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きみが幕を切り落とすのだ



 眠っているときにはよく夢を見る。
 それは無数の彩りをないまぜに織り込んだ名前の分からない色をして、今まで通り過ぎてきた時の景色を写し取っては切り貼りした、知っているようで見たこともない光景を眼前に繰り広げてみせるのだ。夢の中には左右と背後はなく、ただ前だけが存在する。現実を裁断した夢の中では闇もなく、明かりだけが存在する。声はなく言葉だけが、香りはなく認識だけが、形はなく姿だけが存在する。感触はなく感覚だけがあり、浮遊はなく落下だけが存在する。だから、夢は毎夜断罪をしている。これまでの現実を、彼は裁いている。救済もなく。


 春寒の深夜三時のことであった。アンチック・アーティーチョークは来たる新人公演に向け、日々の演技指導を通して纏めた各生徒の身体的特徴、また演技における長所、悪癖、現時点での表現力、集中力の持続時間、得意な演劇のジャンル、夢に対する目標設定の有無ないし夢の有無、等々がびっちりと一個人ごとに羅列された資料をブラックチェリーのローテーブルに広げ、テーブルに刻まれているさざ波よりも烈しい思考の海に沈んでいた。その思考の途上でふっと意識を手放しそうになるたび、これまで自身が演じてきた公演と目に映してきた公演が目まぐるしく走馬灯のごとく駆け巡る。談話室の薪ストーブは使われなくなって一月経ち、テーブル近くの電気ストーブはとっくに自動消火されていた。彼はスモークブルーの瞳を寝不足ゆえの霞目に瞬かせ、手にしていた資料を一旦机に置いてから、今度はすぐそばにあった別の書類を取り上げてはそれと睨めっこをする。
 古くからの慣習に則り、上演予定の脚本を用いて主演のオーディションを行うことを重んじるココリコとは異なって、ここアトモスクラスでは配役のオーディションを行うことは滅多になく、ほとんど指名制である。否、オーディションと明確に呼んでいないだけで、アンチックの中でそれ≠ヘ毎日毎時間毎分毎秒行われており、彼のいわゆる灰色の脳細胞とでも呼ぶべきところでは、受け持つ年によって毎時間主役候補の順位が変わることもあれば、三年間不動であり続けることも珍しくはなかった。そして今は時期的に、そろそろ役振りを決めてダリアにあて書き脚本の発注をしなければならない頃だった。アンチックはソファの背もたれには身体を預けず、空いている方の手で膝の上に頬杖をついては、その指先で下唇に触った。
 スワンは、おそらく本人も気付いていないであろう不安症による演技の粗さは目に付くが、子役としての経験も豊富なヴェール・フレネルを据えるのが至当だろう。新人公演という名の下では、彼の持ち前の華やかさがあれば多少の悪目は吹き飛ばせるし、無論粗をやすって滑らかにする時間はまだ十二分にあるから問題はない。役者としての自負と経験を持つ彼は、むしろ新人公演では大きな戦力になる。
 問題はレイヴンだ。レイヴン候補は二人──いや、三人いる。まだ、三人だ。かろうじて。
 一人目は舞台演出家を母に、舞台美術家を父にもつアイビー・アービュータス。彼もヴェールと同じく幼い頃からの子役経験があり、優秀な役者であると評判だったが、ルニ・トワゾの受験を目前に控えた舞台で台詞を飛ばすという失態を演じている。そこまでは構わないが、以降彼は舞台の本番を極度に恐れており、このままでは新人公演の出演すら辞退しそうな勢いである。二人目は元朗読家として著名な宇宙飛行士を母にもつキャメル・キャンティクラシコ。彼はまったくの未経験者であるが、母の朗読を聞いて育ったからか、或いは宇宙を隣人として過ごしてきたからか、呼吸、間、そういった空白の扱いに非常に長けたところがある。しかし、キャメルは精神的負荷に弱く、初っ端からレイヴンなどに指名すれば、プレッシャーに耐えかねて本番前に潰れる可能性も否めない。もちろん、どちらの欠点も矯正していかなければならないことに違いはないが、けれどそれは果たして今≠キべきことだろうか?
