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だから歌うのですか



 言われるままに、歌を歌っている。
 ホワイト・ファーストフロストは、入学式の夕暮れ、誰もいない屋上庭園で歌を歌っていた。真っ赤な夕陽に照らされて学園全体が黄金色に染まり、影の色はより黒く強かになって辺りに伸びている。じきに太陽はあの輝く水平線の底へと眠り、空は宵の青紫へと移ろっていくだろう。黄昏の鳥は鳴いているか。寮へと戻る学生たちの声は響いているか? そのさまはきっといつだって美しいものであるが、聴こえるのは自分の歌声ばかりだ。
 ホワイトは自分の背後から吹く風に乗せて、歌を歌った。新雪のような声。優しく、少しだけ寂しげで、もの悲しく美しい声。淡く、儚く、まっさらな色。光に照り返る、鋭い白。そして雪の下には、いつでも地面がある。ホワイトの場合、それは土であった。土壌であった。野焼き後の土。何もかもが燃え尽きた、広大で、自由で、おそろしい大地。彼の歌には、いつもどこか人々の胸を衝く感情の声が宿っていた。それは彼の美点であり、欠点でもあった。強みであり、弱みでもあった。
 彼の担任教師は、そんなホワイトの歌声が彼の蠱惑的な長所であり歌手として致命的な短所であることを知っていた。そんなことは、彼の歌を初めて聴いた瞬間──入学試験の日から気付いていた。けれども、或いは、だからこそ、彼はホワイトが歌うことを良しとした。無論、決してそのまま、荒々しく歌うことを許したわけではない。ただ、彼の担任教師は、焼けた土地から這い出た粗削りな鉱石を磨き上げ、どんな感情の色をも宿す透き色の宝石とすることを選んだのだった。時には石英となり、時には金剛石ともなる無色透明で自由、不変かつ可変な歌うたう役者へと磨き上げることを。
 屋上庭園には、イングリッシュガーデンふうの寄せ植えが所狭しと咲き乱れ、誰が管理しているのかも分からないそこでは、ちょっと歩けば顔に伸びた大きな葉が当たる場所もあれば、暴走したハーブが白い煉瓦道の隙間にまで生え広がっている場所もあった。
 ホワイトは感情の赴くままに歩を拾っている。そして、湿った草のにおいがする無数の緑色の中では、彼はその喉を開き、真っ直ぐな声で生命の喜びを歌った。チューリップ、パンジー、ガーベラ、デルフィニウム、ツバキ、それからビオラ。様々な色が諸手を広げて一つの彩りを形づくっている中では、彼は睫毛を少し伏せて、甘やかな声で彼らの美しさを歌った。季節の変わり目により、他に比べて色味が褪せ、もうじきにやってくるだろう終わりを数えている群団の中では、彼はこんにちの夕暮れのような黄金の目を閉じて、喉から声を絞り出した。どこか掠れた、切なげで独特のフレージングをもった歌声を。
 歌を。
 歌を歌うのは、気持ちが好い。
 先生は、俺の声は歌を歌うことに向いていないと言った。声の出し方、歌い方が歌手のそれではない、と言った。歌手として世界を獲ることはできない。見向きもされないだろうと、先生はそう言いきった。あなたの歌には感情が宿りすぎている。物語のための歌声すぎる、と。だから、先生は笑っていた。だからこそ、よく、このルニ・トワゾを選んだ、と。あなたの歌は物語の中に響くものなのだ、と。その響かせ方を、私が三年間かけて教えて差し上げます、と。ああ。ああ! 嬉しかった。嬉しくて、嬉しくて、歌が鳴り止まない。もう歌うことしかできないと思っていた。もうこの数年は、歌うしかできなくなってしまっていたのだ。いくつもの事務所のオーディションを受けた。すべて落ちた。それでも惨めたらしく、歌に縋った。そんな俺でも、生きることができる。