ぼくらは寝癖をつけたズーノーシス



 「なあ」
 その日は、風が吹いていた。
 それは少し乾いていて、頭上の枝葉をかさかさと鳴らしていた。その音が妙に耳について、心をざわつかせたものだから、せっかく買った焼きたてのチョコチップクッキーの味もろくに分からなかった。夕暮れ前の森林公園は、時折遠くの方から帰路に就こうとする子どもたちの声が微かに聞こえてくるばかりで、驚くほど人通りが少なく、そのために生み出される余白の気配が目立って見えた。そんな隙間を目に入れたくなくて、なんとなく下げた視界に映った自分のスニーカーは、紐が馬鹿みたいに固く結んであった。そのすぐ横には小さな石ころが転がっていて、それは鋭さなど欠片もなく、毒気が抜かれて丸みを帯びていた。まるで、何一つ変われないままに諦めたみたいだった。心臓の痛みも、喉の渇きも、呼吸の詰まりもなかった。ただ、なんだかひどく、空が高いな、と思うだけだった。
「──イチゴは、おれといると寂しい?」
 だからだろう、そんな言葉が口を突いてしまったのは。
 外に出すつもりはなかった。小さな声のつもりだった。けれど、風が吹いていた。
「え……?」
 黒髪がどこか遠くを見ながら発したそのような言葉に、赤髪は自身の薄青い瞳をぱちり、と瞬かせる。音が立つほどではないが服の袖に空気を含ませる風は、互いの呼吸の仕方を隠す代わりに、言葉ばかりはどんな小さなものでも運んでくれるようだった。赤髪は隣に座っている黒髪の方へと顔を向けると、多少戸惑ったようにその眉尻を下げて首を傾げる。
「べつに……寂しく、ないよう……? バニティは、俺の友だちだもん……」
 先の言葉に対する柔らかい否定の言葉。そんな赤髪のなんとなく尻すぼみになった返答に、黒髪はクッキーの最後のひとかけを口内へと放った。そうすれば、肯定も否定もせずに済むと思ったからである、今すぐには。そして、その考え通りに、彼はもぐもぐとクッキーを咀嚼しながら、喉の奥で、ああ、と、いや、の間くらいの相槌を絞り出した。味はしない。それよりも、へばり付くような喉の渇きばかりをやたらに強く感じていた。
「そうだな」
 そしてややあって、黒髪は形ばかりの肯定を相手へと向けて送る。ほんとうは赤髪の目を見て、いつも通り悪戯っぽく口角を上げてやるつもりだった彼は、けれども何かが上手く噛み合わずに、相手の顔を見ることすらできないまま、どこかもの悲しそうにすら映る表情で笑っていた。
「……ねえ、バニティ」
 どうして今日に限ってキャップの一つも被ってこなかったのか。そのように詮のない問いかけを力なく自分自身に浴びせかけていれば、ふと名前を呼ばれてほんのちょっとだけ肩が揺れた。ああ、ちゃんとやらなければ。友だちを演らなければ。今日は一体、何がいけない? そう、それなら、たとえばきっと、背後で香る木々の香りがいけないのだ。それだけだ。黒髪は目を動かさないまま、舞台の上に立つときと同じ呼吸の仕方をした。
「うん?」
「その。誰か……好きな人……いる?」
 赤髪の突如とした問いかけに、黒髪は思わず息を止めた。
 なんで今、そんなことを? よりによって、なんで今? そうして視線だけをすっと上げ、けれども少しばかり背を丸めた黒髪は、ほとんど無意識に胸の下で両手を組み合わる。そんな彼の様子に、赤髪は微かにその目を見開くと、しかしすぐに切なげに眉根を寄せ、半ばかぶりを振るような仕草で黒髪から視線を逸らしたようだった。
 黒髪は一瞬だけ唇の内側をきつく噛むと、それからようやく赤髪の方へと顔を向けた。今度こそ、悪戯な笑い声を喉から洩らす。その声にこちらを見た相手の目を眺めて、黒髪は自身の赤い瞳を逆さまの三日月に細めた。
「バニティバラッドは恋をしない。世界中、みーんな知ってるぜ」
 こんな模範解答をも、舌に乗せれば風は運んでくれる。暮れかけの光が、赤髪の瞳を照らしていた。癖っぽい前髪が風に流れて、呼吸をするように揺れている。その髪が目にかかったとき、毛先の隙間から覗いた瞳の色が少し、いつもより少しだけ鮮やかな水色に映ったのは、果たしてこちらの気のせいだったろうか。ティファニーブルー。或いは、斜陽のせいだろうか。それとも。
