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魔物ざわめく秘密はおきる



 彼は海を見ていた。
 夜明け前と呼ぶには遅く、早朝と呼ぶには早い時間帯。高台から見える空は未だ藍と紫を湛え、青空に至るにはまだ幾分か遠い。水平線はうっすらと顔を出した太陽に照らされて、その一筋ばかりを橙色に染め上げている。夜と朝のあわいにある海原は灰色だ。陽光を受けて白く、時折空の色も飲み込んで橙に、藍に、紫に輝く水面は、七色の灰色として波打ち、変化をくり返し、遊色をし続ける。
 彼は目を細めた。碧眼と呼ぶに相応しい瞳。そうしてみると、光だけが視界に映る。潮風が吹いていた。風はずっと吹いている。彼の細い金髪が空気を含み、明けようとしている夜の中で頼りない灯台のように輝いた。ローブめいた黒のロングコートがはためき、彼の輪郭は薄闇の中でもその形にはっきりと切り取られている。
 今この瞬間、彼はただ一人世界から浮き彫りにされ、けれども同時に世界の中に溶け込んでもいた。幻が立つように、幻を溶くように。
 そして彼はその碧色の中で光を眺めながら、さて自分は振り返るべきか、それとも待つべきだろうか、と考える。先ほどからひっそりとした視線が背後から注がれているのには気付いていたが、なんだかそのまなざしの色が波に揺らされるように心地が好い気がして、どうも振り返るには惜しかった。こうして高いところで水面を眺めながら、同時に波に揺られることができたのならどんなに気持ちが良いだろうか。彼は白い柵に両腕を預けたまま、そうっと呼吸ばかりを行った。
「……あの、」
 それからどれほどの時間があったのか。つと背後から声をかけられて、ああ、と思って彼は自身の長い睫毛を上げる。
「あの、帽子。落としましたよ」
 少年の声。それは気付いていないふり、聞こえていないふりをするには罪悪を誘う幼い声、そして、大きく発しなくともよく通る声だった。振り返らずにはいられない、甘く響く声。彼は振り返りながら、それにしても帽子とは、と思い、自分の頭を片手で触った。おや。
「あれ? ほんとうだ。全く気付かなかったよ、ありがとう」
 どうやら知らず知らずの内に風に掠われていたらしい。彼は目の前の少年から、スターアニスと白い羽飾りが施されている黒い帽子を受け取って、首を傾げるふうにしてちょっぴり笑った。
 ああ、ここでは海を背にしても波の音が聴こえる。目の前の少年はこちらをちら、と見やった後、幾度か瞬きをし、ほんの少しだけ俯いた。おやおや、これは。彼は少年の顔を腰を落として覗き込む。そんな相手に対して、少年は想像ほど怯えはしなかった。だって、視線同士はそうであるのが当然だというように、ごくごく自然にかち合ったのだから。
「君、」
「え?」
「君、目の中に海があるんだね」
 少年は茶に近い赤毛をもち、灰がかった青い瞳をしていた。つり目がちのそれが、差し出された言葉になんとなく困惑した様子で幾つか瞬き、そしてそのたびに光と色が浮かんだり沈んだりをくり返している。それは波が翻るように。波が色めくように。
 ほらね、と彼は思う。思うが、うっかり言葉にし忘れた。ほらね、夜明けの海の色だよ。彼の先生であればきちんと声にしただろう言葉を、しかし彼は自身の微笑みと、海原を指差す行為だけで表した。少年が彼の指先に導かれて、明けの陽に照った水平線を見やる。彼は少年のまなざしに満足げに頷いて、柵に自身の背を任せた。
「あのね、僕は思うのだけれど。舞台は海みたいなんだ」
「舞台?」
「うん。演劇のね」
 彼は目を細め、手にしている帽子の羽根飾りを指で触って遊んだ。少年はそんな相手の細い指と、まなざしの行方を眺めている。彼は、少年の目を通して何かを見ているようだった。
