灯台と恐竜、52ヘルツの鯨、出会ってしまえた僕らについて



 青年が二人、海辺の道を歩いている。
 傾く陽が甘く鮮やかな赤を垂らし、それが昼間のまばゆい青と混じり合おうとするところ、すべての境目が微睡むようにやさしく曖昧になるその紫色をした黄昏の下で、艶やかな黒髪をもつ青年の輪郭は微かに赤に、柔らかな赤髪をもつ青年の輪郭は淡く青へと染まっていた。ミャア、と夕暮れの切なさを告げるウミネコの声に合わせてさざめく波の音は、それでも砂を撫でては遠ざかっていくばかりで、太陽との別れを惜しんでいる様子はない。
 斜陽に照るアスファルト。濡れたように金色に輝くその道を歩く彼らの背後には、水平線の果てから降り注ぐ美しく激しい陽光が、柔い紫を宿した影を描き出していた。落ちていく今日の陽に急いた様子もない青年たちは、およそゆったりと言えなくもない速度で歩を拾っている。彼らの間に少し冷たくなった風が吹けば、それは揚げたポテトとチキンのにおいをいずこかへと運んでいった。
「バニティ、お腹空いた?」
 ふと、そう口火を切ったのは、片割れよりも上背のある、赤髪の青年の方だった。
 そんな相手の問いかけにぱちり、とその赤い目を瞬かせた黒髪の青年は、赤髪の方へと顔を向ける。それから被っているキャップのつばを指先で少し押し上げると、
「……それ、おまえだろ」
 言って、可笑しそうに自身の目を細める。
「あ、あは……バレた?」
「バレバレ。ま、そのにおい嗅いでると腹も減るよなあ。量、足りんの?」
「う。う〜ん……たぶん……」
「ハハ、そりゃ足りないヤツの言う台詞だな」
 くつくつと喉を鳴らして笑う黒髪に、赤髪はテイクアウトの手提げ袋を片手にしながら、余っている方の指先でぽり、と少しだけばつの悪そうに頬を掻く。そんな相方を尻目に、黒髪は視線を先ほどまで向けていた方角へと戻すと、柔く睫毛を伏せては、すう、と息を吸い込んだ。
「イチゴ、早く帰ろうか」
「え? そんな急がなくてもいいよう、そこまでお腹減ってるわけじゃないし……」
「ふふ……でもおれ、歩くの遅かっただろ、今」
 小さくそう笑みを洩らして、けれども黒髪はその視線を赤髪には向けないまま、どこかぼんやりとした表情で同じ方角ばかりを見つめていた。
「──初めて会ったときのこと、憶えてる?」
 彼は、空を見つめていた。
 夕焼け空。燃えるように赤い、煮立ったワインさながらのその色は、胸を衝く青空をいつの間にかすっかり呑み込んでしまっている。そして、それに合わせて降りてくる夜の帳はそんな赤の激しさすらも覆い隠し、海の底へと沈めてはやさしくかき混ぜようとしていた。
 じきに紫から夜の青へと染まりゆくだろう水平線上の黄昏をまなざして、黒髪はぬるい赤紫の空にうっすらと浮かんでいる月の輪郭を瞳に映す。六月の満月。あわいに光る、赤みがかった月の色。
「初めて、会ったときのこと? 憶えてるよう。俺はバニティが目を覚ましたことに、なんだかね、めちゃくちゃ安心したんだあ……それがすっごく、嬉しいこと、みたいな気がして……」
「おれは目が覚めて、イチゴが目の前にいて……それにすごく安心した。ワケも分からず涙が出るほど。あんなのは、生きてて初めてだった。だから、あの言葉が口を突いたのかもしれないな」
「どこかで会った?=v
「そ。今でも、不思議に思うよ……」
