細胞融合じゃすまない



 とく‐べつ【特別】
 一[名・形動]他との間に、はっきりした区別があること。他と、はっきり区別して扱うこと。また、そのさま。格別。「特別な(の)準備」「特別な(の)感情は持っていない」「特別に許可する」「特別サービス」
 二[副]
 1 他と、はっきり区別されるさま。物事の状態・性質などの度合いが群を抜いているさま。格別。とりわけ。特に。「今日は特別暑い」
 2 (下に打消しを伴って)これといって。それほど。「特別することもない」


 辞書は、彼の心ではない。
 青年の眉間に皺が寄る。そうと分かっていながらも表示したデジタル辞典を見つめ、けれど、分かっているからこそその視線は文字の上を滑っていた。スクロール。何度読んでみたって、他のサイトに移ってみたって、そこに表示されるのは似たり寄ったりでありふれた模範解答のみだった。ホームボタン。青白く光るスマートフォンの画面を切る。
 それから溜め息にも似た息を吐いて、青年は風呂上がりの水滴を身体からふき取ると、そのバスタオルでさながら大型犬のように自身の赤髪をざくざくと拭い、同じような調子で服を着た。そうしてどこかぼうっとした面持ちで普段より数倍雑にドライヤーをかけると、彼はもう一度スマートフォンの液晶を点けようとして、けれどもそれをズボンのポケットへとしまい込んだ。
 ――あ。ごめん、……つい。
 脱衣所の洗濯機に背を預けて、赤髪の青年は自身の唇に軽く触れた。そこは確かに、先ほど触れ合ってしまった箇所だった。彼と。彼の、方から。バニティはつい、で人とキスするの。その言葉を発した自分の声は全く思い出せないというのに、それから一拍置いて返された相手の言葉はそれを乗せた声色までありありと思い出せるものだから、無意識に赤髪は自身の唇の間から息を吐いた。
 ――イチゴは、トクベツ……
 正直、そこからどうやって家まで帰ってきたのかを覚えていなかった。ただ、ちら、とこちらを見てからすぐに逸らされたその横顔が赤かったのをよく覚えている。彼の真っ赤な顔でトクベツ、と呟いた口がはっとしたようにごめん、を発して、その顔色が今度はさあっと青く染まって、それで。それで、今日は帰る、とどこか逃げ出すように踵を返した彼が長い階段の上から落ちかけて、そんな彼をなんとか助けて、それで。何かを話したはずだった。何かを話しながら歩いて、それで。それで――どうしてか、一緒に家に帰ってきて、夕食を食べて、風呂を貸した。赤髪は喉の辺りで糸がぐちゃりと絡まっているような心地がして、意味もなく唾を飲み込む。なんでこんなことになってんだろ。いや。赤髪は心の中で首を振る。特に何もおかしくはないはず。友人を家に招いて、泊めることくらい。いやいや。更に首を振る。ただの友だちだったら、キスなんてしないのではないか。息を吐く。赤髪は、がこ、と洗濯機の蓋を開け、そこへバスタオルを放り込んだ。つまり。
 つまり、トクベツってどういう意味なの?
