ボニーとクライド、ディンドン、僕らのにすぎた心臓



 青年が二人、海岸沿いの道を歩いている。
 日のほんの少し傾きはじめた空の下で、のんびりと歩を進める二人の髪の隙間を、少し冷たい潮風が無遠慮に通り抜けていく。道路にはその悪戯っぽい風が信号無視を決め込んでは手も上げずに横断するばかりであり、そこに通るべき車の姿は影も形も、音や気配すら欠片も見当たらなかった。
 二人の内、片方に比べて上背がある赤髪の青年は、通りが少ない道路側の道をそれでも決して相手には譲らないまま、片手にランドリーバッグをぶら下げて、もう一人の方の歩幅に合わせて足を進めている。一方、底の高いサンダルを履いて本来よりもその目線を赤髪の方へと近付けている、少女にも見紛うほど華奢な見目をしている青年は、さらさらとした自身の黒髪を風になびかせて、太陽を浴びるよう、歩きながらぐっと身体を伸ばしていた。そんな彼がかけている安っぽいサングラスが、光を反射してちかりと輝いている。
「――バニティ、眠い?」
 ぐぐ、と腕を伸ばし、分かり易くあくびを噛み殺している黒髪に対して、微かに首を傾げながら赤髪はそのように問うた。そんな彼の方へぬるめの視線をやった黒髪は、赤髪の言う通りまだどこか微睡む光をサングラス越しの赤い目に宿して、その小さな口元から呆れと溜め息の中間くらいの笑い声を吐き出す。
「んー……てか、ダルい。寝すぎた」
「あはは、バニティ、ぜんぜん起きなかったもんねえ」
「むしろおまえはいつから起きてたんだよ……」
 緩くかぶりを振って、今度は隠すこともなくあくびをする。いつも上を向いている睫毛が、けれども持ち主の眠気からやってくる重力に耐えかねて、一度ゆっくりと下ろされた。風に反して暖かな温度を差し出してくる陽光が心地好い。隣から変わらず視線を感じたが、目を瞑ったまま数歩歩いた。ぺちぺちと頬をやさしく叩かれて、黒髪はやれやれとその睫毛を再び定位置へと戻す。そうすれば、起きてね、という表情で、おはよ、と言う顔がすぐ視界に入ってきて、彼は訳もなくその目を細めた。そうして口の端から洩れたのは、やはり溜め息にも似ていたが、果たして。
「……でも、眠いとかダルいとか、前はあんまりなかったんだけどな。たぶん……おまえと出会うまでは」
 言いながら、黒髪は鉄柵を挟んですぐ隣にある浜辺をその瞳に映す。夕暮れ前の太陽が照らす光が海原を乱反射して、そのさまはグラス越しに暗い視界でも思わず目を細めるほどだった。彼は少し、その柵の手すりに指先を滑らせる。そんな黒髪の隣で、赤髪の青年は小さく笑みを洩らしていた。
「ふふ、そうなの? でも俺、バニティが寝てるの見てると、なんか安心すんだよね〜……」
「……イチゴさあ、おれのことガキだと思ってんだろ」
「え。お、思ってないよう……」
「ハハ」
 じとりと相手の方を向き、困り顔で笑った赤髪の表情を目に映した黒髪は、その口元を皮肉っぽく歪める。そうして相手が持っているランドリーバッグをちらりと、しかし向こうにもその仕草が分かるように見やると、
「ま、……そうだよな?」
 そう囁いて、ワインを注いだ赤い瞳をするりと三日月にして、唇の隙間からくつりと吐息のような笑いを洩らした。
「……もう……」
