「……変な夢見たな」
 ぼうっとした様子でそう呟いて、少年はどこか遠くを見ながら自身のシャツのボタンを掛け合わせる。
 男物ではあるが、普段のフリル付きガクランとはまた違った衣装を身に纏おうとしている彼は、ふんふんと鼻歌を口ずさみながら朝食と昼食のはざまの料理を作っているのだろう青年の方をちらと見て、なんとはなしにそっと息を吐いた。椅子の背もたれにひっかけておいた三種類のポーラー・タイを一つずつ指先で触れて、少年は短く唸る。
「なあ。おまえ、どれがいいと思う?」
「んー?」
 キッチンに立っている青年の方へと、少年はやや気怠げにそう問いかける。その声に、青年はじゅうじゅう鳴っているフライパンを持ち上げながら後ろを振り返り、少年が指し示すところを見やっては、あはは、と笑ってその水色の目をいつも通りに細めてみせた。
「やっぱり、バニティは赤かな!」
「……ま、だよな」
「他の色もすっごく似合うけどね〜」
「トーゼン」
 青年から浴びせられる屈託のない賛辞を、皮肉っぽく口元を歪めながら少年は受け取った。笑みながら、タイを締める。このポーラー・タイに填め込まれた鮮やかすぎるほど赤い宝石は、心臓みたいなハートシェイプカットだ。
 そう、何もかもがいつも通り。
 鏡に映る赤い目も、髪と同じ色をしたウサギの耳も、すぐ近くに見える青みがかったストロベリー色も、今しがた振り返った水色も、あの背が広く見えるのも、自分の手が未だ小さいことも、馬鹿みたいに高いヒールを履いて、背伸びまでしないとろくに。
 ろくに。だから。
 いつも通りだ、何もかも。
 少年は椅子の後ろに立ったまま、ぼんやりと眠たげに身支度を整える。珍しく自身の寝室で化粧をし終えてきていた彼は、テーブルの上に伏せて置いてある手鏡を持ち上げて、その中にいる自分と目を合わせた。瞬き。くまは相変わらずコンシーラーで覆ったが、それでも白目の方はほとんど充血していなかった。今回は一体、何日間寝ていたのか。自ら寝床に着いた記憶はなかったが、記憶がなくともベッドの上で目が覚めたのだから、十中八九自分はどこかで眠ってしまったのだろう。そしてご丁寧なことに、そんな自分を拾い上げてベッドまで運んだのは、いま視界の端でふんふん歌っているこの男に違いなかった。鏡の中の自分が、再びゆっくりと瞬く。
 眠った。また、眠ってしまった。
 一体、自分は何を忘れただろう。今朝、ドレッサーの前で思い浮かべたことを、もう一度確かめていく。自分の名前は、バニティバラッド。最高で完ぺきな唯一無二の役者。本名と家族の名はとうに忘れた。好きな歌は諳んじれる。そのタイトルは忘れた。向こうの文字は随分前に読めなくなった。書けもしない。メイクのやり方。未だ完ぺき。舞台に立ったときの呼吸の仕方。憶えている。スポットライトの最高な受け方。憶えている。マネージャーの名前。そもそも覚えていない。顔。忘れた。というか、マネージャーってなんだっけ? まあいいか。大したことではないだろう。ああ、今回は何を忘れた?
