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地獄じゃ世界も着崩せる



 夜半である。
 外は薄曇りで星月の明かりも心許ない。時節は未だ秋と呼ぶに値するにもかかわらず、こんにちの夜はまったく息をすれば肺の凍るような寒さを極めていた。本格的な冬の訪れにはまだ少しだけ時間があり、今夜はおそらく、そんな冬がローレアの街々へと下見にやってきたといったところだろう。
 ローレアには穏やかに巡る四季がある。春には花が咲き乱れ、夏には太陽が輝き、秋には紅葉、冬には美しい星空を見ることができたが、そんな風情を味わう余裕もない彼らは片や机の上を広げた紙で散らかし、片や床の上を丸めた紙で散らかしていた。さながら積雪のごとくと言えば聞こえは良いだろうが、その様相は決してそこまで美しいものではない。強いて言うなら、豪雪のごとし、と表現すべきであろう。つまるところ、散らかすといった言葉では止まりきらないほど辺りには紙紙紙が散っており、とにもかくにも、彼らはこれが正義と言わんばかりに部屋中を散らかし放題にしていた。
 彼ら。徹夜三日目のダリア・ダックブルーと徹夜二日目のガーネット・カーディナルのクラス担任教師二人組である。
 エグレット寮の三階最奥に位置するダリアの部屋は、劇団ロワゾ及びルニ・トワゾ歌劇学園の脚本家兼演出家である彼が心置きなく創作活動を行えるよう、通常よりも広く設えられている。故に、エグレット寮ではダリアの部屋は半ば談話室扱いであり、生徒も多く訪れるが、客人は何も生徒に限った話ではなかった。
 ダリアの部屋には、教師もよく出入りをし、長い時間入り浸る。それは大抵の場合、雑談じみた打ち合わせ、或いは打ち合わせじみた雑談のためであった。ダリアは生徒たちによって上演されるルニ・トワゾ公演、そこで使用される全クラス分の脚本さえも自身が筆を執る。ガーネットが担任するクーデールクラスも、演じる物語の脚本は原案からすべてをダリアの腕に頼りきりであった。今までは。
 そう、今までは、の話である。
「珍しいよね、君が書くなんて」
 無言──ガーネットのああだのううだのの唸り声を数えないのならばの話だが──の空間で、ふと声を発したのは、絶え間なくペンを動かし続けるダリアの方だった。ダリアは革張りの社長椅子に座ったまま、これといってガーネットの方を振り返りはせずに、壁際の書斎机に向かっている。
「……何が」
 そう呟いたガーネットは、随分前から眉根を寄せて目の前の紙束と睨めっこを続けているらしかった。普段はダリアが生徒と紅茶を飲むために使っている暖炉前の丸テーブルは、今やガーネットが広げた紙面と丸められた紙に占拠され、ティーカップを置く隙間もない。ダリアは壁のコルクボードに刺された資料の一つを見やった後、手の中のペンをくるりと回す。
「何って、またまたあ。分かってるくせに」
「分からん」
「んもう、ガーネットくんのいけず。それだよ、それ」
「どれ」
「だから、ラブレター」
 ガーネットはダリアの言葉に、ああ、と短く発したのち、手元の紙をくしゃくしゃと丸めて、何個目かも最早分からないそれをぽいと後ろに放る。絨毯の上にぽす、というぬるい音を立てて落ちたその塊に、一体どれほどの迷走を極めているのかとダリアは内心少しだけわくわくとした。
「……ずっと書いてたつもりではあったんだがな、今までも」
「そっか。そりゃあそうだよねえ」
「一応な」
「ううん、ちゃんと分かるよ」
「どうも。けどま、お前に分かられたところでなあ」
 酷い言い草だよねとダリアは笑って、万年筆の先を再び紙に滑らせる。エグレットで使用する予定の、冬公演用の脚本はもうじきに完成しようとしていた。生徒との触れ合いで毎日のように新たな発見と未知なる刺激があるからか、教師になってからというもの、ダリアの筆の調子はすこぶる良く、ここ二年近くは普段の三倍ほどの速さで脚本を仕上げている。無論、クオリティは変わらないままだ。ただ、彼の書く速度に比例して彼の元に舞い込む仕事も増えていくため、ダリアが締め切りに追われ続けているのは常である。
