返事を発して、今しがたかじったピザの上にバジルソースをとろりと垂らした。
「へ、へへ……誰かと一緒にゴハンなんて、すっごい久しぶりだなあ」
 それからしばらくあって、食事のための沈黙が続く中、青年がふと思い出したようにそう発した。その言葉に、少年はスプーンを持つ手を一度止めて、未だ口の中に閉じ込めているケチャップライスを急ぎ足に咀嚼する。そうしてごく、とそれを飲み込んで、少年はふうと息を吐いた。
「……それは……まあ、おれもだよ。クラウンは料理上手なんだな。いつも自分で作ってるんだろ? 偉いな。おれには絶対ムリ」
「ええ? 俺にだってできるんだから、バニティには簡単だよう! 俺にはこれくらいしかできないもん、アハハ……」
「それを言うならおれだって演劇しかできないよ。そんなものさ。どっちが上って話でもない」
 少年が片手をひらひらしながら平然とそう返せば、青年はまたぱちぱちと瞬きをして、うろ、と少しだけ視線を彷徨わせていた。特に返事を強要しているわけでもなかった少年は、またオムライスの山を崩し、それを口に運んではゆっくりと味わうをくり返している。食べる速度が遅い自分にも問題はあるのだろうが、それにしても量が多い。少年は冷めても美味しく食べられるものとそうでないものを順位付けて、遅々としてでも料理を無駄にしない方法を考えていた。
 青年はそんな少年の方をちらと見やって、それからかたり、と手に持っていたスプーンを皿の端に置く。そんな、ふと鳴った音に睫毛を上げた少年と目が合った青年は、相手の真っ赤に揺らぎのないまなざしから反射的に視線を逸らした。そして、その際にテーブルの隅にぽつんと佇んでいる多肉植物の存在に気が付いたのだろう、それを目に映しては不思議そうに小首を傾げてみせる。
「あ……あのう、バニティ。バニティもこの子、心配だったの?」
「ん……ああ、そういえば……」
「この子ねえ、幾ら水をあげてもゼンゼン、一言も話さないんだあ……ずっとトゲトゲして怒ってるから、俺なんか悪いことしたのかなあと思って、ずっと水をあげてんだけどねえ……」
 眉尻ばかりを下げ、躊躇いがちにそう発する青年の言葉に、少年はどことなくウサギのシルエットにも見える多肉植物を眺めながら、しかしその瞳に怪訝な光を浮かべて相手の方へと視線を移した。
「……フツー、植物は話さないだろ」
「ええっ? でも、花は喋るよう。喋らない花は枯れて動かねーもん。それって、しんじゃってるってことでしょ? あ、その子……もしかして、しんじゃってる……?」
「あー……」
 不安げに多肉植物の鉢を覗き込むようにしている青年に、少年はゆっくりと瞬きをしながら、自分が今いるこの国は、おのれが元いた世界に比べて色々と常軌を逸しているのだということを思い出して、半ば辟易したまなざしを明後日の方角へと送った。そういえば花、喋ってたな。道のそこここに咲いている、やたら姿形の大きい花。少年はオムライスの乗っていないスプーンを指先で一回転させ、少し息を吐いてから青年の方を見やった。
「訂正する。おれが言いたいのは……話さない植物もいるってこと。おれはあんまり詳しくないけど、こいつはまだしんでないと思う。あと怒ってもいない。元々トゲトゲした姿だから、誤解されがちなんだろ。でも少食なんだ。水があまり飲めない。あと、ひなたぼっこが好き。だから、あの寝室より、光が入りやすいこっちのがいいってさ。ちなみに名前はサボテンだ」
 サボテンにも色々種類はあるだろうが、ひとまずそこは伏せたまま、少年は自分が持ちうるこの目の前の多肉植物についての知識を、つらつらと青年の言葉に沿うような表現で発してみせた。そうしてみれば、浮かない色を目に浮かべていた相手の顔がぱっと輝いて、その瞳に拍手の音が鳴る。
「す、すごい、バニティ! 喋らない植物とも話せるのう?」
「いや、話せない。おれが元いた世界の知識だから、おれがすごいわけでもないよ。おれがいたのは、いろんな人が何世代もかけて、知識や技術を積み重ねている場所なんだ。演劇だってそう。その演目を演じる役者に相応しい脚本や美術や装置は、日々更新され続けていて……」