物語の中で歌って、生きていくことができる。物語の中の人物の感情を、想いの丈のままに歌い上げることができる。ああ、よかった。よかった! もう俺はこれでしか物を言うことができないのだ。歌えなくては、自分は虚無だ。くるくると視界が回転する。長い黒の上着が空気を含んで広がり、裾ではレースが光を吸って遊んでいる。どうやら自分は、嬉しさのあまり踊ってさえいるらしかった。しかも、段々と傾いている。あーあ、転ぶなあ、これは。ふわふわとした思考では、自分の足が今どの位置にあるのかも分からない。こんなことでほんとうに歌劇の舞台に立てるのだろうか。咄嗟に受け身の体勢に入った身体に反して、頭の方はなんだか呑気にそんなことを呟いている。視界を閉じても、光は透けて見えていた。
「……ん?」
 そうしてホワイトが目を閉じてから、一呼吸分ほどだろうか。いつまで経っても痛みどころか衝撃すらやってこないことに違和感を覚えて、彼はうっすらと瞼を上げた。ぎゅうと瞑っていたために、辺りが薄ぼんやりと滲んでいる。ホワイトは黒く長い睫毛を数度瞬かせ、段々と明確になっていく自らの視界の中に、どうも人間らしき輪郭があることに気が付いた。今度は驚きから一度瞬く。
 紫だ。呆れと困惑をないまぜにした、藤紫色の瞳がこちらのことを見下ろしていた。
 甘いアッシュローズの巻き毛に、さながらフランス人形のように端正なかんばせ。一瞬少女にも見紛うほど愛らしい顔立ちをしていた相手が、けれどもすぐに自分と同じ少年である、ということにホワイトが気付いたのは、彼が自分のものと形は違うが黒色の上着に白いブラウスとズボンの鳥の子衣装──すなわち、ルニ・トワゾの制服を着ていたからであり、それから、後ろに倒れ込もうとしていた自分のことを易々と片腕で受け止めて尚、平然とした表情をしていたからである。平然とした、というよりは、何かを言いたげに唇を開いたり閉じたりをくり返していたが。
「ああ、」
 瞬き。突然にはたとして、ホワイトは相手には依然支えられたまま、彼の藤紫色の瞳を見た。ああ、そうだ、見たことのある顔じゃあないか。そうだった。だって、ついさっき教室で。
「君は、同じクラスだった……」
 そう呟けば、相手は結んでいた唇を更にへの字に曲げて、眉間にぬるい皺を寄せた。それから、彼はホワイトを支えている方の腕に力を込め、さっさと自分で立て、と言わんばかりに、或いは動作ばかりでそう催促して、ホワイトをぐぐ、と地面と垂直になるように立ち上がらせる。ホワイトはと言えば、そんな相手のされるがままに立ち上がっては、表情一つ変えることなく、ありがとう、と呟いていた。
 そして、その後は無言である。
 互いに見つめ合い、これと言ってどちらの顔色も変わることなく、ただそこには風に吹かれた草花が立てるさらさらという音ばかりが響いていた。実際のところ、ホワイトは眼前に立っているクラスメイトの名前が思い出せず、それでもどうにか喉から絞り出そうと内心奮闘していたのだが、いかんせん彼は心の表情が顔に出にくいため、ここから先の話題を提供する気がない、と相手は受け取ったのだろう。ホワイトの黄金に相対する薄紫色の瞳に、ちょっとだけ面倒くさそうな色が浮かんでいた。
 ふと、相手はホワイトに向けてむっつりとした表情で、すぐそこに咲いているビオラの花を指差した。薄紫と白の花びらに、中心では黄を湛える花壇の女王。蝶のような花。
「……ビオラ?」
 ホワイトは指先が示すままに花を見、その名を発した。けれども、ホワイトの言葉を聞いた相手は再びうっすらと眉間に皺を寄せ、ゆるく首を振った。そして、彼は腕組みをして少し思案を巡らせたのちに、今までずっと地面に置いてありましたという顔で透き色の弦楽器を取り上げて、それを顎に挟んで弾き出した。ホワイトは首を傾げる。ヴァイオリンよりは大きい。顎の位置を見るに、厚みもある。つまり。ああ、なるほど。