 赤髪は、黒髪の目をじっと見つめ返した。それから彼はなんとなく困惑した光を自身の瞳の中に浮かべて、ゆっくりと瞬きをし、ちょっとだけ首を傾げる。
「恋……しないの? バニティって……」
「……バニティバラッドは、人間じゃない。みんな、そういう夢を見てたいだろ」
 だって、自分自身ですら、そうであると思っていたのだ。バニティバラッドは演劇の化け物。男でも女でも大人でも子どもでも、人間ですらない。現実には生きることができない。舞台の上でしか生を紡げない。唯一無二で、だからこそ何者でもない。そうなのだと思っていた。舞台の上で何にでも成れるのならば、それでいいと思っていた。それがいいと。
 そう思っていた。彼に、心臓の在り処を指差されるまでは。その奥に誰がいるのかを暴かれるまでは。
「バニティは、バニティだよ……」
 緩く首を振って、困ったように赤髪は小さく笑った。ああ、ほら、今も。こめかみの少し下で、柔い痺れを感じる。瞬くほどではない痛み。彼の発するバニティ≠ヘ、観客が発するバニティ≠ニは随分違う。家族の発するものとも、きっと。
 近いのだ。いつもあやまたずにこちらの鼓動のかたちを言い当てる彼の言葉は、その声は、どうにも近すぎる。スポットライト、陽光、月明かりの受け取り方は分かる。賛美、拍手喝采、その浴び方も。けれども、これは。この言葉と声の受け止め方が分からない。こんな感情の抱え方も。
「──なら、おまえは?」
 分からない。やけになるほど。こんな風に、八つ当たりみたいな問いかけをするほどに。
「え……?」
「おまえはいないの、好きな人」
「……俺、は……」
 間違えている。からかうように言葉を発してやまない自分自身に、黒髪は片手で片手の甲に爪を立てた。だめだ。間違えている。選ぶ台詞を、間違えている。こんなことを言いたいんじゃあない。こんなことを訊きたいわけでは。
「いや。……当ててやるよ」
 黒髪は心の中だけでかぶりを振る。止めろ。それから、先とは別の意味で首を振る。もう遅い。自分の首を締めてみたとて、きっとこの口は言葉を発するのを止められないのだ。そう、自分たちはとにかく、ひたすらに、友だちなのだから。恋愛相談くらいはするものだろう。恋の話くらいは。息を止める。ほんとうは、歯を食いしばりたかった。
「──まず、おまえには好きな人がいる」
 ほとんど諦めだった。黒髪は赤髪の心を指差す代わりに、自分の心臓に刃物を突き立てて、けれども勝ち気な表情で笑ってみせた。或いは、痛かったから笑ってやった。胃の方から血ではない赤いものがせり上がってくる妙な錯覚さえ感じて、彼はするりと赤い目を細める。そのさまはおそらく、相手には得意げなそれに見えるはずだった。
「俺は……、」
 黒髪の視界などは自分の痛みに酔うばかりで、もうろくに使い物になりはしなかったが、それでも相手の瞳の青が、波紋の広がる水面さながらに揺らいだことだけは気が付いた。赤髪は、分かりきったように自分の方を見て口角を上げる黒髪からゆる、と視線を逸らすと、
「そうだね、いる、かも。あは……」
 と言って、当て所なく笑った。
 その表情がどのような不安を示すものなのか、黒髪は見抜けない。自分のためではない、自分ではない他の誰かの元からやってくる色の種類など、探る気もなかった。過ぎた好奇心は猫を殺す。そんなことは、少年の頃から知っていた。あのことわざは正しい。実際、今、殺されかけているのだから。
「ああ……」
 黒髪の唇の隙間から、思わず嘆息に近い音が洩れる。それを相槌に見せかけたくて、彼は間髪を入れずにこくりと頷き、赤髪へと向け片手をひらりと振った。
「それで、その人。……おれに似てるだろ?」
 何気ないように投げたその賽の目が、黒髪にとっての上がりの数だった。
 そして、これこそが、彼の諦めでも怒りでも悲しみでもない、それでいてそのどれもである、血の代わりに吐き出した赤いものであった。ああ。この言葉はきっと、少し、彼を傷付けるだろう。もう友だちではいられないかもしれない。堪え性がないこんな自分のせいで。ただ、これから、その報復をきちんと受けるから。彼はゴール地点に立ち、賽を振るだろう赤髪のことを迎えて待った。心の臓に突き刺した、そのナイフを引き抜いてもらうために。
「うん、」
