You'll Give Nights
ユルギナイ


 チョコレートは夜の色に少し似ている。
 赤々と火が燃える暖炉の前で、青年はロッキングチェアに腰掛けてそれを一定のリズムでゆらゆらと揺らしていた。サイドテーブルに置かれた小皿の上では、キャンディのような形に包装されたチョコレートがいくつか重なり、それらは淡い橙の照明に包まれてきらきらと輝いている。青年は、傍から見れば自分はこれから眠るのだと言うように淡く睫毛を伏せ、けれどもその細く長い指先でテーブルの上のチョコレートを一粒だけ摘み上げた。ぱち、と暖炉の火が爆ぜると同時に、今に開かれようとする包装紙もぱり、と声を上げている。
 家の中にはひそひそ話を楽しんだり、またぺらぺらとお喋りをくり広げる花たちの姿はない。遅刻を気にしてばたばたと忙しなく駆け回る白ウサギも、理解できない言葉を煙と一緒に吹きかける芋虫も、やたらめったら薔薇の色を危ぶんでペンキをどっさり押し付けてくるトランプ兵も、そのどれもがここには存在しなかった。
 青年は口元に淡く笑みを浮かべながら、包装の両端を引っ張る。もう少しでつやつやのチョコレートと対面が叶うというところで、しかし彼ははっとしたようにその睫毛を上げた。
 それは、足音が聞こえたからだった。青年は包装を開けるために込めていた指の力を緩めると、頭のてっぺんから生えている黒いウサギの耳を少しだけ動かして、遠くから響いてくる音を拾う。かつかつと踵を鳴らしては随分としっかり歩くその足音の持ち主をすぐに理解して、彼は首をほとんど動かさないままに視線だけを扉の方へと向けた。
 もう何度も聞いてきた甲斐があってと言うべきなのか、それとも聞いてきたせいでと言うべきか、青年は今響いているこの足音から、ひどく鮮明に一つの輪郭を描くことができる。その輪郭は今、自信ありげに鳴らしていた靴音を、しかし何かに気が付いたように突如として潜めたようだった。それでも時折控えめに鳴るかつ、という音を聞きながら、青年はロッキングチェアにその背を深くもたれさせて、先ほどよりも少し大きめに椅子を揺らしてみせる。足音は段々とこちらの方へと迫っていた。
 ややあって、足音は扉の前で立ち止まる。扉はまだ開かれない。部屋の前で、足音の持ち主は何かを考えているようだった。青年は、手のひらの上で開きかけのチョコレートを転がす。それから少し間が合って、扉はそろそろと音を立てずにゆっくり開かれた。そのさまに青年は口元の笑みを深め、そうして身を乗り出すように背後を振り返る。
「あっ、バニティ! おかえり〜」
 青年の視線の先には、そうっと部屋の中へと入ろうとしていた一人の少年の姿があった。そんな少年にもまた、青年と同じように黒っぽいウサギの耳――髪に見立ててはいる――が生えているから、或いは一匹、と呼ぶべきかもしれない。少年は自分の方を振り返ってはそう声をかけた青年に驚いたように小さく肩を揺らし、それから少しだけその眉間に皺を寄せたようだった。
「……寝てるのかと思った」
「えー? あはは、起きてるよう」
「まあ、なんでもいいけど……」
 言いながら、少年は後ろ手に扉を閉める。そうして彼はつかつかと青年の方へと歩み寄ると、青年の座っているロッキングチェアと同じく暖炉の向かいにあるソファへどかりと身を沈めた。少年は自分のソファと青年の椅子との間に置かれているサイドテーブルの方をちらりと見やると、そこに載っているチョコレートを一つ、手持ち無沙汰そうな指先で摘み上げる。
「今日、ずっとここにいたのか」
「うん? うーん、そうかも?」
「なんだそれ……」
 溜め息を吐きながら、少年はかさりとチョコレートの包装を剥がす。そうしながら、彼は途中で少し顔を上げ、隣の椅子に座る青年の方を見た。
