うつ伏せで笑う始まりの春


 それがなんだったのかはもう覚えていない。ほんの些細なことだったのだ。それは、そう、まるで雀が車にひかれるように、虫が踏みつぶされるように、そんな風に、本当に些細で、けれども少しばかり悲しい、そんなことだったのだ。そんな気がする。そんな気がするだけなのだが。
「おはようございます」
「……あ、ああ。おはよう。お前、いや……大丈夫か」
「はい? ええっと……何がですか?」
「え……ああ……い、いや。何でもない。気にしないでくれ」
「そうですか? なら良かったです」
 今日は、起きたら目覚ましの音が鳴っていた。だから、いつも通りにそれを止めて、顔を洗って、歯を磨いて、朝ごはんは食べる時間はあまりなかったから食べずに家を出たけれど、ただいつも通りに出社をした(何かが足りないとは思ったが、ぼくは気付かないふりをした)。
 そうしてみたらこうだ。ぼくとすれ違うひとたち全員が作り笑いをして俯く。そして足早に去っていく。やはり、おかしいと思う。全く身に覚えがないが、もしかするとぼくが何かしたのかもしれない。
「お前。ああ、ああ。そうだよ、お前だ」
「あ……はい、なんでしょう?」
「……今日はもう帰れ」
「は?……なんで……ど、どうしてですか」
「いいから、早く」
 追いやられるように会社を出て、まだ明るい空の下を歩く。眩しい太陽と生ぬるい風に、少しだけ心臓が跳ねた気がした。ぼくが暮らしている、会社からほんの少しばかり遠いぼろアパートの階段を上っていくうちに、それの正体が頭の片隅で、自分の足が階段を叩く音と一緒にカンカンと音を鳴らした。
「ああ――」
 ぼくの、ぼくたちの部屋のドアををそっと開ける。空っぽになったそれと、左手の薬指が全てを物語っていた。ぼくは、それがなんだったのかを今、今さら、思い出した。
 ほんの些細なことなのだ。それは、まるで雀が車にひかれるように、虫が踏みつぶされるように、そんな風に、本当に些細で、けれども少し悲しい、そんなことで、それは、ぼくにとっての世界の終わりだった。
「ぼくが、きみが、何をしたっていうんだ」
 きみは桜が綺麗に咲いていたあの日、死んだ。


20140706 執筆

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