「ヴィ──ヴィオラ、か。そうだ。ヴィオレッタ、だったな」
 ホワイトの発音に満足がいったのだろう、ヴィオラ、ヴィオレッタと呼ばれた相手はこくりと頷いた。そう。彼の名前はまさしくヴィオレッタだ。これでホワイトの喉元につっかえていた心配事もしゅわりと溶け消えてくれた。
 ヴィオレッタ・ウィスタリア。それが彼の名前である。ホワイトと同じ、ココリコクラスの一年生だ。先ほどココリコの教室で、これからクラスメイトとして過ごすための挨拶と簡単な自己紹介を同級生や先輩たちに向けて終えたばかりだというのに、浮かれた自分の海馬の貧相さにはほとほと目眩がしてくる、とホワイトは胸中困り果てながらこめかみの辺りを叩いていた。相手の歌や演技を見たならこうはならないのだろうが、それは言い訳に過ぎない。しかも、よりによって彼のような特徴的な生徒の名前を忘れてしまうとは。
 ホワイトはヴィオレッタに向かい、すまない、と短く発すると、自分の名前を発するために息を吸おうとした。けれども、それより早くヴィオレッタの指先が別の箇所を示した。白いチューリップ。白。
「そう、ホワイトだ。ホワイト・ファーストフロスト。よく覚えていたな」
 そちらの方を見つめながら、ホワイトは小さく頷き、淡々とした声色と表情でそう言った。ヴィオレッタの口元から、声のない溜め息が洩れる。その気配に、ホワイトはどきりとして彼の方を向き、どうも自分は台詞選びを間違えたらしいことを瞬時に悟った。
 ヴィオレッタの瞳の中には、今しがた彼の口からも出てきてしまった呆れと、少しばかりの苛立ちが浮かんでいる。彼は眉間に片手の指先を当てると、それをひらりと振って肩をすくめた。その目の中に浮かんでは沈む表情が、唇から洩れる呼吸が、指先、身体の動きが、彼のすべてがホワイトに向かってこう言っていた。
(……ついさっき自己紹介したばかりだろ。馬鹿にしてんの?)
 ──と。
 ヴィオレッタ・ウィスタリアは、今年のルニ・トワゾ新入生の中でも群を抜いて特徴的な生徒だ。それは何も、彼の愛らしいかんばせや白く細い人形のような身体のことを差しているわけではない。美しい顔立ちをしている生徒や、触れば折れてしまいそうな見目をしている生徒ならば、このルニ・トワゾではまったく珍しい話ではなかった。
 ヴィオレッタ・ウィスタリアは声を発さない。
 そして、そんな彼を選んだクラスは、声での表現に重きを置いているココリコクラス。劇団ロワゾで歌姫メルルとして名高いマドンナ・マジェンダが担任するクラス、ココリコである。ヴィオレッタは喉の代わりに、そのまなざしの動き、目の中に浮かぶ表情、呼吸の薄さや厚さ、繊細な指先と、頭のてっぺんからつま先までの動作、比喩めいたジェスチャー、自身の持つ身体と纏う空気感すべてを用いて言葉を発する。
 彼は、何故クーデールクラスでないのか不思議なほど身体表現に優れた人物であった。それでも、ヴィオレッタはココリコ──マドンナ・マジェンダに選ばれた。ここに立つホワイトと同じように。そして彼はココリコクラスにて、自らこう言いきってもいる。自分は、声を発しない、と。自身のすべてで、そう確かに。
「ああ、……」
 ヴィオレッタは話している。それはおよそ、こちらの表情よりもずっと雄弁に、滔々と。ホワイトは呆れ果てた顔をしているヴィオレッタの方を見やり、やはり表情は動かさないまま、淡くかぶりを振った。
「ああ、違う、違う。本心だよ。ええと……覚えていてくれて嬉しい、だな。この場合は」