 ややあって、黒髪が転がした言葉をしばらく眺めていた赤髪は、ほんの少しだけ、風になびく前髪に誤魔化されそうになるほど少しだけ頷く。その様子に、黒髪はナイフの握りに手を掛けられた心地がした。それからいよいよ観念したようにちらりと視線を黒髪の方へ向けた赤髪は、
「……似てるね。バニティに……」
 そう呟いては、どこか力なく微笑んだ。
「あ──」
 そんな赤髪の返答に、黒髪は瞬きの短い時間だけ、自身の目の中に走ったひび割れの傷を隠すことができなかった。最早、心臓に刺したナイフを抜かれたかどうかすら分からない。ただなんとなく、見下ろせばそこから血に限りなく近いものが流れ出ているような気がして、それを目にするのもひどく恐ろしくて、彼は相手の方を見たまま、ちゃんちゃら可笑しいといった風に口元を歪めた。
「アハハ! やっぱりな。そうだと思ったんだよ。だとしたら、おれは予行演習にはお誂え向きってワケだ。……フフ、なんなら、素敵な台詞でも教えてやろっか?」
 からかうような調子でそう発しながら、同時に、これでは友だちとしても最低なのではないか、と静かになっていく鼓動が語りかけてくる。たちの悪い社交辞令にも似たこちらの言葉を、けれども真正面から両手で受け取った赤髪は、それを俯きがちにじっと見つめた。
「……俺……言うつもりなかったけど、バニティが教えてくれるなら、知りたい」
 そうして幾らかの呼吸を費やしたのち、赤髪の出した答えはそのようなものだった。
 風が吹いている。それが相手の赤い前髪を近いもののように揺らして、ひどく遠いもののようにふわりと浮かび上がらせていた。そうしてつと、赤髪の顔がこちらの方を向き、そのやさしい水色の瞳と否応なしに目が合う。きっと、逸らすべきだった。あまりにも綺麗で、できなかった。相手の目の色に黙って息だけを行いながら、そうか、と思う。
 そうか。まるで観念した彼の目。それは自分みたいな諦めからやってくるものではなく、むしろ、覚悟からやってくるものなのだ。彼は終点だと思われたところで、先ほど投げた賽をそのままに、そこから先へと一歩踏み出してしまった。立ち止まり、こちらを見て笑んだ彼に、思わず背後を振り返れば、自分たちがやってきた道は今まさにぼろぼろと崩れ落ちていこうとしていた。ここから先の道が、一体彼にはどう見えている? 暗い。ねえ、おれには、真っ暗やみにしか見えないよ。夜だ! 自分の喉元を握り締めて、目を瞑りながら終点の先へと一歩、踏み出す。
 しかし、ふと、自分の首を絞めていた片手を掴まれた気がして、うっすらと瞼を開けた。
 やさしい青色が、夜でも淡く光るその瞳が、首を傾げるようにこちらを見つめている。手をぎゅうと握られ、だいじょうぶだよ、と言ってもらえた心地がして、だから、少し泣きたくて、だから、幸せになってほしくて、だから。
「──世界で君以外の連れは望んでいない=v
 知りうる限りの愛の台詞を、発した。
 立ち上がり、今まで舞台で演じたもの、そうでないものも含めて、彼へと向けて台詞を延々と浴びせかけた。それはおよそ、彼のためではなかった。彼と、彼が好きな誰かのためでは。自分のためだった。ただ、この自分のために違いなかったのだ。
 けれど、それでもきっと、シェイクスピアもゲーテもチェーホフもオスカーもテネシーもイプセンもダンテも、彼の心を──おれの心を、そのまま表す台詞を持ち得てはいない。それはおれのための台詞ではない。必要なのは、おれ自身の言葉だ。いちばん相手の心に届くのは、結局のところ、それなのだろう。
「……ああ、逆にさあ、こういうのはどう?」
 息を吸う。だから、この台詞でおしまいだ。吐露しちまおう。これがどんな戯曲で、誰の書いたもので、どんな人物の台詞だったか、もう思い出せないけれど。
「──おれのことが好きだろ?=v
 心臓の上に片手を置いて、もう片方の手は彼の方へと差し伸べた。
 暴力的なほど投げ付けられた愛を歌う台詞台詞台詞の洪水を受けても尚、赤髪は黒髪の方をひたすら一心に見つめている。まるでこの世界に黒髪しか存在しないというようなまなざしを斜陽の光に織り交ぜていた彼は、しかし相手がとうとう発したその台詞もしくは言葉に、何か確信めいた色を自身の目に宿したようだった。
