さて、きみの海は思ったより深い


 彼と一緒にいるときはいつも、波の音と潮の香りがわたしを包んでいた。彼は海が好きで、貝殻が好きで、砂浜の白色が好きで、ばかみたいな嘘を吐くひとだった。朝、波打ち際をぶらぶらと歩き回るのが、彼の小さくて大切な日課だったものだから、わたしは朝早くに目覚まし時計をセットしては、寝惚け眼をこすりながら彼の隣や後ろをついて回った。
「俺さ、海の中に行ってみたいんだよね」
「……水着もないのに?」
「いや、そういうことじゃなくて……クジラかシャチか、一番はイルカかな」
「つまり、乗ってみたいってこと?」
「ううん。なれたらいいなって思うだけ」
 ずっと前に、彼からクジラの骨≠セと言って渡された、あの白くて冷たい、触ると少しざらざらしていた小さな塊は、調べてみたらイルカの骨だった。それでもそれは、彼から貰った、確かにどこかで生きていた生き物の骨なのだ。そう思うと何だかとても捨てることができなくて、わたしはその小さなイルカの骨をコルク瓶に詰めて、どうしてだかいつも手放せないでいる。まるで呪いのようだ、そう自分に向けて言ったことさえあるほどに。
「もし……きみがイルカになったら、こうして話すこともできなくなっちゃうよ」
「そう?……そんなことないよ」
「どうして?」
「……なんとなく、そう思うだけ」
「へえ……きみっていつもそうよ。何かを言おうとして、それなのにいつも途中で逃げ出すの。……どうせ、遠くへ行きたいとか思ってるだけなんでしょ」
「……そうなのかもね」
 ある朝、彼は消えた。いつもと同じような日だった。わたしはいつものように、朝早く目覚まし時計をセットして、寝惚け眼をこすりながら彼がいつも立っている海岸へ足を走らせ、彼がまだ来ていないことに少しばかり違和感を覚えた。それでもわたしは、待っていれば彼はそのうちやって来るだろうと何の根拠もなく思い、砂浜に視線を落としていた。イルカの骨の入ったコルク瓶を撫でながら。
 ふと、視線を自分の足元へ持っていくと、そこにはコルク瓶の中の骨と同じくらいの大きさをした、白い塊が落ちていることに気が付いた。不思議に思ってそれを拾い上げた瞬間、なんとなく思った。もう彼に会うことはない≠フだと。どうしてだか、彼がどこか遠くへ行ってしまったことを、打ち付ける心臓の音が強くわたしに教えてくれていた。
 わたしは今まで肌身離すことが出来なかったイルカの骨の入ったコルク瓶を、自分の力の届く限り、海の遠くの方まで放り投げた。ただただ苦しい、瓶の底にへばりついたような感情が二度とこちらへ打ち寄せることのないように。
「イルカになったらさあ、俺、きみに魚をプレゼントしようかな」
「……それ、あんまり嬉しくないなあ」
 彼が消えてから、わたしの元に彼から近況を知らせるような手紙はなにひとつ、一通も届いていない。それはそうだ、わたしも彼も、お互いがどこに住んでいるのか、どこから来たのかも知らないままでいたのだから。
 あの日、彼が消えた日、わたしが拾った白い塊は後々、ただの石ころだったことが分かった。わたしはたまに、あの波打ち際を歩く。彼がいなくなった今でも。そこは時々、魚が砂浜に打ち上げられているのが目に映るだけの、静かな場所だ。


20140112 執筆

 BACK 

- ナノ -