 黒髪はそっと目を瞑る風な仕草で、まるでこれから歌い出すかのように、吹く風よりもはっきりとその息を吸い込んだ。けれど、彼の唇から歌は編まれなかった。編まれたのは、まなざし。この世界のすべてを輝かせる黄昏を、一心に見つめる瞳。光を黄金に、影を濃紫に染め上げる夕焼けが、世界の色を自身のそれへと移ろわせている。しかしそのまばゆい色を浴びても尚、黒髪の輪郭を象る赤色は彼のものであり、瞳の鮮やかでいてどこか危うく淡い紅色も彼以外を語らなかった。
「あの日の夕焼けは、こんな色だったなと思ってさ。赤と青の絵の具を混ぜたような空……」
 そう語る彼の黒髪が、キャップの下でゆらゆらと揺れている。喉の渇きと水の湿り気を同時に運ぶ六月の風と潮風はどこか似た気配を宿して、彼らの隙間をすり抜けては夜のやってくる方へと飛び去っていく。鉄柵の向こう、浜辺に転がるテトラポットにたむろするウミネコたちは、黒髪の言葉に口を挟むことはしなかった。
「……バニティ」
 彼を振り向かせられる言葉を発せられるのは、おそらく。
 ふと息を吸った赤髪は、そのように静かにやさしく相手の名を呼ぶと、黒髪が自分の方を向いたことに半ば安堵した表情で微笑んでみせた。さながら焦がれるような瞳で斜陽に浮かぶ月を眺めていたそのまなざしを遮ってまで名前を呼んだ理由を、きっとほんとうのところでは自分自身理解ができないまま、赤髪はこちらを見て目を細めた黒髪の視線を受ける。黒髪は、何かちょっと悪戯っぽい光を自身の赤に浮かべて、ゆるりと首を傾げた。
「なあ、イチゴ。ああいう月の名前、知ってるか?」
 そして、そう問いながら、彼は赤髪の方を見やったまま、その細い指先でひっそりと浮かび上がっている月を示す。ゆっくりと夜の色を纏いはじめている空の紫色に、白い輪郭を保っている満月は、それでも柔らかい桃の色を身に宿しているようだった。そんな黒髪の問いかけに、赤髪もまた彼と同じように小首を傾げると、しかしつと頭の隅にぼんやり光る言葉の存在を見出して、それを発するために小さく息を吸った。
「──ストロベリームーン?」
「あ……なんだ、知ってたか。今日の月は、綺麗な苺色になりそうだな」
「なんとなく……」
「ん?」
 答えを返した相手の方を見ては、やや拍子抜けした風に微笑んだ黒髪に、けれども赤髪はその唇から何か一つ曖昧な言葉を紡ぎ出す。喉に度し難い引っ掛かりを覚えた彼は、声を発するその場所に片手を添わせて、一瞬だけ月のさまを目に映した。それからすぐに黒髪の方へと視線を戻すと、自身のまなざしばかりで小首を傾げる。
「月の名前。なんとなく、そうなんじゃないかなって、思ったんだあ……」
 ざあ、と波が鳴る。赤髪の言葉に踏み出した足をぴた、と止めた黒髪は、瞬きもせずに相手を見やり、それから繕うように再び歩を拾い出した。そんな相手に気が付いているのかいないのか、赤髪は自身の口元に折り曲げた人差し指を当てて、怪訝に小さく唸っている。
「なんだろう。昔、誰かに教えてもらったような……」
「昔?」
「うん。たぶん……バニティ、きみみたいな人に」
「……へえ?」
 その表現に、黒髪は片眉を吊り上げると、皮肉めいた声色でにやりと笑った。そうして彼はト、ト、ト、と三歩ほど赤髪より前に出ると、後ろを振り返ってはその目を三日月のように、しかし月よりずっと赤く細めてみせる。
「早々いないぞ、おれみたいなのは」
「だ、だよねえ? やっぱり……」
「いいよ。今は夕暮れだ。少しくらい不思議な話をしたって罰は当たらないさ」
 言いながら、黒髪は自身の睫毛を微笑みのかたちに伏せて、その場でくるりと一回転をした。そんな黒髪の腰に巻かれたタータンチェックのシャツがふわりと空気を含み、それは彼の片足が道の上へ音を立てずに着地すると共にまた息を吐き、萎んでいく。黄昏の金色から宵の青紫へと移ろう道に、今日の終わりに溜め息を吐いたのは、きっと風だった。
