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春に生まれた鳥が一番強い



 まさしく今日だ、と思った。
 それはレッドアップル・レグホーンが二十五を迎えた年の春であり、夜だった。月明かりの差す路傍に立ち尽くす彼は重たい夜空を見ていたのか、或いはもう遠い大劇場を振り返り、今しがた過ぎ去った己の栄華を眺めていた分からないが、空は鳥曇りの様相を成しており、薄暗く、雲の切れ目から差す月光の他には星の一つも見えはしなかった。辺りの劇場が皆々眠る夜更けだったこともあってか、エクランのテアトル通りにあっては珍しく、辺りには人っ子一人見当たらなかった。風も吹かず、物音さえなかった。
 彼にはただ、自分の薄い呼吸音だけが聞こえていた。耳の奥では、それよりも烈しく客席からの拍手が鳴り響いている。第四の壁を叩き割らんばかりの轟音。立ち上がり手を打ち鳴らす観客の魂から響き渡る、熱狂の渦巻く音。そこでは笑顔に音があり、涙にもまた音があった。 観客の感情全てが拍手として昇華されていた。感激の音。歓喜の音。狂熱の音。音、音、音。
 瞬間、それが果たして自身に向けられたものなのか──この音らはいったい誰に向けられたものだ?──が信じられなくなり、同時にああ、だからこそ、まさしく今日だったのだ、と彼は感じた。レッドアップル・レグホーンが舞台を降りるには、まったく今日がふさわしい、と。ここが限界地。己の涯て。この先が奈落なのか、それとも溟渤なのか、それさえも見えなくなってしまって、もう久しい。大烏の衣装の羽を畳む。それは最早自分のものではなかった。もうこの舞台の上には、舞台衣装を、レイヴンを纏うに相応しい人間はいない。ゆえに、これは別れだった。二十年余り共に過ごしたレイヴンという半身との永遠の、永劫の別れ。彼は、彼こそが今この劇場に鳴り響く拍手を一身に受け、客席に向かっては幾度も礼をし、手を振っていた。私ではない。私ではなく、彼だった。最後のカーテンコールでさえ、言葉を発したのは彼だった。
 残響、残響、残響。
 何もかも、残響。
 レッドアップルの両手には鞄も上着も、花束の一つさえなかった。彼は今日、彼≠ノ捧げられたものと彼がこの二十と数年抱え続けてきたものをすべてエクラン劇場の楽屋へと置いてきたのだ。これまでの何もかもを置いていくことに、しかし不思議と悲しみはなかった。寂しさも感じなかった。だからといって、喜びもない。ただ、毎日水を換え、手入れを欠かさなかった花がついに萎れて枯れたさまを見る、その心持ちがした。
 頭上の月はレッドアップルの影を越えて、エクラン大劇場に向かって差している。花は枯れた。スポットライトの明滅は花びらの散るさまだった。それでも拍手が咲いていた。溢れんばかりに咲いていた。だから何もかも置いてきたのだ。これより先、散ってなお花は咲き続ける。咲き誇る。レッドアップル・レグホーンの演じたレイヴンの姿が劇団ロワゾ史に残り続ける。自分があの舞台に上ることがなくなっても、己の演じたレイヴンの姿ばかりは劇場に残り続ける。おそらくは、観客の心にも。劇場は、役者は、観客に新たな喜びを与えるものであると同時に、観客の中にある記憶の鮮烈な再生機でもある。いつか、自分が演じたあの物語をまた新たなレイヴンが演じることになるだろう。観客はそこでまばゆい新たな喜びと共に、かつて自分の引退公演を観た者ならば、懐かしい想い出に邂逅する。レッドアップルのレイヴンは生き続ける。あの劇場で、観客の心で、自分がいつか死んでも。すべては彼≠フものだ、レイヴンのものなのだ。だから、置いてきた。これまでから今日まで得てきたものは、すべて彼のものだ。両手が軽い。ああ、身体が軽い。今羽ばたいたら、ほんとうに空が飛べそうだ。もう、羽もないのに。
 レッドアップルはようやく前を向いて、歩を拾いはじめた。こんなにも身体が軽いのに、靴音は今までと同じ重さと音で硬く鳴る。劇場から遠ざかるほど耳の中の残響が遠ざかり、指先からは熱が失われていく。ぬるい街灯の光が足元を照らしている。その光を踏む。右。左。右。左。そして不意に、彼は足を止めた。重なるように、或いは追い越すようにレッドアップルのそれよりも早い速度で靴音が鳴っていた。けれども、誰、とは思わなかった。それは劇場に響き渡る拍手と同じほど、聞き憶えのある音だったから。振り返る必要もなかったが、けれどそうせずにはいられなくてレッドアップルは後ろを向いた。
