「荊冠」と詩人



 息苦しい夜だった。
 その中を彷徨う少年は、或る一つの扉の前で、ドアノブではなく自身の喉元に片手を掛けた。小刻みに呼吸をくり返していた彼のそれが、まるで階段を踏み外したかのように不安定になり、そこから先は転がり落ちるのと同じ速度で歪なかたちになっていく。吸うばかりで吐くことのできない少年の呼吸は、それでも彼の、息をしなければ、という脅迫めいた意識によって止まることを知らなかった。
 息をしなければ。
 息を。
 この不可解な国に落とされてから、少年は眠るごとにここではない、彼が元々生きていた世界の記憶を忘れる。そんな呪いさながらの、病と呼べるのかも分からない自身の症状に気が付いたのは、彼が自分の本名を想い出せなくなったときであったが、今日という日はそれからどれほどの時が流れただろう。幾夜も眠らない星で在り続けた少年にはそれすらも曖昧であったが、けれども、少年にとって今晩は、彼がこれまで自身が生を紡いできた中で、最も酸素の足りない夜と言っても過言ではなかった。
 彼は今日、家族の名前を忘却したのだ。
 忘れないよう、また、忘れてしまったとしてもまた想い出せるように書き留めておいた家族の名前を。そして、昨日まではまだ所々読めたはずの向こうの文字が、それを境に一切読めなくなってしまった。少年が記憶の命綱として何夜もかけて書き上げた何枚、何冊にも渡る、自身の記憶に関する手記も、これで砂粒ほどの価値もなくなったのだ。もうそこに書かれたどんな文字を見ても、雨ざらしになって滲んだ誰かの書き置きを眺めるようなものだった。ぬるい絶望感の他、何も得るものはない。
 少年はたった今思い出してしまったその感触に、真綿できつく首を絞められる心地がした。そうして彼の呼吸は更に浅くなるまま、つるりとした床の上に額から零れた少年の汗がぱたぱたと落ちる。まるで呼吸の仕方が思い出せない。吸って吐くだけのそれが。やり方が。少年はそんな自身のふらつく足元を支えるために、眼前のドアへと片手をつく。
 そして、その扉が開いたのは、彼の手が汗で滑り、ずるりとドアノブの上に落っこちてしまったからだった。
 思ったよりも力の入っていなかった身体を引き連れて、少年は四つん這いの形で床の上に崩れる。ぎい、と無機質な音を立て、目の前の扉が気力なく開いていくのを視界の隅で捉えながら、彼は首元に片手を当て、ゆっくりと顔を上げた。それからぎゅうと力を込めた瞬きを一つして、視界に広がる部屋の中を少年は見やる。
「ト、」
 照明の落とされた部屋の中は、そこここに夜が溜まっている。
 そんな暗やみを真っ赤な瞳で睨んで、少年は爪で床を引っ掻いた。そうして空気が引っ掛かっている喉からようやく吐き出された一音に、けれども少年はその続きを編めない。それは、苦しいからではなかった。ただ、分からなかったからだった。分からないのだ。名前を呼んで、助けを乞うてもいいものなのかが。やったことがないから、分からなかった。
 結局、少年はそこから一言も発することができずに、言うことを聞かない身体でどうにか立ち上がる。彼は自身の詰まる呼吸に耐えかねて瞼をきつく閉じるも、その裏に迫った闇夜に追われる心地を感じて反射的に目を開けた。開けても閉じても暗い視界で、少年は部屋の中に何か縋ることができるものを求める。更に言うならば、たった一つの呼吸を。
 彼は、カーテンを閉め忘れている大きな窓からやってくる月光を標にして、その明かりが降り注ぐ方へと足を進めた。そうしてふらつく身体が再び床に伏せるのを防ぐため、壁伝いに歩を拾った先には一つの寝台。少年はその前でひたりと足を止めると、半ば頽れるようにして寝台の上に片腕の肘をついた。正しくは、眠る青年の顔の横に。
 すやすやと心地好さそうに眠るこの部屋の主に、対して少年は息を吐くのが未だままならない様子で、寝台のシーツを強く握り締める。それでも青年の部屋に入ってから、少年の呼吸は先ほどよりかは幾分ましになっていた。
 部屋の中は、廊下とほとんど変わらない暗やみで満ちている。しかし青年の部屋──彼の眠るベッドのすぐ後ろ──には、それは大きな窓が設えられている上、この部屋の中では、それ以外に充満している、あのひたりとした夜のにおいが薄くなっているように感じられた。ここには、眠る青年のにおいが在る。どれもこれもが生気を感じられないこの国の中で、目の前でくり返されるヒト特有の呼吸は、少年の心を多少安堵させ、乱れていた息を少しだけ和らげた。
 月明かりに柔く照らされる青年の顔を見やる。そこで薄く開かれ、規則正しく寝息を立てている彼の唇を、少年は浅い呼吸で眺めながら、どうにかして青年から息を分けてもらうことはできないだろうか、と頭の片隅で思った。