 そんな黒髪のどこか悪戯っぽい笑み方を視界に映して、仕方がなさそうに赤髪は眉尻を下げながら目を細める。通りには、波が打ち寄せる音、二人の話し声や足音ばかりが宙に浮かんでは風に吹かれていた。道路の無骨なアスファルトも今は陽の光を受けて、さながら昼間の夜空のように輝いているというのに、この場にいる何もかもがそんな足元の星々に興味を示すことはない。思い出したように道路を通った白い車すら、ただ前を見たまま、ぴかぴか光る足元の星を轢き殺すばかりで。
「――な、イチゴ。下に降りよう」
「えっ?」
 つと、そう言い出すが早く、黒髪はそのヒール付きのサンダルでコツ、と高らかに歩道の石畳を叩くと、浜辺へと続く階段へと向かって走り出した。そんな彼が走るせいで起きる風が、海からやってくるそれと一緒に彼自身の髪をかき回している。まるでウサギが跳ねるかのようにぴょんと駆け出してしまった隣人に、赤髪はその柔い水色の目をぱちりと瞬かせ、それから少しだけ首を傾げるような仕草で口の端からくすりと笑った。
「ちょっとバニティ、待ってよ〜!」
「何? 聞こえないけど!」
「あっ、だめだめ、ちゃんと前向いて走って!」
「え? アハハ! 聞こえないなあ。なんだよ?」
「絶対聞こえてる……!」
 そのように大声で呼びかけ合いながら追いかけっこをしていれば、柵の途切れた場所で黒髪は足を止め、両手を後ろに隠してはすぐ後ろから追いかけてくる赤髪のことを待った。そうして瞬きをすれば、彼の待ち人は仕方なさそうな笑みを浮かべながらすぐにやってくる。その姿を目に映すと、黒髪はにやりとした笑みを唇で描いて、相手にも分かるように目の前の階段を盗み見るようにした。
 浜辺へと続く階段。決して長くはない。けれども、遊ぶには十分だ。
 黒髪は、背に隠していた右手を緩く握りながら顔の横へと掲げる。それを見て、赤髪の口角も上がった。彼もまた、黒髪と同じ動きをし、そうして二人の視線がかち合う。どちらからともなく、息を吸う音が聞こえた気がした。
「じゃんけんぽん!」
 一瞬、風の音が遠ざかる。それから黒髪の笑い声。彼は顔の横にあるピースサインを淡く折り曲げてぴょこぴょこさせると、くるりと階段の方へ向き直った。
「ではお先に」
 チ・ヨ・コ・レ・イ・ト。
 黒髪が後ろを振り返る。階段のはじめに立っている相手を見やって、彼は目を細めると、相手が掲げている右手に応えるように自分のそれをさっと持ち上げた。じゃんけんぽん。赤髪の笑い声。行き場のない黒髪の右手が自身の腰に当てられた。こちらを見て楽しげに口角を緩めている赤髪が息を吸って、一歩を踏み出す。グ・ス・ベ・リ。
「ふふ、そこで待っててね」
「やだよ」
 じゃんけんぽん。唇の端っこから洩れ出すような笑い声。黒髪のものだった。跳ぶように階段を降りる。グ・ス・ベ・リ。
「じゃ、勝った方が食器を洗うってことで」
「ええ? あはは、俺がやるよう」
「いや、あのな……」
 呆れたように小さく笑って、黒髪はかぶりを振った。その笑みの形に目を細めたまま、ゆるゆると片手を上げる。じゃんけんぽん。あ、と思って目を上げれば、赤髪がちょっとだけ悪戯っぽい口元の上げ方をして、顔の前でピースサインをちょきちょきさせた。チ・ヨ・コ・レ・イ・ト。二人の足が同じ段、隣に並ぶ。残り七段。同じように視線を動かし、目が合った。なんとなく速い方が勝つ気がして、どちらもが間髪入れずに掛け声を上げた。じゃんけんぽん!