 そして、それを塗り潰してしまおうと小さな笑い声を立てた黒髪は、何を思ったのか車道と歩道をぷっつり隔てている、微かに歪んだガードレールへと足を掛けると、その細い柵の上に立ち、けれども本人はひどく安定した様子でどこか踊るように歩を進めた。
 ところどころが剥げ、くすんでしまった白いガードレール。もうじきおのれのすべてを海に沈めてしまう太陽に、淡かった月明かりが自身の存在を増し、彼らへ向けて朧な光を手渡している。青い黒に染まり出す空の色を、そのすぐ下に湛えられる海面が写し取るままに揺らいでいた。ふと思い出したように点く街灯は頼りなく歩道を照らし、道路には依然車の気配が感じられない。太陽がうなぞこに身を隠した瞬間から、唐突にも思える速度で夜を告げ出した風景の中、それでも黒髪は構わずにガードレールの上に立ち、一歩一歩前に進みながら、その白い指先を胸元に置いて、す、と淡く息を吸った。まるで、これから何かが起こるとでも言うように。
 そして、きっと、何がこれから起こるのかを、彼の隣を歩く赤髪だけが知っていた。
 彼は歌った。
 歌を、うたい出したのだ。
 小さな唇からゆったりと紡ぎ出される、少し掠れた調子を描いているその歌声は、月明かりに照る河をなぞっていた。大女優が有名すぎる映画の中で歌った、夢のはざまに郷愁が香る、歌詞に反してどこか切なくも聞こえる歌。短い歌だ。彼はさながらその目に、見たことがあるはずもない月の河を映して、あの映画の主人公のように純粋な、そして少しばかり夢を見る光を宿している。
 鮮やかな色を段々と失っていく世界の内側で、けれど黒髪の肌ばかりが、鮮やかにも映る白色で薄暗い景色の中に浮かんでいた。背筋を伸ばし、凜と立ってその歌声で水面に映る月を描き出す彼の横顔に、赤髪の鼓動が一度音程を外したのは、黒髪の足場が不安定で、すぐ隣が車道だからだったためだろうか、果たして。
「──なあ、ハックルベリー・フレンド。向こうの方に、灯台が見えるな」
 そうしていつしか短い歌は終わりを告げ、黒髪は未だガードレールの上で歩を運びながら、すっと片手を伸ばして遠くに見える明かりの方を指し示す。相手の出し抜けにも思えるそんな問いかけに赤髪は、灯台、とおうむ返しをしてから、黒髪の示した方角へと視線を向けた。
「そうだねえ。この辺だと、あれだけだったかなあ」
「灯台を見ると、思い出す話があるんだ。イチゴは知ってるかな。霧笛と恐竜の……」
 言って、黒髪は再び目を伏せ、その睫毛の隙間に灯台の光を飼いながら、一つの物語のあらすじを語ってみせる。
 或る灯台守の二人は、僻地に立つ寂しい灯台を共に守っていた。彼らは霧で明かりが見えにくい夜であっても、霧笛を鳴らし、船が海を泳ぎ切るための合図を送っている。そして、霧笛の響き渡るそんな夜の中で、一年に一度、灯台の元へと恐竜が一匹やってくるのだ。深い海底から、目を覚まして。霧笛の音が自分の叫び声に似ているから、灯台を自分の仲間だと誤解したまま、やってくる。何十億という時間の片隅で、もうきっと世界のどこにもいない自分の仲間へ向けて、おれはここだ、おれはここだ、と呼びかけながら。しかし、そんな恐竜の姿に、灯台守の片方が物は試しに、と霧笛のスイッチを切ってしまう。すると、恐竜は怒りと苦しみをその目に湛えて、灯台を破壊しだした。崩れていく灯台からかろうじて逃れた灯台守たちは、そこでどうにか命拾いをし、あとには恐竜の寂しげで悲しげな鳴き声ばかりが響き渡る。まるで、霧笛のように。
