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神様不在・傷みの早い天国



 扉を開ければ別世界。
 と、いうのが彼らの常であったはずだった。
「あれ?」
 なんてことはないマンションの一室、その玄関である。そんな特筆すべき点もない部屋の主であるガーネットは、ふんふんと鼻歌を歌いながら上機嫌に扉を開けて、およそ人が歩く用には作られていないヒールの高さをしたパンプスを脱いではぽい、と靴箱の前に放った。そして、それを慣れた手つきで拾い上げ、靴箱の中にきちんと揃えて仕舞ったオリーブは、部屋に上がって早々に疑問の声を洩らす。
「先生、部屋……どうしたんですか?」
 オリーブの問いかけを聞いているのかいないのか、ガーネットは小さく唸った。そうしながら、電気のスイッチを探して彼の手は壁を彷徨う。ぱ、と光が灯った。眩しい。ガーネットは眉根を寄せ、照明を薄明かりと呼べる程度まで落とした。
「あ、お邪魔します」
「はいはい、お邪魔上等」
 くあ、とあくびを噛み殺して、裸足のガーネットはつるりとしたフローリングの上でゆるゆると歩を拾った。とろ火で煮られているような身体に、床が冷たくて気持ちが好い。これだからまったく日本の素足文化というのは最高である。
 なあ? と彼は、自分のすぐ後ろをついてきているオリーブに顔を向けた。一体何が、なあ、なのか分からないオリーブは首を傾げ、しかしそのまま頷いてみせる。相手の様子に、ガーネットは満足げに紅い目を細めた。それから壁に沿わせている片手を少し浮かせて、彼の指先が壁の上を踊る。
「……先生、起きてます?」
「ああ、起きてる起きてる」
 ほんとかなあ、と口の中で呟いているオリーブを尻目に、短い廊下の果てにある開けっ放しのドアをくぐって、ガーネットはもう随分と着崩していた上着を宙に放った。けれどもオリーブの片手がそのかわいそうな上着を地に落ちる前に受け止めて、自分のものと一緒にひとまずフックハンガーへと掛ける。
 まるで現役教師とは思えない自堕落を短時間に撒き散らし、まるで人気舞台役者とは思えない小さなマンションの一室で、ガーネットは未だに鼻歌を口ずさんでいる。彼が歌うそれは先ほど二人が食事をしていたレストランにて流れていたものだったが、帰路に就くまでの道中にて散々アレンジをされた曲は最早原型をほとんど残してはいなかった。
 彼はオリーブの手を勝手に拝借し、その場でてきとうに、極めて美しく一回転をする。踊っているときは常に酩酊しているようなものだ。ガーネットはくらくら鳴るこめかみが導くままに、背後にあるシングルベッドに沈もうとした。手を離すのを忘れていたから離す。しかし、どうも身体は重力に逆らっているらしく、柔い衝撃はいつまで待っても身体を包んではくれなかった。
「とりあえず水を飲んでください、先生。脱水になります」
 言われて、ガーネットはようやく重力に逆らっているのが自分ではなく相手の方であることに気が付いた。思えば、腰にオリーブの片腕が回されている。薄明かりの中で、心配そうに眉を下げた相手の緑色の瞳が光っていた。確かにこれくらい近付けば顔はよく見える。しかし部屋が暗い。これは一体誰の仕業だ? ガーネットは半ばぼんやりとオリーブの瞳を眺め、そういえば、と思う。そういえば、今日食べたオリーブオイルのバゲットは美味かったな。他に何食べたんだっけ。オリーブの勧めてくる料理は大抵美味い。こいつの美味しいは信用できる。そう、ローストビーフ、赤ワイン、バゲット、赤ワイン、ローストビーフ、赤ワイン、赤ワイン、赤ワイン、バゲット、赤ワイン……
 ああ、返事をするのを忘れていた。水?