「あ」
「あっ。……ふふ」
「あいこか、しょうがないな」
「もっかいやる?」
「いや、もう行こう」
 その言葉を合図にして、二人は同じような呼吸で前を向き、同じような瞬きを一つしたのちに、全く同じタイミングでその足を踏み出し、一段跳んだ。
「ア」
「イ」
「ス」
「ク」
「リ」
「イ」
「ム!」
 二人分の足が砂浜を踏む。いっとう大きな笑い声。そうして真っ先に砂を蹴って波打ち際へと向かって走り出したのは、やはり黒髪の方だった。彼は走りながら履いていたサンダルを脱ぎ、ぽいぽいとその辺りに放り投げると、赤髪の方へと向かって口角を上げる。もう波の前で上機嫌に鼻歌なんかを口ずさんでいる黒髪の瞳が、光を反射させるサングラスに隠れて見えなかった。
「あーあ! 誰も思わないだろうな、あのバニティバラッドがこんな時間までぐうたら寝てるなんて!」
 黒髪が脱ぎ捨てたサンダルを拾い上げ、ランドリーバッグと一緒に階段の端に置いてから隣へとやってきた赤髪へ向かい、彼はそのようにわざとらしく発して、溜め息を演じると同時に自身の唇を可笑しそうに歪めてみせる。びゅうと強い風がその細い髪を巻き上げ、好き放題に暴れていた。そのさまに、黒髪のことを見ていた赤髪がくすりと小さく笑みを洩らす。
「コインランドリー、ちょっと遠いよねえ。毎回思うんだけど……」
「遠い。でも、言っとくけどさあ、これに関してはおまえのせいだからな」
 唇を尖らせて、けれども目ばかりは弧を描かせたまま、黒髪は階段の方へ向かって顎をしゃくった。正しくは、ランドリーバッグの中身を。その視線につられて、階段の隅っこにきちんと収まっているそれを目に映した赤髪は、困ったように痒くもないだろう首の後ろを掻いて笑った。
「う、う〜ん……そう、まあ、そうだよ……ね? もっと大きい洗濯機買おっかなあ」
「いいね。でもおれ、この道けっこう気に入ってるよ。こうやって、……すぐそこが海だ」
「俺もだけどさ、バニティは海が好きだよね」
「ハハ、どうかな」
「ええ? なあに、それ。ふふ……」
 しょうがなさそうに口元に手の甲を当てた赤髪に、黒髪はその場でくるりと一回転し、足元の波を裸足の足で軽く蹴り上げた。
「シーツ、今度は砂まみれになるかもな!」
「あはは、もう」
 ぱしゃりと水音を立てて、黒髪が浅瀬の中を進んでいく。ウミネコの姿が見当たらない今日の海で、彼の纏っているバルーン袖のブラウスだけがひどく白かった。さながら黒髪と一緒に呼吸でもしているかのように、彼の白いブラウスは容赦を知らない風をはらんでは膨らんで揺れるをくり返す。彼は、身に着けている黒のスキニーが濡れるのもさして気に留めない様子で、そのくるぶしまでを海水に沈めた。
「な、イチゴ」
 そうしてふと、黒髪は赤髪へと呼びかける。それは小さな声だった。未だ海へと足を踏み入れていない彼には、到底聞こえるはずもないほどの。
「――知りたい?」
 けれども赤髪には、秘密ごとを分け合うようにそう囁いた黒髪の声が、吹き付けるばかりの潮風にも埋もれずにはっきりと聞こえた。その声の色やかたちは鮮明に感じることができたのに、反射するサングラスの黒色に遮られて、瞳ばかりがどこか遠くに見える。そのさまに、赤髪の彼はまるで何かいっとう美しいものを見逃してしまったとでも言うような光を自身の目に宿すと、波のやってくる方へと足を踏み入れ、その先にいる黒髪の白い頬へそうっと長い指先を伸ばした。
「……ね、バニティ」
 赤髪の着込んでいるパーカーが風を含んで、ふわりと浮かぶ。それをちらと見た黒髪のほっぺたを指の腹でとんとんと優しく叩いて、こちらを向かせると同時に、彼はささやかなお願いごとをする前の柔くて静かなあの声で相手の名を呼んだ。視線が合う。そのまなざしだけを使って、黒髪は首を傾げている。そんな彼の問いかけに、赤髪は指先で相手がかけているサングラスの輪郭をなぞった。
「そのう。取ってほしいなあ、な〜んて……」
「おまえがくれたのに?」
「うん、ごめんね」
「……てか、イチゴ。靴。スニーカー」
「え? あ、やべ……」
 赤髪の言葉に表情一つ変えないまま、しかし分からない程度にほんの少しだけ口角を上げた黒髪が、淡く瞼を閉じるように眼下を見やり、人差し指となんとなく呆れた声でそこにある二つの足を示した。スニーカーのままでざぶざぶと海の中に歩を進めてきた赤髪は、その言葉でたった今それに気付いたという様子で、軽く片足を持ち上げて困ったように相手の方を見る。そこでまた、目が合った。