 同じ問いが何度も何度も頭の中で反響し続けている彼は、しかしそれを相手に悟られまいと、向かった自室の前で音を立てずに深呼吸をした。それからゆっくりと瞬きをし、ドアノブに手をかけたところではたとする。
 中から何か、オルゴールのような音がしていた。
 その音に、赤髪は心の中で首を捻る。自分の部屋にオルゴールなんてあっただろうか。息を潜めて、聞き耳を立てた。きんと透き通った音色に、どこか聴き憶えのある旋律。ああ、そうか、オルゴールではない。この扉の向こうで、彼が歌っているのだ。けれどもそう理解したところで、心臓と肺の間が嫌な音を立てて軋む感覚がして、赤髪はひゅっと息を呑む。それを自覚するよりも早く、彼はドアノブに力を込めて回すと、何かひどい焦燥感に駆られて目の前の扉を開け放った。
「バニティ……!?」
「え、」
 そしてそんな赤髪の視線が、その先に在った瞳とかち合う。両方とも違った意味で見開かれている目を見つめ合って、数秒。部屋のテレビの前で三角座りをしていた黒髪の青年が、未だ驚きの表情を隠せないまま、赤髪の方を見てぱちりと瞬いた。
「……イチゴ……? な、なんだ。どうした?」
「え? あ、ああ、ううん……」
「なんだよ、はは……てかおまえ、ちゃんと髪乾かした? 風邪ひくぞ」
「うん……」
 訝しげにこちらを見上げている黒髪に、赤髪はどこかぼんやりと生返事をした。そんな彼を見てなんだかちょっと困ったような笑みを浮かべた黒髪に、赤髪はその目をじっと見やりながら今度は心の中でなく首を傾げた。何をそんなに焦ることがあったのだろう。相手のまなざしに微笑みかけて、彼は黒髪の隣にゆるゆると腰を下ろした。黒髪の身体がほんの少しだけ動いて、その視線がテレビの液晶の方へと向く。
「……バニティ、何か歌ってた?」
「ん? うん。きらきら星」
「きらきら星……」
 黒髪の返事をおうむ返しして、彼は隣人の横顔を見やった。黒髪が眺める液晶テレビには、孤独な殺し屋の男と、同じく孤独な少女が織り成す奇妙な共同生活が映し出されている。ベッドの上で仰向けになった少女が男の名を呼んで、言った。あなたに恋してるみたい。初めての恋よ。多くの人は、この映画に描かれるそれらすべて引っくるめて愛と呼ぶ。黒髪の表情は、その長い睫毛が時折瞬きのために伏せられるばかりで変わることはなかった。
「バニティ」
「うん」
「好き?……きらきら星」
「どうかな」
「ええ? あは……なあに、それ」
 赤髪の問いかけに、黒髪のまなざしだけがちらりと相手の方へ向けられた。けれども目が合う前に逸らされたそれと曖昧な回答に、赤髪は眉間に柔く皺を寄せて、気が抜けたように笑う。そんな相手に気付いているのかいないのか、黒髪は映画に向けている視線を少しだけ下げた。瞬きのために伏せられたのではない睫毛。彼は膝の前で組み合わせていた両手をほどいて、その片手を自身の左胸へと連れていった。唇がそっと動く。ワンフレーズ。冴えた小さな歌声が、星の名を問うた。彼の歌が一等星を描く間だけ、赤髪には流れる映画の音が聞こえなかった。
 そうしてふと、すぐに歌うのをやめた黒髪の視線が、もう一度赤髪の方へと向けられる。彼の両手は、再び膝の前で組み合わされていた。
「好きっていうか……まあ、でも、よく歌うよ。舞台の前とか、そういう……緊張とか不安とか、心がざわざわしてるときに。なんとなく、これがいちばん歌いやすくてちょうどいいから」
「あ。バニティも、緊張とかする……?」
「する。たぶん、一生。心から好きなものを目の前にして、一つも緊張しない方がおかしいだろ」