「ゾーイ」
 レッドアップルにそう呼びかけられた恰幅の良い高年の女性は、彼の乳母でありレグホーン家付きの執事である。彼女はそのきちりと結い上げた夜会巻きからしかし一房も二房も髪を垂らし、長い白のコートを揺らしては息せき切らしてつかつかと近付いてくる。レッドアップルは彼女の方へ歩み寄り、形の良い眉尻を淡く下げた。
「ゾーイ、車を呼んでおいたでしょう。何故ここに?」
 問われて、ゾーイはかぶりを振る。「何故って、それは坊ちゃんが上着も羽織らず出ていかれるからでしょうに。いくら公演後は暑いと言っても、油断していると風邪をお召しになりますよ。それに、お忘れ物もたくさん」
 ぴしゃりとそう発して、ゾーイは両手に抱えた荷物の内、豊かで繊細な香りを放つ大きな花束をレッドアップルの鼻先にずいと押し付けた。そんな花束の突然の強襲にレッドアップルはぎょっとする間もなく視界を花で埋め尽くされ、甘やかで瑞々しい花の香りを顔中で受け止めることになった。ただ、それでも彼の両腕は脚に添って垂らされたままだったが。
「まあ、私めには花束一つと坊ちゃんの鞄に上着で精一杯でございますから」ぐいぐいと押し付けても中々花束を受け取ろうとしないレッドアップルにとうとう痺れを切らして、ゾーイが花束を緩く振りふり言う。「他のお忘れ物はすべて、坊ちゃんがお呼びになった車に乗せてお屋敷まで運ばせましたがね」
「え」レッドアップルは花びらに睫毛を擽られながら思わず呟いた。「すべて?」
「ええ、すべてですとも。みいんな、ですわ」ゾーイは鞄と上着を持っている方の手を腰に当て、得意げに胸を張る。「何か問題でも?」
「いや……」レッドアップルはようやく花束の包みに片手の指先を触れさせて、小さく洩らした。
「なんです? 大きい声で仰ってくださいな」
「うん」花束と、ついでに上着や鞄をゾーイから受け取って、それらを両腕で抱えながらレッドアップルは微笑んだ。「なんでもありませんよ」
 そうしてレッドアップルは今しがたゾーイがやってきた大劇場方面へ向かう道を、その月が照らす方をふっと見やり、それからくるりと踵を返して軽やかな足取りで──レッドアップル自身がいつもする、およそ最も機嫌好く聴こえる靴音で歩を進めた。突き当たりの広場には、今は弾き手のないストリートピアノがぽつんと街灯の明かりを受けて淡い光の輪郭を保っている。
「坊ちゃん?」不意に足を止めてピアノを見つめるレッドアップルにゾーイのまなざしが傾いだ。「弾かれていきますか?」
「いや」レッドアップルは花束を抱え直し、かぶりを振る。「いいんです。なんだか、ピアノを弾くと未練が残りそうだ」
「未練?」
「ピアノの音色には呼吸がある。ながく、ながく、余韻が残るでしょう」
「さあ、それの何が悪いのやら、ゾーイには分かりかねますわ」心底不思議そうな顔をしながら、ゾーイはピアノの黒鍵を指先で押し込んだ。「坊ちゃんのチェンバロだって、私の耳には残りますし」
 黒鍵のソないしラは、春の夜の中でどこか冬の星の瞬きめいた響きをもっては広場で静かに、目線よりもわずかに高い位置で広がる。ゾーイが二言三言何か発して、レッドアップルも二言三言返事をした。冷えてきたのでそろそろ戻りましょうというゾーイの言葉だけがきちんと脳までやってきたので、レッドアップルは腕に引っ掛けたまま忘れていた自身の上着を彼女の肩に羽織らせ、『ねこふんじゃった』を弾くゾーイを──彼女は楽譜が読めないが、この曲だけは弾けた──ぼんやりと見やった。暑くも寒くもなく、両手両脚の感覚はとうになかった。自分が何を話しているのかもよく分からない。ただ、ピアノの音に混じって、また舞台の残響が、遠い、ルニ・トワゾでのレッスンさえも耳の中に戻ってくる。喉が震えて、歌が溢れて、高く飛んで、低く飛んで、ステップを踏んで、高く飛んで、低く飛んで。
「……坊ちゃん?」つと、ゾーイが演奏をやめてレッドアップルを見上げた。
