詠み人知らず


 「秘密があるの」。きみはよくそう言って笑っていた。髪を細い白色のリボンでゆるく三つ編みにしていたきみ。春のはじまりみたいな匂いがしたきみ。雨が降ると傘をくるくる回したきみだ。まだ、笑い声も憶えている。葉が揺れるみたいな、優しい声。手の感触も、髪の色も、歩き方も、困ったときの癖だって憶えているのに、ぼくにはひとつだけ、たったひとつ、想い出せないことがある。きみの、顔だ。まるで最初から知らなかったかのように、きみの顔には深い霧がかかっている。ぼくは確かにそれを知っているはずなのに。
「わたしはね、今、秘密を編んでいるの」
「きみが編んでいるのは髪、三つ編みだろう? おかしなことを言うんだね」
「そうとも言うかもね。三つ編みも秘密も、似たようなものでしょう? 両方、みつ≠ェつくもの」
「ばかだなあ」
「でも、秘密があるっていうのはほんとう。あなたには言わないけれど、許してね。だって、隠し事がある方が……ほら、魅力的って言うのでしょ」
「ぼくの他に好きなひとでもいるのかい」
「さあね。でもちゃんと、捕まえておいて」
 きみの言う秘密が何のことなのか、なにか大切なことなのか、興味はあれど、ぼくには知る術がなかった。きみと一緒に夏の海、秋の風、冬の空に触れていく内に、ぼくのきみの秘密≠ノついての興味は薄れてゆき、何となく、「秘密があるの」、きみのその言葉は、きみの口癖のようなものなのかもしれないと心のどこかで思い始めた。それはきっと、きみへの興味が薄れたことと同等で、いつかどこかでぼくは、きみを隣に捕まえておくためのこの手の力を、そっと緩めてしまったのだ。
「春がくるわ」
「うん」
「また本を読んでいるのね。そこの林檎、食べたいから取ってくれる?……ありがとう。あなたもどう?……そう。わたしね、秘密があるの。……あなた、もう、わたしを愛していないのね。ああ、聞こえてないわ。やっぱり、無理だったのかしら。そうだったのかしら?……それ、読み終わったら……」
「ああ、ごめん。何か言った?」
 あの、春のはじまりみたいな日、風がきみを連れ去った日。ぼくは一日中ずうっと本を読んでいた。ぼくの心がきみからいちばん離れた日だった。きみが隣でなにかを言っている気がしてぼくは顔を上げたけれど、それももう、遅かったのだ。顔を上げたとき、ぼくの前には大きな樹と、その枝にかかる白いリボンしかなかったのだから。
 その大きな樹からは、やっぱり春のはじまりみたいな匂いがして、葉が揺れる音は何となくきみの笑い声に似ていた。ただ、「秘密があるの」。その声だけはもうぼくには聞こえなかった。白いリボンを指に絡めながら、ぼくは大樹の前で、確かに恋が落ちる音を聴いたのだ。そこにきみが食べかけたあの林檎でもあったのなら、ぼくは救われたかもしれないのに。きみのどんな表情も、今では全く想い出せない。それはきっと、きみが消えたあの春をぼくが憎んでいるからなのだろう。


20150314 執筆

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