Page to top

たったひとつ残響じゃなかったこと



「アンタ、いったい今何時だと思ってるわけ?」
 その下にいる者が皆見上げずにはいられない晴天の日にスピーカーから聞こえてきたのは、しかしこんな、からからに渇ききって地を這うような魔女の低音だった。


 まったくおそるべき青空の日だった。
 それはまさしく、人が青色といわれて思い浮かべる青そのものの色をした空であり、高く、高すぎるあまりに手を伸ばした先から倒れてくるような錯覚さえ感じる空だった。鮮やかなる夏の日だった。十八の夏だった。親友が亡くなってから、もう四年の月日が流れていた。
 ラフス=ククラトス・ラマージュは先日、ラマージュ・フィルハーモニーの海外公演の最終日を終え、この日はクラッチバッグを片手に散策がてら──これは彼にしては珍しい行動だったが、単に公演の後片付けのためにオペラハウスから追い出されただけである──大都市の雑踏の中に紛れていた。
 辺りにはきりりとした表情のビルが涼やかに整列し、その真新しい窓硝子を青空の鏡としている。そこここに劇場が建ち並び、古城、宗教建築等の中世の面影が色濃く残るローレアとはまるで異なる近代都市的な景色に息づく音もまた、やはりローレアのそれとは異なっていた。ラフスは近代建築と自然が見事に調和した街の、港に面した散歩道を歩く。歩きながら一つに纏めた髪を解き、それを潮風を含むのと同時に堅苦しいスーツの上着を脱いでは柵に両腕を預けてオペラハウスを一望した。貝の形をした白いオペラハウスに、波が打ち寄せている。目を瞑ると、その音はすぐそこに聞こえた。とっぷりと緩やかに鳴る波の音、遊覧船がごうごうと水を切る音、色鮮やかな野鳥のどこか古びた笛のような鳴き声、背後を通り過ぎる人々の靴がそれぞれの特徴を鳴らす音、それらすべてを運んでくる静かな風の音。ラフスは気が付くと、柵を両手の指先で弾いていた。無論、そんな音楽の狂おしき徒であるラフスがいつまでも一人きりでただ歩き続けることなどできるわけもなく、彼は早々に自然公園の広場にぽんと置かれたストリートピアノを見付けては、当然のごとくそれの前に腰を下ろしたのだったが。
 ラフスは鍵盤蓋を開け、吸い寄せられるように十指をそうとピアノに触れた。街のあちこちでよく見かけるレインボーロリキート──虹を想起させるじつに鮮やかな羽毛を纏った野鳥である──にも似た色合いでペイントされているアップライトピアノは見目にも明るく、整然としたビル群と海に浮かぶ美しいオペラハウスのどちらをも視界に映すことのできるこの自然公園の風景に不思議と融和していた。息を吸う。夏のにおいが立ちこめている。強い緑が音となってここまでやってきている。ラフスは弾いた。聞こえてきた音をそのまま弾いた。
 そのように鍵盤に触れていると、自分の魂に直接触れている心地になるといつも思う。
 十五の年、義父から楽団ラマージュの楽長の座を譲り受け、首席指揮者としてオーケストラピットに立ったあの日以降、こうしてピアノに触れる機会というのはとんと減ってしまった。それこそ二十四時間ずっと鍵盤に触れている生活をしていた自分が、今はその半身と離れラマージュの指揮者として指揮棒を握っている時間の方が多いのだからまったく信じられない。道しるべを示すことにより、自分の思いのままに最上の音楽を奏でることができるというのは、さながら音楽の風になったような気分でいつでも心が高鳴ったが、けれどもそこには常に楽長としての責任が伴う。ゆえに、自分が楽しいだけの演奏は許されない。ロワゾの紡ぐ物語に添わないのであれば、どんなに真新しいアドリブやすばらしいアレンジも価値を成さないのだ。ロワゾのオーケストラピットに立つとき、ラマージュ・フィルハーモニーの指揮台に立つとき、自分の指先は風というよりはぴんと張り詰めた五線譜を描いている。そこに奏者たちの研ぎ澄まされた演奏が音符として乗り、至上の旋律が生み出されるのだ。それはきっと、ただのピアニストのままでは聴こえなかった音楽だ。おそらく、エドワードに出会わなければ聴こうともしなかった音楽だった。
 ラフスはピアノの上で指先を踊らせながら、微かに目を細める。楽団ラマージュに奏者ではなく、何故、指揮者として籍を置くことにしたのか。もちろん、義父のラナーの体裁などは生まれてこのかた気にしたこともないから、彼がラマージュの楽長で首席指揮者であったことは関係がない。では、何故? ラフスは最も心の琴線に触れやすいピアノの音色を耳に、自分自身に問いかけた。何故。その問いに答えるのは難しかったが、敢えて言葉にするのなら、それは奏者たちの顔を見てみよう≠ニ思ったからかもしれなかった。