 ヴィオレッタは自分の唇の端に指を置いて、皮肉っぽく、にい、と笑った。
(どうだか。嬉しそうな顔には見えないけど)
「いや、嬉しいさ。たとえば、このくらい」
 言って、ホワイトはヴィオレッタの横を駆け抜けた。そうして、つま先からやってくるものを喉を開き、思いのままに歌い上げた。彼はその声でそっと微笑み、それから堪えきれず花咲くように笑った。そのときばかりは、ホワイトの表情も和らぎ、瞳もまたきらりと輝いている。彼の感情が歌声に乗り、喜びが風に溶け、ヴィオレッタの頬を撫でた。


  わたしたちは ことり
  うたい はばたき そらをかけ
  いずれ すべてをいろどる ことりたち

  あおいそら あかいそら くろいそらに
  おのれだけの いろをみつけ
  わたしたちは かけてゆく
  ゆくべきそらを かけてゆく

  うたいましょう
  ものがたりがいうかぎり
  はばたきましょう
  ものがたりがいうかぎり
  かけゆきましょう
  ものがたりがいうかぎり
  いろどりましょう
  ものがたりがいうかぎり
  
  わたしたちは ことり
  うたい はばたき そらをかけ
  いずれ すべてをいろどる ことりたち
  いまに ものがたる ことりたち



 ホワイトが歌っているのは、こんにちの入学式で二、三年生が歌い上げていた、ルニ・トワゾ歌劇学園の校歌であった。
 ルニ・トワゾの長い歴史の中で守られ続けている文化の一つとして、毎年校歌の旋律が変わる、というものがあるが、今年に至っては新クラス設立に合わせ、曲調どころか校歌の歌詞すらも変更されたというのだからまったく面白い、とホワイトは感じた。クラスメイトの名前は覚えていないというのに、一度聞かされた校歌に関してはもうすっかり覚えてしまって、こうして歌える自分の記憶の現金さにはやはりほとほと呆れるが、それでも歌だけはいつも鳴り止まない。
 ホワイトは危なっかしい足取りで、煉瓦道の上をくるくると回った。それから、ヴィオレッタと目が合う。彼は腰に手を当てながら、校歌だなんて真面目なヤツ、という顔をしてホワイトのことを眺めていた。そうして、ホワイトの歌が問う。君は歌わないのか?
 その問いかけに、ヴィオレッタは分かり易くにっこりとした。そののちに、何故だろう、彼は指をぱき、と細く鳴らす。
 そして、ヴィオレッタもまた駆けた。彼は敢えて危なげな歩で煉瓦道の上を短く跳ね、くるりくるりと回り、ホワイトの歌声を纏いながら、自身の指先を空に向けて伸ばしてみせる。咲く草花に当たる黄金の照り返りがヴィオレッタの頬を染め、枝葉の隙間から差す陽光は彼の指先をちかりと輝かせた。ふんわりとした黒い上着が翻り、袖の大ぶりな白のフリルが揺れる。それは、繊細な小鳥が果てしのない空を夢見てさえずるさまだ。ホワイトは未だその喉から歌を紡ぎ続けながら、ヴィオレッタがココリコである理由を、マドンナに選ばれた理由を、ありありと目の当たりにした。聴いたのだ。
 ヴィオレッタは、歌っている。
 ああ、歌っている! こんなにも、歌っている。歌声が聴こえる。響き渡っている! ホワイトは歌いながら笑った。歌で笑った。嬉しくて、笑った。ヴィオレッタは歌っている。歌声が聴こえたから、皆に聴こえたから、彼は今ここにいる。自分と同じように、彼は歌っている。歌が好きで好きでたまらないのだ!
(──なあ、お前。ホワイト。お前、どんな鳥になりたい?)
 それからしばらくの間、屋上庭園で歌い続けた二人は、薔薇の温室がある階段の一番上で立ち止まり、全力で歌ったためにすっかり上がってしまった息を整えていた。
「……そうだな、あまりこだわりはないが。レイヴンができたら嬉しい、とは思う」
(お前がレイヴン?)