 そして、そうだ、名前。
 いま目の前にいる、この男の名前は。
「──トロベリー」
 思い浮かぶより早く、少年の唇はその名を紡いだ。小さく。それでも声が届いたのだろう、青年の黒色をした長いウサギの耳が微かに動き、再び彼は少年の方を見る。そうして首を傾げて、視線が問うた。ストロベリー色の髪が少し揺れ、青色の瞳は柔く弧を描いている。先ほどから料理の邪魔ばかりされている割に、振り返る青年の表情はどこか嬉しげですらあった。少年もまた、それとは気付かれないほどに淡く笑う。
「……なに作ってんの?」
「えー? ふふふ、バニティ! なんだと思う?」
「フラミンゴのタマゴ」
「――を、料理してるんだよう」
「あー……」
 くすりと笑いを洩らした青年に、少年はそこでようやくフライパンの中身へと視線をやった。鈍く光るそこでは、よくテーブルに並んでいる原色の菓子よりも淡く柔らかい黄色をした溶きタマゴが、平べったくされて火にかけられている。少年はあくびを噛み殺し、青年の方を眺めながら自身の前髪の毛先を触った。自分が空腹なのか、そうでないのか、いつもよく分からないのだ。料理はしない。できない。する気がない。食べることにも、元々あまり興味がなかった。
「……スクランブルドエッグ」
「ブブー、ザンネン!」
「キッシュ?」
「あはは、違いまーす」
「待てよ、当てるから……」
 ただ、こういうのは嫌いではなかった。
 男が作る、料理は。そこに漂う空気や音、においたちは。嫌いではなかった。悪くない。決して。
 それが少年の、食事と唯一呼べるものであったから。喉の奥がどろどろに溶けるような甘ったるい菓子ばかりで溢れるこの国で、男がここで用意する料理だけがいつも、少年にとっての食事であったのだ。ただ一つの、完ぺきな。少年は青年の背から少し視線を外して、まだ覚醒しきっていないその目をキッチン周りでうろうろさせる。タマゴの焼ける、やさしいにおいばかりが辺りに散らばっていた。少年は自身の赤い目を細めて、ちょっとだけ息を吐く。なんとなく、安堵したような呼吸だった。青年のすぐ横に、ケチャップのボトルが置かれている。
「分かった。オムレットだろ」
「あっ、惜しいなあ〜」
 毛先をいじくるのをやめて、思い付いたように少年は片手の人差し指を宙でくるりと回した。青年の小さな笑い声。フライパンの底とフライ返し同士が擦れ合う音が鳴った。少年は少し身体を動かして、キッチンの内側を覗き込む。そうしてみれば、青年の背に隠れて見えなかったところに、こんもりとした赤いライスの山が二人分見えた。
「……オムライス?」
「ピンポン! せいか〜い!」
「ベーコン? ソーセージ?」
「ベーコン!」
 その返答に相変わらずデキるヤツ、と心の中でほくそ笑んで、少年はぐぐ、と伸びをした。
 すぐできるから座っててね、という青年の言葉に、少年はぬるい返事をして椅子を引く。脚を組んでそこに腰掛けながら、彼はいつも通りにテーブルの上で頬杖をつき、未だ少しぼんやりとしたまま、余った方の手で台本を開こうと指先を彷徨わせた。それからはたとして、小さく溜め息を吐く。ああ、この癖だけはどれだけ経っても抜けていかない。ここには台本も、それを読める記憶も存在しないというのに。
「──バニティ! お待たせ!」
 ややあって、青年の声が鼓膜に響き、少年は眉間に皺を寄せていたその顔を上げた。次いで、ふわりと少し甘いタマゴのにおい。それに少年は赤い目を細めて、自分の前にオムライスの皿を置いた青年の方へとなんとなく機嫌が良さげに微笑んだ。そうして視線が合えば、青年も目元から甘やかすような笑みを浮かべる。毎度のことだが、それにしたって今日は随分嬉しそうだな。少年は心の中で首を傾げながら、青年にまなざしを向けたままにふと口を開く。
「……おれ、何日寝てた?」
 問えば、青年は自分の分の皿を席の前に置いて、代わりに先ほどの笑みをするりと引っ込めた。よく目にする笑い方になった青年の方を見て、少年はつくづくこの国の女王はセンスが悪い、と胸の内で舌を打つ。青年から視線を外して、彼は再びテーブルの上に頬杖をついた。
