光のしっぽ



 きらきら光るものばかりを、ずっと追いかけてきた。

 太陽が、いつもより眩しい今日。
 少年はその激しさにに目を細める。刺すような日差しに、じりじりと蝉の鳴き声のような熱を放つ地面、むせるような緑のにおいと、そこここで乱反射する光たち。
 ──夏が始まったのだ。
 そう、誰かがわざわざ言わなくても、しかし、これが始まりなのだと誰もに分かる気配を連れて。自然が言葉を発する季節。夏がやってきたのだ。
 黄金色の髪を、確か何処かで安く買った探偵帽で覆って、少年は長い石造りの階段を駆け上っていく。すでに空になった水筒の紐を右手首に引っ掛け、かさかさ鳴る紙袋もまた同じく右手に持って、一段飛ばしで。跳ねるように階段を上りつつ、こめかみから流れ落ちそうになっている汗を、少年は左の甲で軽く拭った。
 身体を動かすたび、胃の中で燻っていたものがめらめらと燃え、足下までやってくるのを感じる。
 今日は朝から街の古物商に顔を出していたから、昼ごはんはエナガが持たせてくれたサンドイッチを歩きながら食べたのだ。具の種類はからしマヨネーズとハムときゅうり、卵とレタス、おまけに苺と生クリーム。ちなみに、最後のは行きしなに食べてしまった。
 街を出て長く続いていく道路を辿り、わしゃわしゃと名前も分からない植物たちが絡まっているトンネルを抜け、そうして自分が下宿している村へと戻っては、ぎらつく太陽に全身焦がされる前に少年は陰を求めた。
 道路が砂利道となり、その砂利道が土道と移り変わっているところばかりを選び、足を速め、この村に多く在る林の一角に飛び込む。それから獣道を進み、緩やかな斜面を上り、林が森と呼ぶにふさわしくなったところで、また光を求めて森が拓けている方へと跳ね出た。
 そして、そこが今、少年が軽やかに上っている長い石段だった。
 これを上りきった先には、村で唯一の神社が在る。道路沿いに位置する港から、潮の香りが風に乗って下の方から運ばれてきた。
 長い石段の途中に、こちらも石で造られている長方形の目印が立ち、そこには何か文字が彫られている。少年は一度足を止め、それをちらりと見やった。これは何と書いてあるのだったか。
 前にエナガに訊いたことがあったはずだが、少し自信がない。確か、上った階段の数を示す目印だったような気がする。けれど、ここに彫られている文字は今現在主に使われているものと少し毛色が違うのだ。
 ふるさとを出てから幾つかの国を訪れたものだが、しかしこの島国の言葉はそのどれよりも難しい。話し言葉も書き言葉も随分勉強したつもりだったが、それでもまだまだ足りないようだ。
 石の目印から視線を元の位置に戻して、また一段上る。
「ん?」
 すると、ふと視界の中にまんまるした何かが映ったような気がして、少年はその黄金色の睫毛を上げた。少年の子どもらしく丸い、ライオンのたてがみのような色をした瞳が、彼のそれよりもふかふかしていそうなものを捉える。
「──おっと、おまえ」
 少年はそのまんまるのいるところまで石段を駆け上り、それに近付くと、しゃがみ込んでそのふかふかした毛玉の顔を覗いた。
 黒と茶と白を湛えた三毛の野良猫。
 ふかふかだがどっしりとしているその猫の小さな目がちらりとこちらを見て、そうしてあくびをしたと思ったら、猫は毛玉のようになっていた自身の体を気が抜けたように平べったくした。
「今日はこんなところにいたのでありますな」
 言いながら、少年もまた三毛猫の隣に腰を下ろした。
 少年は帽子を脱ぎ、それで顔の辺りをぱたぱたやりながら、暑さで汗ばんでしまった白いシャツの釦を、いちばん上だけ外す。青と赤でバイカラーとなっているリボンタイや黄土色のサロペットの留め金具も、ほんの少しだけ緩めた。仕事中じゃあないからと、誰に向けてかも分からない言い訳を心の中で発しながら。
 それにしても、こうして眺めてみると此処は随分高いようだ。