「変かな」
(いや……)
 くつり、とヴィオレッタは喉で笑う仕草をした。そうして彼は柔らかい足取りで階段を駆け下りると、つま先立ちで今にも飛び立ちそうな軽やかさで一回転をする。ちら、とホワイトの方を振り返るヴィオレッタは、ちょっとだけ悪戯っぽい表情をしていた。
(捕まえられるのかな、お前に俺が)
「君はスワンになりたいのか」
(はあ、見りゃ分かるだろ)
「うん……うん、まあ、そうだな。分かるよ」
(お前な、いま顔見て言っただろ。素直なヤツ……)
 片手で追い払うような所作をして、ヴィオレッタは今日何回目かも分からない呆れ顔をした。そして透明な手鏡を懐から取り出し眺めては、それをホワイトの方に突き付ける。その仕草は、そもそも女顔って言ったらお前だってそうだ、ココリコの連中は全員女顔だろ、と告げていた。当のホワイトは、そうだろうか、と自覚もなさそうに呟いているため、ヴィオレッタは骨折り損だと言わんばかりに溜め息を吐くことになっていたが。
「どんな鳥になれるだろう。分からないな、まだ何も」
 風には歌ではなく、扉の開け放たれた温室から漂ってくる薔薇の甘く、密やかな香りが溶けている。ここにやってきたときに比べ、随分と藍に染まってしまった空の色を仰ぎながら、ホワイトはひとりごちるようにそう呟いた。
(曖昧な男は嫌われるぞ)
「名前の通りだ。君は嫌いか?」
(いいや、べつに。なんとも)
「つれないんだな」
(そう簡単には)
 にやりと口角を上げ、階段下でひらひらと片手を振るヴィオレッタに、ホワイトはくすりと小さく笑った。ヴィオレッタはホワイトのことを眺めながら、振っていた方の手のひらをぐっと握ってみせる。
(というか。スワンに手を掴んでいてもらわないと、すぐにどこかへ行ってしまうレイヴンなんて存在していいと思うか?)
「嫌なレイヴンだよな、それは」
(なんだ、分かってるじゃん)
「え、まさか俺のことか」
(他に誰がいるんだよ?)
 ヴィオレッタはやれやれとかぶりを振り、まるで上から見下ろすみたいな視線の運び方で、ホワイトへ向けて顎をしゃくった。
(お前、掴んでないとどこにでも行くだろ。ほら、今も)
 その言葉に、温室の薔薇を覗き込もうとしていたホワイトは心臓を指差された気分になって、ほんの少しだけ眉を下げてヴィオレッタの方を見た。温室の扉から一歩二歩と後ろ向きに遠ざかったホワイトは、心のうちでは首まで真っ赤にしながら、なんとか今の行動を誤魔化したくてヴィオレッタのところまで階段を駆け下りた。
 それから、彼はヴィオレッタの腕を掴み、相手が虚を突かれた顔になっているのにも構わず、ぐいぐいと歩を進める。ホワイトは屋上庭園の中で、学園のすべて見下ろせる柵の前までヴィオレッタを引き連れると、そこでようやく相手の腕を離しては思い付いたように空を見上げた。
「ヴィオレッタ。空が高いぞ」
(……ああ、そうだね)
「ここに立つと、世界のすべてが見えるみたいだ」
(そう? お前の世界は随分狭いな)
「そうだな、狭いんだろう。羽がないから」
 白い柵に両腕を預けて、ホワイトは眼下に映る、正門前の庭園を見た。イングリッシュガーデンふうの屋上庭園に反して、あちらの庭園はフランス式であり、美しく幾何学的な様相を成している。慎重に計画され、植物たちが線と軸で絵を描くよう綿密に剪定がされているその庭園を眺めながら、ホワイトは沈みかけの太陽、遠くに見える光り輝く水平線、陽光に遊色する大気に手を伸ばした。  
「早く羽が欲しい。そうしたらもっと、いろんなところへ飛んでいける。この歌で」
(……詩人だなあ、お前)
「え、それは詩人に失礼じゃあないか?」
(なんだよ、褒めたのに)
「そうだったか、ありがとう」
 気が抜けたふうにヴィオレッタは首の後ろを触り、付き合いきれないといった表情でホワイトと同じ方角を見やった。斜陽は彼の柔い巻き毛をこがね色の輪郭で縁取り、それと同じ色をしたホワイトの瞳は、そう在るのが自然であるかのように、そっとヴィオレッタの方を向いた。
「ヴィオレッタ」
(何?)