「化粧してないの、ちょっと久しぶりに見た気がする」
 少年からそう視線を向けられている青年は、確かに普段しているような化粧をその顔に施していないようだった。いかにもクラウンといった白塗りのメイクや真っ青な口紅を引いていない青年の顔は、いつものそれよりも少年にとって不思議な感覚を呼び起こさせるものだったのかもしれない。じっと自分の方を見つめる少年に、青年は少し笑って首を傾げた。
「そっかな〜? でも俺、バニティより起きるの早いし、寝るのも遅いからなあ」
「寝るのが遅いのはおれに付き合うからだろ。おれと違って、おまえにかけられてるのは笑わなきゃいけないっていうやつだし、まあ、べつに……好きに寝れば?」
「やだなー、バニティ! 俺は好きに寝てるよ〜」
「……ふーん、あっそお……」
 少年はあくびを噛み殺して、手元にあるチョコレートを口に含んだ。それに歯を立てれば、チョコレートでコーティングされた薄い殻が割れて中から甘いような酸っぱいような、独特の風味をもつ液体が溢れ出てくる。少年はそんなチョコレートを無言でもぐもぐやりながら、暖炉の火を見る。そうしてソファの上でふてぶてしく脚を組み、サイドテーブルからまた一つチョコレートを取り上げた。
「ところでさ! バニティ、今日はどうだった?」
「あ? あー……」
 喉の奥で唸るように発して、少年は空になったチョコレートの包装紙を指先でゆるゆると弄った。二つ目のチョコレートも食べ終えたらしい彼は、それだけでは飽き足らずに三つ目、四つ目と小皿の上からチョコレートたちを攫っていく。自身の指先を見つめて俯きがちになった少年の横顔は、おそらく隣の青年からはよく見えなかったのだろう。そんな彼は、少年の言葉の続きを待って小首を傾げていた。
「つまんねえヤツだったかな。しかもアレ、男のアリスだってのに情けないこと、オンナノコのアリスにころされちまった。男だったら多少は持つだろと思って、せっかくそっちに付いてやったっていうのにな? まあ、つっても、残った方のアリスもしにかけだったから、メンドーになって食っちゃったけどね……」
「ありゃりゃ。でも二人分食べれたってことは、バニティ、なんかイイコト思い出せた?」
「や、大したことじゃない。今日寝たら忘れる程度のモンだよ」
 それから少しの沈黙が流れる。二人──或いは二匹は、互いに不揃いな呼吸をくり返してはまちまちの瞬きをした。少年の方から、それまでより大きく息を吸う音が聞こえる。次いで、微かにくすりと鳴る笑い声が洩れた。
「あーあ。こんなことなら、おまえと一日、ここで話してた方が楽しかったかもなあ」
「へ……」
 青年はその口元に笑みを湛えたまま、けれどもぴしりと固まった。それもそうである。目の前の少年がこのように素直な物言いをするのは、女王がクロッケーをする際にお気に入りのフラミンゴではなくツリーに飾られたキャンディケインを使うのと同じくらい、空と地面が逆さまになるほど珍しいことだったのだ。言葉だけ受け取れば少年がふざけ半分でよく発する皮肉にも聞こえるが、しかしそれを乗せるために発された声色が、明らかに普段と違っていた。そうだ、今のはまるで、彼が眠たいときに出すような……
 少年は視線を自分の膝辺りに向け、チョコレートの包みをかさかさと指先で弄っている。青年はなんとなく怪訝なまなざしを少年の触る銀紙へ向け、
「げ」
と短く声を上げた。
「なんだよ?」
 青年のうめき声にも似たそれに反応した少年が、チョコレートの包装をいじくるその手を止めて顔を上げた。少年の声にはなんだかひどく楽しげな色が滲み、表情と言えばそこにはニコニコともニヤニヤとも言い難い、ふわふわとした笑みが隠されることもなく浮かべられていた。もちろん、少年の顔はリンゴのように真っ赤である。