「……なあんて! ふふ、さすがにイチゴのキャラじゃあないな」
 一歩下がって、半ば冗談めかして黒髪は笑った。そんな風に軽やかな調子で、他意もなさそうに語った彼の頬は、太陽の光に照ってより真白な輪郭を帯びている。けれども、さらさらと言葉を運ぶ今日の風は、黒髪の微かに染まった赤い耳を、その目元を、緩やかに暴いていた。
 そうして赤髪は視線の合わない相手のことを未だじっと見つめたまま、少しだけ背を丸め、胃の少し上辺りをぎゅっと握り締めて笑い声を上げる。
「フフ、あはは……その台詞は、バニティが言うと、いちばんかっけーやつだよう……! 俺じゃあ、格好付かないよ」
 かぶりを振って、仕方なさげに笑む相手に、黒髪は思わず差し伸べていた片手をそっと下ろした。
「でも、そうだなあ……」
 そんな黒髪の手を追っていた赤髪のまなざしが呼吸をするようにふと上がり、彼らはそこでようやく視線が交わる。黒髪は自分の鼓動を、耳の中で聞いた。それを境にして、周りの音が消えていく。自分の呼吸すら、今は遠い。揺らぎの収まった水面が、澄みきってこちらを見ている。おそらく、ここで逃げ出すべきだった。あまりにも美しくて、できなかった。息もできない。ただ、相手が呼吸をした音だけは聞こえていた。
「……バニティは、俺のことが好きでしょ?」
 きっと、心臓に刺したナイフを抜かれたのは、今だった。
「は、」
 耳の奥で、鼓動でないものがわんわんと鳴いている。目の前が一瞬真っ赤に染まって、頭と胴体を繋ぐ線をぷっつり断たれた心地がした。
 なんて。
 なんて言えばいい? なんて言えば、割れた卵を元に戻せる? 黒髪は力が抜けそうになる足を半歩後ろへと下げて、息もできないまま、乾いた笑いを薄く開いた唇から絞り出した。
「は、はは。……ひどいヤツだな、イチゴは。おまえ、友だち使って、練習なんてさあ……」
 分からない。何も分からなかった。だから、引き抜かれたナイフを相手から奪い取って、その喉元を突き刺すように振り下ろした。
「……そうだね。俺、バニティを試すようなこと、しちゃったなあ……ごめんね」
 彼は避けなかった。
 それでも、ナイフは彼の喉には刺さらなかった。不信に思って手元を見てみれば、自分の握り締めているのはなまくらですらない、おもちゃのナイフだった。あれ? 今度は自分の胸元を見る。ぐちゃぐちゃに爛れた自分の心臓には穴が空き、そこからはどろどろとした赤いものが絶えず流れ出ていた。いつの間に自分の言葉はこんなちゃちな代物になった? いや。そもそも自分は、こんなおもちゃの刃物で死んでしまうほどに弱いのか。そんなやつが、バニティバラッドのわけがない。ならば、誰だ? おれは、誰だ? 今彼と話している、このおれは一体誰なんだ?
「リバティ」
 名を呼ばれ、はっとして顔を上げる。足はもうその場に縫い止められたまま、視線を逸らすこともできずに彼のまなざしを受けた。彼は笑っていた。少しだけ困ったような、あの笑顔。それは静かで、やさしい笑みだった。
「でもさ、リバティは──俺のこと、好きでしょ? 違う?」
 すべて分かったままの柔くも確かな問いかけに、そこに編み込まれた自分の名前に、その声に、目の前が真っ白に焼かれたような気分だった。太陽を見たわけでもないのに、人はこうも簡単に失明をする。人は? おれは。
「……いつから」
 自分の声。なんだか随分久しぶりに聞いた気がする。
「いつから、気付いてたんだ……?」
 そうしてほとんど無意識に、からからに渇いて張り付いた声が、喉の浅いところから吐き出された。心臓が脈打つのを諦めて、熱かった内側が急激に冷えていくのを感じる。賽も振らずに踏み出してしまった足元が、自分のところだけ夜の淵に崩れていくのを見た。縋るように見た相手の顔が、けれども滲んでろくに見えないのは、きっと自分にその資格がないからだろう。もう振り出しにすら戻れない。なんで? どうして? 今日だって、いつも通り、最高の友だちのままで終わるはずだったのに。何を間違えた? キャップを忘れたのはわざとだ。なんとなく浮かれてイヤリングを着けた。ジャケットの下のシャツは、袖にフリルが飾られているものだ。そうやって、友だちのふりが下手だったから? 嘘を重ねたから? 演りたくもないのに演ったから?