 言いながら、黒髪はやっと隣に座る赤髪の方を振り向いてくしゃりと笑った。そうして弧を描いた真紅の瞳が緩やかに元の形を取り戻して、相手のまなざしを受ける。まるでかちりと音を立てるようにして、彼らは目が合った。黒髪の言葉を発するために薄く開かれていた唇が、息も吸わずに引き結ばれる。その視線が逃げ出そうとする前に、赤髪は口を開いた。
「……今も緊張、……してるの?」
「え?」
「その。さっき、歌ってたから……」
「あ、」
 赤髪の言葉に、黒髪は自身の赤い目を少し見開いて、まるで鼓動のかたちをぴったり言い当てられたかのような表情をした。瞬きも呼吸もなく彼のまなざしはその場に縫い止められ、そんな黒髪の様子に、赤髪は音を立てずに深く息を吸う。そうでもしないと、相手の心臓を指差す自分の言葉が震えて落ちそうだった。
「――ねえ、バニティ」
「な、何」
「トクベツって、どういう意味……?」
 そう発した赤髪の声は揺れていなかった。けれども意を決して発されたその言葉に反し、彼のやさしい水色の瞳はどこか不安げな光を底の方に漂わせている。少し皺の寄った眉間に、下げられた眉、すり抜けるように弧を描く目と口元。それは黒髪に対してよく向けられる、仕方がなさそうなあの困り顔の柔い笑みとはまた違った色をしていた。そんな赤髪の笑み方を目にした黒髪は、何か胃の辺りが痛むような気がして、組んでいた両手に力を込める。
 それから流れた沈黙は、どれほどの時間のものだっただろう。黒髪は引き止められていた視線をついに赤髪から逸らすと、液晶テレビの手前辺りに目をやった。言葉を発そうとしているその唇が、少しだけ震えていた。
「……どういう意味って、そのまま」
「そのまま? けど俺、分かんないんだ、考えたけど……」
「だから……」
「だから……?」
 黒髪は、呼吸を止めて自身の両膝に額を押し当てた。ぎゅうと力を入れた指先が、両手の甲に爪を立てる。胸が痛いのか、心臓がうるさいのか、彼にはもうよく分からない。膝に頭を埋めた彼の黒髪から覗く小さな耳が、たとえば林檎のように真っ赤だった。
 ややあって、黒髪は耳を澄ませていなければ分からないほどの小さな音で息を吸い、自身の両膝からそうっと顔を上げた。そうしてまなざしばかりで首を傾げている赤髪の方へと視線をやると、目が合った瞬間にその息を再び止めたようだった。そのまま、組み合わされていた黒髪の両手がほどかれて、立てられていた両膝も崩れる。黒髪の片手が床に触れた。両膝がその隣に突かれる。いつからか、二人の間からすべての音が消えていた。片手が音もなく床を押す。そうして。
 そうしたから。
「――だから、こうやって、ついキスしたくなるってこと」
 不意に重なった唇が離れていく。それはほんの少しだけ啄むような、ほんとうに瞬きの間ほどの時間だった。どちらかが息を呑んで、どちらかが息を吐く。小さな声で、けれどもはっきりとそう言葉を発した黒髪の顔にはひどく朱が差しているというのに、どうしてか、今にも泣き出しそうな表情が浮かべられていた。
 そんな相手の朱と紅がないまぜになった目を見て、赤髪は片手を床の上で握り締めながら、唇の端っこから洩らすように、はは、と笑った。無意識に零れ落ちたそれが乾いた音をしていたから、彼の笑い声を聞いた黒髪は視線を逸らして目を伏せる。ただ、赤髪の声が乾いたのは、喉が灼けて、その熱さに言葉が蒸発したからだった。離れたところから思わず自身の唇に触れていた、もう片っぽの指先が燃えている。赤髪はそれを耳元までもっていくと、まだ多少湿ったままの髪の毛をくしゃりと握った。
 そしてもう一度、赤髪は笑う。それは自分自身に呆れるような、それでいてこそばゆいような、その狭間で可笑しそうに零されるものだった。そんな笑み方に、おずおずと黒髪の視線が彼の方へと戻り、赤髪は相手のまなざしを捉えては自身の目を細めて柔く首を傾げる。
「……なんでだろね、俺。トモダチなのに、なんかぜんぜん、ヘンだと思わなくてさ……」
