無知であることは罪である


 ふと、ずうっと昔、ぼくがまだ幼い頃、こっそりと祖母から聞いた話を思い出した。地球の周りには、薄い土星のような輪っかがあって、普段は秘密にしているそれはよくよく見てみると長い、とても長い蔦なのだ。その蔦を三周、ゆっくりと指でなぞった後、北極星の方向に五歩進むと、白昼に魔女が当たり前だとでも言いたげにすいすいと空を飛んでいる国が見つかるのだとか、そんな話。
「おばあちゃんの言うことなんて信じないの。ほら、ね、あのひとは少し……分かるでしょう」
「じゃあ、昼の魔女はいないの?」
「いないわ。いないに決まってるの。そんなことより、もうすぐ家庭教師の先生がいらっしゃるわ。準備しておいて、良い子ちゃん」
「……はあい」
 こんな話を母にしてみても、母は物憂げに祖母の方へ視線をやるだけだった。それはごく普通で当たり前の反応だったのだろうと、今では思う。ぼくだって、自分の子供からこんな話を聞かされたならば、母と全く同じ反応をするだろうから。
「おばあちゃん、何度やってもその国へ行けないんだ。それどころか、蔦の輪っかすら見当たらないよ。ねえ、どうやったらいいの?」
「ああ、ああ。大切なことを忘れていたよ。一番、大切なことを。失恋をしたときに……恋を失った瞬間さ、分かるね? 蔦の輪は見えるようになるんだ。いいかい、涙が溢れて洪水になる前に、だよ。蔦をなぞるんだ、ただし焦らず、ゆっくりとな」
「恋を失うって?」
「そのうち分かるさ」
 祖母の話はこうしてたまに思い出す。心のすみにそっとしまってあるのだ。埃と傷がつかないように、大切に、大切に。
 からん、と氷の溶ける音がした。ただ、こんな話は、小さなカフェのテラスで大切なひとと談笑をしているぼくには、全くといっていい程に関係のない話なのだが。少しばかり空を仰いでみると、魔女が澄んだ青の中を泳いでいた。それはまるでこう言いたげに空中で回転してみせた。
 こんな天気の良い昼下がりに、魔女が空を飛ぶことの何がおかしいって言うの?


20140701 執筆

 BACK 

- ナノ -