「あ、」
 地面にぼたぼたと、血ではない何かが染みを作っている。それが何かも分からないまま、黒髪は自身の耳を片手で塞いで、言葉を吐きながら息を吸うような、ひどく歪な笑みをその口元に形づくった。
「あ……おれ。もっとちゃんと隠せてる、隠せ、ると思ってたのに。ご、ごめん。ごめんね。ごめ……」
 黒髪はかぶりを振って、過呼吸ぎみに息を吸った。その様子に赤髪がはっとして、半ば慌てたように名を呼んだが、今の黒髪は自分の中でがんがんと打ち鳴らされている音と対峙するのに必死で、彼の声が届かない。
「リバティ、」 
「お、おれ、イチゴのこと好きだから、おまえがおれと誰かを重ねてるの、前……から、分かってた……」
 止め処なく両目から涙を流しながら、力なくそう発せられたその言葉に、赤髪はベンチから腰を浮かせては黒髪へ向けて片手を伸ばした。
「ひどいなあ。名前、呼ばれなかったら、きっと……」
 差し伸べられた手さえ自嘲ぎみに振り払って、黒髪は形ばかりは悪戯っぽく笑んでみせる。ほんとうに、どうしたらいいか分からなかった。何を言えばいいのか。なんて言ったら、ゆるしてもらえるのか分からなかった。割れた卵は孵らない。二度と元には戻らない。卵を割ったのは自分だ。なんて言ったらゆるされる? 息を吸う。それから吐き出されるのは、謝罪の言葉ばかりだった。
「……ごめん。イチゴとイチゴの好きな人、上手くいくといい、な。応援……してる、から」
 本心だ。分からない。本心でなければいけない。黒髪はそれだけ呟くように、或いは乞うように発すると、赤髪へと背を向けて、訳も分からないまま駆け出した。
「──ま、待ってよ、リバティ……!」
 視力を失ったまま、黒髪は脇目も振らずに走った。背後から赤髪が追いかけてくるのを気配で感じていたが、それも彼には意味が分からなくて、とにかく今は何もかも振り切って、誰もいない、自分だけしかいないところへと逃げ出したかった。
 走って、走って、森林公園の道ではない場所まで入り込む。さながら森そのものであるように木々が生い茂るそこを駆け抜け、足に絡む蔦を引き千切り、服に引っ掛かる枝も無視して、邪魔なものを邪魔と認識できないままに彼はひた走る。ただ苦しかった。ここはどこだ。森だ。夜みたいに暗い。迷ってしまった。息ができない。助けてくれ。いや、どうでもいい。もうすべてどうでもいい。ここから消えたい。このままどこかへ。このままどこかへ落ちてしまいたい。すべて忘れて、舞台の上で踊っていたい。結局そこにしかおれの居場所はないのだ。リバティ・バロックにはバニティバラッドで在ることしか、その存在価値がない。彼はおれを好きにはならない。そうだ。そうなのだ。分かっていた。分かっていたことだ。分かっていたことだ。分かっていたことだ! 
