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磨くか砕くかぼくの信仰



 物言わぬ鏡であることは容易い。
 ベロニカ・ベロネーゼは、また誰かが異国の香でも焚いたのだろう、どことなく煙たいクーデール寮の中を長い上着を翻して歩いていた。
 時刻はちょうど十七時を過ぎた頃。ローレアはすでに初夏を迎えつつあり、傾く一日の陽光が窓越しでも分かるほどに煌と輝き、それは廊下を歩くベロニカの横顔をも熱く照らしている。
 彼は傍目にも分かるほどに機嫌の悪げな顔で自室へと向かっていたが、視界に人影が映るたびに器用に表情を和らげ、すれ違いざまにはにこにこと人懐っこい笑みを浮かべながら、お疲れさまっす、と彼特有の吹けば飛びそうなほど軽やかな挨拶を相手へと発していた。これは彼の父親がしていた仕草の真似であり、ベロニカにとっては最早平常の癖であった。
 歩幅が広いのはみっともないが、けれども狭すぎるのもまた等しく見目が悪い。広すぎず、狭すぎずを保って歩く。ベロニカは常に中間を選んだ。それは彼の母親がしていた選択の真似であり、ベロニカにとっては当然の行いであった。人を模すというのはいつでも容易く、気楽で、堅実かつ賢明なものだと彼は齢十五にして既に悟っていた。
 ベロニカの両親であるベロネーゼ夫妻というのは、ダンサー界ではそれは有名なダンサー夫婦であり、現在も現役のダンサーとしてステージに立っている。彼らはその時代その瞬間に流行している表現を自らのダンスに取り入れ、常にキャッチー、それでいて目に新しく映るダンスをスポットライトの元で観客たちに披露している。そんな二人の一人息子として誕生したベロニカもまた、ダンサーとして華々しい未来を送ることを両親ないしファンに期待されていたが、けれども彼が選んだ道というのはダンサーという枠組みを超えた、ミュージカル俳優になる道、であった。
 ベロニカは、物語が好きだった。
 そして、その好き≠ェ、他者へと高らかに講説できる種類の好きではないことを、ベロニカは随分と幼い頃から理解していた。彼は果てしのない世界ではなく、両手の上に載る、狭く不自由な世界のことを愛していた。そこで生きる人間たちの思想、感情、現実ではまるで口にはしがたい泥沼に落ちる感覚、すべてを燃やし尽くす炎の熱さ、罪が燃えて灰が残るその虚しさがいっとう好きだった。美しいと思った。物語を読み耽っている間は、その中に没入している間だけは、どれほど醜い感情が湧き上がろうとも、愚かな発想が浮かぼうとも、罪過を感じることや劣等感を覚えることはない。物語は自由だ。何を思おうが、何を言おうが、物語である、という理由だけで彼らはすっかり赦される。羨ましい、と思った。その中に入ってしまいたくなるほど。その世界で、踊ってみたくなるほど。
 だから、彼はルニ・トワゾ歌劇学園に入学した。ルニ・トワゾのクーデールクラスに入ることを眼前の目標として、彼は踊った。これは彼が自由に、不自由な世界で踊るための第一歩であった。
 だと言うのに。
 怒りも苛立ちも焦燥もほとんど覚えない、安全で茫漠とした日々を送っていたベロニカは、ここ、ルニ・トワゾ歌劇学園に入学してからというもの、そのすべての感情に振り回されてばかりであった。
 狙い通りにルニ・トワゾのクーデールクラスに入学したベロニカは、最初のダンスレッスンにて、目の前に提示された覚えるべきダンスというものを、たった一回見ただけで完ぺきに覚え、次の瞬間には踊りこなしてみせた。普通であれば、彼が通っていたダンス教室の講師やクラスメイトであれば、ほう、と感嘆の声を洩らして両手を打ち鳴らすところである。ベロニカはその声や音をすこぶる良い姿勢で待っていた。彼はつい、忘れていたのだ。
 ここは決して、普通、ではあり得ないということを。