 石段の一つに座った少年は、そんな風に思いながら、遠く見える海原を見つめてその目を少しだけ細める。埠頭には小さな船が──いいや、此処からでは小さく見える船が数隻横付けにされており、波はその隣できらきらと光を放っていた。
 海はこんにちの快晴をほんの少しばかり自身に映して、気持ち程度青みがかかっている。この島国の海は決して鮮やかではなく、そして澄みわたってもいなかったが、しかしそれでも汚れた色だとは少年は思わない。
 見れば、波は穏やかに寄せては返すをくり返している。伸びている三毛猫の隣で、少年は半ばぼうっと海の姿を見つめた。
 似ているのだろう。少年は思った。たぶん、似ているのだ。あの海の色は、雲の色に。だってこの村は、よく雨が降るから。だから、水面がきらきらとよく輝いて見えるのだろう。雨が降った後には、雲の隙間から太陽の光が差すように。
 白い光の粒子が海面に浮かび、今日の太陽の眩しさを示すかのように踊っていた。石段の下の方から森を抜けてやってくる潮風は、白光に焦がされた海の香りを乗せ、森に入り込み、その木々の陰で涼んでは、しかしまた太陽に照らされながらこちらまで吹いてくる。熱くはないが、冷たくもない。風は少し、ぬるかった。
 少年はからからに渇いた喉を潤す代わりに、中身の入っていない水筒の蓋を開けてその内側を少し見やる。ほんとうに何も入っていない。やはり自分は、一滴残らず飲み干してしまったようだ。少年はゆるりと水筒を振って、軽く溜め息を吐いた。
 元々そこに入っていたエナガお手製の飲み物は、水に檸檬の果汁とはちみつが加えられたもので、その甘さの中に少しだけ塩の味もあり、爽やかで美味しかった。それに、いくら歩いてもほとんど中身がぬるくならないこの水筒のおかげで、それの美味しさは倍増していたのだ。
 故郷には、こんな入れ物はなかった。いつかふるさとへ戻ったなら、みんなに持っていこう。この水筒と一緒に、美味しかった想い出も。
「さて、今日は何処へ行ってみるでありますかねえ」
 少しだけ前屈みになり、座りながら両膝の上で頬杖をついている少年は、楽しげに自身のたてがみ色をした目を細めて、それからご意見を伺おうと隣の三毛猫へと視線を向けた。
「……あれ」
 しかし、先ほどまで隣でのんびりしていたふかふか猫の姿が見当たらない。猫のいない石段の上は、昼間の陽がさんさんと当たっていた。自分の視界には入っていなかったから、この階段を下りたわけではないのだろう。
 少年は少しばかり首を傾げると、消えた猫を探すために背後を振り返ろうとした。そして──
「えい!」
「うわっ!?」
 突如として左頬に電流のようなものが走って、少年は思わず声を上げた。驚きに目を見開いたまま固まっていれば、頬に当たっているのが電流というよりは冷たい──きんきんに冷えた何かということが分かって、少年は背後を振り返る。
「んふふ、ニケ!」
「ノ、ノイさん……」
「あはは、驚いた顔! 冷たいでしょ? 上の川で冷やしてたの」
 視線を左へと向ければ、頬に淡い空色をしたラムネ瓶が映る。それが離れて、自分の顔の前でゆるりと揺れた。その動きと同時に、ノイと呼ばれた少女は、彼女自身がニケと呼んだ少年の隣に腰を下ろす。ラムネ瓶は太陽の光に照らされて、水滴と共にきらきらと輝いていた。
「飲むでしょ? はい、どうぞ」
「はは、やった。ありがとうございます、頂くであります。さっきちょうど水筒が空になってしまったところで……」
 ニケは声変わり前の少年特有である中性的な声でそう発し、差し出されたラムネ瓶を両手で受け取りながら姿勢を正して、それから改めてノイの方を見た。
 ふんふんと鼻歌を風に乗せながら、頭のてっぺんで柔らかくお団子にされた眩しい金髪が、少女の動きに合わせて揺れている。それと似た色をした瞳は今、ラムネ瓶のビー玉を見ているようだ。