「……バニティ、だいじょうぶ……?」
「ハハ、何が?」
 口角は淡く上げられたままだが、それでも困ったように眉尻を下げて青年は少年へとそう問うた。けれども当の少年はと言えば、そんな青年の心配も意に介さず、楽しげに真っ赤な笑い顔のまま、青年に向かって小首を傾げるばかりだった。
「トロベリー。むしろおれは今、相当に気分がいいんだ。なあ、このチョコレート、美味しいなあ」
 言って、少年は青年が止める間もなく新たにチョコレートを口の中へと放り込む。そうしてそれを舌の上でころころ転がしながら、突如として少年は身を沈めていたソファからぴょんと勢いよく立ち上がる。そうして暖炉を背にすると、青年の方へと向かってくるりとその場で一回転して見せた。
「フフフ。こんなにウマいチョコレートを用意しておいたご褒美に、トロベリー? ハハ、何か歌でも歌ってやろうか。それともちょっとした芝居がいい? 今なら三日間ぶっ続けで演ってやったっていいぜ」
「……あー……」
 やべ、と青年は唇だけで苦笑いをしながら首の後ろを痒くもないのに掻いた。立てた人差し指を宙でくるくると回し、上機嫌にここではないどこかの歌を口ずさみはじめた少年に、青年は椅子から立ち上がると、その細い両肩をそっと掴んで少年をソファの上へと再び座らせる。
「何、トロベリー。この歌嫌いなの?」
「うわ、もう出来上がっちゃってる……」
「そりゃあおれの演技はいつだって完ぺきだよ」
 少年は青年の方を見、肘置きに頬杖をつきながらその唇の端をついと持ち上げた。そんな少年をどうしたものかと青年が少しだけ苦い笑みを浮かべている間に、けれども少年はまたテーブルの上からチョコレートを取り上げてそれを素早く口の中へと放り込む。青年はその水色の目をちょっと細め、ふうと細く息を吐いては少年の顔を覗き込んだ。
「バニティ。俺、向こうから水取ってくるからさあ。ここにちょ〜っとだけ座ってられる?」
「アハハ! 無理だけど?」
「そっかあ、無理かあ……」
 青年は、いよいよ困ってついに小さく笑い声を上げた。少年はまたふんふんと歌を口ずさみはじめる。
 そう、この少年はアルコールにひどく弱い。それはもう、めっぽう弱かった。こんなウイスキー・ボンボン一粒で頭のてっぺんからつま先まで酔いが回ってしまうほどに。青年はそれとは分からないよう、サイドテーブルに載っている小皿を少年から遠ざける。少年がこの国に落とされてからもうどれほどの月日が流れたのか。それでも、少年の姿はずっと少年のまま、声変わりも成長痛も経験しないままに美しい。だからきっと、アルコールを受け止めるための器も彼の中には用意されていないのだろう。
 それにしたって随分楽しそうに呑まれるものだと、青年は思う。少年の酔っ払った態度が、しかして彼の最も得意とするところの演技≠ネのではないかと、こうまでこの少年を知っているなら普通は少し疑うのかもしれない。けれども、この国で誰よりも少年を知っているはずの青年はそれを疑おうとも思わなかった。何故なら青年は少年と同じで少しばかり頭の端っこが狂っていたし、そうでなくとも、必要がないからそんな発想すら浮かばなかったのだ。
 つと、少年はその右手を伸ばして、青年がそこから遠ざけた小皿のチョコレートを手に取ろうとする。かりかりと小皿の縁を引っ掻くようにして自分の方へとチョコレートを引き寄せた少年の手首を、青年のそれより一回りは大きそうな手のひらが緩く押さえた。
「……ねえ、バニティ、食べ過ぎだよ〜」
 これ没収! と青年が少年の手からチョコレートを取り上げれば、彼の赤い目はじとりと青年の方を見上げる。そうして分かり易くへの字になったその口から、何かぶつくさと不平の言葉が洩れ出していた。
「ふーん、そお……」