「──お前は鏡か?」
 彼の担任であるガーネット・カーディナルは、顔色一つ変えず、コピーダンスを披露したベロニカに対してそう言い放った。
「少しは自分で考えて踊れ。同じ人間は舞台に二人も要らないだろう。ベロニカ・ベロネーゼはどこにいる? ここはダンス教室じゃあない」
 それは、ベロニカにとっては頭をかち割られるのに等しい衝撃であった。彼は担任教師の言葉にみるみる内に表情を変え、驚き、怒り、苛立ち、そしてまた怒りをその整った顔に取り繕うことができずに浮かべ、けれどだからと言って何を言い返すこともできずに低く唸った。ガーネットはベロニカの心臓に躊躇いもなく片手を突っ込み、オブラートで保護されていた鏡面を引っ張り出しては、その薄い膜をびりびりに引き裂いてこう言ったのだ。
 こんなものはプライドでもなんでもない、と。お前が今まで誇りと呼んでいたものは、字すらろくに書けない薄っぺらな紙切れだ、と。
 少なくとも、ベロニカにはそのように聞こえた。彼は足元から沸々と感じたことのない熱が頭まで上ってくるのを感じた。そんなことは生きていて初めてだった。上手くできたのに賞賛されない。この場にいるどの新入生より優れたダンスができたのに、持て囃されることがない。どう波風立てずに謙遜をするか、嫌味なく礼を言うか、そういったくだらない物事に頭を悩ませることがない。何を言うこともできない。どうしてか反論の余地がない。身を躱すことすらできやしない。ならば、事実。事実。事実ではないか! 彼は分かり易く唸り声を上げ、片方の足を踏み鳴らした。捨て台詞はこうであった。
「い、い、言い方ってもんがあるでしょう! そっちの方がよっぽど無機物っすよ!」
 さて、そんなベロニカ・ベロネーゼは、つい先週、ルニ・トワゾでの春公演を終えたところである。
 クーデールは三年のマルヘル・ブルーナをレイヴン、二年のヴェニット・ヴェローナをスワンに据えた公演を行ったが、新人公演同様に名前なしのクロウを演じたベロニカの心中は、やはり新人公演同様に大荒れであった。そも、春公演はともかくとして、新一年生が主演を務める新人公演ですらレイヴンに抜擢されなかったのだ。誰かの後ろで踊ったことなど、生まれてこの方あり得なかった。神童と称えられたあの日々の栄光は一体どこへ? これではあまりに不自由で、何もかもがままならない。踊る脚すらもつれてしまいそうだ。実際、誰をも模さないように初めて目を瞑って踊ってみたときには思いきり転んだ。ガーネットのダンスを模すと叱られるため、クラスメイトのダンスを模してみれば、前者の比ではない勢いで烈火のごとくだめ出しをされ、目隠しをつけられて踊らされる始末。果てには、
「目隠しをしてスワンと踊り狂うクロウか。盲目の比喩としてアリだな。お前、今回の舞台は目隠しをつけて踊れ」
 である。
 ベロニカは担任の横暴な無茶振りに心底辟易していたが、ルニ・トワゾに入学してから頭角を現しはじめた反骨精神により、目隠しをしたまま本番の舞台で陶酔と倒錯の入り混じったダンスで名無しのクロウを演じてみせていた。公演後にはガーネットに今まででいちばん良かったと背中をばしばし叩かれたが、それすらベロニカには過去への否定に聞こえた。彼は目を瞑る。見えなくては、小説も戯曲も詩集も脚本も読めやしない。彼は目を開けた。
 そうしてベロニカは、溜め息を吐きながら自室のドアを開ける。
 そのまま一直線にベッドを目指し、ふかふかとしたそこにうつ伏せに飛び込みながら、ふと密やかかつ隠れる気のない視線を感じて、彼は枕に埋めた顔をそちらへと向けた。
「お二人とも。来てたんすね」
 視線の先には、部屋の一角にある小上がり畳の上に靴を脱いで座っている二人分の人影があった。