 赤い目を細めて、少年は歌うたいさながらにそう言葉を連ねると、しかし同時にその世界に、舞台にいま自分が立っていない事実が重くのし掛かるような心地を覚えて、尻すぼみに言葉を切った。こんな言葉になんの意味があるだろう。少年は眉根を寄せたまま青年へと不明瞭に微笑みかけては、再びオムライスを口に運びはじめた。
「バ、バニティ。えっと……」
 もぐもぐと唇を動かしながら、少年は青年の方へと目を上げた。そうしてみれば、青年は何かを探すように視線をうろうろさせており、少年はそんな相手の様子にオムライスを飲み込んでから小首を傾げる。
 それからややあってこちらをまなざした青年は、自信はなさげに、けれども確かに少年へと向かって頷いていた。
「──バニティがそう言うなら、きっと、そこはすっごくステキなとこなんだねえ。じゃあ、バニティは……早く、帰らなくちゃ!」
 その言葉はきっと、青年なりの激励であったのだろう。少年はそんな相手を見つめ、銀食器のスプーンを握り直すと、ひどく彼らしい自信ありげな表情で笑みを演じてみせた。呼吸はできるが、心臓には痛みがある。しかし、それさえも少年は抑え付けてしまっては、オムライスにかまけて放置しがちだったホットケーキを口に運んだ。オムライスのそれとはまた違う甘味に、彼は少しだけほっとして、それから思い出したようにつと瞬きをした。
「……あ、そうだ」
「ん〜?」
「毛布、ありがとな。おまえが掛けてくれたんだろ」
 ちょっと重かったけど、と冗談めかして青年に告げれば、相手は礼を言われることなど想定していなかったのだろう、睫毛をぱちくりと上下に動かして、また視線をあちらこちらへと移動させる。少年は一度休憩をするために手元に置かれていた紅茶に口を付けると、青年のまなざしが再び自分の方へ帰ってくるのをなんとなく待った。
 そして、そんな彼の望み通りに戻ってきた青年の視線が、かち、と音を立てるようにして少年の赤色とかち合う。青年は自身の長い指先で頬の端っこをぽりぽりと掻きながら、どこかおそるおそるといった様子で少年の方を窺った。
「え、えっと……あー……あの、バニティ……こんなこと訊いても、あれだけどさあ……」
「うん、何?」
「バニティ、俺のこと……気持ち悪いって思わないのう? 喋りづらくない? 俺と、話すの……ア、アハハ……」
「はあ……?」
 自分にとって唐突に聞こえる相手の問いかけに、少年は怪訝と困惑の狭間の声を浮かべ、それから自身の眉間に皺を刻んだ。そうして彼は飴色の紅茶が揺れるティーカップから唇を離すと、それよりも更に揺れ動く青年の瞳の水面を見つめ、首を傾げるでもなくただ相手のまなざしを自分の方へと縫い止めていた。
「……つまり、おまえ、自分のことが気持ち悪いと思ってんだ?」
「あ……えと、そ、そうだね……あは……お、俺は、気持ち悪いかな、と思ってんだあ……」
 まなざしを泳がせながら、そう靄がかっては乾いた笑みを宙に浮かべる青年に、少年は音を立てずに息を吐いた。溜め息にも似たその呼吸は、なんとなく仕様がなさそうな、どこか呆れたような色も含まれていたかもしれない。彼は青年の視線を追いかけては、それがこちらをちらと向いた瞬間、静かだがはっきりとした言葉を放った。
「何も思わない」
「え?」
「特に、何も思わないよ。おれにしてみれば、人に笑顔を強要するっていうこの国の女王の方がよっぽど気味が悪いね」
 それは、紛れもない本心だった。少年にしてみれば、わざわざ口に出すのも億劫なほど、当たり前のことであった。言うならば、行き場のない自分をこうして助けてくれている相手と、その相手を訳の分からない魔法で縛っている相手である。どちらに天秤が傾くかなどは、きっと赤子でも容易に分かるだろうと思われた。青年は少年の言葉を聞くと、はく、と小さく唇を動かしたが、それには構わず少年は更に言葉を継ぐために息を吸った。
「あ……」
「おまえは気持ち悪くないし、変でもないし、喋りづらくもない。少なくともおれにはな」
 言うだけ言って、少年は椅子の背もたれに自分の身体を預けると、飲みかけの紅茶をまた少し口に含んで、自分の胃腸と目の前の料理について相談をしはじめる。カップケーキとマカロニサラダ、フライドポテトにコーンポタージュは取っておけるだろう、おそらくは。口を付けてしまったホットケーキとオムライスとピザは今日なんとかしなければならない。首をもたげた目の前のありがたい不安要素に眉根を寄せている少年に、青年は未だ困ったような笑みを浮かべて、どぎまぎと瞬きをくり返していた。