「だから、海を飼っている役者が舞台に立つと、その役者は舞台そのものになる、こともある。彼中心に世界が形づくられるから」
 そう話す彼の声には常に心地の好い揺らぎが宿っていた。潮風にはほど遠く、けれども波に揺られるのとはまた違った、たとえば揺りかごのような声の響き。薄いベールで何かを包み込む声。声を張ったならば、きっと朗々と若々しく響くだろうと思えるのに、不思議と深林めいた老いすらも感じる声。輪郭の曖昧な声だ。少年は視線を彼に向けたまま、ほとんど確信に近い表情でまなざしだけで首を傾げた。
「……あなたは役者?」
「そう。表向きは」
 言われて、今度こそほんとうに少年は首を傾げる仕草をした。少年の瞳には、逆光に照る彼の姿が映っている。その目を見て、彼もまたいよいよ太陽がその姿をすべて明かしたことを悟った。
「──でも、ほんとうは魔法使いなんだ。秘密だよ」
 彼は笑った。それはひそやかで、陽光にすっかり溶けてしまう美しい微笑み方だった。その瞬間は、風さえ息を潜めていた。
「ねえ、君。これをあげる」
 魔法使い≠ヘ、自身の唇に細く長い人差し指を当てて、どこからともなく──少なくとも少年にはそう見えた──一冊の薄くもないが厚くもない一冊の本を取り出した。そうしてそれを少年の前に差し出すと、彼はゆっくりとした瞬きを一度して、緩く小首を傾げてみせる。
 そして、そのさまにはっとした少年は目の前の本と魔法使いの碧眼を交互に見やり、おそるおそる本を両手で受け取った。青緑色の表紙は安っぽく、癖のある筆記体で書かれた手書きの題名は何と記されているのかいまいちよく分からない。明らかに手製本である。彼が少年に手渡したその本はお世辞にも新品とは呼べないが、それでも大切にされてきたのだろう、あちこちが擦り切れていながらも汚れてはいなかった。
「……小説?」
「ううん、戯曲だよ。海の物語。ちょうどこんな朝の」
 少年はぱらり、と手にした本の表紙を捲ってみた。経年劣化でぱりぱりとした肌触りとなっている紙には、一般的に流通している本とはまた少し異なった、どことなく読みにくいフォントで台詞台詞台詞の奔流が印字されている。まだ中身を読もうとすらしていない少年に対し、魔法使いは面白いでしょ、とどこか得意げに小さく笑った。
「僕の先生がね、僕くらいのときに書いた話なんだ。君が演じたら、きっと素敵だよ」
 その言葉に、少年は睫毛を上げた。魔法使いに向けるまなざしの中に、いいの、たいせつなものなんでしょう、という問いかけが混じっている。
「うん、だいじょうぶ。僕はもうすっかり覚えてしまっているから。それ、いつかさ、上演できたらいいのにね」
 彼はそう答えてから、少年が持っている本の表紙を壊れ物を扱うみたいに撫でた。風はもう呼吸を再開していた。魔法使いから見た少年の輪郭は、朝陽の色を浴びて金色で保たれている。まだ幼さの残る髪が、吹く潮風に緩くなびいていた。
「魔法使いの先生って、一体どれくらいすごいんだろう」
 ややあって、少年がぽつりと呟いたその言葉はひどく小さなものだったが、けれども正しいかたちのままで魔法使いの耳まで届く。そして、それを聞いた彼はくすりと笑い、口元に折り曲げた人差し指を当ててみせた。光を吸い込んだ金髪の先が揺れる。
「ああ、それはもうすごいものだよ」
「ほんとうですか。空が飛べる?」
「うん」
「時間を止められる?」
「うん」
「それなら、たとえば、そうだなあ。食べても食べてもなくならないケーキ……とか? 飲んでも飲んでもなくならない紅茶? 明かりのないところに光を灯せる?」
 魔法使いは目を細めた。そうしてみると、輪郭が透けて光、それから色だけが見える。彼は少年の頬に柔く触れると、