「え?」
「ねえ、バニティ。俺もしていい? それ」
「は、?……いや、うん……ど、どうぞ……?」
 黒髪は赤髪の予想もしていなかった言葉に不規則な瞬きをくり返し、しどろもどろになりながら返事をした。そうして何故かきちんと正座をすると、彼は身を強張らせながら自分の瞼をぎゅっと閉じる。赤い瞳を閉じても目元が朱いそのさまを見て、赤髪は淡く笑みを洩らすと、目の前の小さな唇に近付き、触れ合うばかりの口づけをした。瞬きの時間は先ほどよりも長い。少し震えた黒髪の両手が、胃の辺りを握り締めていた。唇が離れる。赤髪はまたちょっと笑うと、おそらく入浴のせいで湿っているわけではないだろう相手の前髪を少し除けた。
 そうして、額まで真っ赤に染まっている黒髪のそこに口を付けようとしたところで、
「……イチゴ」
 けれども相手が、そう発して薄目を開く。その真紅と、赤髪の水色がぱちりと交わった。赤髪を見上げる黒髪の瞳には、何か様々な色や光が浮かんでは沈んでをくり返している。黒髪に名を呼ばれて、赤髪はぼんやりと動きを止めた。
「ん……?」
「――おれたちって、友だち?」
「え、」
 その問いかけに、赤髪は思わず瞬いて黒髪の元から少しだけ身を離した。困惑したようにこちらを見つめる相手に、赤髪はほとんど反射的に頷く。
「う、うん……」
「だよな。はは、……」
 赤髪の自信なさげな肯定に、それを聞いた彼は自分の髪を耳にかけながら、どこか曖昧に笑った。手の中に汗だけが溜まるような、生ぬるい沈黙。その中で、おそらくどちらもが息を止め、どちらもがいま映画が流れていてよかったと感じていた。そうでなければきっと、自分の心臓の音が相手に聞こえてしまうだろうと彼らは思っていたから。
「――待って」
 それからしばらくして、半ば引きつった笑いを唇に描いていた黒髪が、何かに気付いたような表情を一瞬浮かべ、その顔から笑みを失してそう言った。彼は正座をしていた足を崩すと、今度はあぐらを掻いて、むっつりと唇を引き結んでは腕組みをする。辺りに漂う熱っぽい湿気を急激に除湿した相手に、赤髪は多少困って眉尻を下げた。けれども黒髪はお構いなしといった様子で、ふと思い出したように息を吸った。
「今のはナシ」
「あ。えっ、どれ?」
「おれが笑って誤魔化そうとしたの、あれはなかったことにして。今……今、ちゃんと考えるから。こんなのはナンセンスだ。サイアク。よりにもよってイチゴに対して……」
 不機嫌そうにぶつぶつ言いながら、黒髪は自分の脚を指先でとんとんと叩いた。彼は静かに息を吸って、吐いている。それよりずっと大きな音で流れている映画の音が、しかし赤髪にはほとんど聞こえなかった。
 つと、黒髪はその場に立ち上がり、睫毛を伏せたまま何かを探すように視線を彷徨わせる。それからその何かがここにはないことを自覚すると、胸の下で両手を組み合わせてそっと目を瞑る。そんな彼を照らす蛍光灯の安っぽい白はスポットライトには到底なりえなかったが、それでも、赤髪は目の前の黒髪の姿から目を逸らすことができなかった。黒髪は目を閉じたまま、静かに待つような、水の中に潜るような、言葉を探すような、考えを巡らせるような、そのどれものようで、しかしどれでもないような表情を浮かべている。赤髪はただ、そんな彼が呼吸をしているのを見つめていた。
 永遠にも思われたそれは、けれどもきっと、そこまで長い時間の出来事ではなかった。黒髪はまるでこれから何かが起こるかのように、ゆっくりとその長い睫毛を上げ、そこに隠されていた赤い目を開く。そうして座っている赤髪の方を見やると、
「――イチゴ!」
「うえ!?」