 思えば自分は、音楽を奏でる者たちの顔をろくに見たことがなかった。あんなに隣で歌い、奏でていたエドワードの顔さえ、きっとろくに見えてはいなかったのだ。だから、自分たちは共に奏で続けることができなかった。すべてが自分のせいだったなどと身勝手なことはもう思わないが、それでもエドワードの歌の一音が、弦の一本が切れたのはこの自分に責がある。そんなことに、自分はエドワードが死んでからやっと気が付いたのだ。
 黒鍵が沈み、浮かび、そして白鍵が沈む。十四の夏にはもう戻れない。戻れないから、進むしかない。これ以上、間違えるのは嫌だった。失うのは嫌だった。音楽を愛しすぎるがあまり、奏者が死を、永遠の休符を選ぶなどあってはならない。
 今までラマージュの名前に利便性は感じても、価値や責任を感じたことはなかった。けれど、己の音楽の一番の理解者、エドワード・ディードゥルという親友の死によってそんな自分の考えは一変した。楽団ラマージュは、音楽そのものである。ならば、そのラマージュの名を冠する一族もまた音楽そのものであり、それはすなわち、奏者の一番の理解者でなければならない。エドワードが死んで初めて、自分は心の底からラマージュの名前を欲した。きっと、遅すぎたと思う。それでも、ラフス=ククラトスはラマージュにならなければならないと思った。その日から自分はピアノという半身から離れ、指揮棒を握るようになった。指揮台に立ち、ラマージュの一等高い場所、音楽の生まれる場所から奏者の顔を見渡して、彼らの力を最大限に引き出し続ける。音楽を愛する者たちから、もう二度と音楽を失わせはしない。それがラマージュの名を冠す者、そして、ラフス=ククラトスの使命だと思った。そのために生まれてきたのかは分からない。けれど、そのために生きていこうと思ったのだ。あの夏、自分は確かに。
 いつしか指は青空を弾いていた。いま頭上に輝くこの完ぺきな青空ではなく、曇天の英国で不意に覗いた青を、雲一つない快晴のローレアを我が物顔で弾いて回ったあの真っ直ぐで、それでいて触ったところから水に溶けてしまいそうなエドワードの瞳の青を弾いていた。跳ね飛ぶような足取りがエクランの劇場街を走り、日に焼けた肌に掛かるサフランイエローの髪が羽ばたいて揺れる。ストリートピアノを指差してはこちらの背を押して、彼はその場でくるくると回った。そうして弾く曲に歌詞はない。この曲に詩はない。歌うなら、下手くそなハミングが一番ふさわしい。だから、少しだけ歌った。喉の奥に彼が住んでいるみたいに、調子外れな音が鳴った。それがなんだか可笑しくて、笑い声みたいに黒鍵を鳴らした。
「あ」
 それから不意に、こちらのハミングよりもはっきりとした声が背後で響く。はたとしてラフスが振り向くと、そこには車輪を回転させながら近付いてくる車椅子の少年の姿があった。そんな少年の青みがかったグレイの瞳とぱっちり目が合ったので、ラフスは思わず演奏の手を止める。
「あ──あ、いいんです、続けてください」少年はラフスのすぐ近くで車椅子をきっと止めると、控えめな調子でそう微笑む。「素敵な演奏だったので驚いたんです。きれいな曲ですね、初めて聴いたなあ。その、なんてタイトルですか?」
「分からない」ラフスは鍵盤に向き直り、ぽつと呟く。
「『分からない』? へえ、面白い曲名ですね」
「ああ、いや、そうじゃなくて」少年の言葉にラフスはぱちりと瞬きをして、かぶりを振りながら苦笑した。「ほんとうに分からない≠だ。付けたいタイトルはあるけど、それを付けるにふさわしい形になっているのかが、まだ分からなくて」
「つまり、作曲中ってこと?」
「そう、うん、そうだな」ラフスは曖昧に頷いた。「いつか形に残したいと思ってる。結局、これでしか表現できないから」
 少年は人好きのする笑みを保ったまま、不思議そうに小首を傾げる。その表情を見たラフスは思い出したみたいに鍵盤から両手を離し、ブロンズの瞳をぱちぱち瞬かせてからすっと立ち上がってピアノ椅子を横に除けた。そうして彼は軽く咳払いをすると、
「さあ、順番はキチンと守らないと。貴方も弾きに来たんデショウ?」
 そう、どこか片言でわざとらしくも聞こえる敬語で少年にピアノを譲った。それは、生来おそろしく敬語が苦手なラフスがラマージュの楽長としての威厳を保つためにこの三年でどうにかこうにか慇懃な笑顔と共に会得したものである。そんなラフスに少年はぽかんという顔をしていたが、しかし彼が驚いたのは突如変貌したラフスの言葉遣いや雰囲気にではなく、ピアノを譲られたことに対してのようだった。
「びっくりした。どうして分かったんです?」
「謙遜を。見たら誰だって分かりマスよ」
「まさか。だってこんなのはこの二か月で初めてですよ」
「それこそまさかデスね。車椅子に座った人間が皆アームレストを弾く癖がつくなら話は別デスが」
 そう肩をすくめるラフスに少年ははっとして自分の手元に視線をやった。それから彼は気恥ずかしそうに笑うと、なるほど、と小さく頷いてみせた。