「ほんとうは」沈まなくなった鍵盤を見つめて、彼は呟く。「ほんとうは、劇場に、すべて置いてきたかった」
 小さな声だった。吹けば飛ぶ、紙粉のようなものだった。果たしてゾーイの耳まで届いたかも分からないそれを、しかし彼女は拾い上げ、あたかも言われる前から分かっていたふうな瞳の色でわずかに笑んだ。
「それはね、坊ちゃん、難しいものですよ」そしてじつに柔らかく、けれどもはっきりと彼女は言う。「そんなことはきっと、はじめからあなたにも分かっていることでしょう?」
 その言葉に、レッドアップルは瞬きもせずゆっくりと力なくかぶりを振った。
「たとえば坊ちゃんが自分の肌を切って、血を流してそれをどこかに置いてきたとしても、坊ちゃんの中には同じ血が流れ続けます。それと同じことですよ」言いながら、ゾーイは花束を抱えているレッドアップルの手の甲にそっと触れた。「そんなことをしたってただ痛くて、傷が残るだけでしょう。だから、自分を傷付けるのはおよしなさい」
「自分を傷付ける?」レッドアップルが自分の手を見下ろし、要領を得ない様子で呟いた。「……僕が?」
「どうせ坊ちゃんは自分のことをレイヴン失格だの、役者として失格だのと思ってらっしゃるんでしょうがね」ゾーイは毅然とした態度で続ける。「そんなことを思ってるのはこの世で坊ちゃんだけでございますよ」
 そう言うゾーイの瞳には、乾いた呆れや叱責の苦みとはまた違う、名状しがたい柔らかさの色が浮かんでいた。レッドアップルはその自分よりも何倍も星月を重ねた、花曇りの空ともまた異なる、さながらすべてを見透かす月光めいた灰色を目の当たりにすると、いつでも心臓がくしゃくしゃと一回り小さくなるような思いがするのだった。
「でも。だって、僕はほんとうに、レイヴンとしては……」ゆえに、レッドアップルは少し固く結んだ唇の間から、力のない駄々のように声を洩らした。「僕はずっと、スワンを、やりたくて……」
 そう言ってしまってから、レッドアップルは息を呑むようにして口を噤んだ。
 それを言葉にするのは生まれて初めてだった。指先がちりちりとして、背中が後指を指されたときみたいにざわりと熱かった。背骨が噛み合わせを失った歯のごとく力をなくすのを感じて彼は微かに俯き、自らの履いている、つやつやと光沢の美しいレイヴン然とした革靴を見下ろした。ああ、と思う。ああ、言ってしまった。言ってしまった! 言えば、言葉にしたならば、少しは心が満たされるものだろうと思った。この虚ろな空洞がわずかでも満ちるのではないかと思った。レッドアップルは唇を少し開き、空気を吸うでも吐くでもないままにまた閉じる。吸わないでも、肺の中が冷たかった。熱かった指先は急速に熱を失い、それを自覚すると共に頭の奥も冷えていった。心が満ちることはなかった。ただ、うなじに羞恥ばかりが留まり、焦燥でも絶望でもないやるせなさが足元に散らばっている。むしろ、喉と肺の間にある空洞はその大きさを増したようだった。スワンにはなれない。ずっと分かっていたことだった。自分はレイヴン・レグホーンの血を受け継ぐレグホーン家の役者だから、と理解して演じてきた。そして、己がスワンよりもレイヴンの才に秀でているからと、そう納得もしていたつもりだった。だから、この穴の広がった分は、きっとスワンやレイヴンはおろか、役者ですらなくなった自分の分だった。自分はもうスワンにはなれない。レイヴンでもいられない。永遠に。永遠に。永遠に! けれど、それを選び取ったのは、他でもない自分だった。レイヴンでい続けることに限界を感じた、無力な自分。
 レッドアップルはややあって、ようやく顔をそっと上げてゾーイのことを見た。彼女がどんな目をしているのかを知るのがおそろしくて、彼は忍び寄るようにそろりとゾーイの瞳を窺ったが、
「──存じ上げておりますよ」
 視線がかち合った瞬間にふっと笑みに似た声色で発されたその言葉に、レッドアップルは思わず両の目を溢れ落ちそうなほど丸くした。
「……え?」
「だって、私はあなたの乳母です。それくらい分からなくてどうします?」事もなげにそう言って、ゾーイはレッドアップルの屋敷がある方角を一度見やってから再び視線を戻す。「あなたほどスワン・スーダンのお屋敷を大事に想う方はおりませんよ。その壁に飾られているガラスの靴も含めましてね」