 目の前に見えた柵に足を掛けて、身を乗り出す。つと、右側からスポットライトみたいに激しい光。それから耳をつんざいたのは、けれど開演の音ではなかった。クラクション。あ。車だ。
「え、」
 そして、それに気が付いた瞬間、後ろから思いきり身を引かれた。相手の力によって後ろへと大きく傾いた黒髪の身体は、両腕でこちらの胴を抱いている赤髪の方へと背中から倒れ込み、彼らは土の上に尻餅を突く。
「……あ、危なかったあ……!」
 目を見開いたまま、焦燥と動揺と混乱をないまぜにして、それでも赤髪は心底安堵したようにそう呟いた。柵の向こうは道路だった。過ぎ去っていく大型トラックをぼうっと見つめたまま、黒髪はゆっくりと瞬きをする。
「──あんな逃げ方したら、そりゃ追いかけるよな、おまえだったら……」
 呟いて、彼は自身の胴に回されている赤髪の両腕を見下ろした。ともすると今死んでいたかもしれないというのに、自分の心臓はいやに冷ややかな音を保っている。何から何まで上手くやれない。でも、もし、さっき、あの車に。最低な考えが頭を巡り、そんな自分に失望する。鏡に、この世で最も醜いものは、と問えば、おそらく今の自分を映し出すだろう。
 そうして相も変わらず鈍い光を目の中に宿し、黒髪は温度のない声で呟いた。
「……も、ダイジョブだから、離して」
「やだ」
「離してよ」
「嫌だってば……」
「なんで」
 けれど、幾ら言っても腕を離そうとしない赤髪に、彼は痺れを切らして回されている腕を引き剥がそうとする。だが、両手にぐっと力を込めて引っ張ってみてもびくともしないそれに、黒髪は眉根を寄せた。梃子でも動かないどころか、腕を外そうとすればするほどむしろ抱き締める力が強くなっていく相手に、黒髪はいよいよ困惑する。動くことが叶わないため、視線だけで後ろを振り返ろうとすれば、自分の顔のすぐ横に赤髪の顔が見えて、彼は思わず声を上げそうになった。
「おれ、俺も、リバティが好きだよう……」
「……は?」
 しかし、そんな黒髪の驚きは、赤髪が発した言葉によって元の姿が思い出せないほどに上塗りされた。彼は、ついに幻聴が聞こえはじめたか、と自分の精神を案じかけたが、こんな耳元で話されて聞き間違うはずもない。そも、自分の聴力には昔から自信があるのだ。黒髪はますますその眉間に深く皺を刻んで、どうにか相手の顔を覗き込むようにした。
「リバティは、忘れちゃっただろうけど……ずうっと前に、リバティに会ってんだあ、俺……。気持ち悪いって思うかもしんないけど、そんなときから、俺は……」
 訥々とだが確かに言葉を紡いでいく赤髪の瞳は、見たことがないほどに迷って、迷いながら答えを選び取っている。そのさまは、黒髪が今まで見たことがないほどに真剣そのものだった。すぐ隣で、息を吸う音がする。代わりに黒髪は、自身の呼吸を止めた。
「──俺は、ずっと、ずっと、好きなんだよう」
 両腕に込められる力が、更にぎゅうと強まる。おそらく熱いのは、赤髪の体温だった。今にも泣き出してしまいそうな相手の表情に、黒髪は手首の内側を額に当てると、それから未だ湿っている自分の頬を触り、涙を拭った。
「……頭痛くなってきた」
「ご、ごめんねえ、リバティ……」
「その。おれたち、やっぱり……会ったことがあったのか。で、でも、なんで? おまえと初めて会ったときに、ほら、おれ、言っただろ? どこかで会ったことがあるかって……」
 混沌を極めてやまない頭をどうにか整理するために、黒髪は眉根を寄せたまま、難しい顔で自身の片手の指先をパチパチと鳴らす。赤髪は、そんな彼をどこか懐かしげに見下ろして、それから小さくこくりと頷いた。
「……うん、俺も最初は、忘れちゃってたよう。だけどあのとき、バニティの舞台を観て、かっけーバニティのこと、想い出したんだあ……。あっ、でもね。リバティは俺のこと、思い出さなくてへーきだよう? 昔の俺、ヘンでいじめられてて、すげー弱虫で、バニティに助けられてたから……」
「はあ?」
 相手の言葉に、失ったと思っていた視力が徐々に戻り、不可解な生き物の鳴き声みたいな耳鳴りが遠のいていく。頭と胴体は未だぴったりと繋がれている上、見下ろせば心臓に穴など空いていなかった。手元には刃物どころかおもちゃのナイフすら見当たらない。自分の足元は雑草の生い茂るただの土で、ここは森林公園の外れだ。