 それから恐竜は、その後一度も現れないという。
「……あれはもう行っちまったよ=v
 そうしてあらすじを語り終えた黒髪は、舞台に立つときにするあの呼吸を一つ行うと、その身に灯台守を宿して、新しく建った灯台を眺めながらそう発した。
「深い海の奥底へ帰っちまったよ。この世の中では、なにを、いくら愛しても、愛しすぎることはない、という教訓になったね、あの一件は。あいつは一番深い海の奥底に行っちまって、また百万年じっと待つのだ。ああ、まったく気の毒に! あの海底でじっと待っている。人間がこのあわれな小さい惑星の上に現れては消えるあいだも、じっと待っている。じいっと待ちに待つ=v
 胸に手をやって、半ば皮肉めいた声色、しかしそこに苦々しげな同情も混ぜ合わせて、黒髪は朗々と物語の台詞を諳んじた。そのさまを自身の呼吸すら潜め、まるで全身の神経を研ぎ澄ませるよう、じっと相手の方を見つめて聞いていた赤髪は、ゆっくりとこちらを振り返る黒髪の瞳の赤が、彼がもつ元々の色を取り戻す瞬間すら見逃さない。帽子のつばの下に隠されがちなその目が一度瞬き、呼吸をする。そして再び開かれたそれは、少しだけ戸惑った光を自身の色に宿して、赤髪の方をまなざした。
「──恐竜が灯台を壊した理由、おまえには分かるか? おれは、この話を思い出すたびに考えてる。恐竜が灯台を壊したのは、きっと耐えがたい絶望のためだ、と。彼はきっと、それを冷たい石の塊にぶつけただけだった。でも、なら、その絶望は一体どこからやってきたんだろう? 郷愁か、愛か、はたまた恋か、それとも別の何かなのか? おれには、それがずっと分からない……」
 黒髪は眉間に皺を寄せ、うなされながら眠るような表情で、そっとその目を再び閉じる。きっと無数の言葉が鳴り止まないのだろう彼の頭は、心の臓の形すらも演じるべき相手へと近付けて、どうにかその心に最も近い、正解に最も近い間違いを導きだそうとしていた。ほんとうのところなど、おそらく知りようもないのだ。けれど、だからこそ、自分の中で答えを導かなければならない。それが役者としての自分のためなのか、それとも一個人としての自分のためなのかは、黒髪自身はっきりとしなかった。
 ただ、彼は、この恐竜のことが憐れで、悲しい存在だと感じるのと同時に、憎らしく、そして愛おしい存在であるとも思っていたのだ。たった一つの縋るものを見失い、怒りと苦悩の内にそれを自らの手で壊し尽くして、再び暗いうなぞこへ沈み、昇ることなく両耳を塞いでしまった彼のことが。きっと今でもひとりぼっちで、傷付いたままの彼が。
「それは……たぶん。その恐竜にも分からなかっただろうなあ」
 ふと、ゆっくりと呼吸をくり返している黒髪へ向けて、赤髪が半ば呟くような声色でそう発した。その言葉にはたとして目を開けた彼は、少しだけ虚を突かれたような表情をして赤髪の方を見やる。
「恐竜にも?」
「うん。あ、でも、間違ってるかも……」
「いや……はは、そりゃ、そうか」
 分からない。それもまた、一つの答えだった。黒髪はくすんだ細い白の上に立ったまま、自分の胸に手を当て、そうしてなんとなく可笑しそうに口角を歪めた。
「誰しも、自分のことほど思い通りにいかないんだな。きっと、その心のために」