 レイヴン・レグホーンとスワン・スーダンの他にはね、と付け足して、ゾーイは幼子のように両目の奥で震えているレッドアップルを見つめ、ピアノチェアから立ち上がった。
「私には、スワンをやりたいからレイヴン失格というのはあまり意味が分からないのですよ、坊ちゃん」そう言うゾーイの声は突き放すようなものではなく、小さな子どもに目線を合わせるために腰を落とすときのように、それはそれは穏やかな声色だった。「夢、希望、理想の自分──そんなものは誰だって持っているものじゃあありませんか。何もおかしいことはありません。恥じる必要もございませんよ。このゾーイにだって、口に出すのが憚られるような望みがありますわ」
 はっとしてレッドアップルは問うた。「ゾーイにも?」
 彼女は頷き、ゾーイ・ゼフィールという人間が重ねた年月を物語る手のひらを、その皺の数だけでは測りきれない無数の苦悩があっただろう胸の上に置いてふっと微笑んだ。
「私は、できることなら坊ちゃんの親になりたいのですよ。執事でも乳母でもなく、ほんとうの、本物の親に」
「……僕の、ほんとうの親?」
「ええ。だって、そうしたら私は、坊ちゃんが堂々とスワンができるよう、いくらだって戦うことができるでしょう。あなたにそんな顔をさせなくても済むように」目元に深く皺を刻んで、ゾーイはほんの少し切なげに、しかしそれでも気丈な表情でにっこりとする。「……これを聞いて、あなたは私のことを軽蔑しますか? 執事失格だと思う?」
「ま──まさか」驚きに目を見開いたまま、しかしレッドアップルはすぐにかぶりを振った。「あなたは最高の執事で、僕の乳母だ。それに僕は──あなたのことをほんとうの親だとさえ思ってるよ」
「ありがとうございます」そう笑うゾーイはまるでレッドアップルの返す答えが分かっていたかのようだった。彼女は子どもを元気づけるみたいに、自身の手でレッドアップルの腕を軽く叩く。「ですので、それと同じことですよ、坊ちゃん」
「でも、それとこれとは」レッドアップルは抱えた花束の包みをぎゅっと握り締めた。「僕はレグホーン家の人間で、レイヴンの血を引いた役者で……」
「むしろ、だからこそですよ、坊ちゃん」
 きっぱりと言いきったゾーイの声に、レッドアップルはぱちりと瞬きをしては眼前の強かなる双眸を見た。ゾーイもまた、その底光りする瞳をレッドアップルに向け、すっと息を吸った。
「もちろん、守るべき伝統もあるでしょう。だけれど、そればかりに固執していては人は腐ります。人が腐れば、そこから生まれる芸術も腐っていく。それに、時代もゆっくりとですが着実に変わりますわ。劇団ロワゾ──あなた方はいつも、それを追い越す勢いでなくては。でしょう?」それは大樹のように強固でありながら、そこを吹き抜ける風のごとく爽やかな、夢もそこに待ち構える苦悩も忘れない年輪めいた不思議な導きの声だった。「ですから、あなたこそ、堂々と夢を語らなければ。あなたの後ろに続く者の中にどれだけ、あなたと似た苦しみを抱える者がいることか。あなたの責務は夢を隠すことではなく、苦しくても怖くても、夢を叫んでみせることです」
 臆することなくそう断じたゾーイの声はひどく優しいものであったが、けれど決して易しいものではなかった。彼女は真っ直ぐにレッドアップルを見つめたまま、微笑みにも似た柔らかさで自身の肩を少し落とす。
「レグホーン家がただレイヴンを演じることに拘っていると知ったら、きっとレイヴン・レグホーンは悲しむでしょうね」そして、はっきりと、かつ自信ありげに彼女は言った。「レグホーンは男役の血筋ではなく、夢の探求者の血筋であるべきなのですから」
 そんな彼女の言葉に、レッドアップルは耳の中にまた観客の拍手と、それから表情や照明の煌めきが音となって響き渡るのを感じた。夢の探求者>氛氓サれは、どこかで聞いたことのあるような月並みの表現で、不確かで現実的ではない、だからこそ口に出すには相応の覚悟の必要な、なんと甘美な響きだろうか。なんだか、心臓を内側からどう、と撃ち抜かれたような気分だった。