 それから酸素の足りない脳を回して、そういえばジンコウコキュウ、というものがあったな、と少年は心の中だけでひとりごつ。どうやってやればいいんだっけ。忘れてしまったのか、そもそも知らないのか、今が苦しいから思い出せないだけなのか、もうよく分からない。とにかく、唇同士をくっつけて、そこから息を貰えばよかった気がする。少年はシーツを引っ掻いて、青年へと自身の顔を近付けた。
 そうしてキシ、とスプリングは微かに鳴る。
 それと同時に、少年の額に溜まっていた嫌な温度の汗が青年の瞼に落ち、彼らの唇同士は一つの呼吸分だけ重なり合った。その中で音を立てたのは、果たしてベッドのばねのみで、青年が自身の睫毛をそうっと上げたときすら、部屋の中には青い静寂のみが流れていた。
「……バニティ?」
「ト、……」
「バニティ……? え、だいじょうぶ……!?」
 ぼんやりと目を開けた青年は、自分と随分近いところにある少年の顔にも驚いたが、けれどもそんな相手の苦しげな表情と、喉からおかしな音を立てて歪にくり返されている呼吸に更に驚いては、自身の眠気をうっちゃって、がばりと起き上がる。
「どうしたの、バニティ……!? あ、いや……」
 その水色の目を見開いて声を上げた青年は、しかし眼前でなんとか息を取り戻そうとしている少年の焦った風な瞬きを見て、自身も一度だけ瞳を瞬かせる。ひゅうひゅう嫌な音を立てている相手の喉元と、それを絞めるような片手、痛みの滲んだ両の目を順に見やって、青年はほとんど無意識にベッドの上を軽く叩いた。
「──バニティ、こっち来て。ここ、俺の前」
 そう手招かれた少年の身体は、考えるより先に青年の元へと動いていた。彼はふらりと倒れ込むようにベッドに乗り上がると、膝を折って相手の前に座る。そうして俯いたところからぱたりと汗がシーツに染みを作って、それが視界に映った少年は、まるで目の前で指を鳴らされた心地がした。自分自身に、起きろ、と。
 起きろ。
 起きてるよ。
 だから彼は顔を上げ、胸を張ろうとした。青年へ向けて、いつも通りに。彼の最高の女王を演るために。目が合う。口角が上げられない。瞳に笑みが描けない。演れない。なんて様だ。これでは舞台に上がれない。スポットライトはおれのために光らない。嫌だ。息が詰まる。嫌。息。嫌だよ。息が。
 息を、しなければ。
 息を。そうしないと演じられない。そうしないと生きられない。でも、そのやり方が分からない。どうやるんだっけ? 忘れてしまったんだっけ? こういうとき、なんて言えばいいんだっけ? それも忘れた? 高い崖だ。暗い森だ。知らないところ。霧がかかっている。ここはどこだ。見えない。何も分からない。
「だいじょうぶ。……だいじょうぶだからねえ。ちょっと前屈みになってみて。脚も崩しちゃってね。うん、そう」
 ただ、汗が目に入りそうで瞑った瞼の裏で、青ざめた暗やみの中で、聞き慣れた声が、あの確かめるようにゆったりと話すやさしい声が聞こえてくる。少年はその声に従うままに両脚を崩し、自身の膝の間に入り込むように前屈みになった。
「ゆっくり呼吸してね。息、ゆっくり吐いてみて。すう、はあ。そう……」
 そうして大きな手のひらが自分の背を柔らかく撫でる感触がして、少年は少しだけ息を吐く。あ。吐ける。吐けたから、もう少し長く息を吐いた。そして吸う。閉じた目の向こう側でくり返されるだいじょうぶ、と、ゆっくり、という言葉を聞くたび、段々と身体から力が抜けていく。さながら水に浮かぶみたいだ。背をそうっと行き来する温かい手は、寄せては返すあの水のかたまり。あれ、なんて言うんだったかな。
 少年は薄目を開けて、青年に導かれながらようやく呼吸らしい呼吸をした。胸の下で握り締めていた両の手をほどいて、やり方を確認するように息を吸い、吐く。もう繕えないと分かっていつつも、少年は再び顔を上げ、青年へと向けて小さく笑んでみせた。そうして彼は、どうにか自身の喉の奥から言葉を絞りだそうとし、また息を吸う。
「あ……ト、……ベリー。も、だい……じょぶ、だから。……気に、し……」
 しかし、自分の喉からは虫食いの声しか出てこない。だめだ。胸の内で自身に石を投げ、それからおそるおそる青年の顔を見てみれば、けれど、それでも彼は微笑んでいた。なんで? なんでも何も。だって、彼は笑うことしかできないのだ。違う。そうじゃない。そうじゃないだろう。彼の瞳は今、笑んでいるのだ。ひどく優しく微笑んでいる。失望の色が一つも浮かんでいない。価値が粉々に砕かれゆくこんな自分を見ても、それを何度目にしても、彼はそうだった。彼はそうなのだ。いつも。いつも。なんで。なんでだ。なんで?