 ヴェスタ・ヴェローナとヴェニット・ヴェローナ。彼の一つ先輩に当たる生徒である。学園唯一の双子の兄弟である彼らは、ベロニカが他者の動きを複写できると知ってから、よくこうして二人でベロニカの前、或いは両脇から挟むようにして現れることが多かった。よく互いに互いの変装をし合っているヴェローナ兄弟は、ベロニカが学園に入学してからというもの、彼を引き込んで頻繁に三つ子ごっこを楽しんでいるようだった。そんな二人はベロニカの方を見て、全く同じタイミングでそのテラコッタの目を細めた。
「ええ、お邪魔していますよ、ベロネーゼ後輩」
「ああ、鍵が開けっ放しだったよ、ベロネーゼ後輩」
 鍵、と言われてベロニカはもぞりと身を起こした。見れば、ヴェニットがちょっとだけ悪戯な表情でキーリングを人差し指に通して、そこに繋がっている鍵をチャリ、と揺らしていた。それを見たベロニカは上着のポケットに手を入れて、
「うわ、まじっすね。最近だめなんすよ、ぼうっとしてて」
 と、なんとなく苦い顔をしながらへらりと笑った。そんなベロニカに対してヴェスタとヴェニットはまなざし同士だけで顔を見合わせると、ヴェスタは右手の人差し指を、ヴェニットは左手の人差し指を口元に当て、互いを映し合うふうに首を傾げる。
「……ああ、確かに。この前のうわ! びっくりしたっす!≠ヘ演技だったでしょう。いつもよりタイミングが遅かったですからね」
「うっ」
「まっ平らなところで見えない何かに躓いて転んでいたのも見かけたな。ふふ、ベロネーゼ後輩も舌打ちなんかをするんだね」
「ううっ」
 二人の穏やかで柔らかでちょっぴり楽しげかつ冷酷な摘発に、すっかり暴かれてしまったベロニカは両手で顔を覆って枕に力なく倒れた。お恥ずかしい限りっす、と小さく呟いて、けれども指の隙間から二人の方を見る。ヴェローナ兄弟はくすりとした。そっとしておくべきかな、どうでしょう、と二人の視線が交差し、ヴェニットがくるりとベロニカの部屋のキーリングを回す。それから、彼の気遣いめいた好奇心が、まなざしとなってベロニカの方を向いた。
「ところで、ベロネーゼ後輩。これはなんだい?」
 そう問いながら、ヴェニットはキーリングに鍵と一緒に飾られている、大ぶりでふかふかとした動物型のマスコットを指でつついた。ぬいぐるみ状のそれは、パンダと呼ぶにはウサギに近く、ウサギと呼ぶにはパンダに近い、どちらとも取れる不可思議な見た目をしており、黒い男物の唐服を着て、白い花の飾りを耳元につけている。最早オスなのかメスなのかもよく分からない。ベロニカは枕からがばりと身体を起こし、ヴェローナ兄弟のいる方に向けてベッドの端に腰掛け直した。
「デンデンす!」
「デンデン」
「そうっす。中国の方で人気がある恋愛小説があるんすけど。それのヒロインが趣味で集めてる、彼女お気に入りのゆるキャラっす」
「ゆるキャラ?」
「地域とか企業とかが独自に考えた、オリジナルのマスコットキャラクターのことすね」
 話す一語一語に熱がこもり、瞳まできらきらと幼い子どもさながらに輝かせるベロニカに、ヴェニットは息吐くような笑い声を洩らす。そうして彼はヴェスタの方へと顔を向けると、また一つ賢くなってしまったね、とゆるやかにウェーブしている髪を少し揺らした。ヴェスタも微笑みながら頷き、デンデンと呼ばれたパンダウサギのほっぺたをむい、と摘まんでいる。
 そうしてヴェスタは、ふと思い出したみたいに背後をちらりと見やった。
「それにしても、ベロネーゼ後輩。よくこの量の本をご両親から隠し果せていますね」
 小上がり畳の右手と背後には、天井までびっちりと本が埋まった壁面本棚が設えられている。そこにはベロニカお気に入りの本──恋愛小説が主である──が所狭しと収納されており、ここでならば彼はいつでも心置きなく物語の世界に没頭することができた。彼は実家で秘密裏に集めていた小説をすべてルニ・トワゾの寮に持ち込んだのだ。彼は両親に向かって、恋愛小説が己の最上の嗜好品である、ということがどうにも言い出しがたく、今の今までその旨を伝えたことも匂わせたこともなかった。