 三人目──問題はここだ──は、ソリドュ・ソレユンヌ。正直なところ、現在のアイビーが置かれている状況と経験者の隣に置くにはまだまだ浅いキャメルの状態を顧みると、子役経験があり役者としても器用で、主演に立たせても見た目の華やかさでヴェールに劣るところのないソリドュがレイヴンとして据えるには最も合理的であった。それも入学試験の段階では、だが。
 不意に、ジ、と机に置かれているオイルランプの灯が揺れ、床板がきしと控えめに鳴った。
「……あれ」それから、洩らすような呟きに継いでどこか困ったふうの、失敗を侵したふうの声色を隠し果せなかった呼びかけが響く。「先生?」
 その声にアンチックは内心手にしていた書類を取り落としそうになりながら、しかし常と変わらないなだらかさで相手の名を呼んだ。「ソリドュ。こんな時間にどうしたの?」
「それはこっちの台詞でしょ。もう三時ですよ、三時」
「そうだね」アンチックは壁に掛かった目と尻尾が左右に動くレトロ時計の、何時だかいまいちよく分からない文字盤を見て気のなさそうに呟いた。
「そうだねって──俺の方は目が覚めてちょっと歩いてたら、談話室に電気が点いてるのが見えたから誰か消し忘れたなと思ってこうしてわざわざ馳せ参じたわけですよ。偉いでしょ?」ソリドュはアーモンド型の目を愉快そうに細めた後、笑みの形の溜め息を吐きながら肩をすくめた。「さあ、それで?」
 アンチックは手の書類をちらと見る。「まあ、僕の方は仕事だね」
「大人って最高」
「これでホットミルクでもあれば完ぺきだろうね」
 そう言ってかぶりを振って、アンチックは腰掛けていたソファから立ち上がってはそのすぐ斜め隣にある一人掛けのソファをソリドュに勧める。そうして彼は部屋の片隅に鎮座している小型冷蔵庫から牛乳を取り出して、それを二人分のマグカップに注いだのちに電子レンジの中へと突っ込んだ。書類は立ち上がりざまに小脇へ抱えて、昨今ではすっかり回らなくなったレンジの皿の代わりに、アンチックは自身の頭の中をくるくると回転させていた。
「先生」そんな彼の背後から、不意に呼びかけがある。
「うん?」
「その書類、何?」ソリドュは視線でアンチックが脇に抱えた書類を差した。「……俺のこと?」
 ピピ、と軽快な音を立てて電子レンジが鳴る。アンチックはそれを教え子の元に運びながら、まあそう来るだろうな、と胸の内だけで呟いた。そして、ソリドュの予想は正しかった。アンチックが先ほどから蛇睨みをきかせていた書類こそ、学園長レッドアップルの抗議も虚しく、ソリドュの入学からの授業の出席率を鑑みて劇団ロワゾの御膝元より送られてきた、彼の今後を示唆する通知書もとい警告書だった。
「隠し立てしても仕方のないことだから、はっきり言うね」アンチックはソリドュの前にマグカップを置くと同時に、手にしていた書類を彼の前に広げ、自身は再びソファに腰を下ろした。「このままの状態が長く続くようだと、君はルニ・トワゾを退学することになる」
 書類は形式上はアトモスクラスの担任教師であるアンチックに宛てたものであったが、内容としては貴殿の担任するアトモスクラス所属のソリドュ・ソレユンヌについて学業不振で成業の見込みが認められないようであれば、ルニ・トワゾ歌劇学園学則第七一条第三項の規定により今年度の五月付けで退学処分もやむを得ず云々≠ニいうものであり、それは実質ソリドュへのまったく無慈悲極まりない警告文であった。
「……やっぱり」
 まるですっかり腑に落ちたように、書面を見下ろしながらソリドュはそう平たく呟いた。アンチックは書類を彼の前から取って、つまらないものを見せたかのようにそれを半分に折ってしまったが、それでも教え子の顔には昏い影が落ちていた。
 ソリドュはあのおそるべき倍率の入学試験を突破し、ルニ・トワゾの数少ない入学権をおのが手に掴みながらも、しかしその入学目前で突如として舞台上で動けなくなった。