「君の歌声、不思議だな」
(どういう意味だよ)
「綺麗だな、と思った」
 今まで通りに淡々として、率直な言葉だった。決して洗練はされていないが、透き色で飾り気のないホワイトの言葉は、どこか彼が心のままに紡ぎ出す歌声のそれに似ていたかもしれない。ヴィオレッタはゆっくりとホワイトの方を向くと、ふ、と小さく微笑んだらしかった。
(……聴こえる?)
「ああ、聴こえる。とても、すごく」
(そう)
「うん」
 頷いたホワイトに、ヴィオレッタは柵の上に頬杖をついて、相手から視線を外した。彼は空いている方の手で少しだけ自分の前髪をいじると、指先で自分の喉元を触り、爪の先に目に見える歌声を乗せた。
(──お前の歌も不思議だよ、ホワイト)
 そうして彼はホワイトにその歌を差し出しながら、どこか勝ち気で面白げな表情で笑んでみせた。
「そうか。ありがとう」
 ホワイトは再びこくりと頷き、目に見えるか見えないかくらいの笑みを自身の目尻と口元に浮かべる。内心はその場で飛び跳ねて、ヴィオレッタの手を握ってぶんぶんと振りたくなるほど嬉しかったが、その喜びの表現が表情だけでは上手くできず、だからと言ってほんとうにそんなことをしでかしたらこの隣人に頭を引っぱたかれる気もした。
 それから、いつぶりかの無言である。
 おそらくこの短時間でホワイトの人となりが多少分かったのだろう、ヴィオレッタは今度は自ら無理に話題を振ろうとはしなかった。ホワイトは柵から両腕を投げ出して、ぼんやりとして見える目で遠くを眺めていた。
 ややあって、彼は先ほどヴィオレッタがそうしたように片手を喉に当て、何かを確かめるふうに淡く瞬きをした。そして、ホワイトは再び隣人の方を見やる。
「ヴィオレッタは、元々そうやって歌うのか?」
 端から見れば、それは明け透けで無遠慮で不躾な質問だろう。ホワイトの口から発されたのは、緩衝材で包むことも隠すこともまるでできていない、勢い付いた疑問符である。けれども問いかけをぶつけられた当のヴィオレッタといえば、特に気にも留めていない様子で、自身の表情すら変えずにただ小首を傾げていた。
(いや? 最近になってからだ。このスタイルを確立しようと思ってる)
「そうなのか。それはいいな。君だけの歌声だ」
(だろ? 俺もそう思う)
 ヴィオレッタはホワイトの言葉に対して皮肉でも当てつけでもなく、およそ本心から自信ありげにそう頷き、目を細めて笑っていた。
(お前は?)