「でも」レッドアップルは眉を下げ、まるで相手を低いところから見上げているような光を目の中に宿しながらゾーイのことを見た。「僕は今日、ロワゾの舞台を引退したんだよ、ゾーイ」
「まったく、今日の坊ちゃんはでもが多くていらっしゃいますね」ゾーイは肩をすくめて、両腕を組んだ。「そんなもの、またデビューなさったらよろしいでしょう」
「で──できないよ、そんなの」
「でしょうね。坊ちゃんは生真面目でいらっしゃるから」そう言うや否や彼女は組んだ両腕をすぐに解いて、今度ははあと大きな溜め息を吐く。「子どもを助けるためとはいえ、落ちたら死んでしまう高さに飛び出していく勇気はお持ちなのに」
 もう何年も前のことを引き合いに出されて、レッドアップルは内心ぎょっとした。「え……まだ根に持ってるんですか? でも、あれは状況が状況だったので」
「でもはもう結構。あのお話を聞いたとき、私の心臓がいくつ止まりかけたことか」言って、ゾーイはかぶりを振り、それから腰に手を当てて人差し指を振った。「でも、あなたにはそういう勇気がある。そしてしっかりと未来を繋ぐ力もある。あなたには、あなたにしかできないことがあるんです」
「僕にしか?」
「ルニ・トワゾの学園長、レイクネス・レグホーン様がご隠居を考えていることはご存知ですね。後任は未だ決まらず会議は常に膠着状態で、レグホーン本家分家のどのような人材を挙げてもレイクネス様は首を縦に振られない」ゾーイは厳格なレイクネス・レグホーン──レッドアップルの大叔父にあたる──の表情を真似たのか、眉間にぎゅっと皺を寄せながら、しかしレッドアップルの方を見て意味ありげに笑んだ。「そんな中でどなたかが気まぐれに出したお名前に、あの方はたった一度だけ頷かれた。それがあなたです、坊ちゃん」
「え、……え?」思わぬ白羽の矢に、レッドアップルは言葉に詰まった。「僕?……どうしてです?」
「あなたはよくお忘れになりますがね。かのダリア・ダックブルー様を見出したのも、彼の師と呼ぶべき人物なのも、他ならぬあなたなのですよ」ぎゅっと花束の包み紙を握り締めたままだったレッドアップルの手を赤子の背を撫でるように包んで、ゾーイはその大木を宿した瞳を彼の方へ向けた。「ご自身の目と感性、そして力をもっと信じておやりなさい、坊ちゃん」
 レッドアップルは力を込めていた手を緩めて、音もなく息をした。
 自分の呼吸が聞こえない代わりに、ずっと耳の中で残響が鳴り止まなかった。今までのすべてのものが一斉に立ち上がって、音となって耳の中で鳴っていた。舞台袖の忙しなさ、幕開け直前の胸焼けのしそうな静けさ、緞帳の上がる音、オーケストラピットの指揮棒が空を切る音、役者たちの朗々とした声、歌、足音、楽団の音楽、歌、歌、歌、目まぐるしく切り替わる照明、幕の下りる音、拍手、拍手、拍手、カーテンコール、拍手、それに混じって、聞こえるはずのない時計塔グラン・ククの鐘の音が聞こえてくる。それから靴音。階段を上る音。何故だかまた幕の上がる音もする。両手の中には小さな鳥。上がる緞帳の隙間から飛び立つその羽ばたきは、どんな鳥のものかは分からなかったが、それが素晴らしく美しい響きだったから追いかけてみたくなった。すべてが鳴っている。うるさくはない。今までの何も、うるさいものなどなかった。どう、と心臓が鳴っている。その感覚に、そうか、と思う。そうか、心臓を撃ち抜かれたのではなかった。これはノックの音だった。激しく扉を叩く音。自らが自らに告げる、感情の律動だった。欲望だった。警告だった。同時に、希望ですらあった。鼓動だった。そうか。自分は、演劇が好きだった。好きだったのだ、ずっと。ずっと。ずっと。ずっと。
 ずっと。
 レッドアップルは息を吸い、
「ゾーイ」
 と、息を吐くように呟いた。
「はい、坊ちゃん」
「今日の舞台、どうだった?」
「素晴らしゅうございました。今までで一番、あなたは輝いておられた。あなたはいつでも、今が最も美しいのですよ」ゾーイは迷いもなく、心底誇らしげに胸を張ってそう答え、それからレッドアップルの持つ花束を手のひらで示してみせる。「坊ちゃんは役者なのですから、私を含めた観客の涙や愛を否定なさってはいけません。その両手に抱えたものをご覧なさいませ」
