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「月はきれいでも燃えないじゃない?」



「劇団ロワゾ春公演『エゴ』は、アニス・アドニス・アドリアティックを破壊した」
 と、いうのが、およそ世間一般的に見た、現在のアニス──もとい、アリア・アリスについての評価であった。
 劇団ロワゾが誇るレイヴンであり、ロワゾ・プリンスとして名高いアニス・アドニス・アドリアティックは、彼が劇団ロワゾで人気絶頂を迎えていたデビュー八周年目の春にロワゾファンを愕然とさせた。彼は突如として今までの役風とは一線を画す公演『エゴ』を主演し、それからアニス・アドニス・アドリアティックとしての引退を発表、間もなくしてアリア・アリスとして再デビューを果たした。それはまったく春の嵐であった。風ではなく、雨雷でもない、春の嵐であった。
 アリア・アリスはアニスとして『エゴ』の全公演を終えたのち、物議を醸す自らのファンを置いて、突如として単独公演を決定した。彼は自身の気に入りの役者たちは引き連れてエクランを旅立ち、北はグリーンランドから南はチリまで、劇団ロワゾが所有する劇場の建つ国を果てから果てまで飛びまわった。何が彼をそうさせたのかについては、彼のフォロワーはもちろん、ひいては劇団ロワゾの劇団員ですら判然とはしなかった。
 彼はそのおよそ世界一周とも呼ぶべき規模の公演で、舞台毎に様々な役を演じた。第一公演ではレイヴンやスワンをはじめとした、名前のある役をすべてアリア一人で演じるという突飛で奇抜な公演『アイ・マイ・ミー・マイン』を演じ、アニスを脱ぎ捨てたアリアという役者のその変貌ぶりを大衆に見せつけ、世界一周の中期となるとかつてダリア・ダックブルーとマリアンヌ・デュアメルが演じて一世を風靡した『ユニコーンの庭』を超新星メルルと名高いアンバー・アンカをスワンに置いて、自身はレイヴンとしてダリアとマリアンヌが演じたそれとは全く異なる印象の舞台を演じてみせた。彼は世界を一周する中で無数の役を演じた。けれども、その中のたった一つでも観劇さえしてしまえば、どれほど鈍い人間であってもこう感じたに違いない。彼は変じた。それを知らしめるだけならば、たった一つの公演だけで十分であった。
 かつて劇団ロワゾに所属していたアニス・アドニス・アドリアティックはその清廉潔白で誇り高い、まさしく王子を絵に描いたような作風もさることながら、役者本人の印象も──私生活をはじめとした舞台外のことはまったく謎に包まれてさえいたが──彼のミステリアスな面を除けばとかく何事にも鷹揚で人当たりが柔らかい好青年といったところだった。が、しかし、アリア・アリスはどうであろう。彼の演技は変じた。無論、彼は再デビュー後も気高い鳥の姿を保ってはいた。が、以前とは比べ物にならないほど役の幅が広がったアリアは公演毎に自身の姿を変え品を変え、そのさまはさながら見る角度によって色が異なって見える十六色の体毛をもつ鳥のようであり、或いは彼のことをただロワゾの鳥と呼び続けることは最早不可能だったかもしれない。アリア・アリス──彼の演技は無垢であり、そして少し邪悪だった。鳥のアニスの頃の洗練された王子然とした演技も彼の中には残されていたが、しかしながらそれはわずかなものだった。残り香と呼ぶには濃く、姿と呼ぶには微かな、彼の鱗粉であった。いつか彼自身が公言したように、最早アニス≠ヘアリアの一部であり、だからこそ彼のすべてではなかった。
 巡業の後期になると、アリアはシェイクスピアをはじめとした古典歌劇、グースグレイの中でもとくに郷愁を誘う物語やダリア作品の中でエンターテイメント色の強いロワゾ歌劇、そしておよそトワゾのクーデールクラスでしか上演されないだろう演劇と呼ぶべきなのか判別しがたい新鋭奇抜な舞台作品を、彼はさながらジャグリングでもするように手を変え品を変えては演じ果せ、魔法使いと呼ぶにはやはり彼は少しばかり邪であった。けれども、奇術師と呼ぶには純である。ゆえに、彼は魔術師と成った。それは観る者にとっては天使であり、或いは悪魔でもある。
 そして、つい先日、此度の巡業の最終公演、その千秋楽をアリアは終えた。彼はアリアとして再デビューをしてからというもの、出演するすべての公演で世を騒がせてきたものだったが、はじまりの最後を飾るに相応しくというべきか──アリア・アリスの世界一周公演最終作は、『エゴ』と同等の困惑を歌劇界隈に与えることとなった。