 いや、知らない者がそう騒ぎ立てただけで、正確には突如ではない。これはレッドアップルとの面談で彼は吐露したことだが、ソリドュは幼い頃に実母を亡くしており、それから程なくして継母ができたという。ソリドュ自身が演劇を始めた理由も演劇好きであるその継母に起因しているようで、おそらくそれは息子となった自分に目を掛けてもらいたいという幼子の円いガラス玉のような欲求だろうと思われた。そして今春、入学前のこと、そんな継母はソリドュの実父との子を出産した。生まれた子どもはソリドュの腹違いの妹に当たる。ソリドュが舞台上はおろか、稽古中でさえ自分にスポットが当てられた瞬間、全身が竦み上がったように動けなくなり、果てには基礎練習の発声すらも満足に行えなくなったのはこの出来事があってすぐのことだった。
 彼は現状ほとんどの授業を見学という形で出席しており、稽古の第一段階である本読みでさえまともには出来かねる。ゆえにソリドュは現在ルニ・トワゾの生徒──役者として、全く機能していないのであった。
「いわゆる単位不足だね」アンチックは明け透けにそう言った。「まずルニ・トワゾでは精神的な理由における授業の見学は出席に見なされない。だからソリドュ、君は入学してから今のところほとんどの授業を欠席していることになっているのは知ってるよね。次に、ここにおける季節公演というのは一般的な学校でいう中間・期末テストを兼ねている。やむを得ない理由がない限り、在学中の生徒はこの季節公演への出演義務がある。事情があって公演を欠席した場合は、普段の授業から諸々加味して成績をつけるけど、まあ、僕ら教師は主に季節公演を元にして通信簿を付けるわけで、その情報は何もルニ・トワゾ内にだけ留まるものじゃない。この学園の運営権は劇団ロワゾにあるから、君たち生徒の成績はそのロワゾの現座長ひいては会長のところまで届き──どんな事情があるにせよ、基準点に満たない役者はルニ・トワゾを中途退学することになる。現状、ここには原級留置の制度がないからね」
 そんなアンチックの説明は、しかしソリドュの耳にはほぼ入っていないようだった。まだ少年と呼ぶべき彼は今しがた目の前に広げられた紙面をさながら死刑宣告とでも思っている様子で、ラズベリーの瞳に深い絶望の色を刻み込んでは、俯く前髪がその鼻先にまで重い影を落としていた。
 ややあって、ソリドュが口を開く。「じゃあ、俺、ここから出ていくことになるわけだ」
 その声色というものの、なんとひどく痛々しいことか。表情を無理に笑みの形にしようとして歪んでしまった唇から発せられた少年の声は、やはりいびつに震えたものであり、それというのはまるで自嘲にも涙声にも聞き取れるような響きを以てアンチックの耳まで漂ってくる。
「まさか。まだ取り返せるよ」
 アンチックは至極落ち着いた態度でそうかぶりを振ったが、けれど担任教師の表情などは最早目に入らないソリドュである。彼はふっと呼吸を──吸おうとして吸えなかった息を洩らすように、彼自身にだけ聞こえるくらいの声量で消え入りがちに呟いた。
「いいですよ、もう」
 しかし、その声はアンチックの元まで泳ぐ。「いい、って?」
「ああ、いや」ソリドュは思い至ったように顔を上げ、ぱっと顔色を取り繕ってはへらりと笑った。「やっぱ才能ないんですよ、俺。ほら、外面ばっかり良くて、中身がないっていうか? そういう部分が演技にも出てて、今そのしっぺ返しを食らってるんじゃないかなって」
 ソリドュの両手は、マグカップの前できつく握り合わされている。テーブルの上では、オイルランプの火が心許なく震えていた。風のせいではない。風は吹いていなかった。「君をルニ・トワゾに選んだのは僕だよ、ソリドュ」
「え?」
「僕が君を選んで、アトモスに入れた」アンチックは睫毛を上げ、す、とソリドュを見た。「君が本当に才能なしなのだとしたら、それは僕の責任だ。君を選んだ僕が間違ってた」
「そ──」相手の言葉にソリドュの口がはく、と動く。だが薄く開いたその唇からは笑い声は発されず、洩れ出たのはただ、口内に血溜まりを含んだような苦しげな声のみだった。「……そう、そうですよ、だからそもそもここに入れたことさえ間違いで……」