「そりゃごもっともだな」
「あ。……常温のにしますか?」
「煮るなり焼くなりお任せしますよ」
 オリーブはこくりと頷いて、うっすら笑んでいる相手をベットの端に座らせた。
 そうしてすこぶる良い姿勢で寝室を出ていくオリーブの背を眺めながら、ガーネットはなんの変哲もない白い天井を見上げ、それから腕組みをしてベッドから立ち上がった。なんとなく居心地が悪そうに部屋の中をうろうろと歩いて、意味もなく一回転。踊るには狭く、一人でいるには広い部屋だ。服でも紙でもばらまいてしまえば、もう少し眠りやすくなるのに。ガーネットは腕の上で、そのつまらない衝動を抑えるために指先を踊らせた。彼は目を瞑る。足音が聞こえたから、すぐに開けた。
「いやな、最近気付いたんだよ」
 そしてオリーブが寝室に戻った瞬間、いつかの質問の答えをガーネットは唐突に切り出した。
「はい」
「帰らなければ部屋散らからなくね? って」
 グラスの水を受け取りながらそう言い放ったガーネットに、オリーブはちょっとだけ変な顔をした。そんな相手を視界に映しながら、ガーネットは渡された一杯の水をごくごくと飲み干す。味がなくて美味い。やはり死ぬ前に飲むなら水だろうな、と思う。これならきっとなんの未練も残らない。味があってはいけない。目の前のオリーブは、お人好しの心配性の顔をして首を傾げていた。
「……ここのところ、どこで寝泊まりしてたんです?」
「楽屋」
「嘘でしょ……」
「嘘だ。普通にクーデール寮で寝てる」
「ええ、ほんとに寝てます?」
「ダリアよりは随分寝てる。いま何時?」
 比べる相手としてどうなんだろう、と肩をすくめながら、オリーブはちらりと手首の腕時計を見た。
「……十二時ですね」
「それは大変。お子様はおやすみするお時間だな」
 黒紅色の遮光カーテンには、月明かりも透けてくれない。中身のなくなったグラスは間接照明のぬるい橙を輪郭に宿すばかりで、もう身体を潤す役には立ちそうもなかった。ガーネットはグラスの表面を爪で弾く。キン、と小気味良い音が鳴って、それは思ったよりも狭い部屋の中で響いた。
「寮の部屋、大丈夫なんですか」
「大丈夫ではない」
「どれくらいですか?」
「全く大丈夫ではない、という程度だ」
 空のグラスをゆらゆらと揺らしながら、ガーネットは再びベッドの上に腰を下ろした。寝具を買い換えてからほとんど使われていないそれは、以前オリーブとその親友──だとガーネットは思っている──であるマルヘルが整えたままの状態となっている。
「……俺、行きましょうか?」
「いーや、結構。お気持ちだけで。お前、自分の休みはもっと有意義なことに使えよ」
 と、言うのも、数か月前にここ、ガーネット宅にて季節外れもいいところの雪崩が発生したのだ。
 脱いだものは脱ぎっぱなしのまま、届いたものは届きっぱなしのまま、買ったものは買いっぱなしのまま、貰ったものは貰いっぱなしのままを学生時代から貫いているガーネットの散らかし癖が病的なものであることは、彼の教え子ならば全員知っている周知の事実であったが、まさか部屋の中で雪崩が起きるほどだとは思っていなかったのだろう。物が崩れて家から出られなくなった旨を聞いたオリーブは大慌てで彼の家まで駆けつけ、自分の休日を丸々使ってガーネットの部屋の片付けを行った。これは一人では手に負えないと踏んだオリーブに突然呼び付けられた、その日たまたま休みが被っていた憐れなマルヘルも同じくである。
 そしておそろしいことに、部屋はほんとうに見違えるほど綺麗になった。本来あるべきところ──それはガーネットの部屋の中だけにはとどまらず、オリーブの首元であったりマルヘルの懐であったりもした──に収まることのできた彼の私物たちも諸手を挙げて喜び、心なしか部屋中の空気さえ澄んだような気もして、三人はその日大いに祝杯を挙げ、夜を明かした。当然ガーネットの奢りである。