「うん、もちろん」
 と、言って、その碧い瞳で相手の目を真っ直ぐに見つめ、ちょっとだけ悪戯っぽく微笑んだ。魔法使いはたったいま思い出したように背後の海を振り返り、少年の目以外には見えない杖を瞬きと共に取り出して、それをふわりと軽く振った。
「先生は、世界を作るのに七日もかからないよ」
「世界を?」
「そうさ。それに、まじないのない杖を使う」
「それなのに、魔法が使えるんですか。どうやって?」
 魔法使いは杖の先でくるくると風をかき混ぜて、ううん、と唸った。帽子を拾ってもらったときと似たような表情をして、彼は少年に向かって首を傾げる。
「さあ、それは先生にしか分からない。僕も知らないんだ」
 いつの間にか、少年は手渡された手製の戯曲を両腕に抱いていた。魔法使いは音のない吐息で手にしていた杖を消し去ってしまうと、こちらをじいっと見つめている少年の方に向き直り、背後の柵を片手で掴んだ。なんだか今は、自分の身体が軽くなりすぎている気がした。
「魔法使い、……さんは。生まれたときから魔法使いだった?」
「ううん。魔法の使い方を覚えたんだ。そして、先生に魔法使いにしてもらった」
「勉強をしたんだ」
「とてもね。今も勉強中だよ」
「大変ですか?」
「すっごく。でも、楽しい。魔法の使い方を知らなければ、きっと溺れてしまうほど」
 魔法使いは息継ぎほどの迷いもなくそう言いきって、つと、青く染まりだした今日の空を仰ぐ。そうしてみると、呼ばれたようにカモメがその真っ白な体躯で青を横切り、煌めく水平線の方へと飛んでいく。果たして、これも彼の魔法だっただろうか。少年は鳥ではなく、目の前の魔法使いのことを見ていた。それに気付いていながら、彼は未だに空を眺めている。
「……どこで」
「うん」
「どこで、勉強を?」
 問われて、魔法使いの視線が空の青から海の青へと降り、最後には少年の瞳の青までやってくる。彼は相手が抱えている戯曲の上から、少年の心の臓の辺りをとん、と指先で叩いた。そうして、その音よりもずっと小さな声で、彼は囁く。
「ルニ・トワゾ。そこが僕らの魔法の在り処」
「ルニ・トワゾ……」
「でも、僕は空の飛び方を覚えてしまった。だからそろそろ行かなくちゃ」
 ひとりごとのように、それでいて語りかけるように、魔法使いはそう呟いた。彼はずっと片手にしていた帽子をようやく被ると、そこから落ちる影のはざまから少年の方を見る。
「劇団ロワゾ。僕らはもう、飛ばずにはいられないからね」
 風が息をする音がした。それは、魔法使いはこの風に乗って行くのだと、信じて疑いようのない風だった。
 そう。思えば、朝がやってきていた。光、光、光。あちこちが光に包まれて、すべてが曖昧になっていくようだ。魔法使いはその場を動かないままで、眼前に立つ少年の顔を見た。もう覗き込む必要もなかった。彼はひたすらにこちらのことを見つめていた。
「さて、君はどうだろう。またいつか会うことがあったら、そのときは……」
 言いかけて、彼は何かに気が付いた様子で首を傾げる。そして風に煽られる帽子を押さえては、ああまったく素敵なことを思い付いた、という顔で微笑んだ。子どもと老人の間にある、悪戯な笑み。
 魔法使いは自分の唇に人差し指を当てると、その指先で今度は少年の口元にそっと触れる。それから彼は少年の耳元に顔を寄せると、彼ら以外には誰にも聞こえないような声で小さく小さく、小さく、魔法の呪文を囁いたのだった。
「そうだね。……そのときまで、秘密にしておこうか?」


20210424 執筆

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