 そんな言葉を聞くときでさえ、アンチックはソリドュから自身の目を逸らすことはなかった。アンチックは猫背にソファへ腰掛けたまま、膝の上で祈りの形をとっていた両手を解き、今度は両指の腹同士を合わせてはそれを口元に持っていく。見つめるほどにソリドュの両目の奥が煮立つみたいに揺らめき、手持ちの呼吸は術を失って浅くなる。オイルランプの火が揺れている。かたかたと音を立てている。アンチックはまだソリドュのことを見ていた。彼はじっと、その薄く多感な皮膚の向こう側にある心臓がぐしゃぐしゃと掻き毟るように喚き立てるさまを見つめ、
「──でも、僕は間違えない」
 そして不意にそう呟いたのだ。はっきりと。
「はい?」
「間違えない」アンチックはソリドュに向かっていま一度くり返した。「僕は君の先生なんだから」
 あまりにも毅然としたアンチックの物言いに、ソリドュは虚を突かれて言葉通りに目を丸くする。アンチックのスモークグレーの瞳は今ちかりと白く、火の輝きを反射するように閃いている。狂気という名をした色があるとするならば、おそらくこんな様子なのだろう。彼はマグカップの取っ手に差されたスプーンを取り、それでホットミルクの膜を破る。その白い穴の中に、オイルランプの灯が反射してじわりと広がった。
「僕は光るものが好きだ」アンチックはスプーンにくるくると乳白色の膜を巻き付けながら言った。「特に、その光るものの揺らぎが好きだ。震えてからより一層強く燃える炎が好きだし、ちかちかと救難信号を出して輝く夜空の星が好きだ」
 ソリドュもそんな相手につられて手元のマグカップに視線を落とし、笑みとも蔑みともいえない速度で口角を微かに上げる。「……悪趣味ですね」
「そうかな? でも、君の才能はそれだよ」アンチックがホットミルクを混ぜる手を止め、瞭然たるといった声色でそう発した。「君には震えるような才能がある。演劇を始めてからまだ数年にもかかわらず、君には登場人物の心情を豊かに演じる表現力もすでにある。それを才能と呼ばずになんて呼ぶんだろう?」
 ソリドュは握り合わせていた両手の力を少しばかり緩めた後、それを再びぎゅうと握り込んだ。彼はテーブルの上に規則正しく並べられている各生徒の資料をちらと見やり、それから力なく目を伏せた。
「ありません、もう何も」そう呟く彼には首を振る余力さえ残されてはいないようだった。「何も」
「ある」アンチックは静かに否定した。「両手も両脚も、君にはある」
 ソリドュはそろりと視線を上げ、その長い睫毛の間からアンチックの方を盗み見た。それから彼はすぐに目線を落とすと、握り合わせた両手の穴をぼんやりと見つめる。「仮に……仮に俺に先生が言うような才能があったとして、それをどうするかは俺の問題でしょう」
「そうだね、君の問題だ」アンチックは頷き、答えた。「だから、僕も考える」
「なんで?」
「さっきも言ったよ。僕は、君の先生だって」
 ソリドュはアンチックの顔を見、担任教師が持っている先の警告書を見やった。少年が視線を逸らした先には、火の潰えて久しい薪ストーブがある。その前に置かれたスツールには、誰が置いたのか顔だけがソフトビニール素材のぬいぐるみが鎮座しており、火の生まれるところにはすでに席はないようだった。スツールの近くに佇む有名映画の宇宙人が、しわくちゃの顔に青い瞳を乗っけては、偽物の瞳で本物の鼓動を聞くように、少年のことをじっと見つめている。ソリドュはそんな実物大スタチューから視線を逸らし、
「俺がもう何もできないししたくないって言ったらどうするんです」
 と、吐き出した。彼はアンチックの方を向いてはいなかった。どこを見ているわけでもなかった。行き場のないまなざしが、テーブルの上で立ち止まりながら彷徨っていた。
 アンチックはそんな教え子の瞳をむやみやたらに覗き込むことはしなかったが、しかし代わりにこう問うた。「理由を聞くかな。どうして?」
「だって、もう何もないんですよ、先生。俺には何も」ソリドュはもう、ほとんど目を瞑ったままそう呟いていた。「そもそも演劇だってさして興味はなかったんだ、しょうもない理由で始めて……全部なんの意味もなかった。してみたいことから始めてみようっていろんな先生が言ってくるけど、そうやって何がしたいのかなんて訊かれても、何もしたくないんですよ、もうこんなことは……」