 しかし、ルニ・トワゾの鬼軍曹と呼ばれ、劇団ロワゾの非常識暴君と呼ばれるガーネット・カーディナルも一応は人の子である。役者として多忙を極めている自らの卒業生を休日に呼び出し、挙げ句の果てに部屋の片付けまでしてもらう、というのは明らかに教師がやることではない上、年上の男、大のおとながやることでもない。と、思う。思うので、ここ最近は家に帰らないことで物理的に部屋が散らかるのを防止していた。それは、オリーブとマルヘルが掃除をしてくれたこの部屋に限った話だったが。
「……けど、先生」
 ルニ・トワゾの寮部屋の惨状を思い浮かべているガーネットに、オリーブは耳の垂れた仔犬のような顔をして呟いた。
「ん」
「怪我をしたらどうするんです?」
 それから、少しの間。
「踊れなくなったら?」
 彼はガーネットの座る場所のすぐ隣に自分も腰掛けると、呼吸ほどの自然さで相手の目を覗き込んだ。ガーネットは静かに呼吸をし、睫毛を伏せるふうにしてオリーブの目を見る。薄明かりの中、オリーブの瞳はより鮮やかな緑を湛え、けれどもガーネットの瞳は普段よりもくすんだ茶めいた紅を宿していた。
 それからガーネットはふっと息を吐き、糸の切れた人形のようにぱったり後ろに倒れた。目を瞑り、喉の奥でくつりと笑う。
「……死ぬなあ」
「でしょう」
「でも、生きてる内は踊るさ。心臓だけ動いてればいいんだから」
 ガーネットは小さく笑って、弧を描く瞳でオリーブのことを見上げる。自分の手首を触ると、脈がとくとくと打っていた。だから、シーツの上に鼓動のリズムを指先で刻む。そうする内に段々と速まるそれに、ガーネットはまた鼻歌を口ずさんだ。聞き覚えのある歌に、オリーブは瞬く。
 ガーネットは気が付くとベッドから起き上がり、夜の中に溶けていた。薄明かりは暗やみに変貌し、オーク材のライト付きドレッサーは美しい装飾を施されたマホガニーへ、狭いベッドは天蓋付きの広々とした寝台へ、遮光カーテンは艶やかな紫をベルベットに宿しながらも、窓と共に開け放たれている。その窓縁に、ガーネットは座っていた。風は冷たく、彼の肌を白く染めた。その黒と白の中で、瞳だけが煌々と赤く輝いている。彼はオリーブを手招きした。おや、そんなところにいたのか、エスアイアム。オリーブは赤い貴婦人のドレスを纏って、伸ばされた手を取った。やっとお気付きになったのね、わたし、もう随分と待ちましたわ。
「──そうだ、オリーブ。頭がまともなら読んでくれ」
 ややあって、オリーブの腰を支え、半ば好き勝手に彼をエスアイアムとして踊らせていたガーネットは、相手を引き寄せながら悪魔の契約書にしては分厚い紙束をオリーブの眼前に突き付けた。彼はまるで喉元にナイフでも突き付けられたような表情を一瞬見せたが、けれどもその刃を避けることはしなかった。
「これは?」
「次の季節公演の原案。クーデールの」
「ああ、新作のラブレターですね」
「そういうこった」
 ガーネットはパチ、と指先を鳴らした。爆ぜる火花の音に、少しだけぼんやりとしていたオリーブははたとして紙束の表紙を捲る。
 それから、インターバルだ、と言って、ガーネットはカーテンの閉まった窓、狭いベッドと機能性だけのドレッサー、薄明かりの灯る小さな寝室を出て、キッチンの方へと向かった。待っていればいいものを、背後には当然のように原案書を抱えたオリーブがついてきている。キッチンの照明を、文字が読むのに問題がない程度に明るくして、ガーネットは冷蔵庫の横に並んでいる常温のペットボトルをグラスにも注がずそのまま飲んだ。
「……引退したらさあ、原案作家をやんのも悪くないよな」
「え、」
 そして、しばらくののち、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けて、黙々と原案を読んでいたオリーブが、突如発せられたガーネットのその言葉に顔を上げた。
「え?」
 オリーブは不思議な表情をしていた。それはなんと形容すべきだろう。まずはじめに、自らの聞き間違いを疑う顔。次いで、まさか、と視線が言った。信じられない。それから、疑問、疑念。先ほどまで柔く弧を描いていた唇は引き結ばれ、見開かれた目は辺りの音を消し去っている。時折見せる泣き出しそうな顔には程遠い表情。混沌だ。オリーブは言葉もなく、首を傾げた。表情だけはまるで傾げていなかった。きっと、おそらくそれは……