 ペンがカリカリと紙上に文字を紡いでいく音と、頁が捲られる音はダリアの好物だ。自分以外の誰かが執筆をする音や、頭を悩ませている気配、眠たげな呼吸なんかも然り。ダリアには好物が多かった。実際の食べ物に対しては少食ぎみな代わりに、耳からぱくぱくもぐもぐと好物を摂取しながら、ダリアはもっぱら資料参照用にしているパソコンの液晶を眺める。少し疲れたのでガーネットおすすめの仔犬動画を流してみた。当然のように愛らしいそれを横目に、ハーブティーを一口。あ、さっきの台詞、順番を入れ替えた方がいいなあ。ダリアは原稿用紙に矢印を引っ張って修正しつつ、バキバキと鳴る背中をぐぐっと伸ばした。
「……じゃあ、つまりさ。ガーネットくんは自分の書き方が分かったってところ?」
「さてね」
「おやま、つれないお人」
「まあ、ただ……」
 ガーネットは一旦ペン──と、いうか彼は鉛筆派である──を止めて、頬杖をつきながらノートパソコンで振付師から送られてきたらしい動画を睨んでいる。
「俺はルビー先生にはなれないって、それが分かっただけだよ」
 そして、言葉を継ぐのと同時に左手の指先がトントンとテーブルを叩き、右手は真っ白な紙に向かって再び何かを書き出しはじめた。普段は几帳面な硬筆で文字を記すガーネットは、どうもこういった場面ではさながら医者のカルテじみた文字を書くらしく、ダリアにとってはそれは面白い新発見でもあった。
「なれない?」
「いや。なりたくもない、の間違いだな」
「それ、自分の教え子に言われたら凹むナア、僕」
「や、お前に関してはなりたくてもなれないっつーか。そう簡単になられても困るっつーか、……だろ」
 肩をすくめて溜め息を吐いているダリアにちらりとした視線をガーネットは向けて、なんとなく呆れたふうに小さく笑った。そんな彼の言葉を受けて、いやいやお褒めに預かり光栄もっと言ってもいいよ、などと調子の良いことを早口に述べているダリアは、ここ数年のガーネットの変化にも胸中では目を見張らざるを得なかった。
 ガーネット・カーディナルは苛烈で傲慢、獰猛で唯我独尊でその舞台に対する執着は化け物じみている、というのは、彼と一度でも演じたことのある人間であれば当然の意思をもって首を縦に振るだろう。
 だが、ダリア・ダックブルーが劇団ロワゾ入りしたガーネットに抱いた最初の印象として大半を占めていたのは、無表情、だった。否と思ったものに対して真っ直ぐに刃を突き付ける尖った苛烈さよりも、それによって受ける様々な弊害に対して、勝ち気に口角を上げる強かさよりも、その奥に隠されたどうしようもない無表情さがダリアはどうしても気になった。つまるところ、彼はガーネットに対してこう思ったのだ。彼は自分の強く美しいところしかまだ出していない、それだけが己の手札だと思い込んでいる、これはまだまだまだ何かを隠し持っているぞ、と。
「──ダリア。公演で自分のクラスが負けたとしたら、それは一体誰の責任だ?」
 だって、事実、彼はこんな台詞を吐く人間なのだ。
 果たして、天上天下唯我独尊な人間が責任の在り処を疑問に思うことがあるだろうか。ガーネットは白目まで赤くした瞳で、特に返答も求めてないのだろう、手にしている鉛筆で白い紙を黒く染めている。ダリアは少し笑った。これは学祭公演が相当効いているな。件の公演で優勝したのはダリアのクラス、エグレットだ。正直なところ、気分は悪くなかった。
「そうだね。一人一人にそれぞれの責任が伴うとは思うけれど」
「だが、誰の責任だと思う、最終的には?」
「僕、だろうねえ。おそろしいことに」
「ああ、そうだ。俺の責任だ」
 ガタ、と椅子を引く音と共に、ヒールが柔らかい絨毯を踏む音が聞こえる。その気配にダリアがおやと思って顔を上げれば、すぐそこに薄ら笑いではなく口元を引き結んだガーネットが立っていた。それはまるで不服そうな子どもの顔である。彼は片腕に抱えた大量の紙束をダリアの書斎机にどんと叩き付けると、両腕を組んではすこぶる良い姿勢で胸を張った。
「負けるのは悔しい。というか腹が立つ。ムカつく。許せん」
「だねえ」
「悔しさをばねになんて言葉があるが、俺はあれが大嫌いでな」
「うーん、ナルホド。教師とは思えない発言だよネ」
「センセイ二年目ひよっこちゃんのてめえには言われたかねえわ」
「これはこれは。ピヨピヨ」