 彼は自身が飛び立ったローレアの首都エクランに舞い戻り、そこにそびえる劇団ロワゾ大劇場を最終公演の舞台にした。そうしてアリアはかつて自らが学生の頃、それも卒業公演の際にスワンとして舞台に上った公演『魔法しかない』を、今度はレイヴンとして演じてみせたのだ。『魔法しかない』──それはアニス・アドニス・アドリアティックの名前と存在を大きく跳ねさせた公演である。だからこそ生まれる観客の困惑など、けれど彼は露ほども気に留めなかった。アリアは『魔法しかない』の再演に当たってのインタビューで、ただこれだけしか答えていない。
「あの頃より好いよ。でしょう?」
 今となっては、皆この言葉に頷く他なかった。『魔法しかない』のアリアの演技は、あまりに圧倒的であった。オリジナル版のレイヴンの名前が霞むほど。そして、オリジナル版のスワン、アニス・アドニス・アドリアティックが霞むほど。
 彼はアリアとして大きく羽を広げることにより、異様とも言える速度で再び観客の心を掌握した。アニスと自分との力の差を見せつけることで、納得は得られずとも理解はさせた。アリアはアニスの皮を食い破って生まれた魔物である。劇団ロワゾは、『エゴ』のために底知れぬものを舞台に解き放ってしまった。かくしてアリア・アリスは『エゴ』から始まったアニス・アドニス・アドリアティックを破壊する約二年間の旅を無事終え、自らの巣であるエクランへの凱旋を果たしたのだった……
「──と、いうことらしいんだ」そう呟く薄い唇の持ち主が、その紺碧と呼ぶ他ない瞳をふっと雑誌から覗かせて、ツバメが下降するがごとくに視線を地上の方へと向ける。「君はどう思う?」
 ほっそりとした月夜の明かりばかりが差し込む薄暗がりで彼≠ヘ宙に浮かび、彼の言う君≠ヘ地上に立っていた。それは等しく舞台の上であったが、自然の照明はただ、君の足元ばかりを冷たく照らしている。
 そんな青い暗やみの中で空中の彼は大小様々なそれぞれ異なる質感の生地を繋ぎ合わせた、非常に丈の長いドレスめいた衣装を身に纏い、それはいま彼のあるほとんど天井に近しい場所から地上に向けて垂れている。その色合いというものは虹色と呼ぶには鈍く、濁色と呼ぶには澄み、遊色と呼ぶには光が足りない、十六色の体毛では到底表現しえないものであった。閉じた羽、或いは尾のような姿で自分のすぐ目の前で揺れる衣装を視界に映しながら、君は瞬きもせず目を上げた。
「アリア」
 地上からの呼びかけに、彼は金糸の睫毛を微かに震わせて静かにその視線を君の方にやった。彼からの返事はそれで十分のようだった。
「どうして、スワンを辞めたんですか?」
 彼は視線を雑誌に戻し、特に興味もなさそうに頁をぱらりと捲る。地上の君は光の角度によっては桃色に見える睫毛の間から灰みの青を覗かせ、相手の様子をじっと見つめていた。彼からの返事はそれでは不十分のようだった。
「この雑誌、『エゴ』のことも書いてあるよ。ライにとってレイが太陽であったように>氛氈v
「アリア」君は食い下がった。
「質問は先生にしたらどう? ここは学校じゃあないんだし」彼は溜め息すら吐かず、平坦に言った。「ライにとってレイが太陽であったように、レイにとってライも太陽と対をなす月だったのである=c…これは?」
 自身は事もなげに君へと質問を投げ付けながら、彼はぱたんと雑誌を閉じ、ほとんど抓むようにしてその雑誌を地面へと放った。空中から放り出されたそれはしばらくののちに控えめな音を立てて床に落ち、地上の君はその憐れな雑誌をそっと拾い上げて数頁記事を捲る。比較的有名どころの舞台雑誌にはアリア・アリスの特集が大きく組まれ、世界一周公演中に撮影された写真たちと共にうっすらとした筆者の批判も透ける批評が何万字分も列を成していた。
「この記者にとってライは月だったみたいだけど、君は?」彼が言い、入り口の方からうっすらと差し込む月光の残滓を見やる。
