Page to top

エラキスの絶景に



 こんな夜はこの曲を聴く。
 使い古したCDプレーヤーをパイプ椅子の上に置いて、ガーネットは壁一面の鏡を見た。
 こちらを睨んでいるボルドーを宿した紅色の瞳。赤みがかったコーヒーブラウンの髪に、目と似た色をした口紅は少しも崩れることなく唇を彩り、チャームポイントとしている口元のほくろをより際立たせている。誰が見ても整っていると評する顔立ち。舞台に立ち慣れている人間の表情。至極いつも通り。一切の問題は感じられない。鏡に映っているのは紛れもなく、舞台役者のガーネット・カーディナル本人であった。
 彼は時代遅れもいいところな電池式のプレーヤーの蓋を開けて、中にCDを入れ込む。何が印刷されているわけでもない白い表面には、手書きの文字でただ『エラキスの絶景に』とだけ題されており、ガーネットは生真面目そうな自筆で記されているその曲名をぼんやりと眺めたのち、息を吐いてプレーヤーの蓋を閉めた。
 この曲を覚えている人間が、世界にどれほどいるだろう、と思う。
 ガーネットはプレーヤーのスイッチを入れ、再生ボタンを押した。彼が学生時代から使っているまったくナンセンスな見た目をしたCDプレーヤーは、しかし決まって『エラキスの絶景に』ばかりをスピーカーから垂れ流す仕事しか与えられない。特筆すべきこともない音質のスピーカーから、大音量で音楽が流れ出す。とにかく大音声で曲を掛けられるというその一点のみの短所のような長所が、ガーネットがこのプレーヤーを使い続けているただ一つの理由であった。
 彼は稽古場の床に座って、あぐらのような体勢になる。そうして片方の膝を折り曲げたまま、伸ばしたもう片方の脚に額をくっつける柔軟をしながら、しばらくの間深い呼吸をし続けた。聴こえるのは音楽。音楽。音楽。エラキスの絶景に。ガーネットは曲を聴いていた。その表情は、髪に隠れて鏡にすら映っていない。始まりは激しく苛烈で、サビに入った変調し、静かに、もの哀しくなる曲。それが延々と終わりまでくり返される曲。この曲を覚えている人間が、世界にどれほどいるだろう。簡単な柔軟を終えた彼は立ち上がり、鏡が右手側にくるように前を向いた。
「続く私たちの舞台に、貴方の未来に、手折った薔薇を置き去りに=v
 ガーネットは呟くように台詞を呟いた。CDプレーヤーから流れている曲は一周目を巡り終え、リピート再生のかかっているそれはすでに二周目へと突入しはじめていた。
「報われぬ私の夜のために、尊い貴方の朝のために=v
 右手でそこにある冷たい夜を握り締め、白く輝く朝へと左手を伸ばす。彼は顔を上げたまま睫毛のみを伏せて、片足を後ろに下げた。
「──それでも私の火は燃える。エラキスの絶景に=v 
 言って、ガーネットは朝に向かって伸ばしていた片手を、す、と自分の方へと戻し、まるで祈りにも見える仕草で握った両の手を己の胸元へと押し当てた。
 そして、彼は踊り出す。握り締めた手から崩れるように、彼は揺らめいた。静かに。静かに。
 『エラキスの絶景に』とは、ガーネット・カーディナルがルニ・トワゾの学生時代、二年次の冬公演にてスワンを務めた公演の劇中歌である。クーデールクラスのスワン及び主演として初めて抜擢された彼は学園公演の舞台に立ち、踊り、演じ、そして負けた。人生初めての主演公演にて、彼は自身のクラスではなく、他クラスに優勝を許したのだ。
 そのときに感じた悔しさや己への憤りの感情は、年月を重ねることで少しずつ少しずつ遠ざかってゆき、学園を卒業して数年経つ今ではもうあまり思い出すことができない。けれども、身体は覚えている。ひとたび音楽が流れ出せば、ダンスの振りも、発する台詞も、頭のてっぺんからつま先まで滔々と巡りはじめるのだ。『エラキスの絶景に』は、クーデール付きの作曲家がガーネット・カーディナルという役者ただ一人へと向けて書いた、彼のためだけの曲だった。
 足元に火の粉を撒き散らしながら、ガーネットはつま先立ちで黒い夜を踊る。両手を広げ、また閉じ、彼は幾度も幾度もその場で回転した。目は少しだけ開けていた。睫毛の先まで熱いような気がした。大音量の音楽が脳髄を揺らしている。こめかみの辺りで赤い光が点滅している。火は燃えている。炎は燃え続ける。風が吹く限り、大気がある限り、そこに燃えるものがある限り。