 ガーネットは鼻を鳴らして、何かを払拭するように軽く笑った。それから眉根を寄せて、机の上に置いた分厚い紙束を指先で叩く。なんだかそこから紙へと引火しそうで、ダリアはちょっとだけ心配になった。
「だから……」
 ガーネットが教師になってもう五年になる。或いは、まだ五年。その五年で、彼の表情はここまでころころと変わるようになった。口数も以前に比べると格段に多くなっただろう。それは当然学園の生徒たちの影響であり、教師たちの影響であり、更に言うなら決して思うようにはいかない公演結果にある。彼はあの強さを着るための勝ち気な笑み以外にもよく笑い、よく怒り、よく呆れを露わにして、眉根を寄せ、溜め息を吐き、教師の前では感情的にヒールを踏み鳴らすこともあれば、機関銃のように意見を浴びせかけることもあったし、悪役然とした高笑いを響かせて去っていくこともあった。いつしか、そうあることが自然であるかのように、彼は変化を重ねていっていた。重ねる、というのは語弊があるかもしれない。彼の変化の仕方はむしろ、重い服をどんどん脱いでいくようなものであるからして。
「──だから、俺たちは負けないことにした」
 その言葉に、ダリアは堪らなくなる。立ち上がって拍手さえしそうになった。観客からの投票が勝敗を分かつ学園公演にて、負けないことにしたとは矛盾すらも呆れ返って逃げ帰るところだ。それでも、頭の中にこびり付いて離れない言葉には違いない。才能というものに姿形があったのなら、ダリアはガーネットのそれを抱き締めて離さなかっただろう。ガーネットは、にこにこと微笑んでいるダリアに対して、真剣とも不機嫌とも取れる表情で唇を結んでいる。
「おや、ガーネットくん。それはまた大きく出たね」
「どうだろうな。むしろ小さいかもしれんが」
 鉛筆の黒鉛で真っ黒になっている手に気付かず、ガーネットは折り曲げた人差し指を口元に当てた。そのせいで少しだけ黒く染まった唇に、ダリアは特に何も言及しないまま、彼が継ぐであろう言葉の続きを待った。ほんの少し、床に転がっている物語の断片を視線で拾いながら。
「負け、ではない」
「うん」
「今できる最大限をやり切ることができたなら、それは負けじゃない」
「ふむ、……詭弁だねえ」
 ガーネット・カーディナルが脚本の原案を考えるなどと、一体誰が予想できたことだろう。先日の学祭公演から、どこかガーネットの様子がおかしいのは彼とそれなりに親交がある者ならば誰もが知っている。ぷっつりと何かが切れたような、たがが外れたような、気迫にも狂気にも見える何かをここ数週間、彼は纏い続けている。そこからは泥と、何かが燃えるにおいがしていた。それは、クーデールの負けが込んだから? ついに教師として腹を括ったから? ルニ・トワゾは劇団ロワゾを差し置いて彼をすっかり変えてしまったから? まさかまさか、とんでもない。きっとそんな高尚なことではない。ダリアはガーネットを見た。紅い瞳と目が合う。彼は目を細めて笑っていた。
「だが、それが俺の踊り方だ」
 ──ただ、本性が暴かれはじめただけだ。
 彼は負けたくないだけだ。それでいて、ちょっと暴れたくなっただけ、暗黙のルールを取っ払ってみたくなっただけ、選んだことに責任を負いたくなっただけ、観客の視線を自分のクラスで独り占めしたくなっただけ、思いの丈を打ち鳴らしたくなっただけ、狂いたくなっただけ、彩りたくなっただけ、大三元と宇一色の両方で役満貫を打ちたくなっただけ、そういう偉大なる業を選びたくなっただけ、ただただ、単純明快に真面目に面倒臭く、彼は一緒に踊りたくなっただけだ。
「ガーネットくん」
「なんだよ」
「その踊り方でさ、舞台に立ってみない?」
「あ?」
「なあんか僕、すっごい面白いの思い付いちゃったなあ。いやほんと面白いの思い付いちゃったカモ。仕方ない、これは仕方ないよ、思い付いちゃったら書くしかない。こりゃあもう徹夜コースまっしぐらグランプリってとこだね!」
「いや、待て待て。先にこっち書いてくれよ。頼むから目移りしやがるな、気の多い男だなお前は」
