エクスティンクション


 午前四時、月の光だけがぼくを照らす、そんな夜。コツコツと耳を震わせるのはココアを片手に持ったきみで、呆れたように笑うそのひとは、月の光に照らされてきらきらと輝いた。鼻をかすめたココアの匂いときみのシャンプーの匂いとが、ふわふわとぼくの口元を緩ませる。
「寒くないの?」
「少しだけ。きみこそ、寒いのは苦手じゃなかったっけ」
「今日は月が綺麗だから、少しくらい寒くたって平気よ」
「ふうん」
 月に花が咲いたのはいつ頃だっただろうか。それはもう随分と昔のことのようにさえ思える。どうして月に花が咲いたのか、そんなことは誰も分からない。誰も気に留めることをしないのだ。この世界は、ぼくらが暮らすには少しばかり忙しすぎるのかもしれない。
「ああ、あれね。あなたがいつも言っている……」
「午前四時になると彼らは月へと向かうんだ。月の花に蜜があるかどうかは、ぼくには分からないけどね」
「あれは、蝶々……よね」
「そう。グラス・ウィング・バタフライ」
 月の乾いた大地に艶やかに咲く花たちは、どうも人間には有害なものらしい。月へ調査に向かった宇宙飛行士が何人か、美しい毒に侵されて死んだと聞いた。正確には花になったというべきだろうか。いいや、そんなことはあまり重要ではない。ぼくらは飛んでいきたかった。あの透明な蝶々のように。夜空を見上げる余裕もないこの地球から、ふたりきりで逃げ出したかったのだ。
「ぼくら、虫だったらよかったのにねえ」
「変なひと。でも、そうね。そうかもしれない」
「いっそあの花の毒に侵されて死ぬのもいいかも」
「ああ――来世はそうなりましょうか」


20140701 執筆

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