 言われるままに、レッドアップルは視線を自分の腕の中にある花束へと落とした。思えばゾーイに手渡されてから今まで、ろくに視線を向けてもいなかったのだ。眼下のすぐそこで、こんなに甘く華やかな香りを放ち続けていたというのに。
 花束は林檎の花束であった。包み紙はレッドアップルの地毛であるほとんど白に近いプラチナブロンドを模したアンバーホワイトであり、リボンは左右で微かに異なる色をした彼のそれを混ぜ合わせたような、赤みがかった黒だった。包み紙の内側は真っ赤な林檎を中心に、どこか照れたような林檎の白い花と、やはり彼の髪色に似たクリームがかった白いバラが彩られ、その周りには林檎の花の色に近い桃色のヒペリカムがちりばめられていた。レッドアップルは眼前の花束をその両目でしっかりと見つめ、それからゆっくりと、ひどくゆっくりと瞬きを一度だけした。これは、誰がどう見ても、誰がなんと言おうと、明らかにレッドアップル・レグホーンへと贈られた花束であった。公演の登場人物にでもレイヴンにでもなく、ただそれを演じたレッドアップルただ一人へと贈られた花束であった。
「坊ちゃん、これだけは諦めてお認めなさい」
 そして、花束を見つめて立ち尽くすレッドアップルに、つとゾーイがそう語りかけた。
「──あなたは愛されたのです。レッドアップルのレイヴンは美しく力強く、魅力的だった。あなたもあなたのレイヴンがたいせつで、愛した。此度の引退は、あなたが自らのレイヴンを守るために決断した、役者として誇りある選択だったと、いい加減そうお認めになりなさい」ゾーイは言いながら、これまでで一番力を込めてぐっとレッドアップルの腕を握った。「今まで積み重ねてきたものは、そうして今日まで手にしてきたものは、すべて、みいんな、レッドアップル様──あなたのものですよ。ですから、置いていくなんて言わずに、ちゃんと持って参りましょう。重くても」
 レッドアップルは花束から顔を上げて、エクラン大劇場の方向を振り返った。彼はどっと押し寄せてきた疲労感と身体の重さから立っていられなくなり、ふらふらとピアノチェアに腰を下ろす。はじめから、身体は軽くなってなどいなかった。耳の中で鳴る残響がすべてを物語っていたというのに、それに気付けもせず何もかも置いてきた気でいたのだ。舞台の上に、劇場の中に、己のレイヴンだけを置いてくるなど叶うわけがない。役者であった自分だけを置いてくるなど叶うわけが。役者が去れば、舞台には何も残らない。物語の中に、自分の名はない。また別の役者が、同じ名の物語を演じるばかりだ。新たな形で。だから、あの劇場に、ロワゾにもうレッドアップルはいない。同じく、レッドアップルの演じたレイヴンもいない。存在しない。レッドアップルは、彼が演じたレイヴンは、彼という役者はもう、観客の中だけにしか存在しない。それが残響。それこそが残響だ。すべてはここにある。重さを伴って、自分の中に。まだ、ここにある。
「ゾーイ」椅子の上で花束をかき抱くようにして、レッドアップルは震える声で呼びかけた。「僕は、……ちゃんと、できて、いた……かなあ……?」
 ゾーイはレッドアップルの前で中腰になり、目線を合わせてはしっかりと頷いた。「坊ちゃんは世界一の役者様でいらっしゃいますよ。これからも、何百年経ったって変わりはしません」
「今になって、色々想い出すんです」
「どんなこと?」
「楽しかったこと」林檎の果実が、降り注ぐいくつもの水滴をぱたぱたと弾いた。「僕、ほんとうに、ずっと楽しかったんです、ほんとうだよ、ほんとうに……」
 消え入るような声でそう呟くレッドアップルは、そうしてしばらくの間その声よりも小さくしゃくり上げ、嗚咽を洩らした。ゾーイはそんな彼のことをそっと抱き締め、
「これからもっと楽しくなりますよ」
 と微笑みながらその背中をやさしく擦り続けた。
