ハート・ライク・ヘヴン


 わたしの夢は何だったのか。それを海の底にいた頃は、目の前をチョウチョウウオが泳いで行くかのように、ひどく鮮やかなものとして思い出せたはずなのに、今ではその欠片すらも思い出すことができなくなってしまった。
 ひっそりと海底で生きていた方が、わたしは幸せだったのだろうか。痛みも涙もない毎日を過ごしていた方が幸せだったのだろうか。もうそれすらも、わたしは分からなくなってしまった。
「おかしいなあ……。海ってこんなにも暖かかったっけ」
 ゆらりゆらりと打つ波に身体が包まれる。懐かしい潮の香りと、肌に心地の良いあぶくたちに「ただいま」のキスをした。わたしはやっぱり海が好きだ。愛しい王子様も海のことが大好きだったような気がする。さっきまで一緒にいたひとのことすら、もう想い出せないのも、魔女の魔法のせいなのか。
「いや、わたしが忘れたいだけなのかもしれませんね」
 あぶくになりかかった命を少しばかり愛おしく思う。馬鹿みたいに恋をしたこの命を、ほんの少しばかり。
 名前すらもう思い出せないけれど、あのひとはわたしのことを覚えていてくれるのだろうか。たとえば、海がいつもより澄んでいる日や淀んでいる日に、わたしの手のひらの温度ぐらいは思い出してくれるのだろうか。
「なんだったかな、あなたの名前」
 あなたの顔は、ぼんやりだけれど憶えている。わたしが海に身を投げた後、あなたは何もかもわかったかのような表情で海のあぶくを眺めていた。
 私はきっと忘れない。名前も顔も、もうはっきりとは想い出せないあなたを愛したことを。夢を忘れてまで愛したあなたのことをずうっと、永遠に。ああ、そうだ。わたしは、幸せなのだ。
「あなたのことを愛して、いました」


20140712 執筆

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