「へ……変じゃない……かあ。アハハ……、そんなこと、初めて言われたなあ……」
 初めて。その言葉に、少年はまた別の理由で眉間に皺を刻んだ。どうやらほんとうにこの国は嫌な場所らしい。眼前の青年がここでどのような仕打ちを受けてきたのかは測りきれないが、きっと良いものではないのだろうということだけは分かった。息を吸う。少年は、そんな相手に緩くかぶりを振ると、片手の人差し指で柔らかな弧を宙に描いてみせた。魔法使いが持つ杖の一本のように。
「……まあ、不安なら、おれもおまえに魔法をかけてやろっか。おっそろしい女王サマみたいにさ。おまえはどこも変じゃない。おまえはデキるヤツだ、って」
 その突飛にも思える少年の言葉に、青年は睫毛を上げると、一瞬きょとんとした表情を浮かべ、それから少し楽しげに自身の首を傾げて笑んだ。
「デキる、ヤツ……? いいね、それ……」
「いいか、クラウン。おれはバニティバラッド、世界最高の役者だ。そんなおれの魔法はきっと、すこぶる効くぜ」
 言って、少年は銀食器のスプーンを取り上げる。そうして目の前のオムライスを一掬いすると、それを手元でゆらゆらと揺らして瞳の赤を細めた。
「──クラウン。ちょっと口開けてくんない」
「え? う、うん……」
 少年がそう発すれば、青年は言われるままにその青い口紅が塗られた唇を開く。そのさまに少年は悪戯っぽく微笑むと、相手の口内に、今しがた自分が皿から掬い上げたオムライスをスプーンごと突っ込んだ。そうしてみれば、当然のことながら青年の目が驚きに開かれ、彼の口は反射的に閉じられる。
「どう。美味いだろ。フフ……デキるヤツだなあ、これの作者は? 誰だったっけ、クラウン?」
「ん、……んん……」
 突如として口の中に入れられたオムライスを咀嚼しながら、青年は困惑しがちにもぐもぐと舌の上だけで唸る。けれども少年は別段悪びれる様子もなくテーブルに片肘をつき、青年が急いでオムライスを飲み込もうとしているさまを眺めては、細めていた赤色を更に三日月の形にして、喉の奥でくつくつと笑いを洩らしていた。青年はそんな少年の方をちょっと恨めしげに見やり、スプーンを口内から取り出すと、しかし照れたように小さく笑った。
「わ、悪くはないよね……たぶん……」
「もちろん」
「バニティがそういうなら、俺は……ウマい料理が作れるってこと、だよね? う……じゃあ……」
 少年は、言い淀む青年の手の中から自分用の銀食器を取り上げると、それと引き替えに相手の目の前でパチ、と光が散るみたいに小気味の良い音を、自身の指先で鳴らしてみせた。
「そう。おまえはデキるヤツだよ、クラウン」
「そ……そういうことで、いいのかなあ? ふ、ふふ……」
 にい、と少年らしい軽やかさで、少年はその顔に笑みを浮かべる。確かめる風に何度も投げかけられる、デキるヤツ、という少年の言葉に、青年は自分の口元を片手で隠しながら、それでも何かが溢れるように指先の隙間から笑い声を洩らしていた。
「バ、バニティが……」
「うん?」
「バニティが、女王サマだったらいいのになあ……」
「女王?」
 そして、ついには、そんな指の間から言葉さえも洩れ出てくる。少年は相手の発した言葉に首を傾げる代わりにおうむ返しをすると、自身の唇を指先で触って青年の言葉の続きを待った。
「その。バニティが、俺の女王サマになってくれるなら、俺も自信ついちゃうかなあ……なあんて、アハハ……」
 少年は、いま初めて青年の口から発せられたその言葉を、彼の素直な願望を、朝にならない黄昏の色を、満たされない底抜けな寂しさを目に映しては、それを引っ掴み、両の手のひらに乗っけてじいっと見つめた。彼は瞬き、息を吸い、ゆっくりと目を閉じ、息を吐くと共にその目を開ける。
「──いいな、それ」
「え、」
「おまえはこの国の女王が嫌いで、おれはそいつの治めるこの国を今のところ、とにかくナンセンスだと思ってる。そういうことだろ? ならおれたち、そんな女王や国なんかほっといて、さっさとここからおさらばしようぜ」
 少年は、透き色をした青年の小さな望みを飲み込んで、自分のものとすることに決めてしまった。彼は受け取った願いの引き替えに、おのれと青年のための言葉を吐いて、連ねる。彼は、悪戯を思い付いた子どもの表情で笑い、また絶対的な自信のある役者の声で笑った。