 そうしてノイがその手首で瓶の蓋を押さえ付けて、ビー玉を中に落とすのと一緒に、少女の向こう側で何か細長いものがゆるりと動くのが見えた。
 猫の尻尾だ。先ほどまで姿が見当たらなかった三毛猫は、いつの間にかノイの隣側を陣取ったようで、ニケは思わず笑いを洩らした。
「なんだ、そっちが本命か」
「え? なあに?」
「いーえ、なんでも」
 がこん、とビー玉が瓶の中に落ちる。
 ニケはしゅわしゅわ鳴るラムネが落ち着くまで、手首で瓶の飲み口を押さえていたが、それでも少しだけ溢れてしまったようだ。ラムネの伝う手首を舌先で追いながら、ちらりとノイの方を見る。彼女の方は上手くいったらしい。
 猫の尻尾がゆったりと行ったり来たりして、うだるようにぱたんと倒れた。
「暑いねえ」
「夏でありますからなあ」
「ニケ、今日どっか行ってきたの?」
「ああ、ええ。街の方に少しだけ」
 白い光にきらめくノイの瞳が、ニケの隣に置かれている茶色い紙袋を映している。
 少年の返答に笑顔で頷いた少女はラムネ瓶の中身を三分の一ほど飲み干し、それから自身が座っているところから一段下がった足下に置かれている透明なペットボトルを手に取ると、その白いキャップを捻った。
「お店の売り物?」
「……いえ、というより……」
 ラムネ瓶と同じように汗をかいているペットボトルの飲み口から、とくとくと透き色の水が流れ出る。光を受け、景色を透かす水は、少女の片方の手を受け皿にしてきらきらと輝いていた。
 少年は一口ラムネを飲み下すと、両肘を膝に置いて、少しだけ前のめりに意味もなく瓶をゆるりと揺らす。
 三毛猫がノイの手のひらに揺れる水を、ちろちろと桃色の舌で受け取っている。ほとんど顔は動かさずにそちらを見れば、水を飲む猫の隣で、くすぐったいのか少女は少しだけ笑いを洩らしていた。
 ニケの持つラムネ瓶から、ぽつりと水滴が落ちる。
 それと同じように、ノイの指の間から少しずつ水が零れて、石段にぽつりぽつりと秘密の雨跡を記していった。少年は、その跡が陽光に照らされてゆっくりと蒸発していくのをなんとなく見つめ、自分の足と足との間の陰に落ちたラムネ瓶の水跡は、つま先でざり、と踏んで隠した。
「と、いうより?」
 視界の端で、猫がにゃあおん、と鳴いた。満足したという意味だろうか。ノイがニケの方を振り向いてそう問いながら、受け皿にしていた手のひらをぱっぱと振っている。ニケは水がぽたぽた落ちるラムネの瓶を傾けて半分ほど一気に飲み干すと、それを一旦置いて、隣の紙袋の中身を漁った。
「ノイさん、ちょっと手、出してもらえますか?」
 そう言えば、ノイの両の手のひらがニケの前に差し出される。
 この村で育った人たちよりも白い肌をもつ彼女は、ニケと同じように海を越えてこの島国へとやってきた、いわゆる留学生だった。それとは反対に、ノイのように学校へ通ってはいないニケの肌は小麦色で、手のひらの桃色が他よりもほんの少し目立って見える。ニケはその手で紙袋をがさごそやり、そして不意にその唇に弧を描かせた。
──砂漠のばら≠チて、ご存知ですか?」
 問いながら、ニケはノイの手の上に、飴色をした不思議な形の塊を置いた。
「砂漠のばら?」
「それのことであります。自分の生まれた国ではよく採れるのですが、この辺りだと珍しいですよね」
「これ、石……だよね?」
「はい。結晶と砂が一緒になってできた石です。ノイさん、鉱石が好きでありましたよね? もしかしたら、図鑑に載っているかも。砂漠のばらって頁がなかったら、石膏か、重晶石の頁に」
 ノイは手のひらに乗ったその石を指先でつまみ上げると、そうしてそれを様々な角度から見やった。
 大きさは、少女の親指と人差し指で輪っかを作るのと同じくらいである。淡い茶色にたくさんの花びらが折り重なったような形をした石は、確かに野に咲く薔薇のようにも見えた。全体的に見ると茶色いその石は、しかし花びら一枚一枚の輪郭が白で縁取られており、そこもまた、まるで陽を受けて少し色の抜けた薔薇の花びらのようだった。