「なんだよ、その顔は? 踊り方って言っても色々あるだろ」
 許さない、と言っていたのだろう。
 ガーネットは急激に喉が渇くのを感じて、手元の水を一口含んだ。そうしてなんだか身ぐるみが剥がされたような気がして、肌寒さに息を吐く。視線は最早見向きもされていない原案書の方へと向けた。果たして今、どちらがナイチンゲールの衣装を着ているのかを彼は認めたくはなかった。
「三年のクーデール生は全員ロワゾに入るつもりらしい。面白い連中だぞ。コンテンポラリーが異常に得意なレイヴンと、尖ったダンスをするスワンもいる。きっとすぐにお前と一緒に踊れるようになるさ。ふふ、その絵面はお涙が出るだろうな」
 にっこり笑んで、ガーネットは細めた瞳でオリーブの方を見た。目は合わせない。追いかけられるのが分かっていたから、彼は睫毛を伏せて水を飲んだ。
「先生」
「ああ」
「自信、ないんですか」
 静かな声色に、少しだけ目を瞑る。頬の辺りに血飛沫が舞う心地がした。ほら、やっぱりナイフを持っていた。インターバルだと伝えたばかりだというのに、自分のかわいい教え子は一体いつの間に言うことを聞かなくなったのだろう。エスアイアム、貴様は幕間でナイフを振り回すような淑女だったのか。知らなかったよ。それとも貴様こそが秘匿の血族だったのか。だとしたら、俺は? ガーネットは目を開けて、自身の口元に折り曲げた人差し指を当てた。
「……ところでオリーブ、これは夢か?」
「え? いえ、現実ですよ」
「それはおかしい。オリーブは俺にこんな厳しいことは言わない。だからこれは夢だろう」
 そう言いきって、ガーネットはペットボトルの水を一気にすべて飲み干した。夢でないならなんだと言うのか。彼は空のペットボトルをくずかごに放って、完ぺきなごみ捨ての音を立てたそれに頷いた。思えばすべてが願望めいているじゃあないか。自分の部屋が片付いていて、そこに誰かがいて、一緒に踊ってくれるだなんてあり得ない。扉を開けた瞬間からすっかり別世界、今日のすべては夢の話だった! いつだって舞台へ無様にしがみつく俺に、降りることを許さない、と言う役者など。えいえん一緒に踊ってくれる相手など。それがましてや、オリーブであるなど! まさか。まさかまさかまさか。ああ! インターバルなどもう止めだ! ガーネットは喉の奥で低く笑った。夢であるなら、逃がす道理もない。
「──俺は自分にそこまでの才能がないのを知っているだけだ。化け物になりきれないことも」
 ガーネットは薄ら笑いを脱ぎ捨てて、ただ一人に聞かせる台詞としてそう発した。ダイニングテーブルは彼がその上に滑らせた手のひら一つで晩餐会の様相を成し、流しテーブルの上には真っ白なテーブルランナーが敷かれる。肌寒さなどはもう彼の内には存在せず、ただ身体の中には血がどくどくと脈打つ感覚だけがあった。エスアイアムがこちらを向く。気付けばナイフはこちらの手の中に戻ってきていた。
「自信があったことは今までに一度もない」
 調理場は消え去り、代わりにそこには無数の晩餐と燭台が並べられた、巨大なテーブルが設えられていた。嵌め殺しの窓は、華美な彫刻の施された鏡へ。その下では神話的な装飾が彫られた暖炉で怪しい火が踊っている。
「だから。演れる、と確信できるまで、練習し続けるだけだ、いつも」
 彼はふわりとマントルピースの上に腰掛けると、そこに飾られていた十字架に磔にされている神様の置物を床に叩き付けて粉々にし、アミュレットは自らの手首に飾って、銀の杯に満たされている聖水はくつくつと笑いながら火にくべた。それはとてもよく燃える水だった。
「俺が演劇の化け物で、目を瞑れば勝手に役が下りてきて、常に自信の塊みたいに踊れたんだとしたらどんなに楽だったろうな」