 どこか自嘲するようにも映る黒髪の笑み方に、キャップが落とす影に隠される彼の睫毛の表情に、赤髪はそれを下から覗き込む形でそうっと呼吸をした。吹くたびに相手の髪をさらさらと揺らす風は赤髪にも同様に吹き抜け、彼の癖っぽい髪の毛や羽織ったパーカーのフードを小さく音を立たせながら曖昧に浮かばせている。やさしくぬるい六月の夜の帳は、そんな彼の瞳を柔らかく包み込んで、その水色を暮れと宵の狭間に光る海の青に似た色に移ろわせた。きっと、目が合ったところから紫色に染まれるように。
「──バニティには、さ……届かないものって、ある?」
 もう落ちた陽の中で、先ほどまで黄金に輝いていた道は、淡い暗やみに包まれている。数の少ない街灯が道路の黒いアスファルトに星を生み出し、呼吸のできる沈黙の真ん中で、さざめく海の音ばかりが耳に響いた。音のない車道と赤髪の足音が鳴る歩道、その間のガードレールに立ったまま、黒髪は相手の方を振り返る。赤髪は、遠く月を眺めていた。
「届かないもの?」
「……うん」
「そうだな……」
 そんな赤髪の質問に、黒髪は思案するように腕を組んで、片手の指先で下唇を軽く触った。時間としては一呼吸かそこら、彼は微かに伏せていた黒い睫毛をそっと上げると、決して長くはない空白を埋めるために息を吸う。
「舞台の上でだったら、ない。でもそれ以外だったら……どうかな」
 どこか歌うように、けれどもそう言葉を紡ぎながら、黒髪は音もなくガードレールの上で、さながらバレリーナのごとくつま先立ちをしてみせた。
「……手を」
「え?」
 呟き。
「──手を伸ばしてみないと分からないな。やっぱりさ。恐竜みたいに」
 それから紫と青のはざまを揺れている、黄昏とも宵とも言いがたい空で今いっとう輝き出した月へ向かい、彼は光を受け取るためにその指先を差し出した。きっとそう見えるように黒髪自身が調整しているのだろう、赤髪の目に映る彼の細い指先には、丸く輝く桃色の月がきちんと乗っかっている。
 そうして黒髪は、月光に淡く光る自分の指先だけを息も密かに見つめて、自分自身にしか分からないほど微かに微笑んだ。
「たとえば月は、おれが思うよりも近いものなのかもしれないし、なんなら月だと思っていたものは、誰かが宙に放り投げたロリポップなのかもしれない。……もちろん逆も、有り得るけど」
 瞬き。
 赤髪には、波音に混じって、ほんの少しだけ黒髪が息を吸う音が聞こえた気がした。まるで、ピアノ線が張り詰めるかのように。
「やってみないで分かるものなんて、きっと早々ないんだよ。あの灯台だって、一つ違えばほんとうに恐竜の仲間だったかもしれない。その可能性がゼロじゃない限り、自分の目で確かめたいと思うのは、きっと間違いなんかじゃないんだから。海底で耳を塞いで、自分の欲しい何かを永久に届かないものにしてしまったのは、結局のところ、自分自身かもしれないぜ」
 誰しもに手を伸ばす度胸があるかどうかは置いておいてな、と黒髪は発し、そうしてようやく赤髪の方を見て笑った。それはなんだか、切なくなるほどに形の良い笑顔だった。下げられた彼の指先はもう、赤髪からは見えない位置へと隠されている。
 黒髪は静かな月光を身に纏ったまま、同じように淡い輪郭を帯びている赤髪の方へと視線を向けると、その瞳を悪戯っぽく細めて首を傾げた。
「それにしても……そんなこと訊くなんて、イチゴには何か欲しいものがあるのか? それともなりたいもの?」
「う〜ん……どっちもかなあ。なりたいし、俺がそれになれたら、手が届くんじゃないかなあって思うんだあ」
「へえ……」
 こちらをじっと見つめ、けれども何か困ったような表情で笑った赤髪に、夜の隅で笑うその瞳や声色に、黒髪は不思議な既視感を覚えると共に、胸の内が自分にだけ聞こえる音で軋んだのを感じた。