 大きな声で名を呼ぶと同時に、あろうことか相手の胸ぐらを引っ掴んで、自分の方へぐい、と近付けさせた。今しがた纏っていた空気からは全く想像のつかない行動をしてきた黒髪に、赤髪はその水色の目を白黒させて、ただ呆然と目の前の瞳を見やる。眉間に深く縦皺が刻まれている黒髪は、けれども相手の目を真っ直ぐに見て、音を立てながら息を吸った。
「お、おれ……」
「はっ、はい」
「……言ったこと、あるよな。おれはイ、チゴといると、歌をうたいたくなるし、何か物語の台詞を言いたくなるんだ。それだけじゃなくて、おまえと出会ってからおれは今までよりもっと歌いたくなった。演じたくなった。今までよりももっと、舞台に立ちたくなった。確かに観客の喝采や家族の賛辞はおれをいつも最高にするけど、おまえのありきたりな拍手と褒め言葉は、分かんないかな、おれを最強にするんだ。だからイチゴ、おれのマネージャーに――や、違う、そうじゃなくって。そうなんだけど、今は違う。ああなんだこの言い回し。なんか全部ダッサイな。どうしよう、でもこれに代わる台詞もなんにも出てこない……」
 そう訥々と、けれどもまくし立てるように発した黒髪の声は、大きくなったり小さくなったり、あちらへ行ったりこちらへ行ったりとひどく忙しない。言葉の向かう方へと一緒に視線もあちこち彷徨っている彼からは今、あの朗々と台詞を発する世界的名優の声とはまるで別人のそれが溢れて零れて、ただただ床の上に散らばるばかりだった。ほんとうに心底迷って、相応しい言葉を探しているのだろう。赤かったその頬や耳は段々と元の白さを取り戻し、まなざしなどは迷子になりつつも、表情自体は真剣そのものだった。
「……その、とにかく……おれは、おまえといると、イイ感じなんだよ、すっごく。落ち着く、みたいな? 呼吸が楽なの。そ、そうなんだよ、いつもは。大体は。そうなんだけど、でも今、とか、今じゃなくても、時々……息、できない。できなくて。痛いくらい、心臓がうるさくって、痛くて、だけど、舞台に立つときとはちょっと違って……」
 黒髪はさながら指折り数えて言葉を発していく。そのたびに、パズルのピースにも似た彼の言葉たちがばらばらと赤髪の上に降り注いだ。赤髪は腹の上に溜まっていくその欠片たちを逃さないように視線で追い、けれどもそれを掴んで組み合わせてしまう前から、どんどんと自分の顔に熱が集まっていくのを感じる。目の前に在る、赤い瞳が鳴り止まない。
「ああ、でも……」
 そうしてつと、黒髪は赤髪の胸ぐらを掴んでいる手とは逆の方で自分の心臓を握り締めた。彼はそうっと息を吸うと、心臓の辺りを握っていたその手を赤髪の頬の方までもっていて、それが肌に触れる直前で止める。それから目が弧を描いた。ひどくやさしい形に。
「おれさあ、イチゴ」
「……、……」
「おまえのこと、知りたいな。おまえの好きな音楽、歌、映画、舞台、本。好きな景色とか、好きな食べ物とか、好きな服とか……もっとどうでもいいことも。そしたら……それが、この辺から呼吸になる。歌になったり、台詞になったりする。どこでもいい。とにかく演じたいんだ、おまえの見ているところで。なあ、きっと、子どもみたいな気持ちなんだよ。だって、こんなに……」
 黒髪は、どちらかが動けば触れるという距離に在ったその片手を、するりと移動させて自身の腹の方へと連れていき、胃の少し上をきつく掴む。それから彼は、はく、と小さく息を呑むと、すぐそこに在る水面の色を目に映して、どこか滲むような瞳でそう微笑んだ。
「――ねえ、イチゴ。おれは演ってもいいかな、おまえの前では。おまえとおれのためだけに、演じてもいい? おまえ、こういう気持ち、分かる? これはなんて言うんだろう……?」
 困ったように笑んだまま、首を傾げる。そんな相手の揺れた黒い毛先と、透けてしまいそうな赤色に、赤髪はしばらく息が詰まって言葉が出てこなかった。
「う、……」
「う?」