 つと、ガーネットは瞼を上げた。
「……アンチック。入ってきたなら何か言いやがれ」
 彼はその場で回り続けることを止めず、また音楽も大きすぎるほど大きく鳴り響かせたまま、けれど声も張ることはなく淡々とそう呟いた。背後に感じる気配は見なくてもその姿が見えるほど慣れ親しんだ人物のもので、ガーネットはわざわざ声をかけた自分にほんの少しだけ辟易する。稽古場の入り口に立つ人物は未だそこから動かず、視線だけをガーネットの方に向けているらしかった。
「ターンがいつもより速いよ、ガーネットくん」
「練習をしてるわけじゃない。口を出すな」
「難しいことを言うよね、君は……」
 気配の持ち主であるアンチックは肩をすくめて、仕方なさげにちょっとだけ笑った。ガーネットは振り返らない。
 彼は回る。なんだかおかしな気分だった。つまらなくて笑い声さえ上げられそうだった。そうだ。彼はどうせ、どうせ、ここに来るだろうと思っていた。だと言うのに、もう二度と彼とは合わないような気さえしていたのだからどうかしている。ああ。ガーネットはつま先を踊らせた。今しがた自分が撒いた火が熱かった。肺の中身はこんなに冷たいのに。
「止まって、ガーネットくん」
「なんで」
「……それじゃあ気持ちよくないでしょ」
 そんな相手の言葉に何事かを言い返そうとして、けれどガーネットは唇を引き結んだ。事実、彼のダンスは曲から微かに外れていた上、ガーネット自身がそれを一番分かっていたからだった。ガーネットは己のダンスに嘘を吐くことを最も嫌う。彼は回転しながら段々と速度を殺し、そうして床の上に両足を着いた。アンチックには背を向けたまま。
「深呼吸」
 深呼吸。
「音楽を聴いて」
 音楽を聴く。
「回って」
 回る。
 ガーネットはアンチックの指示通りに深呼吸をし、流れる音楽を聴き、それから回った。肌を撫でる空気と額の音に、彼は思わず目を瞑る。そうしてみると、あんまり心地が好くて癪だった。
 そう、癪だ。だって風が吹きはじめた。もっと大きく燃え上がりたくて、両手を伸ばす。回転するたびに、目には見えない赤と黄金の裾が辺りに広がった。心臓がどくどくと脈打つ。その一回一回に、睫毛の間から火の粉が噴き出るような気がした。ぱちぱちと火が爆ぜる音さえ聴こえる。大気から贈られる拍手の音。美しいバイオリンの旋律に腕は翻り、低いベースにつま先はその場に留まることを知らない。
「アンチック」
 丸々一曲分を踊り終え、ループ再生をくり返すそれにまた身を寄せながら、ガーネットは相変わらず相手のことも鏡のことも映さないままにそう発した。
「うん」
「降りるんだってな」
「うん」
「最後にどこで演じるんだ」
「ガーネットくんの後ろだよ。ずっとそうだったでしょ」
 ガーネットはその言葉に瞼を上げた。予想通りの返答。視線を動かす。鏡を見る。アンチックの青みがかった灰の瞳が、鏡越しにこちらを見ていた。目が合う。二人は笑わなかった。表情すら動かない。ガーネットは伏せるように瞬きをすると、そのついでに視線を逸らした。
「お前、結婚するから舞台を降りるのか」
「うん、それもあるけど」
「何」
「教師にならないかって、レッドアップル先生に言われてて」
「教師? ルニ・トワゾの?」
 つま先が焼けた地面を踏む。指先の火をはためかせる風は焦げたにおいがしていた。ガーネットは己の赤を肥大化させる辺りの大気と楽の音に身を任せながら、しかしそれに比べて随分冷静な頭で驚きと納得を感じた。彼は回転ざまにちらりとアンチックの方を窺って、言葉よりも先にまなざしでそうっと問うた。
「……クーデール?」
「ううん。アトモス」
「アトモス……」
 それから、ぬるい落胆と簡素な納得が食道を通って胃の方まで落ちてくる。アトモス。アンチック・アーティーチョークが担当するクラスはアトモス。当然だ。予想できたことだ。ガーネットは目を瞑った。何も見えない。何も見えなければ、ずっと夜だ。火の時間だ。瞼の向こうに透ける光が眩しくて、目を閉じていられない。電気を消してくれ。照明を絞って。ちらちらする光が、白い雪に見える。冬は嫌いだ。消えてしまう!