「懐かしくて、ついたくさん買ってしまったであります。みなさんに渡せたらいいかなと。そうそう、自分の国では、こぉんな大きなものもあるんですよ」
 しげしげと砂漠のばらを見やるノイの隣で、ニケは両腕をいっぱいに使って大きな円を描いた。
 鮮やかな空の色に合わせて、黄金色から橙色、褐色へと刻々と変化する砂に覆われた国、その一角に在る緑と商いのオアシス。
 両腕で砂漠に生える大きな砂漠のばらを描きながら、その瞳の中に浮かんだ遠いふるさとの風景に、ニケは懐かしさに黄金色の睫毛を伏せるようにして目を細めた。広大な湖に湛えられた水の音、背後を行くキャラバン、そのラクダが運ぶ荷物に括り付けられたベルの音が戻ってくる。
 そうしてつと視線を上げれば、宙に想い出を描く少年の両腕の方を見ていたノイの、太陽を受けて金に光るその瞳がニケの目を見る。しゅわりとラムネの炭酸のような音を立てて、懐かしい故郷の色たちが去っていった。しゅわしゅわしゅわ。すぐ近くで、蝉の鳴き声が聞こえる。
 ニケは心でかぶりを振って、ノイに向かって笑みを浮かべた。
「その石、自分のふるさとではけっこう大事なものでして。自分のたいせつな人にあげるんです。たとえば家族とか、友だちとかにでありますな」
「へえ! そっか、石の花をあげるんだね。なんだか素敵」
「ええ、生花は中々手に入りにくくて。まあ、でも、生花を贈ることもあるんですけどね。自分の──」
 ひゅうと石段の下の方から風が吹いて、ニケとノイの前髪を緩やかに浮かせる。ノイの隣で欠伸をしている猫は、時折その尻尾をぱたり、またぱたりと動かしていた。
「自分の、なあに?」
「……ふふ、いえ」
 少しだけ顔を上げれば、ノイの向こう側に今、太陽が白く照っている。それが眩しくて目を細めれば、目の前の少女の輪郭も陽光を受けて白っぽく輝いていた。
 三毛猫の尻尾がゆるりと揺れ、その小さくてつぶらな瞳がこちらを見る。それと同時にニケはまた笑いを洩らし、その唇に弧を描かせ、瓶を持っていない方の手でぱたぱたやっていた帽子を被り直す。
「秘密です」
「ええ?」
「そういうのは自分より詳しい方がいらっしゃるかも。もしかしたら、ノイさんの隣に」
「ええー?」
「だって、彼は自分たちの先輩でありましょう、いろいろと」
 言いながら、猫の尻尾がするりと動いたのが視界の隅に映った。それを自覚した瞬間、ニケは思わず笑い声を上げる。
「逃げたなあ」
 さらさら流れるように石段を下りていく三毛猫を見やりながら、ニケは楽しげに目を細めた。まるで走る速度でぬるくなっていくラムネを飲みながら、少年は隣の少女へとその顔を向ける。
「隊長=A先に行ってしまったでありますな。……ノイさん、この後は?」
「んふふ、もちろん」
「それでは──冒険ひとつ、お買い上げということで?」
 からんとビー玉がラムネ瓶の中で跳ねる音がする。さすがお客さん、お目が高いでありますねえ、と芝居がかった声色で発しながら、自身の周りに置いた紙袋やら水筒やらを拾い上げていれば、更に強く、からん、とビー玉が跳ねる音が隣で響いた。
「それじゃあ、お先に!」
 そう言ったノイのサンダルが、とんと軽やかに石段の一つを蹴った。
 三毛猫隊長にも負けず劣らずの速さで神社へと続く長いこの階段を下りていく少女をしばし眺めたのち、ニケはシャツの釦を留め、帽子のつばに、緩めていたリボンタイやサロペットも整える。故郷の砂漠よりも濃い赤茶色の長靴は、変わらず今日も丈夫な相棒だ。
 冒険するには、正装をしなくては!
 とんとんとつま先で石段を叩いて、少年もまた階段を駆け下りはじめた。
 それはもちろん、前を行くきらきらたちを追いかけるために。

 ──そして少年は、そのすべてを冒険と呼んだ。



 NikeNoi
 20180903 執筆

 …special thanks
 ノイ @hiroooose
- ナノ -