 君は彼のことを見上げた。彼は今、その腰にロープを巻き付けては、サーカステントのぐるりの舞台その空中に宙ぶらりんと浮かんでいる。片腕はしっかりと天井から伸びるロープを掴みながらも、まるで全身の力を抜いているかのように宙で緩やかに揺れる彼の姿は到底気高い鳥には見えない。王子様≠ノも。そもそも、清廉な王子様は不法侵入をしないだろう。いま二人が在るのは、劇団ロワゾのすぐ近くに建っている劇団ロワゾ記念館が保有し、一般客向けに展示している初代劇団ロワゾのサーカステント──のレプリカ──であるのだから。当然ながら、記念館の営業時間外に進入することはもちろんのこと、展示物に手を触れることもぐるりの舞台に上がることも禁じられている。彼は全く気にしていないようだった。きっと、雑誌にこのことが書かれても気にしないだろうと思えた。
「オペラ」彼はかつて演じたライほどの長さに伸びた髪を指先で遊んで、その毛先を見ながら地上の君に問うた。「ライの手は温かった?」
「冷たかったですよ」君は静かにそう答え、目の前に垂れる継ぎ接ぎの衣装に指先を添わせた。
「冷たければ月なのかな」
「いいえ、どうだろう」君は笑みのかたちにそっと目を伏せる。
 そうして手のひらの上に生地を滑らせてみれば、そこには縫いかけの刺繍や試し縫いの痕跡が残されているものが多かった。継ぎ接ぎの中には布だけではなく革も縫い合わされている。鞣されてから数年時間が経っているのだろうヌメ革はくったりと飴色に輝き、触れれば濡れた肌のような感触がした。
「熱すぎて、冷たく感じただけかもしれない。俺たちは手を繋いでいたから、皮膚が爛れて……爛れれば、感覚がなくなる。ないものは、冷たく感じるんじゃないかな? どちらかといえば」
「つまり?」
「ライも太陽」衣装からふっと手を離して、君は彼のことを見た。「ライはレイという太陽に近付いたから身体が溶けてしまったのだし、同じようにレイだってライという太陽に近付いたから何もかも失った」
「そして何もかもを得た?」
「互いに」
 その回答は囁きであった。それを聞き取った彼は空気を食むような溜め息を吐く。或いはその息は笑い声だったのかもしれない。彼はドレスから白いスラックスを覗かせ、空中でまったく当然のごとく脚を組んだ。
「よくできたね。まあ、どちらが正解ということもないだろうけれど。月を歩けば奈落があるし、太陽に近付けば墜落がある」
 呟いて、彼は言葉を掬うように空いている片腕を天井の方へと伸ばした。見上げてみれば、円錐になっているサーカステントの頂点は、闇が溜まったみたいに黒々としている。照明のスイッチを入れなければ、ここには月も星も存在しなかった。
「ああ──ふふ」彼は淡く目を細め、さながら柔らかいものをそうっと食いちぎる速度で笑った。「言葉にしただけでこんなに薄っぺらく聞こえる。恥ずかしいな。だから嫌いなんだ、質問、解説、インタビュー……」
 そう思わない、と、彼は唇の動きだけで君に問い、返事を待たずに頭上の暗やみを指先でかき混ぜた。それから気まぐれに顔を地上へ向け、目を合わせないまま君の視線を見やる。君のまなざしは何故、と問うていたが、君のそれが地面を這うような湿度の問いかけを帯びているのは常であったため、彼はそう気には留めずに息を吸った。
「僕ら、言いたいことはみんな舞台の上で言ってるだろう。それがすべてで、それ以外に言うべきことなんて存在しない。舞台以外で語られることは皆等しく感受性の押し付けで、無意味で、無価値なエゴだ。そう、その雑誌みたいに」彼は自身の下唇を触ると、だらりと片腕を脱力させた。「それに、どうして僕が僕の秘密をわざわざ教えてあげなくちゃあいけないの?」
 君は相手のその答えを聞いても尚、頭上の彼を見つめ続けた。彼はそんな君のまなざしを照明代わりに浴びつつ、組んでいた脚をほどいた。
「オペラ」そうして霧雨のように、彼は下界のつむじに向かって問う。「僕に何か言うことは?」
 君は彼の瞳に視線を注いだまま、視線を動かすこともなく呟いた。「素敵な衣装ですね」
「うん、今までの公演で着た衣装の端切れで作ってもらったんだ。特にどこかで披露する予定はないけれど」彼は衣装の袖を軽く揺らし、ふう、と息を吐く。「あとは?」
「なんだか……」続きの言葉を継ぐより先に、君は小さく笑んだ。「前よりたくさん話すようになりましたね、アリア」
「それは」呟いて、彼は少しばかり唇を舐めた。「それは、君のせいでしょう?」
 君はぱちりと瞬く。「俺の?」