「僕もしょうもない理由で役者になったよ」ふと、思い至ったようにアンチックが言う。
「そんな。俺に比べれば……」
 アンチックは微かに笑み、その表情と同じほどの柔らかさで首を振った。彼は両の手を再び膝の間で組むと、すぐ足元に小さな子どもでもいるかのごとく俯いた。
「僕はね、両親の自慢になりたくて役者になったんだ。親が二人とも役者でさ、それが一番手っ取り早い方法だったから」どこか気恥ずかしそうに、或いは仕方のなさそうにくつりとそう言って、アンチックはソリドュのことを見やる。「これがしょうもなくないなら、君のだって同じだ。始めた理由なんてどうだっていい。大事なのは、始めて、ここにいるという事実だけ」
 言われて、大人びたラズベリー色をしたソリドュの瞳が、は、と子どもの丸みを帯びてはアンチックの目を見やった。唇は味のない空気を呑んでも、言葉はおろか息さえも上手く吐き出せないようだった。
 そして、そんなソリドュに、アンチックはそっと問いかけた。「ソリドュ、君は演劇を続けていく自分を想像できる?」
「できるわけありませんよ」ほとんど口の中だけで彼はそう呟いた。「演劇を続けていく理由がないんだから」
 アンチックはかぶりを振る。「或いは、そんなものない方がいいのかもしれないね。何かを続けることに意味を持たせようとすると、そのうちその意味というやつに追いかけられるようになるから」
「何が言いたいんです」
「それじゃあソリドュ──演劇を辞める自分、想像できる?」
 相手の問いに、ソリドュはアンチックの目を見たままで何も言わなかった。何も言うことができずにいた。
 だから、その瞳を見て、アンチックは呼吸した。止めるべきではないと思った。最早足元に子どもはいない。在るのはソリドュと自分だけだった。追うべき者を見失った生徒と、それでもその背を駆り立てる教師だった。そして、目の前の彼は子どもで、自分は大人だった。ソリドュは、愛情を求めたゆえに心を千切っては舞台に手渡した、幼い子どもだった。頭からつま先までをぼろぼろにすり減らしても、視線を向けてもらいたい者から目を逸らされても、それでも舞台に縋り付き、継母と血の繋がった妹という真実打ち勝つことができない相手が現れるまでは──いや現れた後も尚、彼は舞台にしがみついていた。だって、彼はここにいる。まだ、ここにいる! それが答えで、それがすべてだった。
「表現力」言って、アンチックはわずかに頭上を見やった。「表現力は、想像力からやってくる。なら、想像力は一体何から生まれると思う?」
「……知りません」
「夢」アンチックは言いきった。
「ありませんよ、そんなの」ソリドュも言いきる。
「なら、言い方を変えたらどうかな?」アンチックが少し笑み、それから小首を傾げた。「たとえば、望み」
「望み?」
 おうむ返ししたソリドュに頷いて、アンチックはするりと視線を動かしては目の前の少年の心臓を見、それから次いでソリドュの瞳を見た。
「舞台を続けることに理由なんていらない。ただ、望みだけあればいい。上手くなりたい、主演になりたい、あいつに勝ちたい、負けたくない、賞賛されたい、有名になりたい──褒められたい。そういう望みだけあればいい」アンチックは言葉だけでソリドュの胸をとん、と押した。「君にもあるよね、ソリドュ?」
「それは……」
「自分の価値を他人に委ねるところがあるのは君の悪癖だ。でも、それは同時に役者としての宿命でもある」そう発する声は月光のごとく静かであったが、それと同時に夜にも似た確かさがあった。「だから、望みだけは自分の中でちゃんと持っていないといけないよ。他人に明け渡してはだめだ。それは君の力になる」
 ソリドュはしばらくの間アンチックの瞳に捉えられたまま、何か言葉を探して唇を声の形に動かそうとしていたが、やがてそれもうっちゃると睫毛から落ちた影ばかりで首を振り、溜め息にも諦念にも似た声で呟いた。「先生の言うことは難しい、ですよ」
「そう?」