「ガーネットくん」
 アンチックは電気を消さなかった。照明を絞ることさえしない。ただ彼は、視線をガーネットから外さず、相手が稽古場の壁も床も天井も、一面の鏡もCDプレーヤーから垂れ流される音楽も、己自身さえもすべて炎に変えるさまを見つめていた。
「ガーネットくん、踊ろうか」
 その言葉に、ガーネットは自らをふっと吹き消された気分になった。彼は睫毛を上げ、唇を引き結びながら、ゆっくりと自身の回転を止める。そうしてみれば、燃える地面も、焦げた風も、大気の拍手もそのすべてが止んで、辺りにはつるりとした床とよく磨かれた鏡、それから言うべきことが何もない音質のCDプレーヤーだけが残されていた。
「……嫌なんだよな、お前と踊るの。踊りにくくて」
 最悪の気分だった。ガーネットは吐き捨てるみたいにそう呟き、けれども差し出されたアンチックの手を取る。それによって彼の心臓は高鳴るわけでも、ひどく落ち着くわけでもなかった。ただ、先ほどまで巨大な篝火だった己が夢幻のごとく立ち消え、握れば粉々に砕ける蝋燭の一本にでもなった心地だけがした。
「僕もそうだよ。君はぜんぜん僕に合わせてくれない」
「スワンがクロウに合わせるわけないだろ。文句があるならレイヴンまで上ってみろよ。今、ここで」
「無理な話だよね。ガーネットくんがダッキーになるくらい」
「ああ、無理な話だ」
 視線だけで肩をすくめたらしいアンチックに、ガーネットは唇を歪めてくつりと笑った。台本のどこにも書かれていない二人の不可思議なダンスは、先ほどの炎めいた危うさはなく、むしろゆっくりと回るメリーゴーラウンドのようなものだった。ガーネットの腰を抱くアンチックの目は少しぼんやりとしていて、彼の腕の中にいるガーネットの視線は気怠げだった。
「浮気にはならないのか、これは」
 無表情に、ふとガーネットがそんなことを発する。なんて面白みのない質問だろう。アンチックはガーネットの問いかけに、はたとした表情をしてから、少しだけ笑った。
 スピーカーから流れるピアノの音が鮮明に聴こえるほど、彼自身は今ガーネット以外の何者でもなく、目の前にいるのはアンチック以外の何者でもなかった。ガーネットはアンチックと手を繋いだまま、つまらなそうに一回転をした。
「僕たち、釣り合ってないからね」
「便利な言い訳だこと。いいね、俺も今度使わせてもらうわ」
「まあ、君がダッキーだったら立派な浮気、かもしれないけど」
 何者にもなれない。踊っているのに、何者にも。まるでそう正面から言われている気分だった。きっとそれは、相手にとってもそうだろうが。自分たちは、互いに毒にも薬にもならない。手を取り合ったところで、どこにも行くことができない。
「ガーネットくん」
「うん」
「泣いてるの?」
「……お前、目でも腐ったのか」
「どうだろう。でも、泣いてくれるかなと思って」
 ガーネットはアンチックの片腕に背を預けて、相手の方を見上げた。灰色の瞳がこちらを覗き込んでいる。
 どうすればいいのかは分かっていた。そんなことは分かりきっていた。瞼を閉じるだけでいいのだ。或いは、唇を舐めるだけでも。実際、そうしただろう。まともな思考ができなければ。踊り、火と化し、風と遊び、正しく酔っていかれることができたなら。ガーネットは自身の紅い目を細めて、赤い唇をうっすら開いて歪めてみせた。その表情は不敵だった。
「──冗談じゃない」
 ああ、まったくもって酔えないのだ。火にはほど遠く、しかし雪と呼ぶにはあまりにぬるい。ただ喉だけがからからに渇いて不快だ。それにとにかく全身が痛い!
 ガーネットの熱い手のひらが、相手の冷えた片手から離れる。アンチックはその手を追わなかった。ほら、この男は何も分かっちゃいない。お前には俺をかき抱くことも、傷付けることもできやしない。俺がそうであるように。頭上からしんしんと降り積もる蛍光灯の光の方がよほど眩しい存在だ。早く火をくれ。早く! 自分などという矮小な存在を脱ぎ捨てるために、焼き殺すために、早く! エラキスの絶景のために!