 黒髪は息を吸って、吐いた。ひどく長い間息をしていなかった気がする。そうして彼らしいふてぶてしさで腕組みをすると、その口角を歪めては赤髪へ向けて笑ってみせた。
「ヘンでいじめられてた? おまえが? それこそ変だ。周りの連中は随分とナンセンスだったんだな。おまえはトクベツでデキるヤツなのに。おれの見る目を舐めるなよ。フフ、そいつら、今に後悔するぜ」
 言いきって、はあ、と溜め息にも近い声を吐く。夕暮れ。夜はまだ来ない。けれど、ここが暗くてよかったかもしれない。頬に残る涙の痕だけが、ひどく確かな傷のように思えたから。
「ふ。あは、はは……バニティ……」
「何」
「バニティは、あのときも、あんな俺に向かって、そう言ってくれたんだよう」
 そんな黒髪の涙の痕を、まるでいっとう美しいものであるように赤髪はなぞって、その目の端に溜まっている水をそうっと拭った。
「ぜんぜん変わらないよ、バニティは。俺の好きなバニティは、ずっと昔から変わんない……」
 頬を伝った赤髪の指先に片目を瞑って、黒髪はゆるりと相手から視線を逸らした。それから何かはっきりとしない表情で、さながらぼんやり水の上にでも浮かぶ風に、彼は足元の草花と木の根の隙間を見やりながら、組んでいた両腕を解く。相手の腕を胴から離すのはもう諦めたらしい黒髪は、そのまま三角座りの体勢を取った。
「……結局さあ、おまえの好きな人って誰なの」
「え? だ、だから、キミだよう、リバティ……」
「それって、今のおれ? そうじゃないなら、たぶんおれは、昔のおれにはなれないよ。憶えてないけどさ……おまえのバニティは、きっと、強かったんだろ? こんなおれとは違って」
「強い……うん、そうだね。でも……」
 黒髪の言葉に、赤髪は小さく笑ったようだった。そうして彼は黒髪の長い睫毛を指の先で柔く触れると、すぐ隣にあるその赤い瞳を見つめて、自身の水色の目を細める。木々の間から洩れる夕暮れの陽に反射した赤髪の目がひどく煌めいて見えて、黒髪は呼吸の代わりに、次は瞬きを忘れてしまった。
「──バニティは痛いところや、苦しいところを俺に見せてくれたよ。たぶん、俺だけには……。だから、キミが強くて、格好良くて、かわいいだけじゃないってこと、俺は知ってる。つもり……」
「……そんなの、バニティバラッドじゃない」
「そうかなあ。だけど、それでも、そういうとこを全部引っくるめて、俺はリバティが好きなの。昔も、今も。それじゃあ、だめ?」
 その問いかけに、黒髪は微かに俯く。だめ? だめなわけがあるものか。でも、頷く? 頷いていいのだろうか、自分が? 卵を割ったのにお咎めなし。そんなことが有り得るのか? 分からない。分からないが、有り得るのかもしれない。奇跡的な確率で。たとえば、彼がバニラアイスクリームのチョコレートソースがけより、おれに甘かったら、或いは。
 そんな黒髪の浮遊した思考を音が鳴る勢いで再び地面に戻させたのは、しかしてやはり赤髪であった。喜びというよりは、困惑と混乱と動揺ですっかり涙が引っ込んでしまった黒髪に対して、今度は赤髪の両目からぼろぼろと水滴が零れ落ちていく。その理由が全く分からない黒髪は、ぎょっとして少しだけ相手から身を引こうとした。びくともしなかった。
「……でも、大きくなったねえ……よかったねえ、バニティ……」
「え、ええ? な、何泣いてんだよ……? 大きくなったねってイチゴ、年あんま変わんないだろ……」
「うう、そうじゃなくて……そうじゃないけどさあ……俺、嬉しくて……でも全部言おうか迷って……ごめん……ごめんねえ……」
「お、落ち着けっての。まったく死人と話すみたいなツラして……ほら、ちゃんと生きてるだろ。おまえが助けてくれたから。ダイジョーブ。もう、おまえはおれの親かっつーの……」
「お、親……」
 頭の上に分かり易く浮かんだ疑問符を一つ引っ掴んで、黒髪は目を眇めた。想い出せない。自分と彼は確かに以前、どこかで会ったことがある。その感覚だけは妙に確かに手の中にあるというのに、具体的な時期や場所や、彼とのやり取りが一つも想い出せないのだ。きっと、彼は鮮明に憶えているらしいそれを、何故か自分だけが想い出せないのがひどくもどかしかった。心の中で溜め息を吐く。訊いたら教えてくれるだろうか。あまり想い出してほしくはなさそうだったけれど。いや、どうだろうな。変なところが頑固だからなあ、イチゴは。自分もだけれど。だから今、こんなことになってるのだろう。