 万年筆をくるくると回して、得意げににっこりするダリアに、ガーネットは呆れとちょっとした焦りが滲んだ表情で机上の分厚い紙束──もとい、彼が何度かの徹夜と幾度かの迷走をくり返した結果、どうにか纏まったらしい原案書をばしばしと叩いた。ダリアは分かってる分かってる、冗談冗談、と生返事をして、原稿用紙の隅に今しがた思い付いたアイデアのメモ書きを癖字の筆記体で書き付ける。そんな相手に、ガーネットは今度こそ心底呆れた目を向けた。
「ま、とにかくだ。何が起きても俺が全責任を持つ。誰がなんと言おうと俺だけは、絶対に、負けを認めんからな」
 なんだか物凄いことを言っているなあ、とダリアはペンを動かしている頭の片隅で思った。教師としては些か思考が生徒に寄りすぎている気もするが、人のことを言えないためにダリアはくつくつと喉を鳴らして笑うだけにとどめた。アンチックであれば絶対に咎める場面だが、ここにいるのは教師側の筆頭問題児として名高いダリアとガーネットの二人だけである。
「……ちなみにさ、実際どうやって責任を取るの?」
「は? そんなもん、貴様にピーマンをしこたま食わせるに決まってるだろうが」
「え、なんで? 酷すぎない? 僕も泣くときは泣くよ?」
 突如として発されたガーネットからの横暴に、ダリアは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。それからずり落ちそうになった眼鏡を戻して、困り顔で眉を下げる。ダリアはピーマンがこの世の食べ物の中で最も苦手であった。ガーネットは腰に片手を当てて、ダリアの額に黒い人差し指を突き付ける。
「確かに、原案を考えるのは俺だ。が、脚本を書くのはお前だろう、ダリア。今のメンツで負けるはずがない、とすれば原因は俺とお前にあるってことになる」
「いや……いや、ちょっと待って。僕のクラスも負けてないからね? というか負けないけどね? ルニ・トワゾにはクラスが四クラスあるんだよ、忘れてない?」
 無視である。
 何かが千切れて何かのたがが外れてしまったガーネットの鼓膜は、最早クーデール優勝という音以外は受け付けなくなったらしい。ダリアはやれやれとかぶりを振りながら、こういった話題では自分の鼓膜もとうにエグレット優勝以外の音を受け付けなくなっている自覚があるため、言葉としてはそれ以上何も言えなかった。この学園の教師たちは大小の差はあれど、誰もがどこかそういった側面を持ち合わせているだろう。そんなものだ。誰もが勝ちたい。当たり前のこと。
「じゃあ、……僕もガーネットくんに大量の玉ねぎを食べさせていいってことだよね?」
「構わん」
「あっ、そこは構わないんだネ……」
 あっさりと頷かれて肩透かしを食ったダリアは、平たい表情を目の中に浮かべて、特に意味もなく原稿用紙の空きに玉ねぎの落書きをした。ガーネットは中華台湾和食などのアジア料理が好きなくせをして、しかし大きく切られた玉ねぎというものがとにかく不得意で仕方がないのだ。ピーマンと玉ねぎを食べまくる会か、嫌だなあ。ダリアの脳内はエグレットの優勝しか見えていないので、このどちらの得にもならない会の開催は決定事項と化している。
 化している、が、好奇心にはいつでも抗いがたいため、ダリアは問いかけのために息を吸った。
「ならさ、勝ったら?」
「うん?」
「勝ったら、どう責任を取る?」
 ガーネットの瞬きの少ない目がぱちり、と瞬いた。彼はダリアから視線を外すと、カーテンが開けっ放しになっている窓の方を見る。外は暗く、照明の落ちた学園の敷地内は黒に塗れている。影ばかりが羽を広げる夜だった。ガーネットは再びダリアへと視線を戻す。そうして、ふ、と息での笑み。ダリアの目に映る悪戯っぽい光を、彼は吹いて飛ばすふうにした。
「さあな、勝ちしか見えんが。ま、そんときは、俺がアホほど玉ねぎ刻んでやるよ」
 くく、と喉を鳴らして口角を上げ、ガーネットはダリアの書斎机からくるりと踵を返した。肘のところまでずり落ちていた上着を羽織り直して、彼は暖炉前のテーブルから広げられている無数の紙と、ノートパソコンだけを取り上げて部屋の出入り口の方へと向かう。絨毯の上ではヒールは鳴らない。当たり前のように辺りに散らばった紙くずたちはそのままである。
「ガーネットくん、もうお帰り?」
「ああ、ちょっと先生のとこに行ってくる。不愉快極まりないが、ナイチンゲールのダンスのことならあの人に聞くのが安牌だろ」