「誤魔化したり隠したりするのが得意すからね。まあ、褒められたことでもないっすけど……」
「ここ以外ではそうかもね。でも、ここでなら褒められたことだよ、ベロネーゼ後輩」
「そうですとも。胸を張るといいですよ、ベロネーゼ後輩」
 そのように一切悪びれない二人の言葉に、ベロニカはお二人とも褒め上手すね、と肩をすくめた後、いや褒め上手なのか? と首を傾げてなんとはなしに本棚の方を見た。目に映るのは本から本から本。確かに入学前までの自分は、よくもまあここまで物量のあるものたちを両親から隠し抜いたものである。彼はヴェスタの方を見、それからヴェニットの方へと視線を移した。
「隠してる内に、こおんな膨大な量になっちゃって」
「おやまあ。秘密とは一様にしてそういうものですよ、まさか知らずに隠していたのですか?」
「そうだね。内証とはまさしくそういうことだよ、まだまだベロネーゼ後輩もお子様だね」
 ベロニカは少し呻いて空を仰いだ。部屋ごとに壁紙の色が異なるクーデール寮では、ベロニカの空は小豆色をしている。彼は不服そうに目を細め、心臓の中から引っ張り出された鏡面を天井に見た。それを包み隠す膜はもう存在せず、ベロニカはその目に見えるものをなんでもかんでも映し出してしまう鏡の扱いに心底困っていた。
「……鏡って、そんなだめなもんすかねえ」
 戸惑い、傷心、疑問。ベロニカがふと呟いた言葉には、隠し立てもできずにそのような感情がありありと乗せられていた。
 だって、事実そう思うのだ。鏡で在ることは悪だろうか? 自分たち役者には、必要不可欠な存在ですらある鏡で。自分のような芸当は、そう易々とできるものではない、という自負もベロニカには未だあった。生まれたときから踊るためにある身体だ。ああ、いや、それではいけない。踊るだけではいけない。自分がなりたいのは、役者だ。ミュージカル役者。踊りながら、演じなければならないのだ。演じる。演じる? どうやって? 脚本を読むだけではだめだ。踊るだけではだめだ。それは事実だ。ずっと、事実だ。ああ、ああ腹が立つ。
 それからややあって、靴を履いていないぬるい足音がすぐそこに聞こえた。おやおや、うんうん。そうしてより近くに聞こえた、似ているけれども聞き分けることはできる兄弟の声。ベロニカは天井から視線を下ろした。
「お悩みですか、ベロネーゼ後輩」
「これはお悩みだね、ベロネーゼ後輩」
「も、お悩みもお悩みっすよ。俺、どうしたらいいか分かんねえですもん」
 小説の泥沼ではなく自らの沼地に足を踏み入れてしまったベロニカは、言いながらおそろしく長い溜め息を吐いた。気が付けば、そんな彼を挟むようにして右手にヴェスタ、左手にヴェニットがベッドの上に腰掛けていた。二人はベロニカ越しに顔を見合わせて、息を合わせたみたいにぱちりと瞬きをする。
「鏡ですって、ヴェニット」
「そう、鏡なんだよ、ヴェスタ」
「鏡らしいすよ、ベロネーゼ後輩は」
 ベロニカは緩くかぶりを振った。そのどうも意気消沈しかけているらしい後輩の瞳を覗き込むふうに、ヴェローナ兄弟は双方から首を傾げる。
「ですが、ベロネーゼ後輩。鏡にもいろんな種類がありますよね」
「そうだよ、ベロネーゼ後輩。装飾が美しいものから、無駄の一切ないものまで多種多様だ」
 ベロニカは視線で柔く弧を描いて二人のことを視界に映し、目が合った方から先に片手の人差し指が上がるのを見た。二人はそうっと目を細めながら、ベロニカの眼前でゆるゆると立てた人差し指を振ってみせる。
「それに、磨いてあげればぴかぴかと宝石のように輝きます」
「割ってあげてもぎらぎらと宝石のように輝くね」
「な、なるほど……」