「無理して喋っちゃだめだよう、苦しいから。ね……だいじょうぶだよ、バニティ。だいじょうぶ、だいじょうぶ……」
 少年は俯き、相手の身体に縋ろうと浮かびかけた片手を、しかしもう片方の手のひらでシーツの上に縫い付けた。開けていた目を再び瞑り、暗やみの色を少しだけ柔らかくしてくれる青年の声を聴きながら、彼はその中心に在る水面を自分の瞼の裏でぼうっと見やる。身を沈めれば、そこはきっと羊水のようにあたたかいはずだった。或いは背を未だ撫でる、この手のひらのように。
 再びそっと目を開けた少年は、睫毛を伏せたまま、それでも青年の左胸へと視線ばかりを向ける。ゆっくり呼吸をしながら、ああ、どうしてこんなに簡単なことが分からなくなっていたのか、と疑問に思う。ただ吸って吐くだけのこれが。そして、そんな少年の息遣いを聞いて、ほっとしたように青年は呼吸をしている。彼のそんな息すらもう聞き取れるようになった少年は、青年の胸を眺めながら、少しだけ、ほんの少しだけ、彼の心臓の音が聞きたいと思った。あの夜みたいな、やさしい、生きている音を。
「──バニティ、落ち着いた?」
 ややあって、背を撫でていた青年の手のひらが、今度は同じところをとんとんと柔く叩き、それに甘んじていた少年の元へとそんな質問が降りてくる。
「ん……」
 その問いかけに少年は淡く頷くと、自分の喉へと指先を置いて、そこで少し息を吸う。特に違和感は覚えなかった。たぶん、おそらく、もう声は出る。それならいい。それならば。演れるのならば、なんでも。そうして彼は、額に浮かんだ汗がまたシーツの上へと落ちる前に手首の内側で拭い、顔を上げた。少年は、青年と目は合わせなかった。相手が微笑んでいるのが分かったから。
「苦しかったでしょ……? よく頑張ったねえ。そだ……汗、拭くもの持ってこよっか」
「ん」
「うん。ちょっと待っててね……」
 それでも今しがた呼吸の仕方を取り戻したばかりの、その起き抜けにも等しい少年の頭には、青年の発する言葉がぼんやりと曖昧な輪郭しか保てない。そうして安定しない思考で彼は相手の言葉に生返事をすると、ベッドの上から降りようとした青年の姿を霞んだ視界で見送る。
 見送った、つもりだった。
「……バニティ?」
「え……?」
「そのう、……手が」
 しかし、いつまで経っても立ち上がろうとしない青年に少年が内心小首を傾げていれば、相手が少し困り顔の微笑みで、こちらの顔と手元を交互に見やる。そうして彼はなんとなく言い出しにくそうに少年の指先を視線で示して、そう小さく呟いた。
「あ……」
 その言葉に少年は自身の手元へと視線を移すと、自分の指先が相手のシャツの裾を掴んでいることにそこでやっと気が付いて、ゆっくりと一つだけ瞬きをする。それは驚くようなものというよりは、むしろ辟易するようなものであった。他の誰でもない、自分自身に。
「ごめん……」
 微かな声。少年は風が少しでも窓を揺らしていたならば届かないほどの声でそう呟くと、音もなく青年のシャツから指先を離した。
「バ、バニティ? どこ行くの?」
「べつに……どこにも」
 そして、自身の指を相手から離すと同時に、少年はベッドの上から降り、その場に立ち上がる。先ほどの、まるで丸めた背骨から崩れていくような様子は最早見る影もなく、彼はしゃんと背筋を伸ばして窓から注ぐ月光を、自分がいっとう美しく見える呼吸で受け止めてみせた。そうして少年は、先ほどと逆に今度は自分の方へ伸ばされかけた青年の手に少し触れると、それを柔く制止し、寝台の上へと下ろさせた。
 舞台に上がるときと同じ呼吸を一つ。少年は、戸惑いながら心配するような色を浮かべる青年の瞳を真っ直ぐ見やって、その赤い目を細めて微笑んだ。
「──どこにも、行けないよ」