 自分の方をじっと見つめるエスアイアムの周りをぐるりと歩いて、彼は再び火の舞台の前へと戻る。そうして彼はマントルピースの上に最後に残された写真立てを取り上げると、そこに映っている無表情な一族をつまらなそうに眺めた。エスアイアムは何も言わなかった。
「でも、つまらんだろう、それじゃあ」
 彼は目を細める。写真立てをこれみよがしにエスアイアムの前で揺らして、興味もなさげに火へと放った。炎はじつによくすべてを食べてくれる。火の粉は舞い踊り、彼の輪郭を赤く縁取っていた。
「挫折もしたことのないナイチンゲールなんて? 馬鹿らしい。神様でもあるまいし」
 彼は手の中で白く閃くナイフをくるくると回し、瞬きの間にエスアイアムのすぐ隣へ現れた。そうして彼はそのちかりと輝くナイフをエスアイアムではなく自分の手のひらへと突き立て、真緑の血を彼女の前へと垂らした。エスアイアムは孔雀のペンを持っていた。目の前には、一枚の契約書。彼女はインク代わりに差し出された彼の血液をペン先に付け、けれどもにっこりと微笑んで、彼に向かって契約書を突き返した。彼は紙面に目を落とす。契約書には、元より彼女の名前が刻まれていた。彼は困惑した。貴様は誰だ? 彼女は手にしているペンで、自分の手のひらを突き刺した。真っ赤な血。彼女は彼の手の中に、その血塗れのペンを握らせる。それから、眼前に一枚の契約書。彼女の名前が刻まれ、緑色の血に濡れた紙面。ペン先から赤が垂れる。一滴、二滴。乾いてしまう。それから。それから。それから、彼は。
 ペン先が紙を滑る心地がして、ガーネットは目を開けた。フローリングの上で回転する身体が火と紛うほどに熱くて、すべてを燃やし尽くしてしまいたかった。すぐそこにオリーブの顔があるのには気付いていた。どちらがどちらに踊らされているのかは分からない。温度が似すぎていて、手を繋いでいる感覚もなかった。何もかもに引火したい身体を、相手に受け止められる。目が合った。ガーネットの額から汗が噴き出し、思い出したように息が上がる。ばくばくと鳴る鼓動はまるで今にも心臓を蹴破りそうで、彼は堪えきれずに声を立てて笑った。
「なあ。お前、俺に踊ってほしいんだろ」
「はい」
「その間は負けないさ。俺を求める人間が一人でもいる内はな」
「じゃあ、先生はずっと踊ることになりますね。舞台の上で」
「おそろしいことを言う」
「先生の教え子ですから」
 こくりと頷いたオリーブの肩に、ガーネットは顔を埋めて小さく笑った。うっかり外に洩れてしまったそれは、ほとんど嗚咽にも聞こえる。最早、彼は悲しくさえあった。これは夢だ。死ぬ前に見るそれに最も近い何かだ。目が覚めたとき、自分は一体どんな顔をすればいい? 想像もしたくない。起きる前からすでに殺してほしい。だけれど。
「先生」
「ああ」
「自信、あるんでしょ。引退する気なんてさらさらないくせに」
 だけれど、だとしたら、どんなふうに酔えばよかったのか? もうずっとまともな判断ができないのだ。ガーネットはオリーブから身を離し、指を鳴らした。一回。二回。三回。それはほとんど自分自身へと向けられている。そうして彼はオリーブの額を指先でとん、と押し、
「ばあか、お子様め。これはプライドって言うんだよ」
 と、自身の紅に弧を描かせてにやりとした。
 それからガーネットは顔の前をひらひらと片手で扇ぎながら、冷蔵庫の扉をぱかりと開ける。その生活感の全くない貧相な品揃えの中から、彼は一本のアルミ缶を引っ張り出すと、プルタブに爪の先を引っかけた。
「……え、先生。まだ飲む気ですか」
「俺、梅酒が好きなんだよな。この辺じゃ売ってないから、いちいち取り寄せてるんだけど」
「聞いてます?」
「寂しい人間には三種類ございます。飲む人間、部屋を散らかす人間、踊る人間。俺はなんと四種類目の全部いける人間というわけだ」
 つらつらと流れるように冗談めかして、ガーネットは今度こそプルタブを上げようとした。酩酊を極めた視界に軽く靄がかかっているが、そんなのはもう知ったことではない。とにかく喉が渇いた。身体中の水分が抜かれた気分なのだ。