 んん、と唸って、ベロニカは両膝の上に頬杖をついた。もぞもぞと人影が動く気配が両脇にあるが、毎度のことであるので彼はそのままぼんやりとヴェローナ兄弟の言葉を頭の中で反芻する。様々な種類の鏡。装飾が美しいものから、無駄の一切ないものまで多種多様な鏡。磨けばぴかぴかと宝石のように輝き、割ってやればぎらぎらと宝石のように輝く。うん、そう考えると、思った通り鏡というのも存外悪くないものではないだろうか。なるほど、なるほど。軍曹のやつめ、やはり法螺を吹いて……
「でも、曇りきった鏡を磨くのは手間がかかります」
「うん、鏡だってそう簡単には割れてはくれないよ」
「──え、ええ?」
 なんとなく気分が浮上してきたベロニカに対して、ヴェローナ兄弟は当然のような笑みをその瞳に湛えながら、いつの間に手にしたのだろうクッションを抱えて、
「だから、ベロネーゼ後輩。貴方が」
「つまり、ベロネーゼ後輩。君が」
 片やヴェスタは彼に左手を差し出し、片やヴェニットは右手で招く仕草をした。
「どう在るのかを定め」
「何を映し取るのかを決めなくては」
 ぐ、とベロニカの言葉が詰まる。最早溜め息も呻き声も出てこなかった。彼は差し出されたヴェスタの片手に自分の右手をそっと乗せ、おやなんだか少しスワン気分だ、と思いながら、手招きをしていたヴェニットの方に自身の左手を差し出し、ならばこちらはレイヴン気分、などと内心だけで密やかに感じた。
「自分で決める。そういうもんすかね、やっぱり……」
「おや、難しいですか?」
「まあ、難しいのかな?」
「難しいすね。俺、自分で決めんのが苦手なんすよ。ものすごおくね」
 今度こそ、ベロニカははあ、と溜め息を吐き、ついでに小さく呻きもした。一呼吸分ほどの間。ヴェスタとヴェニットは顔を見合わせなかった。
「……ベロネーゼ後輩は何故、ルニ・トワゾに入学したのですか?」
「え?」
 想像もしていなかった質問に思わず首を傾げる。彼はヴェスタとヴェニットの顔を交互に見やってから、膝の上に感じるふかふかとした感触に視線を落とした。今しがたまで二人の抱えていた、ぱんぱんに綿の詰まったクッションが積まれている。ベロニカはその上に顎を乗せて、喉の奥から名状しがたい音を出した。
「う……ううん、そっすねえ……。ええと、俺、ダンスが好きでしょう?」
「そのように見えますね、とても」
「そんでもって、小説を読むのが好き」
「そのように見えるね、すごく」
 ベロニカは眉を下げて、こくりと頷いた。それから二人と繋いでいる両手を柔く上下に揺らして、困ったみたいに小さく笑った。
「どっちか選べなかったので、どっちもいっぺんにできたらお得かも?……って。だからっすね、強いて言うなら」
 発して、彼は両手を離し、クッションを二つ抱えながらぱったりとベッドへ仰向けに倒れ込んだ。ヴェスタとヴェニットは視線を交差させると、そんなベロニカに対して可笑しそうに淡く笑い声を立てた。
「──選んでいるじゃあないですか」
「そうとも。選んでいるよ、ベロネーゼ後輩」
「え」
 ベロニカは彼らの言葉に、ぱちりと瞬きを一つした。テラコッタの双眸が二つ分、上からこちらを覗き込んでひっそりと弧を描いていた。
「どちらかは選べないから両方欲しい。だからルニ・トワゾを選んだ。ほら、そうでしょう?」
「どちらかでは満足できないから両方欲しい。だからルニ・トワゾを選んだ。ほら、そうだろう?」
 それはどうにも心臓を手のひらの上に乗せられて眺められているような心地だった。息や言葉の前に何かまた別のものが詰まる、気恥ずかしさとむず痒さと居たたまれなさが程よく混ぜ合わされた気分。ベロニカは抱えたクッションですす、と顔を隠し、本日二回目のお恥ずかしい限りっす、を弱々しく発した。
「ふふ、欲深くて素敵ですね。ねえヴェニット?」
「ああ、わがままで可愛いよね。なあヴェスタ?」
「……それ、褒めてるんすか?」