 それは、随分綺麗に笑うものだった。
 囁くようにそう発した少年は、それからベッドの上に座っている青年の胸板を横になれと言わんばかりに軽く小突くと、さながら何事もなかったという風に彼へと背を向ける。おそらく呆然としているだろう青年へと彼は振り向きざまに軽く手を振り、
「起こして悪かったな。おやすみ」
 それだけ言って、寝室を後にしようとした。
「ま、待って……!」
 けれども、先ほど制された青年の手がそれを許してはくれなかった。
 一歩踏み出した少年の腕を、ほとんど反射的に伸びた彼の手がはしと掴む。それに驚いた少年は微かに瞳孔を開いたまま後ろを振り返り、青年の方を見た。それから相手へ何かを発そうとした少年の唇が薄く開き、けれどもどんな音を吐き出すこともなく、はくりと空気だけを飲み込んでは閉じられる。なんだ、も、どうした、も言葉にならない。声は出るはずなのに、どうして? 青年は少年の方をじっと見つめて、掴んでいる手にぎゅうと力を込めた。
「バニティ、今日、眠らないんでしょ……だったら、俺も寝ない……」
「……だから……おれには付き合わなくていいって、何度も……」
 小さな声、しかし確かに相手には明確な輪郭をもって聞こえるよう発せられたその言葉に、それでも少年は眉を少しだけ下げ、仕方がなさそうに笑った。
 まただ。また、言い出した。心配性でお人好しが過ぎるこの青年は、いつもこうなのだ。夜を越えようとする自分に付き合って、自分も眠らないなどと発するのだ。彼自身もまた、黒いウサギを嫌うこの悪夢の国で、枷をはめられているというのに。笑顔の枷。いつでもどこでも、何をされても何が起きても、怒りたいときでも泣きたいときでも、とかく笑わなければならない魔法。ああ、それは一体、どれほど酷いものだろう? 想像もしたくない。自分は、彼の女王だ。その役を彼に貰った。すでに足枷をはめている彼の足に、自分のものまで、この忘却の重りまで科せるわけにはいかない。少年は、緩くかぶりを振って、言い聞かせるように自分の腕を掴む青年の手を指先で叩いた。
「おい……」
 しかし、それでも、彼は少年の手を離さなかった。
「こら、離せってば」
「やだ……」
「や、やだ?」
「だって、」
 青年は微笑んだまま、けれどどこか泣き出しそうな光を目の奥に湛えて、柔く首を傾げる。
「だって、バニティ、泣いてるよう……」
 その言葉にはっとして、少年は掴まれていない方の手で自分の目元に触れた。そうして汗ばんではいるが、しかし涙は出ていないことを確かめると、彼は不機嫌そうに眉根を寄せる。
「……泣いてない」
「泣いてるように、見えたんだもん……」
「は、」
 その言葉に、少年は思わず吸い込んだ息が喉に引っ掛かって、言葉に詰まった。
「──はは。なにそれ……」
 下から覗き込むように青年がこちらを見つめている。そのさまに、少年は見えない心臓の在り処を真っ直ぐ指差されたような心地がして、ただ曖昧に笑ってみせた。乱暴に振り払ってしまおうと掴まれた方の手を拳にして、そこに力を込めたが、けれどもそれは持ち上げられることなく、ややあって再び力なく開かれた。
「……トロベリー」
 少年は、月光の差し込む大きな窓を見やって、自身の小さな唇から掠れた震え声を発する。
 声は、青年のかたちを描いていた。空に輝く一等星には到底及ばない、か細い声で紡がれたその言葉は、少年自身、相手に聞こえなければいいと思うほどのものであった。それでも、青年の耳は彼のどんなに小さな言葉でも拾い上げ、それらをひどくたいせつそうに両手で包み込もうとする、いつも。そして青年は、今回もそうであった。彼のまなざしは、少年の方を真っ直ぐ見つめて、頷いていた。
「うん」
「おれさあ」
「うん……」