 しかし、そんなたかが一つのプルタブを前に格闘するガーネットの手を、オリーブの片手が止める。はたとしてガーネットは相手の方を向き、どこか難しい顔をしているオリーブの目を見た。一呼吸ほどの間。ガーネットは思わず、小さく笑いを噴き出した。それから喉の奥をくく、と鳴らしながら、ゆっくりとアルミ缶を回転させる。オリーブは首を傾げて、そのラベルを見た。紛うことなきノンアルコールである。
「ふ、っふふ……」
「えっ、え? か、からかってるんですか、先生……」
「いや? お前が勝手に騙された。ふふっ……」
 くつくつと肩を震わせて笑うガーネットに、オリーブは困った顔をしながら相手の顔を覗き込もうとした。ガーネットは口元に手首を当てたまま、オリーブから思いきり顔を背ける。冷蔵庫の扉をもう一度開けて、それを壁にさえした。彼は冷蔵庫の冷気で顔を冷やすと、先ほど取り出したノンアルコールの梅酒を元の場所に戻して、今度は冷えた水を引っ張り出した。
「あ、ほら。やっぱり飲む気ないじゃないですか」
「いーや。気が変わっただけ」
「絶対嘘ですよ。どこ向いて言ってるんですか」
 明後日の方角を見ながら水を一気飲みしているガーネットは、それを頭から浴びたい衝動を抑えつつ、ちら、と諦め混じりでオリーブの方を見た。
「さて、オリーブ。大人の嗜みとして、気付いても言わない、というのがあるのはご存じかな?」
「……お子様なので分かりませんね」
「あーあ、かわいくなくなっちゃって。先生は悲しいぞ」
 むっつりとした表情でそう言う相手にガーネットがわざとらしくやれやれと首を振れば、オリーブは仕方なさげに小さく笑っていた。そうそう、こういう仔犬みたいな顔。ガーネットはオリーブの薄緑がかった金髪を少し撫でると、
「よし、寝るか」
「あ、はい。おやすみなさ──わっ、」
 彼の首元に自分の片腕を回して、半ば懐に仕舞うようにしながらずるずると寝室の方まで引き摺っていこうとする。自分で歩けますともぐもぐ言っているオリーブのことは無視して、ガーネットは相変わらず開けっ放しのドアを通り抜けた。
「これ夢だっけ?」
「現実ですって」
「ちなみにだが、好きなコの前では夢ですよ、って言った方がいいぞ。覚えとけ」
 なんの説得力もない台詞を吐きながら、ガーネットはオリーブを引き連れてベッドの上に転がった。仰向けに全身を投げ出したガーネットに対し、オリーブは中途半端に上半身だけを引き上げられている。暴君はなんだか子どもじみた表情で不服そうにベッドの上を叩いた。のそのそとそれに応えようとしているオリーブを、再び彼の腕が捕まえ、否応なく自分の隣にうつ伏せに転がしてしまう。片腕を相手の首に回すその仕草は、どこか首輪じみてさえいた。
「ああ、それで、なんの話をしてたっけかな」
「なんだろう、夢の話? ですかね?」
「まずデカい稽古場を買う。踊り狂う。スイッチ一つで床がベッドになって、疲れたら大の字になってそこで寝る。そういう生活を死ぬまでくり返す。死んでもくり返す。死んでも踊る」
 狭いベッドにぎゅうぎゅう詰めになりながら、ガーネットは空いている方の腕を天井へと伸ばした。人が叶いそうもないものを語るときに手を空へと向けるのは、それが届かないところにあるのだとどこかで分かっているからなのだろうか。ガーネットは視線をオリーブの方へと向けた。
「あれ? だとしたら、俺のこれは恋の話かな」
「いえ、夢でしょう」
「ほらな、やっぱり夢だった」
 相手の答えに、あはは、と腹の上に片手を置いてガーネットは笑った。オリーブは目尻を下げて、ガーネットの瞳に浮かぶ楽しげな光を眺めていた。
「オリーブ。あのさあ」
「はい」
「お前、俺の脚が動かなくなっても、俺と踊りたい?」
「ルロみたいに?」
「ああ」
 今度はオリーブが笑う番だった。彼はさながらおかしな質問をされたかのようにくすりと笑うと、何かを迷う様子もなく頷いてみせる。
「もちろん。踊りましょう。車椅子、どんなふうにデコレーションします?」
「日によって変えたい。今日だったら悪趣味な赤いビジューをジャラジャラ付ける」
「ナイチンゲールふう?」