「四日?」
「ええっと。……五日、だったかなあ」
「それはまた……おれも寝ぼすけになったもんだな」
「あのね。バニティが寝なければ寝ないほど、寝ちゃったときに眠り続ける日数が増えてるよ? だめだよう、ちゃんと寝ないと……」
 青年はことり、とテーブルの上に小皿を置きながら、困ったみたいにそう笑った。彼の水色の瞳とまだ口紅を引いていない唇が、弧ばかりを描いている。少年は眠るように瞼を閉じて、手のひらの中で息を吐いた。
「……寝たら、向こうのことを忘れる」
「それはそう、なんだけどさあ〜……」
「あんまり忘れたら困るだろ、おれもおまえも」
 そうして睫毛を上げれば、青年はやはり眉尻を下げたまま微笑んでいた。こちらを見ているはずなのにどこか視線の合わない青年に、少年はそれ以上何かを言う気にはなれなかった。或いは、何を言えばいいのか分からなかった、というのが正しいかもしれない。
 少年は頬杖を止めて椅子の背もたれへと身体を預けた。そうして目の前に置かれたオムライスへと視線を落とし、その湯気が立つまあるく黄色い山にケチャップで描かれた赤い線を見やる。皿の横のスプーンを取り上げて、それを唇に軽く当てながら少年はほんの少しだけ首を傾げた。
「……ねえ、ところでさあ、これ何? チョウチョ?」
「えーっ? キャンディだよ! よく見て、ばっちりキャンディでしょ?」
「キャンディ? これが? あっそう……」
 とぽぽと紅茶をカップに注いでいた青年が、少年の問いかけにぱちぱちと瞬きながらオムライスの上の絵を指差した。キャンディにしては飴玉の部分が小さい気がするそれに、少年はたまらずフフ、と可笑しそうに笑いを零し、
「バタフライ・キャンディ。しかもオムライスの上。センス良いな、なんかさあ、逆に?」
 と、よく分からない感想も一緒に口元から洩らした。青年はそんな少年の言葉に淡くはにかむ。そうして、いただきます、と小さく呟いた少年の前へとそっとティーカップを差し出した。どうぞ召し上がれ、と返す青年の声はタマゴの生地よりもきっと甘く、柔らかかった。
「──バニティ、どう? ウマい?」
 それからしばらくの間、右端の方からちょっとずつオムライスの山を切り崩していく少年を横目で眺めていた青年が、タイミングを窺ってはそのように問う。もくもくと小刻みに口を動かしていた少年は、咀嚼していたケチャップライスを飲み込むと、青年の方を見てこくりと頷いた。
「うん。フツーに。いつも通り、美味しいよ」
「ほんと? へへ、よかったあ」
「あ。そのイチゴも食べたい。ちょうだい」
「はいはーい」
 青年は手にしていた自分のスプーンを一度下ろして、先ほど置いた小皿の上に盛られているつやつやとしたイチゴを一つ摘まみ上げる。それからそのへたを丁寧に取り除くと、彼はその赤色を少年に向けて差し出した。少年は片手にスプーンを持ったまま、青年の長い指と指の間にあるイチゴに噛み付く。そうしてその小さな口に収まりきらない赤色をもぐもぐやりながら、彼は目の前のティーカップを自分の方へと引き寄せた。イチゴをすべて口内に押し込んで、少年は甘く育ったそれをしばらく味わったのち、こくりと飲み込む。ティーカップに口を付ければ、しゃんと冴えた味がする紅茶が喉の奥へと流れて落ちていった。
 そうやって少年が再び青年の方を見やれば、彼は少年から視線を逸らし、なんとなく曖昧な鼻歌を口ずさみながら、自身の分のオムライスを切り崩している。青年は自分に注がれる視線に気が付いたのか、少年の方へと顔を向けて、それからちょっとだけ笑った。そうして彼は、そのまま自身の首を緩く傾げる。
「そういえば、バニティ。今日はアリスちゃんのとこ行くの? 男の子のカッコしてるけど……」
「ああ、まあ、そうだな。今回のアリス……前に見てみたカンジ、男好きで面食いだったから」
「メンクイ……って何? 虫の名前?」
「おれにとって都合がいい相手ってことだよ」
「へええ……」