 すう、と息を吸って、吐く。ゆっくりと瞬きをして、黒髪は相手の両腕を指先でとんとんと叩いた。
「とりあえず、離してくんない。おまえは良くてもおれはだめなの」
「あ、ごめんねリバティ。苦しいよね」
「そお。心臓が苦しいんですよ……」
「う、」
 慌てて、ぱ、と身を離した赤髪に、黒髪はむっつりとした表情で相手に向き合った。風が駆け出したときよりも冷たくなり、それらが辺りの草木を昼間よりも硬質な音に鳴らしていることに、彼は今さら気が付いた。それからなんとなく、こうして座って向き合って話すのを、もう自分たちは何度もやったことがあるような気分になって、黒髪は胸の内だけで首を傾げる。
 そうして不思議な錯覚に黒髪は囚われかけ、けれどもゆるゆるとその視線をあちらこちらへと彷徨わせている赤髪の姿が目に映ると、彼の心はそちらの方へと向く。黒髪は相手にも見えるように小首を傾けると、何かを言おうと淡く息を吸ったり吐いたりしている赤髪の方を見て、発せられる言葉を静かに待った。
「お、俺ね……!」
「うん」
「これからはちゃんと、リバティのこと子どもって思わない……よーに、するから……だから……」
「うん?」
 つと赤髪が眉根を寄せ、自分の両目を瞑って、ごし、とやや乱暴に拭った。そのさまに、相手の目が傷付くことを心配した黒髪が、片手を少しだけ浮かせる。それと同時に目を開けた赤髪は、今まさに伸ばされようとした黒髪の手首をはしと取ると、もう片方の手も合わせて取り、それらを自身の両手でぎゅうと握った。
「……リバティ、俺と付き合ってください……」
 それは、吹けば飛んでしまうほどに小さな声だった。実際、黒髪もまた自分の聞き間違いを疑って、ぱちぱちと瞬きをくり返す。それとも、言葉の意味を、延々と絡まり続けている頭でどうにか咀嚼しようとしていたのかもしれなかった。
 互いの目を見つめ合って、十数秒。視線を逸らすこともできずに、ただ握られている手がどんどんと熱くなっていくことばかりを感じながら、黒髪は自分の喉の奥から何か目に見えないものが上ってくるような気がして、ほんのちょっとだけ咳をする。それを照れ隠しだと悟られたくなくて、彼はなんとかそれがいつもの悪戯っぽい笑い声に聞こえるよう、紡ぐ予定もなかった言葉を継いだ。
「ふ、ふーん……なんだって? ぜんぜん聞こえないなあ」
「う……うう。リバティ、俺と、付き合ってくれる?」
「ん。よしよし。よく言えたなあ、ふふ、偉い偉い……」
 先ほどよりずっと確かに発された言葉に、ごくごく自然に黒髪は相手の頭を撫で、そんな自分に多少驚いた。前にもこんなことあったっけ。あるわけないか。なんだかひどく嬉しそうにも見える赤髪の方を見つめて、黒髪はその唇にそっと弧を描かせた。
「じゃ、ご褒美にさっきの質問の返事をしたげる」
 言いながら、彼は赤髪のその癖っぽい毛先にじゃれるよう、少しだけ触れた。
「おれはおまえが好きだよ。それで、おまえも……」
 そうして黒髪は、そう在るのが当然というような様子で、赤髪の首に両腕を回した。今度は、彼が自身の行動に驚くこともなかった。自分にとって、これは息をするのとなんら変わらないことだと、鼓動の方から伝えてきたためであった。
「──おれのことが好きだろ、イチヒコ?」
 言ってしまえば、なんてことはない。それはまるで、お決まりの台詞を発したような気分だった。
「うん。俺も……俺も、リバティのことが好き……」
 そうして睫毛と睫毛がくっつく距離で見つめれば、彼はまた泣き出してしまいそうな表情で、滲むように笑い、そう頷いた。きっと彼の台詞は、ばかでやさしい永遠を約束する言葉で締められる。お決まりの、世界でいちばん素敵な言葉。
「大好きだよ、ずっと」
 ほらね。


 Strawberry Vanilla Frozen Sherbet
 2020413 執筆

 …special thanks
 王城一彦 @橋さん

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