「……あ、えっ……と……お、俺が言うのも、なんだけどさあ……」
 そうしてやっとの思いで彼が発した言葉に、黒髪の睫毛が上がる。は、と短く息を吐きながら、赤髪は自分の上に散らばっている黒髪の言葉をかき集め、それらを震える指先で組み合わせると、どうにかこうにか相手にも伝わる形にパズルを完成させようとした。
「その――好きだから、じゃないのかなあ……れんあい、……の意味で……?」
「レンアイ?」
「う。うん」
 それを発する前から赤髪の顔は朱に染まっていたが、おそらく黒髪は相手の表情よりも言葉に気を取られていた。れんあい、レンアイ、恋愛、恋と愛。未だ赤髪の胸ぐらを掴んだまま、彼は相手から手渡されたパズルをじっと眺めると、片手の人差し指を折り曲げては唇に当てて小さく唸った。
「……恋の気持ちは、今までに何度も演ったよ。ほんとうに何度も。男も女も、それ以外も演った。いろんな時代、いろんな場所、いろんな人のものを。でもおれのこれは、そのどれとも違う」
 半ば困惑したような表情を浮かべながら、黒髪のまなざしが標を求めるように赤髪を見た。その視線と言葉に赤い顔のまま、しかし少しきょとんとした色を目に湛えて、赤髪はぱちりと瞬きをする。
「だって……バニティが今言ったそれは、バニティのもの、でしょう? バニティが演じた他の誰かのものじゃなくって……」
「おれの?」
「うん……、違う、かなあ」
「……いや……」
 相手の言葉に、今度は心の在り処を指差されたような気持ちになって、黒髪ははたと唇から自身の指先を離した。
「そっか。おれの……」
 そうして彼はしばらくその爪の先をじっと見つめると、どこか安心したように瞼を閉じて静かに息を吐く。それから一つの呼吸の後に目を開けた黒髪の瞳は、まるで子どもを目の前にしているかのように柔らかくて、可笑しそうで、それでいて仕方のなさそうな光が浮かんでいた。
「ふ、ふふ……」
「バニティ?」
「どうしよう、イチゴ。おれはこんなに簡単なことも分からなかったよ。あはは、これじゃあ……はは、ホントに子どもみたいだ」
 また自分の胃の辺りを掴んで小さく笑い出した彼が、くつくつと喉を鳴らしながら赤髪の方を見つめた。そしてその唇が、笑い以外の言葉を描くために小さく動く。でも、よかった。黒髪はそんな言葉を紡ぎ、赤髪は蛍光灯以外の光を纏うその目を見つめ返す。そうしてみれば、まだ色付いたままの赤髪の頬に、頷くように微笑んだ細い手が伸びた。
「そう。そうだったんだな。ねえ、イチゴ」
 それから、黒髪はまるで少女のようにそうっと相手の名を呼ぶと、
「――おれはおまえが好きだよ、イチヒコ」
 さながら少年のような笑顔でそう言ってみせた。彼はいま目の前にいるたった一人のためだけに、心の一部を千切って明け渡したのだ。舞台の上、スポットライトを浴びては無数の愛の台詞を発してきたその唇が発した告白は、けれどこのようなありふれた、ありきたりな言葉だった。表情さえどこにでもいるような、飾り気のない、分かり易い笑みのままで。この人に恋をしている。それがはっきりと書かれた顔のまま。
「やっぱりおまえはトクベツなんだ。それがちゃんと、分かってよかった」
 自分の胸の真ん中に触れて、微笑みながらそう発する黒髪の瞳が、涙でないものできらきらと滲み、蛍光灯でないものでぴかぴかと輝いていた。そんな相手に赤髪は言葉どころか瞬きや呼吸さえも忘れてしまって、ほとんど惚けたように黒髪のことだけを見つめている。
「……ああ、すっきりした。なんか胸が軽くなった感じ。おれだけごめんな。ありがとう、イチゴ」
 そしてようやく、黒髪は今までずっと掴んでいた赤髪の服から手を離した。それから少しだけ睫毛を伏せ、すっと息を吸う。それが何か歌をうたうときや、戯曲の台詞を発するときの呼吸の仕方とあんまり同じだったから、赤髪はそこではっとして息の仕方を思い出した。