 青年はライスの載っていないスプーンを指の間でくるりと一回転させて、その水色の目を細めた。スプーンの先で自身の唇をとんとんと叩いて、彼は少しだけウキウキとした様子でそこに笑みを浮かべて見せる。
「じゃあ、頑張ってもらわなきゃ! バニティは早く帰らなくちゃなんだから」
「……一応、言っとくけどさあ──」
「あっ、でも!」
 おまえもだからな、と口から発そうとした言葉は、けれども青年が思い出したように発した声によって上塗りされた。
「バニティ。明日さ、舞台だよね? ほらあの、女王に無理強いされたって言ってたヤツ……」
「え?……あれか。演るよ、もちろん」
「ホント? でも、そうだよねえ、練習してたもんね!」
「どうせなら度肝を抜いてやろうと思ってね。おれがいちばん得意なのを演る」
「あはは! ねえ、それってもしかして?」
 楽しげな笑い声を上げて、青年が少年に向けて期待するようにそう問うた。少年が頷き、ティーカップの紅茶をもう一口含みながら、その赤い目を悪戯っぽく細める。
「ま、観てのお楽しみだな。おまえにはちゃあんと特別席をやるよ、トロベリー?」
「えっ、やったあ! ふふふ、楽しみだなあ」
「そういや、おまえにもこの話は最後まで演じてみせたことはないんだっけ。フフ、感動しすぎて泣いてもしらないからね……」
 心待ちにしているのは一体どちらなのか、心底楽しげな光を青年だけに分かる色で瞳に宿した少年は、口角を上げたまま目の前のオムライスを一口分掬い、またそれをもぐもぐと時間をかけて咀嚼しはじめた。そんな少年の様子を嬉しそうに眺めて、青年は自身の分のオムライスを口にする。少年のそれに比べて大きなその一口は、青年のオムライスをもう残り半分というところまで追い込んでいた。
 少年は青年がぱくぱくとオムライスを切り崩すよりずっとゆっくりとした速度でライスを飲み込むと、一旦スプーンを置き、ソーサーごとティーカップを持ち上げた。そうして息を洩らすようにして笑い、彼は青年の方を見る。
「精々楽しみにしてろよ。この話、ラストシーンが中々ドラマチックで……」
 歌うようにそう発して、少年は淡く自身の睫毛を伏せた。それから頭の中でその物語のラストシーンの台詞を諳んじようとし、
「──え」
 そして、唇がわなないた。
「……バニティ?」
「あ」
「バニティ!?」
 つと、少年の小刻みに震えた指先から、するりとティーカップが落ちた。ソーサーと共に床にぶつかったそれは、飴色の紅茶を血液として少年の足元でばらばらに砕け散る。少年の身体がまるで氷水でもかけられたようにぶるぶると震え出し、その赤い目もまた同じようにぐらぐらと揺れ動いた。
「あ……、あ」
 息が詰まったような、呼吸の仕方を忘れてしまったような、絞り出すような声が彼の喉から洩れ出る。少年は割れたティーカップのことなど目にも入っていない様子でがたりと勢いよく椅子から立ち上がり、けれども脚に力が込められないのだろう、その身体はいとも簡単にぐらりと傾いた。そんな少年の様子に青年は蹴飛ばすように椅子から立ち上がり、少年の身体が完全に力を失う前に抱き支える。
「バニティ! だいじょうぶ、聞こえる……!?」
「……ト、ロベリー」
「うん、だいじょうぶだよ」
「トロベリー。あ、合ってる? あ……合ってるよね。おまえ、ト、トロベリー、そ。そこに、いる?」
「ここにいるよ、バニティ」
 うわごとのように名を呼び、少年は青年の首に縋った。そうしてみれば、ひゅ、と少年の喉から嫌な音が鳴り、彼は半ば錯乱した様子で青年からすぐに身体を離し、今度は自身の耳を塞ぐ。再び傾いた少年の身体を反射的に支えながら、青年はそうっと彼を椅子の上へと座らせる。そうして青年はティーカップの破片が散らばる床の上に構わず膝を突き、少年の背をいっとう優しく撫でた。少年の瞳は今にも崩れそうに焦点が合わず、その目は最早見えていないようだった。
「──さ……最後の。最後の台詞、最後の」
「うん」
「お、思い出せない。なんで? 思い。思い出せない。思い出せない……! 思い、」
「だいじょうぶだよ、バニティ」