「おまえを失った女王は、きっと女王として成立しないよ。女王として失えないものを失うんだから」
 そうして少年は椅子の上で脚を組むと、片手を自身の頭上へと持っていき、そこでパチパチと二回指を鳴らした。今、彼が戴く輪郭を持たない冠が青年にだけ見える色で輝きを放ち、他のすべてがその光に白んでいく。
「……でしょう? クラウン」
 少年は掲げていた手のひらを下ろすと、愛らしく首を傾げ、それから見えない裾を両手で持ち上げながらまなざしだけであの貴族らしいお辞儀をしてみせた。
「それに……おれはおまえがどんな仕事をしてるのかは知らないけど、とにかくはっきりしてることが一つはあるし」
 その言葉に、青年は首を傾げる。少年はそんな相手の純粋な問いかけに笑い声を上げると、銀のスプーンでオムライスを掬い上げ、それをダイニングで橙色に光る照明の方へと透かせてみせた。
「──この国はぽっと出の、臣民がたった一人の女王によって、国中でいちばんの料理人を失うってことさ。永久に!」
 大仰にそう発して、少年はぱくりとオムライスを口にした。青年が言葉を探す内に少年の台詞が閃き、相手の前へと差し出される。少年は咀嚼したオムライスを飲み込むと、気持ち前屈みになって、青年の瞳を覗き込みながら楽しげに目を細めた。
「面白いだろ、クラウン。おれたち、一緒に行こうよ。きっと楽しくやってける」
 言いながら、少年はまなざしだけで青年へとその手を差し出した。そんな相手の目を、青年はおずおずといった様子で、けれどもじっと見返すと、少年の手を──きっと、その指先を、そっと掴む程度の柔らかさで握っていた。いま青年は息を止めるのではなく、呼吸をしている。吸って、吐いて。それから再び合った視線で、少年はようやくこの青年とまなざしが交わったような気がした。
「……バニティ」
「ん?」
「サボテンは……そこの窓ガラスのとこに、移すねえ」
「うん。それがいいと思う」
 つと、そのようなことを言い出した青年に、少年はテーブルの上の多肉植物の存在を思い出して、そちらを見ながら尤もらしくこくりと頷いた。それから、数呼吸分の沈黙。少年は、先ほどから何か言いたげな青年が言葉を見付けるまで、サボテンの方を眺めて待った。
「……その、オムライス……美味しくできて、よかったよう」
「ああ、美味しいよ。ふわふわで。……どうかしたのか?」
「う、ううん……なんだか、その、上手く言えないんだあ、俺……」
 喉の辺りを軽く押さえてそう言う青年に、少年はふっと息を洩らすようにして微笑むと、それから柔くかぶりを振って、再び青年の方をまなざした。
「いいよ、べつに。だいじょうぶ」
「だいじょうぶ?」
「ああ、だいじょうぶだよ」
「そ、そか……だいじょうぶ……」
 青年は自身の心臓の辺りに片手を置いて、少年の言葉を確かめるために口の中だけで何度もその台詞をくり返していた。だいじょうぶ。だいじょうぶ。
 そうしてしばらくすると、彼は顔を上げ、何か不格好な笑みを浮かべながら、少年の方を見た。まるで、嬉しいときの笑い方を忘れてしまったというような青年の笑顔に、彼は少しだけ虚を突かれた心地を覚えながらも、相手へと向かって微笑みを返してみせる。それはさながら、歌をうたう前の表情だった。
「バニティ」
「ん」
「お、美味しいねえ」
「……うん」
 青年の言葉に頷いて、少年は相手の顔をじっと見つめた。あの仮面じみた笑顔よりも、不格好で、歪に笑っている方がよほどいい。彼の中にはおそらく、陽の滲むような心があるのだから。きっと、サボテンはすぐに元気になるだろう。眩しすぎるシェードランプは捨てて、もっと柔らかい光のものに変えた方がいい。朝が来たなら、寝室のカーテンは開けなければ。そうして。
 そうしたら。
「おまえの料理は美味しいよ、クラウン」
 そうしたら、歌をうたってみせよう。
 一つ、二つ、幾つか。
 歌を。
 彼に。



 Strawberry Vanilla Ice cream
 20200526 執筆

 …special thanks
 トロベリー・クラウン @橋さん


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