「そう、君が僕の皮膚を溶かしたから」彼はまなざす方へ手を伸ばし、まるでそれが本来見えないものであるかのようにじいと目を凝らしていた。「なら、僕に残るのはもう声だけだ。形は人が勝手に作る。鳥、蝶、蛾、天使、悪魔、魔物、魔術師──今の僕はどうやらいろんなものに見えるらしいけど、オペラ、君にはどう見えているの?」
「きれいですよ」君はうっそりと言った。迷いもなかった。「アリアはいつもきれいだ」
 彼はゆっくりと瞬きをした。長い睫毛の先で、どこかの海原が呑み込みきれなかった光を朝焼けにして吐き出していた。彼がたったいま潮騒だと感じたものは呼吸であり、また心音でもあり、波と思ったのは己の身体の揺れであった。彼はロープを掴んでいる片腕の力をそっと緩めると、誘蛾灯に集まる蛾のようにくるりくるりと回転しながら地上まで下りてくる。そうして彼は、
「ねえ、王子様」
 と言って、目の前に立つ君の瞳をじっと覗き込んだ。
「いつか僕はまたいつか会うことがあったら、そのときは≠ニ言ったね」彼は今はじめて君と目を合わせ、そう笑んでは呼吸の速度で首を傾げる。「あのときの秘密を教えてあげようか」
 眼前に迫る彼を目にした君は、それでもそこから一歩足りとて動くことはなかった。彼はその瞳から笑みを失して、月光がやってくる入り口の方をまるで海原であるかのように見やる。それから再び君へと視線を向けた。君の目線の少し下から差し出されるそれは、なんだかつま先がむずむずするような感触を保っていた。
「またいつか会うことがあったら、そのときは」彼はそう囁き、君の手の甲をそうっと撫でてみせた。「僕はもうスワンじゃない。少なくとも君の隣に立つことはない。今日これきりだ。僕はこれから、君の前にしか立たない。レイヴンとして。だから──これを運命だと思うなら、君は今、僕の手を取って永遠にするべきだったね」
 彼は純に、そしてどこか邪悪にそう微笑みながら、心臓をなぞるように君の下睫毛を指先で撫でた。君の瞳の中には最早動揺も躊躇もなかったが、しかしその海は決して凪いでいるわけでもなかった。灰みの海には今ちらちらと無数の色が浮かんでは弾け、立つ波はさながら沸騰する泡であった。それは怒りと呼ぶには邪で、憎しみと呼ぶには純だった。
「アリア」水を呑みながら渇き続けるような声で、君は彼を呼んだ。
「質問があるなら、あのかわいい呼び方をしてよ」
 君は息を吸い、声を絞り出した。「……魔法使いさん」
「何? ああ、そうだ、君は知ってる?」満足げに頷いて、彼は君に向かって突飛な言葉を投げかけた。「燃える星は、最期にすべてを巻き込んで爆発する。破壊する。そして、何もかも呑み込むのさ」
 彼の白い革靴が舞台の板を鳴らし、その音を追いかけて継ぎ接ぎの羽ないし尾がずるずると地上を這っている。彼は舞台を不規則に歩き回りながら、何か歌っているようだった。鼓膜を溶かしてしまいそうな甘い歌声が、月光にも毒霧にも見える柔らかさで天井の闇へと向かっていく。
「舞台は海だ。それは君の目の中にあるもので、僕の目を映すもの」
 言って、彼は振り返った。振り返り、その波を受けるように片手を君へと差し出した。
「だけど、海を支配することができるのは太陽だけだ。太陽だけが海を支配する。蹂躙する。誰もが海からやってくる太陽を、沈む太陽を、朝焼けを、夕焼けを目の当たりにしたとき、その姿から目を逸らすことなどできない」彼は手の上で海を転がし、一層美しく微笑みながらそれをぐっと握り込んだ。「いつだって人は、燃えているものの方を見る」
 君は立ち止まり、彼の蠢くさまを見ていた。彼はゆっくりと君の元に戻ってくる。いつの間にか、雑誌は床の上に落ちていた。彼の衣装の長い尾羽も切り離され、砂浜に打ち上げられた蛹のごとくに舞台の端に棄てられていた。
「アリア」君は静かに、ほんとうに静かに、けれど夜明けのように激しいまま再度問うた。「どうしてスワンを辞めてしまったの」
「簡単なことさ」
 彼は鼻歌でも口ずさむみたいにそう笑った。君は彼を見ていた。彼も君を見ていた。彼が唇を開き、そこから言葉が紡がれる。ああ、それは。
「だって」
 それは、ぞっとするような密やかさをもつ、まじないみたいな声だった。
「──だって、月はきれいでも燃えないじゃない?」
 海は太陽を見ていた。
 太陽を見ていた。
 海が、見ていたのだ。


20221218 執筆

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