「お前さあ、手を取ったなら最後まで責任を取れよ」
 呆れ返ったふうに発しながら、ガーネットはつま先と指先を火に変えた。それが熱くて、今さら額から汗が流れる。
「……レイヴンの元にスワンを送り出すのがクロウの責任。違う?」
「他に誰もいないのに?」
 アンチックと踊りはじめてから今まで、スワンを演じていたつもりは毛頭なかった。どうしてもこちらがスワンに見えてしまうらしい男に、ナイチンゲールの殺し方も分からないクロウに、俺はこうしてナイフさえ渡してやっているのに。振り向いて微笑みかければ、アンチックはそれよりもずっと優しい笑みを浮かべて頷いた。刃物も握ったことのないような顔だった。
「うん。ごめんね、ガーネットくん」
「いいよ、べつに。一人で踊るさ」
「踊れないでしょ、君は一人じゃ」
 一体どの口が言うのだろう。ガーネットは睫毛を伏せ、目には見えないレイヴンの手を取って踊った。手を握り合っても、腰を抱かれてもするりと透ける陽炎と踊った。そうするのは狂おしいほど気持ちが良かった。身体が軽くてどうにかなりそうだった。このまま風が止むまで踊って、夜が明けるまで踊って、朝陽が差すまで踊って、何もかも燃やし尽くして踊って、いつか消えるまで踊って、煙になるまで踊って。踊って。踊って。そうして、どこかに消えていく。誰にも知られることなく、どこかへ。陽炎と。一人で。ひとりきりで。ああ、今、ようやく分かった。あの物語は、あの舞台は、レイヴンなどはじめから存在しない方が狂気的で、神秘的で、美しかったのだ。ならばあれは、俺が踊るべき舞台ではなかった。俺のものではなかった。俺のために書かれたこの曲でさえ、俺のものではなかった。踊れない。踊りたくない。踊れない、一人では。どこにも行けないように手を握っていてくれ。どこかへ消えてしまう前に助けてくれ。そうでないのなら、それができないのなら、殺してくれ! ガーネットは叩き付けるようにCDプレーヤーの電源ボタンを押した。つもりだった。実のところ彼はほとんど音も立てず、ひどく静かに電源を切っていた。
「アンチック」
「うん」
「向いてると思う。教師」
「うん、ありがとう」
 ガーネットは鏡越しにアンチックの方を見て、小さく息を吐いた。ぱた、と汗が床の上に落ちる。あんなに踊ったのに肺は未だ冷たい。喉は渇ききって張り付き、じくじくとした痛みがある。けれど、不思議と息は上がらなかった。
「お前は俺のことを勝手だのなんだのと言うけどな、お前だって相当勝手だぞ」
「自覚はあるよ。そうでなくちゃ君の友だちではいられないでしょ」
 眉を下げて申し訳なさそうに笑うアンチックに、ガーネットは心底不機嫌な表情で首を傾げた。音楽を止めたところから、途端に今までのやり取りがすべて馬鹿々々しく思えてくる。ガーネットは至極いつも通りの射るような視線でアンチックのことを睨んだ。
「でも、やっぱりごめんね。ガーネットくん」
「もういい。俺は根には持たないタイプだ、知ってるだろ。謝るくらいなら水の一本でも寄越せ」
「……そうだね。そうだった」
 言われて、アンチックは床に置き去りにされている鞄の中から、ペットボトルのスポーツドリンクを取り出して、ガーネットに手渡した。それを受け取った彼は口の中で、これ甘すぎるから嫌いなんだよな、と文句を言いながら、けれどもその蓋を開けてごくごくと飲み干してしまう。 
「──さあ、練習をするぞ、アンチック」
 そうしてガーネットは、やっと真正面からアンチックの方を見て、手の中のペットボトルをくずかごに放り込んだ。窓の外はまだ夜の闇に塗れ、朝は遠い。ガーネットはにっこりと笑っていた。アンチックは、目の前の紅い瞳を見つめて、ふと思う。そういえば。
「お前の最期だ。もう二度と舞台に上がる気が起きないくらい、気持ちよく死なせてやるよ」
 そういえば、太陽というものは、自らで自らを傷付けてこそ輝くものだったな、と。


20210416 執筆

- ナノ -