「さてさて、ある種の賭けな気もしますケド」
「乗ってやるさ。丁半でも双六でも囲碁でも将棋でも野球拳でも脱衣麻雀でもやってやらあ」
 そう発して彼は勝ち気に笑い、髪をかき上げた。
 ダリアは机上の分厚い紙束を見る。タイトルは未定。主演は確定。レイヴンでもスワンでもなく、ピーコックのナイチンゲールが主人公。必要なことはすぐに伝えるガーネットのことだから、そこに据えられるはずの彼≠ノは主演であることをすでに伝えてあるだろう。次の公演は冬である。冬。それは、この紅い目が一年の中で最も嫌う季節。どうもガーネット・カーディナルという人間は、この冬という季節を一度壊したくて堪らないらしい。主演の彼≠ノとっては、これが二年目の冬だ。果たして、ガーネットは何を壊そうとしているのだろうか。それとも、取り戻そうとしているのか。いや、いや。すべてを知ってしまってはつまらない。いずれにしても、利己的なことには変わりない。ああ、けれど、嫌いではない。きっと、こういう人間はどうしようもない物語を書く。どうかしている物語を書くだろう。どうしようもないから分かる。自分もまた、どうかしているから。クーデール以外には絶対に踊れないダンスを。彼でなくては絶対に演じられない役を。それでいて、まるで演じ切れそうにない物語を。頁を捲る前から、紙束はそう狂気を発している。読みたい。書きたい。書きたい。書きたい。読みたいものが足元にも落ちている。書きたい。さあ、早く出ていってもらおうかな。ダリアは心の中でほくそ笑んで、机の引き出しから新品の小さな箱を取り出し、ガーネットへぽいと放った。
「君、徹夜慣れしてないでしょ。目、真っ赤だから、それ目薬ね。差した方がいいよん」
「言わせて頂きますがね、これに慣れてる方がおかしいんだよ」
「あと徹夜明けにヒールはやめた方がいいと思うよ。怪我しちゃったら大変だからね」
「あのな、俺を誰だと思ってんだ?」
 目薬を受け取った手をひらひらとさせるガーネットに向かって、ダリアは背後を振り返り、それから自分の片手を拡声器にした。
「──ロワゾ・ミュージカルの制圧者! 僕らのかっこよし、ガーネット・カーディナル! よっ、ルニ・トワゾの鬼軍曹!」
「その通り」
 そうして啖呵を切ったダリアにガーネットは満足げに頷くと、箱を開けて目薬を自身の充血した瞳に差した。景気よく何滴も差したおかげで、かなり沁みたらしいそれにガーネットは呻きながら、空き箱をダリアにぽいと放って返す。
「ダリア」
「うん?」
「脚本、手を抜くなよ」
「抜き方が分かるんだったら、教えてほしいものだけどねえ」
 まったく本心から発されたダリアのその言葉に、ガーネットは声を上げて笑った。
「違いないな、何もかもが」
 それから彼は出ていった。
 夜半はとうに過ぎている。ダリアの耳に、寝不足のためにふらつく足で歩くガーネットが、ありとあらゆる壁や家具や置物にぶつかりながらエグレット寮を出ていく音が聞こえてきていた。あれはたぶん、途中どこかで力尽きるだろうな、と頭の片隅で思いながら、ダリアは椅子から立ち上がり、そうして絨毯の上に寝転がっている丸められた紙くずたちを拾い上げた。広げてみる。紙もそこに書かれている言葉たちもぐちゃぐちゃだ。没案なのだから当たり前のことだが。
 ダリアはあろうことか、床に落ちている没案すべてを拾い、広げ、しげしげと中身を読んだ。そしてそれらを先ほど叩き付けられた原案書の上に重ねて置き、その内で気に入った内容だったいくつかをコルクボードに刺す。ガーネットが見たら怒り狂うだろうが、いわゆるこれが、ダリア・ダックブルーの書き方、であった。目の前に落とされていった物語の断片を彼が見逃してくれるはずもない。
 静かな薄曇りの、影ばかりが落ちる冷たい夜だった。ペンが紙を走る音と、頁が捲られる音。インク瓶の蓋を捻る音と、自分の呼吸音。ダリアは深く息を吸った。原稿用紙は、完ぺきで美しいままの白だった。
 さあ、それでは。
 ──それでは。物語に、踊れと言わせてみせようか。


20210501 執筆

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