「家族の名前も、忘れちゃった」
 睫毛を上げたまま、少年は呟く。寝台の前で二人の間に注ぐ月明かりが、涙を流していない彼らの頬へ、微かに細い川を描いている。少年は、発声練習のときと似た仕草で、胸の下に片手を置き、窓の方を見つめながら、小さく息を吸った。
「……ちょっとだけ、寂しいなあ……」
 それはまるで、泣きながら、歌うみたいな声だった。
 少年は言い当てられた見えない心の臓を両手に持ち上げて、今、青年へと向けてその傷痕を晒してみせたのだった。彼自身が醜いと嫌悪する、おのれの子どもじみた弱さを。暗やみでも、或いは暗やみだからこそはっきりと見えたその傷痕に、青年はさながら自分が傷を受けたような光を目の底に宿すと、相手の腕を掴んでいた手の力を少し緩めて、ベッドの上を柔く叩いた。
「バニティ」
「ああ」
「こっち、おいで」
「……うん」
 青年に示されるまま、少年は再びベッドの上へと戻った。その軽い体重でそれと分からないほどに音を鳴らしたスプリングが、けれども膝を抱えた少年の衣擦れの音によって上書きされる。彼は両膝の間に先ほどと同じように顔を埋めると、規則正しく息を吸ったり吐いたりをくり返した。ただ、その爪は自身の腕にきつく立っている。
「おれは……自分のほんとうの名前も、両親の名前も、顔も、声も、家の場所も忘れた。おれ、おれは一体誰なんだろう、トロベリー……」
 その問いかけに、青年はすぐさまかぶりを振る。言葉は、もう少し後をついてきた。
「……バニティは、バニティだよう」
「もう、すっかり完ぺきじゃないのに?」
「それでも、バニティはバニティなの……」
 少年は膝の間から顔を上げると、青年の目を見た。
 そして、その真っ赤な瞳が、けれども元々のそれとは別の理由で更に赤く染まる。
「怖い……」
 それは、月光の描き出した錯覚ではなかった。今度こそ、少年の瞳からは涙が零れ落ちていた。
「怖いんだ、トロベリー……ここは真っ暗で、なんにも見えない……」
 零れたのは、たった一粒だけであった。彼の流したそれは、じっと見ていなければおそらく気が付けないほどに微か、小さな涙だった。少年は自身の両膝をぐ、と抱き締めると、青年の方を見て表情を歪める。そのさまはまるで、親の花瓶を誤って割った子どものようで、言いつけを守れなかったことをひどく後ろめたく思うようでもあった。
「……ごめんなさい、」
「バニティ、だいじょうぶだから」
「ごめん……」
「いいんだよ。いいの、バニティ。ね、ほら、俺の方見て……」
 これから頭を叩かれるさながらに縮こまり、目をぎゅっと瞑った少年に、青年はその肩をそっと撫でてやりながら、優しい囁き声でそう促した。
「トロベリー……」
「うん」
 青年の言葉に、少年はおそるおそるといった様子で顔を上げる。そうして彼はまた歪に息を吸い、そのために喉が変な音を立てたから、自身の首へと片手をやろうとした。けれども、そんな指を青年の手のひらが制して、少年の目は相手のひどく柔らかな微笑みと出会う。
「……た……」
 こんなとき、なんて言えばいいのかを、ほんとうはずっと知っていた。
 相手へと、いいの、とまなざしで問えば、いいよ、と笑みで返された気がして、だから少年は、自分の手に触れている青年の手に、もう片方のそれを重ね合わせた。
「──助けて……」
 少年の言葉に、青年は頷いた。
 重なり合った両手同士を窓から降りてくる光ばかりが照らし、その中で青年だけが夜を抑え付けるような呼吸をしている。彼は、暗やみに光る少年の赤い月を目に映し、今から秘密ごとを教えるといった様子で、音を立てずにそっと微笑んだ。




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