 黒髪の小さな口元が緩む。彼は自身の暴れる髪を抑えながら、もう片方の指でサングラスをそっと外して、そのテンプルをブラウスの襟元へと引っ掛ける。それから遮るもののなくなった真紅の瞳を、黒髪はまるで睫毛の間から光をまき散らすように細めると、喉元まで上ってきていた熱を堪えきれなくなって吐き出した。
「――ふ。はは。ばあか」
 そうして潮風に攫われる前に赤髪の耳元へと届いたその笑い声の響きが、あまりにもこちらの睫毛をなぞるようなそれに聞こえて、彼は自身の息を吸い込む時間の分だけ瞬きを忘れた。そののち息を吐くのと同時に、赤髪はゆっくりと瞬きをする。一歩足を進めた。水を吸ったスニーカーが立てる音を波音がかき消し、その波音を、目の前の赤色がかき消している。靴の重さはすぐに忘れた。足の隙間に水が染み込むその気色悪さも。
 二人以外のすべてに聞こえる潮風と、打ち寄せる波。影が重なる音は二人だけに聞こえた。
 波が引く。
 唇が離れる。それはただ、互いの温度を一瞬確かめるようなものだった。そばにあった相手の顔がゆるゆると遠くなっていくのを眺めながら、黒髪はその目尻から赤く染まりはじめた顔を誤魔化すために、唇の隙間から息を洩らすようにして小さく笑う。そして彼は波に擽られている両足で少しだけつま先立ちをすると、自身の両腕を目の前の首へと回した。心地好さそうに赤色を細めたまま、黒髪は再び近くなったその唇に噛み付こうとする。足元の水よりも、指先に当たる相手の癖っぽい髪の毛の方がこそばゆかった。
 そうして睫毛と睫毛がくっつきそうな距離まで近付いた瞬間、 
「あ、」
 と呟いて、黒髪がぴたりとそこで動きを止めた。伏せられていた睫毛がふと上がり、視線が動く。キンコンカンコン。どこからか、耳に馴染むチャイムの音が聞こえてきていた。鐘の音がやってきている方へと逸らされたまなざしに、赤髪の方が小さく相手の名前を呼ぶ。その声にのんびりと視線が戻って、黒髪はほんの少しだけ首を傾げた。
「……この辺って、学校あんだっけ」
「ん……? ああ……、小学校がね、一つあるよ」
「ふうん……」
 口の中だけで呟くようにそう返事をして、黒髪はまた少し目を伏せた。それから今度こそ目の前の唇に触れるだけの口づけを落とすと、首に絡めていた腕をほどいて、赤髪の元からそっと離れる。波が寄せて、引いていく。その間だけ見つめ合った二人が、どちらからともなく微笑んで、そして。
 そして、黒髪は小さく笑い声を上げる。彼は赤髪の前から数歩分横へと進んで、その場でくるりと一回転をした。彼らの耳に波の音と潮風の音、更には自分たちの服がばさばさ言う音まで戻ってきて、黒髪は心臓の音を隠すように、自身の下にある冷たい水をその足先で緩くかき回す。後ろ向きに歩きながら、彼はこんにちの海よりももっとやさしい色をした相手の目を見やって、足元の波と戯れた。また、小さな笑い声。黒髪は観念したように目を三日月の形にして、自身の心臓と喉の間に片手を置いた。もう片方の手のひらは、相手へと伸ばして。
「――イチゴ」
「うん?」
「歌いたい」
「うん。歌って」
 いっとう柔らかで、愛おしげな笑みをそのまなざしに描いた相手に、彼はこくりと淡く頷いた。それはまるで少年のような、それでいて少女のような笑みだった。赤髪から注がれるやさしい色を纏うように、黒髪は静かに目を閉じる。それから、静かに息を吸った。すべての音が再び遠ざかり、傾いた日差しの眩しさも今ではただの照明となる。
 ややあって、黒髪は目を開けた。何かが起こるかのように。
 そうしてまずその喉から溢れ出したのは、
 ――キンコンカンコン。
 あの耳馴染みのいい、聞き慣れた四つの音階だった。学校のチャイム。ウェストミンスターの鐘。波音などもろともせずに響き渡るその澄みきった声が、喉元から唐突に鐘の調べを奏でた後、次いで歌われたその詩に、赤髪の口元が楽しげに弧を描く。黒髪が歌い出したのは、有名すぎるクリスマス・ソングだった。