 それは恐竜が抱えたほどの絶望というにはぬるく、日々を平坦に送る中で感じる落胆というには痛みが重たい。なんとなく、ほんとうになんとなく、それでも当たり前にこの先もこんな風に一緒に笑い合っているのだろうと思っていた未来視が、唐突に呆気なく、目の前でぱらぱらと崩れていく感覚。彼はそんな自分自身を誤魔化すように、或いは、恐竜のように相手を壊してしまわないように、もう少し先の方までガードレール上を進んでいった。ウサギのように跳ね、赤髪より速く。
「あっ、危ないよう、バニティ」
 けれど、そんな足掻きも虚しく、赤髪はすぐ後ろを足早に付いてくる。そうして黒髪の隣へ辿り着くと、彼は仕方がなさそうに、それでいて未だやさしく笑っていた。
「ねえ、バニティ。俺、信じててもヒヤヒヤしちゃうよ〜……」
「え、」
 それからそのように発した赤髪は、ゆるゆると自身の片手を黒髪の方へと伸ばした。そんな相手の行動に、黒髪の鼓動が先ほどとは別の音を立てて軋む。黒髪を襲った、普段では覚えない動揺が彼の足元を突如としてぐらりとふらつかせ、見えない糸の上でさえ踊れる黒髪は、舞台の上では起こりえない失敗を犯して、赤髪の胸の中へと飛び込む羽目になった。
「わ、わ。ごめん、バニティ……! 驚かせちゃった」
「ああ、いや……ちょっと、油断してたから……」
「……ふふ、ほら、危ないでしょ。もうちょっと俺の手の届く場所、歩いてよう」
「そ、だなあ……」
 そうして半ば引っ張られるように、歩道と車道の真ん中から赤髪のいる方へと戻ってきた黒髪は、少しだけ申し訳なさそうに唇の端から息を洩らした。彼は相手の胸板に自分の頭をぶつけてしまったことに軽く謝罪をすると、すぐにその身を離して、喧しいものを抑え付けるために静かな呼吸をくり返す。
 それから、赤髪に隣へと降りたことによって、相手の持っている紙袋から漂うポテトとチキンの香りを黒髪は思い出して、彼はその袋に片手を突っ込み、がさがさと探ってはそこからポテトを一本取り出した。叱る気を感じない、こら、と一緒に、黒髪はそのポテトをもぐもぐと咀嚼し、自分の胸の内で渦巻いた痛みと共に飲み込んでしまうと、それを別の形で吐き出すために、今度は少し音を立てて息を吸った。
「……おまえさあ、月を目指して歩いてて、でもその月が近付いてみたらただの飴玉だったら、どう思う?」
「え?」
「トクベツだと思ってたものが、ホントはなんてことない存在だとしたらって話」
 黒髪は、耳を塞ぎはしなかった。海底に沈むことも。けれど、その代わりに、きっと自身の帽子のつばを下げた。相手の顔を見ることもできずに、また、今まさに頭上で輝いている月の姿を目に映すこともしないで、彼は自分の両手を胸の少し下で組み合わせ、そうして曖昧な声色で笑みを零す。
「……俺はね、バニティ」
 その言葉に、黒髪は顔を上げる。
 そして瞬間、待ち構えていたように突風が吹いて、深く被っていた帽子を浮かび上がらせた。不意に吹き荒れた潮風に腕で顔を覆った黒髪は、その表情を隠し立てする手段を奪われたことに気が付かないまま、風が収まると共に再び赤髪の方を見る。赤髪もまた、黒髪の帽子がどこかへと吹き飛ばされたことには気が付いていないようだった。或いは、気が付かないふりをしていた。
「……俺はそれでも、トクベツだと思うだろうなあ。俺にとっては……」
 囁くようにそう発せられた言葉は、今、この世界中でたった一人にだけ届いた。黒髪は相手の返答にぱち、と瞬きをすると、その赤い瞳にまっさらな光を湛えて、じっと赤髪の方を見つめる。そして、不思議そうに自分の方を見やっている黒髪に、赤髪は小さく微笑むと、それにね、と自身の言葉を更に継いだ。