 黒髪がさて、と呟いて、床を軽く片手で押す。その仕草を、次は何をするのだろう、とぼんやり赤髪が目で追っていれば、彼は再びその場に立ち上がって、近くに転がしていた自身の鞄をさっと取り上げた。声には出さずに、え、と赤髪は瞬きをする。それをはっきり目にしているのにもかかわらず、なお鞄を肩に引っ掛けながら、黒髪はちょっと皮肉っぽい、ほんとうに普段通りの笑みをその顔に浮かべた。
「――そうなるとおれはちょっと、おまえにとって気持ち悪いだろ。今日は帰るよ。服は……嫌かもしんないけど今回だけ貸して。おれのは捨てちゃっていいから」
「え……」
「分かるよ、ダイジョブ。おまえと一緒にバニティバラッドをやっていくためには、恋なんかやめなきゃいけない。なんてきれいな人。生きてたら私、きっと好きになったのに。≠サうやって全部忘れちまうオンディーヌより、おれはまだずっとマシだ。安心しろよ、イチゴ。おまえがさっき言ったように、おれたちは友だち。これからも。いつも通り。今日はホントにごめんな。もう寝てさ、今日のことはみんな忘れちゃってよ」
「忘れ……?」
 半ばまくし立てるように、するすると一方的に言葉を発した黒髪は、足早に部屋の入り口の方へと向かうと、じゃあ、と笑ってドアノブに手をかけようとした。それを目にした途端、赤髪は弾かれたように立ち上がり、その腕を掴んで自分の方へと引き寄せる。
「待って、バニティ……!」
「え?」
 掴まれた手に驚いた黒髪の目が、けれども次に触れ合ったものの感触に更に大きく見開かれた。
 今、確かに重なり合った唇が、そっと離れる。黒髪はドアノブにかけていた手を滑らせ、バランスが取れないまま後ろの扉に背をぶつけた。その拍子に肩にかけている鞄が床に落ちたが、彼はそれにも気付けない。黒髪は混乱したように、自分の腕を掴んでいる手のひらと、こちらを見ている赤髪の目を交互に見やった。
「は、?」
「あは、……」
「え、……え?」
「……はは。俺も、バニティが好きだよ」
「す……。は、あ?」
 照れたように笑った赤髪に、黒髪の視線が震えながら泳いだ。それと一緒に行き場のなくなった片手を彷徨わせて、彼は自分の髪をくしゃ、と握る。そうして黒髪は俯いて、自虐するような笑いをその唇の隙間から吐き出した。
「お……おれに付き合ってそんなこと言ってんの? 同情してんなら……あ、いや、違う。こんなこと言いたいんじゃなくて。そもそもイチゴはそんなことしないし。だけど。でも、? だって、イチゴは優しいから……」
 それだけ言うと、黒髪は言葉に詰まって押し黙った。みるみる内に自身の頬に熱が集っていくのが分かる。ただ、それよりも、自分の腕を掴んでいる手のひらの熱さに驚いて顔が上げられなかった。俯いたまま、彼は視線だけで自分の手首を覆っている相手の手を見る。沈黙。いつまで経っても返事がない。はっとして、黒髪がおそるおそるその顔を上げれば、
「ばか」
「えっ」
「バニティのばか」
「う」
 と、眉間に皺が寄った赤髪から短い言葉で心臓をつつかれた。その叱りながら傷付くような表情に、黒髪は片手を相手に伸ばして、けれども迷った挙げ句に掴めたのは宙ばかりだった。相手を抉る言葉を発してしまってから、自分を罵ったところでもう遅い。彼は触れる代わりに目を赤髪へと向け、せめて継がれる言葉を待った。
「俺、バニティに嘘吐いたこと一度もないよ……! バニティは俺のこと、いつもお見通し、って顔してくれんじゃん……」
「う、ん。……ご、ごめ」
「……俺、誰にでも優しいわけじゃない。バニティに好かれたいから、頑張っていちばん優しく言えるんじゃないかって言葉を、選んでるんだよう。なのに……」
「あ……」