「ええ。とても、とてもですよ」
「ああ。すごくだよ、すごく。ここではそれが正義なんだ」
 そんな捻くれて詭弁めいた正義の話があるものだろうか、と考えて、しかしベロニカは物語の中でなら十二分にあり得るだろうな、と思い直した。彼はゆっくりと身を起こして、ちら、とヴェスタの方を見る。わざわざ心臓を取り出した理由をベロニカのまなざしが問うていた。ヴェスタはにっこりとする。
「ベロネーゼ後輩。そういうことでしたら、いっそのこと全部になったらよろしいのでは? でしょう、ヴェニット」
「うん。ルニ・トワゾを選んだときみたいに、全部を選んだらいいんじゃないかな。だろう、ベロネーゼ後輩」
「……全部?」
 おうむ返しするベロニカに、二人は確かに頷いた。そうして彼らはそれぞれ片手の指先を使って、空中に一つの鏡を描いてみせる。ベロニカはおそらく自分にだけ見えるその鏡を覗き込んだ。
「そう。たとえば、この世で最も美しいものを常に映し出す鏡」
「そう。たとえば、この世で最も醜いものを常に映し出す鏡」
「どんなものも映し出す鏡」
「そして、どんな形にもなれる鏡」
 鏡に映っていたのは、一体誰だろう。ヴェスタではない。ヴェニットでも。ましてや担任であるはずもない上、他のクラスメイト、先輩たちとも違うようだった。少女? 鞄につけているキーホルダーや、スマホケースにウサギのようなパンダのようなマスコットが描かれている。あれはまさしくデンデン! 少女がこちらを向く。あの小説のヒロインだ。いいや、けれども、彼女≠ナはない。少女は踊り出し、誰かの手を取った。もちろん主人公の青年である。しかし青年もまた、彼≠ナはない。青年もこちらを見た。ああ、見知らぬ、それでも見憶えのありすぎる顔。つまりだ。つまり……
「──映し出すのは、物語の中にいる俺?」
「ええ、貴方がそう思うならば」
「ああ、君がそう望むのならば」
 微笑む二人の描いた鏡にベロニカは飛び込み、クッションを放り投げては、ベッドから立ち上がった。
「面白そう!」
 そうか。そうか、つまり、物語の中に入ってしまえばいい! いつも通り、物語に誘われ、焦がれ、倒錯し陶酔し、招かれるままに滑り落ちてしまえばいい。そこで踊ってみればいい。自分はずっと、ずっとそうしたかったのだから。限界まで自分を削ぎ落とし、別人となり、その不自由な身体でその者が思うように踊るのだ、不自由なまま! それを映し取る。それを完ぺきに模すのだ。そこにきっと、ベロニカ・ベロネーゼは存在する! 彼は鏡の中で少女がしていたようにふわりと回り、青年がしていたように一礼をした。
「ヴェスタ先輩、ヴェニット先輩。俺にもなれますかねえ」
「なれますよ、ベロネーゼ後輩」
「なるんだよ、ベロネーゼ後輩」
「練習です」
「そうさ、練習」
「……やっぱ、そうなるんすよね」
 ヴェローナ兄弟の無慈悲な通告に、ベロニカはがっくりと肩を落としながら、それでもちょっとだけ楽しそうにくつくつと喉を鳴らしていた。小上がり畳の上に取り残されていたキーリングをチャリチャリと回して、上機嫌に鼻歌を口ずさむ。そして、それから。
「ところで、ベロネーゼ後輩」
「もちろん、ベロネーゼ後輩」
 それから、視線は交わる。二人はベロニカに向かって、まなざしだけで首を傾げたようだった。
「貴方のそれは、俺たちも映してくれる鏡でしょうか?」
「君のそれは、私たちも映してくれる鏡だろうね?」
 ベロニカはその問いかけに、何も言わずにひっそりと自身の瞳に弧を描かせた。そうして彼はベッドに腰掛ける二人の間に立つと、返事の代わりにヴェスタに向かって左手で招く仕草をし、ヴェニットには右手をそっと差し出したのだった。


20210516 執筆

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