 変わらず後ろ向きに海岸を歩き、風に髪を振り回されるのも気にしないまま、彼はその指先をメトロノーム、或いは時計の振り子のように揺らして歌っている。赤髪は全身が楽しいと表している相手の姿を目に映しながら、離れないようにすぐ近くをついていく。光を受ける彼の姿が、目を細めたくなるほどにひどく眩しい。けれども、太陽を直接視界に入れてしまったときのあの痛みはなかった。赤髪にとっては今や打ち寄せる波すら彼のための舞台衣装のようで、黒髪がその場で回転するたび、海の裾が美しく翻っているように見えた。
 歌うたう黒髪の睫毛がそっと伏せられ、また上がる。彼の視線が音もなく動く。
 目が合った。
 そのまなざしが、赤髪へと向けて確かにこう言っていた。歌って。
 手招くような視線を受けた赤髪はぱちりと瞬いて、変わらず相手から目を離せないまま、呼吸の半分の時間だけ自身の足を止める。黒髪は未だ向かいの赤髪を見やりながら、その細い身体から歌を紡ぎ出していた。白い手が、相手を目指して伸びる。赤髪は目を細めて、くすぐったそうに小さく笑った。そして彼は、差し出された手を取る。
 そんな赤髪の喉からも、チャイム交じりのクリスマス・ソングが紡がれる。まだどこか危なっかしい彼の英語に、それでも黒髪は心底嬉しそうな光をその瞳に宿して笑んだ。彼らは手を取り合っては、互いにこそばゆい色を睫毛の隙間から零している。不思議なことに、光を浴びると黒髪の輪郭はどこか赤く、赤髪の輪郭は青く染まった。そして、もうそこには、有名な役者なんてものは一人もいなかった。そこにいたのは、誰が見たって、恋人と照れたように笑い合って歌うたう、なんてことはない小さな人間が二人いるだけだった。
 跳んで、跳ねて、歌って、踊り、どうでもいい遊びを日が暮れるまでくり返して笑う、二人の。
「なあ。帰りにレンタルショップ寄ろう」
 そうして太陽が水平線の彼方に沈む頃、足元をびしょびしょに濡らして遊び呆けていた彼らの内の片方が、思い出したように相手へとそう呼びかける。柔らかい紫に移ろいだした空に、二人の影も同じような色へと染まっていた。
「なんか借りるの?」
 水の中から抜け出して、はだしで砂を踏んでいる赤髪が、自分の隣でそのように言い出した黒髪へと首を傾げながら視線を向ける。そのまなざしを受けて、黒髪は赤い目を細めた。
「観たい映画があるんだ。おまえも知ってるかなあ」
 それだけ言うと、彼は先へ行くことも駆け出すこともなく、今度は赤髪のすぐ隣で胸に手を当て、すうっと息を吸った。
「――もしも急に何かの奇跡が起きて、明日ここを出られて真人間の暮らしができたら。前科も消えて、人にも追われずに=v
 その唇が、朗々と、しかしどこか切なげに映画のワンシーンを編み出した。そんな相手の横顔を見やって、赤髪は少しだけ考えるように自身の口元に折り曲げた人差し指を当てる。黒髪の目が弧を描いたまま、赤髪の方を向いた。赤髪は、相手の瞳の中に宿る光の色を視界に映し、それから何か思い付いたように息を吸って、笑った。
「おちおち眠れないぞ=H」
 楽しげに、けれども少しばかり自信なさげに発されたその台詞に、黒髪は心臓の在る場所をぎゅうと掴んで声を上げて笑った。ぜんぜん違うシーンの台詞! それでもほんとうに楽しげに笑った彼の表情はやはり、少年のようで、少女のようだった。黒髪は自身のブラウスから手を離して相手の片手を掴むと、するりとその指の間に自分の指を絡めさせる。少しだけ驚いたようにこちらを見た水色の瞳に、彼は悪戯っぽく笑うと、ちょっぴり背伸びをして自分の目線を相手へと近付けた。
「……それでいい!」
 小さな唇から発されたその台詞は、他の誰でもない、確かに彼の言葉だった。
 そうして彼らはその内に浜辺から離れ、潮風とそこに混じってやってきた砂でごわごわになったシーツを再びコインランドリーへと連れていくだろう。それから、レンタルショップ。コンビニ。コーラにポップコーン。或いはフライドポテト。
 しばらくすれば、夜も明ける。鐘の音は、明日も同じ時間に聞こえるはずだ、この場所で。そう。つまるところ、彼らは日々を送るのだ。だから。
 キンコンカンコン。
 偽りを捨て去り、真実を受け入れるのさ!




 Strawberry Vanilla Gelato
 20200229 執筆

 …special thanks
 王城一彦 @橋さん






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