「まだ……恋か分かんないけどさ……俺はバニティが好きなんだよ……」
 こちらを掴んでいる手のひらに力が込められる。そんな相手の指をじっと見つめると、黒髪は赤髪の方へとまた視線をやり、そこに刻まれている眉間の皺を眺めた。自分の方を穴が空くほど見つめている黒髪の赤い瞳に、赤髪は唇をへの字にしたまま微かに首を傾げる。その様子に、黒髪ははたとして、どこかぼんやりしながら驚くような目で自身の口元に指先を当てた。
「……イ、イチゴがちょっと怒ってる」
 それだけ呟いて、こんな状況にもかかわらず、黒髪はなんだかふわりと甘く笑った。そうして彼は自分の手首を覆う相手の手の甲を柔く撫でると、赤髪へと近付くために少しだけ背伸びをして、その眉間の皺を軽くつついた。
「ふ、ふふ。そういう顔するんだな、イチゴ。はは、そういうのもさあ、おれのことが好きだから?」
「……そうだね、俺はバニティが好きだからね」
 そんな黒髪の様子に、少しだけむすっとした表情を浮かべて赤髪は呟いた。そのさまにすら、黒髪はくつりと喉の奥から笑いを洩らす。それから悪戯っぽく細められた目を相手へと向けたまま、彼はゆるゆるとかぶりを振った。
「はあ……あはは。おまえの言う通り、おれはばかでひどいんだ。そういう顔したおまえを見て、笑って喜ぶようなヤツだよ。いいのかなあ、イチゴ。おまえが好きだって言ったのは、そういう悪魔みたいなヤツだけど……?」
「いい。バニティはバニティだから……」
「……ふうん……」
 赤髪の即答に、黒髪は折り曲げた人差し指を軽く食んで、静かに相槌を打った。ひどい赤に染まった黒髪の耳に反して、先ほどまでむっつりとした顔をしていた赤髪が、けれども今度は一変してしゅんとした表情になる。
「でもゴメン、言い過ぎだね、俺……なんかさ、バニティにじゃあねって言われると、……すげー苦しいんだ、はは……」
 まるで耳の垂れた捨て犬のようなそれに、黒髪は可笑しそうに口元を歪めて、目の前の赤髪をそうっと撫でた。おそらく乱雑に乾かしたのだろう彼の髪は、もうほとんど乾ききっている。黒髪は少し力を込めてその頭を抱くように引き寄せると、すぐ近くに来た相手の耳元に唇を寄せて、囁くように小さく笑った。
「……じゃあ早く、二度と言わせないようにしてみせてよ」
「え?」
「マネージャー。なってくれんだろ? ま……そうなったら、じゃあね、っておれに言って欲しくなったときが来ても……言ってやれないけどな、残念ながら」
「思わないよ、そんなの……」
「どうかなあ? 人の心は移ろいますからね」
 黒髪がからかうようにそう言えば、赤髪は相手の腕を掴んでいた手を離して、それから間髪入れずにその指を絡め取った。
 唐突なそれに少しばかり驚いた黒髪の隙を狙って、彼はその薄い唇に自身の唇を重ねる。触れるだけの口づけを、一度離れてはもう一度。それを何度かくり返していれば、は、と息が足りなくなった黒髪が、なんとなく恨めしげな表情で笑いながら、赤髪の頬を軽くつねった。
「イチゴ」
「うん」
「おまえ、ばかだね」
「うん……、だめ?」
「まさか。おそろいでしょ、嬉しいな」
 まるで悪戯が成功したような顔をして、黒髪は赤髪の頭を撫でた。
「ね、だからさ……」
 ぎゅうと絡められた指を握り返す。それからほんの少しだけつま先立ちをして、彼は、目の前の唇に口づけをした。それは少女みたいな、少年みたいな、それでいて大人みたいな顔で。
「――おまえはトクベツなんだよ、イチヒコ」




 Strawberry Vanilla Gelato
 20200307 執筆

 …special thanks
 王城一彦 @橋さん



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