「考えるのも、もう嫌なんです」ソリドュは一層深く項垂れる。
「でも。だって、君は演劇が好きでしょ?」けれどもアンチックはそんなソリドュのことをじっと見たまま、包み隠すところがないようにそう言った。「舞台にお前を愛していません≠チて言われたままで、君は耐えられる? 泣くほど好きなのに」
 その言葉に、ソリドュははっとした表情をして顔を上げた。それからまるでたったいま気が付いたみたいに自分の目元を触り、そうしてテーブルの上に落ちている何滴もの雫を見る。オイルランプの火が揺れる。テーブルが揺れる。ソリドュの両手が震えていた。彼はその手で自分のこめかみをくしゃりと掴むと、自覚したことによりたかが外れた涙を両目から止め処なく流し、吸いも吐きもできなくなった呼吸を苦しげに続けた。
「考えて」そんな少年の背を優しくさすりながら、しかし慈悲もなくアンチックは言う。「考えて、考えて、考えて、自分の姿を想像して。それが君の望む、本来の君の姿だから」
 ぜ、としゃくり上げながら、ソリドュはふるりと首を振り、髪を掴んでいた手で今度はアンチックが持つ警告書をぐしゃと掴んだ。「だけど、でも、先生がどれだけ目を掛けてくれたって、どうせ、もう、どうせ演れないんだから俺は退学になるのに」
 アンチックは目を細めて笑み、手元の警告書をびり、と真っ二つに破いた。「ならないよ」
「え?」
「今年からルニ・トワゾには第四のクラス──エグレットがある」言いながら、彼は半分に破った紙切れを更にもう半分に破った。「君は幸運だ。エグレットの担任はあのダリア・ダックブルーで、ダリアさんより弁が立つ人は他にいないよ。一年程度ならああだこうだと理由を付けて君をこの学園に留め置くこともできるだろう。それに、エグレットは新設されたばかりということがあって内部ではすでに様々な混乱が生じている。だからこそ君は嫌でも必要とされる──舞台に、そこで演じられる物語に」
 ソリドュは突飛に聞こえるアンチックの言葉に、当然ながら困惑の思いを隠せずに涙を引っ込めて目を丸くしていた。アンチックは等分に破った紙片を片手でぎゅっと握り込んではぐしゃぐしゃに丸め、事もなげにそれをくずかごへと放り投げる。じつのところ、お偉方が書いて寄越したつまらない、彼にとってなんの拘束力もない紙切れを捨て去ることよりも、これから教え子に発する提案の方がアンチックにとってはずっと気重であった。担任教師としては、最悪の気持ちだった。けれど、たった今こうして思い付いてしまったからには口にしなければならない。何故ならば、担任教師だから。彼は息を吸った。
「──転科という選択肢があるよ、ソリドュ」言って、アンチックはソリドュの行き場がなくなった手を上から確かに包んだ。「今すぐには舞台に立てない、演劇に触れられない君を延命するには、きっとこれがたった一つの賢いやり方だ。もちろん、最終的に決めるのは君だけどね。僕としては当然アトモスに残ってほしいし……ただ、君がどんな選択をしても僕は君のサポートをすることに変わりはないよ」
 その言葉を聞いたソリドュの瞳が揺れ、睫毛の先が涙以外のものでちかりと光った。「……俺の先生だから?」
「建前はね」まなざしで首を傾げた教え子に、アンチックはふっと小さく笑う。「本音は、君を選んだのが僕だということを忘れさせないためだよ」
 ランプの火はもう揺れなかった。ややあって、不意にアンチックがソファから立ち上がり、じつに静かな足取りでカーテンの閉じられた窓の方まで歩いていく。外の様子は一片たりとも見えなかったが、夜がまだ開けないのだけは真実だった。
「ねえ、ソリドュ。君はまだ十五で、今はまだ春で、ここはルニ・トワゾだよ。風は気まぐれで、春の空ほど当てにならないものもない。もっと高い空がある。もっと広い空がある。もっと鮮やかな空さえも」そうして彼は振り返り、ソリドュを見た。「落ちるのは、そんな空に抱かれてからでも遅くはないんじゃない?」