 細く苦しげな声でたかが外れたようにそう何度もくり返す少年に、青年は柔らかく笑んで、その小さな肩をゆっくりと抱き寄せる。それから少年の頭をまるで寝かしつけるように撫でて、はくりと空気を飲み込めないまま、しかし吐けもしないその背もとんとんと緩やかに叩いてやる。
 しばらくその時間が続いた後、少年が小さく息を吸って、何かに気が付いたように耳から両手を離した。その瞳孔が開ききった赤色の瞳は、けれども自分を抱き締めている青年ではなく、目の前の虚空ばかりを映していた。少年は短く呼吸をする。彷徨っていた少年の両手が再び青年の方へと回り、その背へときつく爪を立てていた。それでも呻くのは、爪を立てる少年の方だった。
「……おれ、た、食べないと」
「うん、そうだね。そうだよね、だいじょうぶ」
「だって、これはおれの……」
 少年は血が滴るほどに酷く自身の唇を噛んだ。おれの。おれの、何? なんだ? 分からない。思い出せない。忘れてしまった。忘れてしまった。思い出せない。忘れてはいけなかった。忘れてはいけないものだった。離してはいけないものだった。きっとたいせつなものだった。取り戻さなければ。思い出さなければ。あれがないと。あれがないと、おれはおれで。おれでなくなってしまうかもしれない。思い出さないと。早く。早く。早く早く早く。だって、あれは、おれの、
「バニティ」
 どこか宥めるような青年の声が、耳元に降ってくる。いま初めて声が聞こえたといった風に、少年はその睫毛を上げ、短い呼吸を続けながら青年の方へ視線を向けた。
「……バニティ、今日はもう休もうか」
「トロベ、リー?」
「うん、だいじょうぶだから」
 その言葉に、頭へと上っていた熱が唐突に目元まで降りてきて、視界が滲む。ろくに見えない目が余計悪くなったと同時に、今度はその熱が胃の辺りまでやってきて、また上へと逆流をはじめた。何もかもを全部戻してしまいそうになるのを必死に堪え、少年はどうにか息を吐き、また吸ってをくり返す。青年の手は、まだ少年の頭を撫でていた。ゆっくり瞬く。不安定な視界を動かして、少年は青年の肩越しにテーブルの上を見た。
 食べかけのオムライスが二つ。たくさん残っている方と、ほとんど食べ終わっている方。残っている方に描かれた、まだ少し形の残っているチョウチョのキャンディ。ティーポット。いなくなった片方のカップとソーサー。銀食器。そして透き色の小皿に盛られた、
「イチゴ、?」
 あ、と思う前に、少年は息を吸っていた。それは、舞台に立っているときと同じ、台詞を発するための呼吸の仕方だった。
「──おまえはね、トクベツなんだよ、=c…」
 そこまで発して、けれども少年ははくりと息を呑んだ。再び彼の小さな唇が細かく震えて、嗚咽と嘔吐の間を縫うような呻き声がその空白から洩れ出て落ちる。ああ。もうどこにも行けない。何も見えない。聞こえない。ただ少し、あたたかい。唇を動かした。これもきっと、声にはならない。
「トロベリー……」
「うん」
 声が聞こえた。聞き憶えのある声。少し、目を閉じる。あたたかい。頭が痛い。力を緩める。力が入らない。それでもまだ、あたたかいままだった。
「だいじょうぶだよ、バニティ」
 それだけ聞いて、きっと頷いた。今日の夜はあたたかくてよかったな、となんとなく思う。瞼を閉じたまま、その後ろにある幕も一緒に下ろす。少し眠る。夜が来たから。また、変な、不思議な夢を見るだろうか。不思議な夢。目が覚めたら忘れてしまう程度の、だけれど夢を見たという感覚だけが胸の内で爪痕を残していくような、不思議な。ああ、嫌だな。気持ちが悪い。けれど、でも。だいじょうぶだと、おまえが言ったから。なあ。ねえ、
 そう。だよね?
 ただ。
 ただ、口にしたイチゴの少しざらついた後味だけが、舌の上に残っていた。




403 Forbidden




 Strawberry Vanilla Ice cream
 20200209 執筆

 …special thanks
 王城一彦 @橋さん


- ナノ -