「俺?」
(だから、他に誰がいるんだよ)
 ホワイトは、溜め息混じりに眉を下げたヴィオレッタの指先に額を小突かれた。そんな相手にホワイトは小さく謝ると、今度は顔の前でひらりと片手を振られる。それがなんだか指揮棒を持つ手に見えて、ホワイトの喉がラ、ラ、ラと歌を発した。そうして、彼のまなざしはこがね色の黄昏へ向かう。そんな相手の様子に、ヴィオレッタは仕方なさそうに首を振った。
「俺は歌うようになったのが最近──数年前のことだから、それより前の声はよく分からない」
(へえ)
「でも、声は少し変わったと思う。一度、失声症になった後から」
 言いながら、ホワイトは少しだけ喉元に手を置いて、そこから正しく声が出ているのかを確かめるようにヴィオレッタの方を見た。
 火災事故に遭った話や、そこで両親を失った話、それが原因になって表情と声を失った話、預けられた孤児院の先生に連れていってもらった劇団ロワゾの舞台を見て、この世界の歌劇なるものに興味を持ったこと、歌、というものの存在をそのときに初めて知ったような気さえしたこと、そういったことは言葉にしなかった。それは何も、初対面の相手に話すのは重たい話だから、という思いのためではない。本人にも一応の自覚はあるが、ホワイトはそこまで繊細な思考の持ち主ではなかった。ただ、いま訊かれているのは自分の歌声についてだから、自分の身の上などはあまり関係のない話だ、と彼自身が判断しただけである。なんなら、失声症、という思いも寄らなかった言葉を聞かされたヴィオレッタの方が幾分か、ホワイトよりも難しい表情をしていた。
(声を失ったのか。……なんで、歌おうと思ったんだ?)
「難しいことじゃない。歌ったら声が出た。それだけだったよ、最初は」
(最初は?)
「歌っていないと声が出せなかったんだ。今では普通に……いや、普通じゃないのかもしれないが、話せるようにはなったから」
 ホワイトはにっこりと笑ってみせたつもりだったが、実際は薄い微笑みが唇の上に乗っているだけだった。よくもまあ、この表情筋の硬さで入学試験に受かったものだな、と自分自身で思う。ヴィオレッタはどこか呑気に映る相手に、どっと疲れた、という目の色をして、身体を反転させる。そうして柵に背中を預けた彼は、両手同士を組んで、それをぐっと空に向けて伸ばした。
(馬鹿正直に話すんだな、お前)
「名前の通りだ」
(俺は話さないよ)
「いいさ。君の声が君のものであることには変わりない」
 ホワイトはそう言いきって、相手に顔を向けた。ヴィオレッタはホワイトの飾り気のない言葉に対して、やはり、ふ、と微笑むと、彼の喉元に向かってそうっと片手を伸ばしてみせる。そのさまに、どうしてだろう、ホワイトはどうも歌いたくなって、小さく歌を口ずさんだ。
(良い歌声だな、ホワイト。練習したら、もっと良くなる。楽しみだ)
「……君も」
(うん、そうだな)
 ヴィオレッタはホワイトの歌声をまるで目に見えるかのように手のひらに乗せると、それをじいっと見つめながらそう笑った。
 そうして彼らはどちらからともなく、今日何度目かの空を仰ぐ。夜の帳が降りようとしている空には、鳥は飛んでいない。ホワイトは空に片手を伸ばし、自らの手を鳥に見立て、藍色の大気を白く切り取った。思えば、視界の端に一番星が輝いていた。
「俺たち。たくさん歌えたらいいな、ヴィオレッタ」
 独り言じみた、それでいて相手に向けて確かに発されたその声に、言葉を受け取ったヴィオレッタは肩を揺らしてくすりとしたらしい。ホワイトが彼の藤紫色を見る。ヴィオレッタは、一冊の本を手にしていた。透き色で、誰の目にも見える一冊の分厚い本を。
(歌えるだろ、心配しなくても)
「ああ、……そうか。そうだった」
 ヴィオレッタはぱらり、またぱらりと頁を捲り、その本をホワイトに向けて差し出した。そして、差し出された本を両手で受け取った彼は、どこまでも描かれ続ける物語に目を落とし、それからヴィオレッタに向かってそっと微笑んだのだった。それは透き色で、誰の目にも見える笑顔だった。
 言われるままに、歌を歌っている。
 物語に言われるままに。物語に乞われるままに。そう言われている。物語に。そして、心に。歌え、と言っている。心が。心が。心が。物語のために歌え、と。物語がそう言うならば、と。言われるままに、歌っている。歌を、歌っている。
 ホワイトは手元の頁を捲り、ヴィオレッタが発した言葉を自らの声で確かめた。
「──物語が、続く限りは」




20210504 執筆

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