「そうさ。俺は悪いヤツだからな」
「いいですね。あ、だったら、赤い花も飾るでしょう?」
 嘘でなくてもせめて誤魔化しであればどれほど良かっただろう。ガーネットはオリーブの発する真実めいた言葉が、まるで一杯の水のようにも思えた。脚を失う恐怖よりも、車椅子で踊って脚の分まで疲れる両腕の疲労感を想像してしまうくらいには。
「……ああ。なら、差し色に緑もくれ」
 秘匿の血族が、エスアイアムに救済以外のすべてを与える代わりに欲しがったものがなんだったか。それは、水であった。一杯の水。それを観客が、人々がなんと呼ぶのかを、今だけ、今だけは忘れられたらよかったのに。
「じゃあ、俺の腕がなくなっても踊りたいか?」
「先生にかかれば腕の一本や二本くらい」
「簡単に言ってくれる」
「だって、俺の先生ですよ」
「その通り」
 ガーネットは目を閉じた。脚を失って踊れるか? 踊れる。腕を失って踊れるか? 踊れる。目を、口を、耳を、顔を失って踊れるか? 踊れる。頭を失っても踊れるか? 踊れる。身体を失っても踊れるか? 踊れる。心臓を失っても? 踊れる。そう、たとえば、
「──踊ってください、先生」
 踊れ、と言われる限りは、踊れる。
「そうだな、お前がそこまで言うなら」
 これではえいえん踊れと言われているようなものだ。ガーネットはオリーブの言葉にちょっとした辟易と悪寒と、それよりもずっと強い安堵と、そしてとても口にはできない、おそろしいほどの狂喜を覚えた。彼は無意識にはあ、と息を吐く。溜め息ではない、もっと密やかなものを一つだけ。それから、首に回していない方の手を、オリーブの前にそっと差し出した。
「踊ろうか? オリーブ。どうせ夢だし」
 眼前に差し出された手へ、オリーブは躊躇いもなく自身の手をするりと置いた。ガーネットは思わず、いい子だ、と呟いて相手の髪を撫でようとしたが、そのための手が空いていなかったのでなんとなく自身の頭を寄せてみる。散々お手の練習をした甲斐があったというものだ。彼はあくびを噛み殺し、落ちそうな瞼をなんとかその場に留め続けた。
「先生」
「ん」
「夢じゃないですよ」
「同じことだろ。朝が来たら一人だ」
「じゃあ、一人じゃなかったら?」
 ガーネットはゆっくりと瞬きをしながらオリーブの方を見る。身を溶かすような眠気で、視界が滲んでいて相手の顔がよく見えなかった。明日、目が覚めて一人じゃなかったら? なんてひどいことを訊くのだろう。そんなことがあった日には。そんな最悪の朝には。
「驚いて死ぬなあ。ただ、俺は死んでも踊りますゆえ。不味い朝飯を食って、化粧もせずに馬鹿みたいな曲を流してとりあえず踊る。もちろん素面だ。で、疲れたらまた寝る。たぶん死人も踊れば死ぬほど疲れる。そんな感じ。そう、そんな地獄で、……」
 何かを言いかけて、ガーネットはその口ではくりと空気を呑み、そこからはすっかり何も言わなくなってしまった。
 未だうっすらと開かれた瞳と唇は不可思議な色を湛えている。きっとそれは、今までに誰も見たことのない表情だった。それでいて、なんの変哲もない顔だった。彼は少しだけ泣いていた。それが睡魔によるものなのか、他の何かによるものなのかが分からないくらいに淡く、彼の目尻には涙が浮かんでいた。彼は唇の形だけで微笑む。夢だけれど、離してやらなくてはならない。逃がしてやらなくてはならない。いつまでもお手をさせていたらかわいそうだ。彼は差し出した手の力を抜いた。リードは首が絞まるから切ってやらないと。首輪は苦しいから、取ってやらないと。彼は首に回している腕の力を抜いた。夢だけれど。夢でも。ガーネットは瞼からも力を抜いた。目を閉じた。
 そうだ。踊って、と言ってくれ。踊って。踊って。踊って。そう、狂おしいくらいに言ってくれ。そうしたら。そうしてくれるなら。
 永遠に踊る。から。
 永遠。
 永遠、一緒に踊れたら。なんて。


20210509 執筆

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