「レッドアップル様、どうしても叶わない夢というのは誰にもあるでしょう──舞台の上では特に。ですが、チャンスというのは誰にでも一度くらいは与えられて然るべきです」目にいっぱいの水の膜を張るレッドアップルの涙を拭ってやりながら、ゾーイはその背をとんとんと軽く叩く。「だから、あなたがお変えなさい。未来の役者たちのためにも、あなた自身のためにも、夢が、なりたい自分があるのなら、足掻いてチャンスを、舞台そのものを形づくりなさい。あなたにはその勇気も、実力も、そして何よりレグホーンという家名と権力がある」
 ゾーイは言いながら勢い付いて、今度はレッドアップルの両肩をぐっと握った。それくらいではびくともしないレッドアップルはゾーイの言葉を真正面から受け止め、目の前の深みある瞳が未来のためにきらきらと輝きはじめるさまをじっと見つめていた。
「使えるものはすべて使って、誰もが最も美しい姿でいられる劇団ロワゾを作る。ルニ・トワゾから新しい風を送り込むのです! レイヴン・レグホーンならきっと、面白いと笑ってくださいますわ」ゾーイは更に言葉を継ぎ、どこか楽しげな様子で片方の指先をメトロノームのごとく振った。「それにほら、水面下で足掻くのは得意でしょう、スワンなら?」
 そんな彼女を前に、レッドアップルはもう泣いてはいなかった。彼は花束の方に顔を向けてしばしのあいだ瞼を閉じると、それからふと決心したように顔を上げる。
「僕」レッドアップルは零れ落ちそうになった涙をぐい、と指先で拭った。「──、やります」
「そう仰ると思って、もうレイクネス様と共に諸々の手続きを進めております」レッドアップルの返答にゾーイは待ってましたと言わんばかりにすっくと立ち上がると、より生き生きとした様子で自信ありげににやりとした。「レイクネス様の執務室を改装致しますので、ご要望があれば今のうちにどうぞ。坊ちゃんはもっとわがままになった方がよろしいですからね」
「え? いえ、特にはありませんが……」突然の問いかけに困惑しつつ、レッドアップルは答えた。「あ、じゃあ、絵画をいくつか飾ってもいいですか?」
「もちろん」ゾーイは満足げに頷く。「ついでにご自分でもお描きになったらよろしい。引退後は絵をやるつもりだったのでしょう」
「それと……動物を飼っても?」レッドアップルが控えめに首を傾げながら問う。
 すると、彼とは逆の方向に首を傾げて、ゾーイは指先をチクタクとした。「お世話は自分でなさるんですよ。私は坊ちゃんのお世話だけで精一杯です」
「楽器を置いてもいいですか? 歌っても?」
「当然です。私だって聴きたいですから」
「ゾーイのコート、素敵ですね。そういうものを着ても?」
「ええ、お好きなものを着ましょう。子どもの頃みたいに」言いながら、ゾーイはレッドアップルの上着の下に羽織っていた自身の真っ白なコートを、先ほどレッドアップルが自分にそうしたように、彼の肩に掛けてやった。「ほら、お似合いですよ」
 そうしていくつかのやり取りが交わされたのち、二人はなんだか楽しさと可笑しみがないまぜになってしまい、目が合うと同時に声を上げて笑い合った。もう互いに時間も把握していなかったが、空の様子が変わりつつあるところを見るに相当な時間が経っていることは確かだった。鳥曇りの空では、厚く灰色を広げていた雲が少し形を崩しながら、先ほどよりも速度を速めて東の方角へと流れてゆき、ぽかりと空いた雲の穴からは深まった夜の青とも緑とも名付けがたい空と、月を中心に小さな星々がちらちらと輝いている。その月光に照らされて白く光る雲と真っ黒に翳る雲が空の中で混ざり合うさまは、どこか鳥の大群のようでおそろしくも美しかった。
「坊ちゃん、少し風が出てきましたね」空を眺めるレッドアップルに、頃合いを見てゾーイがそう声をかける。「そろそろ帰りましょうか。車を呼びます」
「うん」レッドアップルは微笑んだ。そして、そんな頷きとは裏腹に彼は両の指先を鍵盤の上に置いて、歌を歌うときのようにすうっと息を吸う。「でも、その前に──一曲だけ、いいですか?」
 そんなレッドアップルの言葉に、まあ、とゾーイが声を上げる。「なんてわがままな方なんでしょう!」
 そういうゾーイはわざとらしく目の形を三角にしながらも、声は喜色ばんで嬉しさを隠そうとさえしていなかった。レッドアップルはまだどこまでも満足に動く両手足を動かして旋律を奏で、雲の烏合に見下ろされながら、震えるままに喉から歌を絞り出した。レッドアップルの羽織る白いコートの先が、翼のようにはためく。