 どうしてだろう、アンチックがそこに立つと、この部屋は突如として寮の談話室以外の役柄を演じ始めるように感じられるのだった。たとえば、缶バッジやピンバッジやワッペンを好き勝手に縫い止められては姦しい灰色のカーテンは、今やそれを見る誰もの口を閉じさせる真紅の緞帳だった。照明は今よりずっと絞られて、部屋は今より狭く、今よりうるさく──そしてふっと静寂が訪れる。うるさいほどの静寂だった。思えば、ここは舞台袖だった。談話室であることは確かだったが、それでもここは舞台袖だった。そこにアンチックは立ち、緞帳の内側で放たれるときを待っている物語と光を目に宿して、そうしてソリドュの方を見つめていたのだ。
「先生は」ソリドュはそんな担任教師の瞳を見て、思わず問うた。「先生はどうして辞めたんですか。そんなに──演劇が好きなのに」
 その問いに、アンチックがはてなという表情をして瞬きをする。「僕、演劇を辞めたことがあったかな?」
「え?」ソリドュは相手よりも多くぱちぱちと瞬いた。「だって、アンチック・アーティーチョークは劇団ロワゾを退団してトワゾの教師になるって当時は話題に……」
「ロワゾの舞台を降りただけだよ、演劇は辞めたつもりはない」目を細めて、アンチックは手の平でふっとソリドュのことを示した。「今してるこれ、、をするためにね。トワゾこそが今、僕にとっての舞台なんだ」
「これの何がそんなにいいんです?」
「好きなんだ。小さい火に油を注いで、風を送るのが」アンチックが言いきった。
「……マジで悪趣味じゃん」ソリドュも言いきる。
「ああ、あと炎色反応も」悪戯っぽく言って、アンチックはどこか楽しげな色を目の中にちかちかと浮かべた。「君はこれから、どんな色になるんだろうね」
 ソリドュはそんな担任教師に何も言わないまま、ただアンチックのことを見つめ返していた。何も言えないのではない。彼は、何も言わなかったのだ。
 それからしばらくののち、ソリドュは呆れたようにかぶりを振り、それから爪が立つほど握り合わせていた両手をようやく解いて、その手で今度はそうっとマグカップを包み込んだ。カップの両面はもうひんやりとしていて、中身のホットミルクなどはとっくの昔に冷えきって見目の悪い膜が厚く張らされている。それでもソリドュはそんな口当たりの決して好いとはいえない液体を一口飲み、二口飲み、飲み干そうとしたがやはり耐えきれずにその辺りで止めにした。アンチックは目を真っ赤にした教え子の姿を眺めて、そっと微笑んだ。そうだ、いつだって、傷口の処置は早急に行うべきなのだ。心の中で二人分の名前に線を引く。新人公演は、アイビーで行く。彼は結局、一口もホットミルクを飲むことはなかった。そんなものがなくても、もう今日は眠れるはずだから。
 眠っているときにはよく夢を見る。
 それは無数の彩りをないまぜに織り込んだ名前の分からない色をして、今まで通り過ぎてきた時の景色を写し取っては切り貼りした、知っているようで見たこともない光景を眼前に繰り広げてみせるのだ。夢の中には左右と背後はなく、ただ前だけが存在する。現実を裁断した夢の中では闇もなく、明かりだけが存在する。声はなく言葉だけが、香りはなく認識だけが、形はなく姿だけが存在する。感触はなく感覚だけがあり、浮遊はなく落下だけが存在する。だから、夢は毎夜断罪をしている。これまでの現実を、彼は裁いている。救済もなく。
 それは、舞台にも似た姿で。
 今にすべてが光の前に晒される。罪も、罰も、望みも欲望も祈りも願いも等しく明かりに暴かれる。これまでの現実は衆目に曝され、夢に、夢すらも断罪される。観客に、舞台に、照明に、物語に裁かれる。歌えと命じられれば歌い、踊れと命じられれば踊り、生きろと命じられれば生き、死ねと命じられれば死ぬ。演じることは、裁かれること。ここには絶望の代わりに奈落があり、救済の代わりに喝采がある。踏み込むのを躊躇して当然の、夢のような狂気の世界。
 ──それでも、と舞台は言う。
 それでもここで恐るままに光を求めるのならば、幕を切り落とすのはやはり、いつでも自分自身でなければならないのだ、と。


20220720 執筆

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