 取り上げられたチョコレートを奪い返そうと、ひょいひょい動く青年の手を追いかけていた少年の指がふと止まり、唇の間から怒りながら笑うような声がそのように零れた。そうして少年はサイドテーブルの方へと勢いよく身を乗り出すと、そこから一粒だけチョコレートをひったくり、それの銀紙を荒っぽく剥がして捨てる。少年の横暴にテーブルの上のチョコレートは小皿ごと絨毯の上に身を投げたが、その泣き声は彼が青年の胸ぐらを掴んで思い切り引き寄せた音に上書きされて、どちらの耳にも響きはしなかった。
「そんなに食べたいなら、ほら。どうぞ?」
 瓶の形をしたチョコレートを青年の唇へと指先で押し付けながら、少年はまるでいっとう善いことをしたというような表情で笑った。ソファに座る少年の元へと不意に強い力で引っ張られた青年は、ぐいぐいと唇に押し当てられるチョコレートを仕方なしに口へと含んで、もごもごと何事かを少年に発する。おそらく小言であろうそれに対して少年はどこ吹く風で、青年の胸ぐらを未だ片手で掴んだまま小さく笑い声を洩らしていた。
「ちょっと……もう、バニティ〜……?」
「フフ、美味しかった? 感謝しろよな」
「うーん……うん……ありがとね……」
「そうそう。素直でよろしい」
 少年の手は青年のシャツを離さない。青年は本日何度目かの困り笑いをその顔に浮かべながら、自分の服ごとぎゅっと握られているその小さな手を見やった。そうしてふと、青年は相手の顔色を見ようと少年の方へと視線を向ける。
 そこで再び青年が少しばかり身体を強張らせたのは、少年の赤い瞳が逸らされることなくじっと自分の方を見ていたためだった。青年は瞬きも忘れて、少年の寝不足と疲労とアルコールとその他様々な要因によって滲んだ赤色を見つめ返す。
「トロベリー。おまえさあ……」
 おそらくずっと青年の方を見つめていたのだろう少年が、ふと気が付いたようにその唇から密やかに声を発し、それからか細く息を吸った。そうしてその赤く上気した頬が口角と共に上がり、それよりも濃い色の瞳がするりと弧を描いた。
「──スッピンだと幼いな! アハハ!」
 それだけ言って、少年は青年のシャツからぱっとその手を離す。青年の背後で暖炉の火がぱちりと鳴って、積まれた薪が微かに崩れる音がした。その気配になんとなく青年は後ろを振り返り、少年のそれよりは激しくない火の色を目に映すと、再びゆるゆると少年の方へと視線を戻す。
 そうして次に青年が少年を視界に入れたときには、少年はもうすやすやと心底気持ちよさそうな寝息を立てていた。
「……あはは……」
 寝ちゃった、と小さく呟いて、青年はそうっと少年のそばから身を離す。それから最初少年がしていたようにそろそろとした足取りで、ロッキングチェアの背に掛かっている二枚のブランケットをその長い指先で掬った。そうして彼はその一枚──ぴかぴかと輝く光を模した刺繍が施されている方──を眠る少年の身体へと柔らかく掛けてやると、絨毯の上に散らばってしまった小皿とチョコレートたちを拾い上げる。それらをサイドテーブルの上に戻しながら、けれども青年はそのテーブルを少し後ろの方へと動かして、自分の椅子を少年の方へともうちょっと近付けた。
「おやすみ、バニティ」
 そう囁いた声の色は、きっと、火の爆ぜる音が掻き消した。
 椅子に腰掛け、それから思い出したように青年が手のひらに転がした開きかけのチョコレートは、口に含む前から溶け出していた。


 Strawberry Vanilla Ice cream
 20200127 執筆

 …special thanks
 トロベリー・クラウン @橋さん
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