 雲に覆われても星月の存在を疑いはしないのと同じように、風のない夜はない。ただ、高いところを吹いているだけだ。風が吹いている。雲の上に、下に、自分の周りに、中に、この春に。
 ああ、だから。
 だから、まさしく今日だ、と思った。


 翌年の春。
 空そのものが輝いているかのようにまばゆい青空の元、咲き誇る桃と白のサクラをはらはらと舞い散らせながら、春一番がエクラン全体に吹き荒れている朝に、レッドアップルははっとするような白の上着を翻しては階段を上っていた。控えめに、かつ軽やかに鳴る足音は、少しヒールのある靴のために響いている。緞帳はすでに上がっており、舞台装置は演説台が一つのみ。幕が上がってから舞台に現れるのも、袖以外の場所から舞台に上がるのも今日が初めてだったが、彼はしゃんと背筋を伸ばし、舞台の左下に設置された階段を上っては、じつに落ち着いた様子でマイクの置かれた演説台についた。
 レッドアップルは左右で色が異なる両目で、眼下に並ぶ様々な姿で白と黒の鳥の子衣装を纏う子どもたちを──その期待や不安はもちろん、すでに自身に優越感や劣等感を滲ませつつある、今日の空よりも眩しく、そして風に吹かれて散るサクラよりも脆く若い、雛鳥たちの瞳を見渡して、マイクには見向きもせずに息を吸った。台詞を発するときのように、歌を歌うときのように、羽ばたきのように、真っ直ぐに。
「新入生の皆さん、入学おめでとうございます。保護者の皆様にも、心よりお祝いを申し上げます。また、ご来賓の皆様におかれましては、お忙しい中ご臨席を賜り、新入生の門出を祝っていただきますこと、厚くお礼申し上げます。さて、新入生の皆さんは本日より、晴れてルニ・トワゾの生徒──すなわち、ルニ・トワゾ歌劇学園と劇団の役者となりました。皆さんがご存知かどうかは分かりませんが、この学園は劇団ロワゾという歌劇団の初代座長レイヴン・レグホーンが設立した学園です。彼が生前遺した言葉の中で特に有名なものが死ね。物語がそう言うのならば≠ナす。ここにいる皆さんは誰もが特別な存在ですが、本日、たった今をもって、皆さんは誰一人特別な存在ではなくなったことをどうかお忘れのないよう、よろしくお願い申し上げます。あなたが特別であるように、あなたの隣に立つ彼も、その隣の彼もまた特別な才能や実力を持っています。ここにいる誰もが皆等しく、特別である、という条件でここに立っております。ですから、持って生まれた才能、育った環境、経験の有無、等々はこれからの我々には全く関係がありません。ここで物を言うのはそれらのものではなく、ただ、物語に死ね≠ニ言われたとき、舞台の上でどれほど完全に死ねる≠ゥ、なのです。皆さんはルニ・トワゾ歌劇──ひいてはロワゾ歌劇を愛するすべての方々の期待を一身に背負っています。ご自分の置かれている立場を忘れることなく、また、ご自分がなりたいものになることができるよう、芸事についてよく学び、研鑽し、また時にはよく遊んで、よく演じて、自らのよりよい道へと一人も欠かすことなく飛び立つことを期待しています。そして、レイヴン・レグホーンは鳥は少しずつ巣を作る≠ニいう言葉も遺しておりますので、私もそれに倣い、皆さんと一緒に本日から焦らず、少しずつ、かつ急いで今よりも更に良い、演劇のための巣を作って参ろうかと思います。ああ、申し遅れました。私は本年度よりルニ・トワゾ歌劇学園の第十五代目学園長に就任いたしました、レッドアップル・レグホーンと申します。私も初代学園長のように気の利いたことが言えたらいいのですが、何せ本日が初舞台なもので、まだ緊張しております。そうだ、今日はとても風が強いですね。こんな日には、鳥たちも高く舞い上がれることでしょう。まったく、入学式にはぴったりな日和で嬉しい限りです。皆さんはこれから、どんな鳥になっていくのでしょうか。私はそれが楽しみでなりません。何せ、こんな強い風に乗っていくのです。皆さんも思いませんか? 春に生まれた鳥が一番強い、と──」


20220925 執筆

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