「それに?」
「ちょっと安心、するかもねえ。なんていうかさ、月はほら、綺麗すぎるでしょ?」
「綺麗すぎる?」
「ふふ……うん」
 赤髪の言葉をくり返して、黒髪は少しだけ首を傾げる。そうして相手の言葉を手のひらに乗っけると、それをじいっと見つめて、黒髪は眉尻を下げながら困ったように笑ってみせた。まるで、赤髪がよくそうするみたいに。
「……イチゴってさあ」
「あはは、変?」
「まさか。おれはそんなナンセンスなことは言わない」
 かぶりを振ってそう発し、黒髪は三日月さながらにその目を細める。それから彼は自身の人差し指だけを口元に立てて当てると、くつ、と喉を鳴らして笑いながら息を吸った。
「──でも、ヒミツ」
「え、ええ?」
 次いで、あはは、と声を上げて悪戯に笑った黒髪は、胸の痛みと高鳴りに耐えきることができずに走り出すと、けれどその途中で思い出したように振り返り、慌てて付いてきていた相手に向かって片手を伸ばした。
「夜だなあ、イチゴ。帰ったらさあ、夢の話でもしようか?」
「夢の話?」
「ああ。素敵な夢なんてものは、夜の間に見るものだろ?」
 そう言う彼のスニーカーが、タン、と地面を叩く。それから黒髪はくるりとその場で一回転すると、相手の持つ紙袋を引ったくり、そこからまたポテトを一本取り出しては、今度は赤髪の口の中へと突っ込んだ。
「ハックルベリー・フレンド。朝になったら、それを現実にするために生きよう。おまえなら、どこへだって行ってやれるさ。なんだって掴める。だって、イチゴはデキるヤツなんだから」
 そうして黒髪は、あの遠い月の河を、映画の主人公もきっと思い出すばかりしかできなかったあの水面を、孤独のために恐竜が身を沈めた海に映る月明かりを、今日の色付いた月の輪郭を、そのすべてを瞳に描いて、彼は歌った。歌うように、そう語った。
「……バニティ」
 赤髪は相手のそんな言葉に、無理やり口内に入れられたポテトを咀嚼することもできず、それを口から離してただ相手の名前を呼んだ。
「うん?」
「綺麗だね」
「ああ……」
 彼は、赤髪からふと発せられた言葉に、特に驚きもせずにゆっくりと瞬きをした。それから黒髪はその視線を相手から外すと、もうすっかり夜の青に染まった空の中でひっそりと、しかし確かな輪郭をもち、やさしい淡紅色を身に宿している月の姿を目に映して、差し出される月の光よりも淡く笑った。睫毛の隙間に、そんな赤い光を飼って。
「今日はほんとうに綺麗な月だな。イチゴの色だ……」
 気が付けば、テトラポットにたむろしていたウミネコも姿を消していた。
 まるで、ふたりきりだった。
 まるで、何もかも在る世界でひとりきりではなく、何もかもがなくなった世界で、ふたりきりの夜。ポテトとチキンの香りが二人に空腹を思い出させた頃、きっと道路には思い出したように車が一台通り、その排気ガスの匂いとタイヤが地面を擦る忙しない音が、きっと彼らにそんな夢の叩き割り方を教えるだろう。だって、彼らは生活を送るのだ。日々を、これからも。
 けれど、ふたりきりだった。
 今は、そうだった。
 今は。
 今だけは。
 ふたり。


 Strawberry Vanilla Sherbet
 2020513 執筆

 …special thanks
 王城一彦 @橋さん






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