「じゃあ、ちょっと失礼して」
 少年は瞳とよく似た色の髪を揺らし、車椅子をピアノの前まで進めた。そうして緊張したように深呼吸をしたのち、まだ幼さの残る両手の指先を鍵盤に乗せる。
 一音。また一音。そのちょっとした指運びとそこから響く音色を耳にしただけで、彼のピアノの腕が初心者のそれではないことは分かった。少年の落ち着き払った演奏は読譜の完ぺきではない者が確かめる弾く拙い音色とは全く異なり、ゆったりとしているが音符と音符の間に必要な呼吸をよく理解した、聴いていて不安になる要素がほとんどない素晴らしい演奏だった。けれども、たったひとつ惜しいとすれば、それはやはり演奏に緩急がないことか。そして、少年は誰よりもそれを理解しているのだろう。曲が終わりに近付くにつれ、そのあどけない額には似付かわしくない皺が刻まれていった。
「すみません」演奏を終えて一息吐くより先に、少年は溜め息めいてそう発した。彼はぺしりと自分の膝を叩く。「こんなふうだから、最近は弾いてると段々ムカついて──苛々してしまうことが多くて。ペダルが踏めないと、大好きな曲もこんなに平たいものになっちゃうから」
 少年の言葉は事実だった。ラフスでなくとも、多少音楽を嗜む者が聴けばペダルを踏めない少年の演奏が平坦なものであることは自明で、否定するところがなかった。そんなことはない、という言葉は己の演奏の欠点を最も理解している音楽家にとってなんの慰めにもならない。それと同時に、その通りでお前の演奏には全く緩急がない、という欠点の肯定も彼の慰めには決してなり得ないだろう。慰めになるとするならばそれは。
 ラフスはじっと相手の微動だにしない両脚を見つめて、ふっと自身の睫毛を上げた。「その脚、二か月前からデスか?」
「すごい」少年は困ったみたいに微笑んだ。「あなたにはなんでも分かっちゃうんだ。そう、ちょっと不運な事故が遭ったんです」
「耳は良い方デスからね。先ほど、ご自身で仰ってマシタよ」ラフスはかぶりを振り、ひらりと片手で少年の足元を示した。「それで、治る見込みは?」
「リハビリはしてますけどね。でももう脚の感覚ってのがないんです」眉根を寄せ、口元では歪んだ笑みを湛えながらも吐き捨てるように少年は言った。「両親は他の楽器を色々勧めてくれるんですけど、ほら、たとえばペダルのないチェンバロとかね、でも……」
 ラフスが言葉を引き取った。「ピアノしかない?」
「ピアノしかない」少年は迷いなく頷く。「あなたなら分かってくれると思いました。だって、あなたもそうでしょう?」
「いや……」少年の屈託のない言葉に、しかしラフスは僅かに言い淀んだ。「それはどうだろう」
 ラフスの曖昧な物言いに、少年は心底驚いた表情をした。そうして彼はラフスの膝の上に掛かっているマーブルグレイのジャケットを指差す。「どうして? その上着の刺繍、きっとラマージュのピアニストなんでしょ?」
 ラフスはふっと微笑み、首を左右に振った。「私、指揮者なんデスよ」
「指揮者……」
 おうむ返しをする少年にこくりとして、ラフスはさっと見えない指揮棒を取り出し、それでとんとんと眼前のピアノを叩いた。「だからというわけでもありマセンが、貴方の悩みの解決方法に心当たりがある」
「ほ──ほんとう!」それを聞いた少年の瞳が、これまでになかった色でぱあっと輝く。
 傷付いた音楽家の慰めになるとするならばそれは、彼らが望む音楽を続けることのできる解決策、それだけだ。哲学者が発するどんな深みのある台詞も、高名な奏者が奏でるどんな素晴らしい旋律も、人の心を動かすことはあってもこの少年の動かない脚がペダルを押す力にはならない。ラフスは腰掛けていたピアノ椅子から立ち上がり、ストリートピアノの横に立っては少年の顔を見つめながら続けた。
「単純な話だが、アシスト装置を使うんだ。ピアノペダル・アシストという装置が知名度こそ低いがこの世界には存在する。足でペダルを踏む代わりに、吐く息の強弱でペダルの操作を行うといったものだ」ラフスはスマートフォンを操作して、人工呼吸器と笛の中間のような見た目をした装置の写真を少年に見せた。「デメリットとしては、目眩がする」
 少年はスマートフォンの画面を見つめながら、ふっと苦笑した。「目眩なんて、ピアノを弾くときはいつもしてますよ」
「それもそうか」意表を突かれたようにラフスが呟き、思案するみたいにしばしのあいだ瞼を閉じた。「もちろん、アシスト装置を使うための訓練も必要になってくる。何しろ、強靱な呼吸器官は君がピアノを続ける上で不可欠になってくるだろうからな」
 少年の両手がぐっと車椅子のアームレストを掴み、彼の身体が前のめりになる。瞳には期待と不安の色が同じ濃度でないまぜに浮かびながらも、少年の表情は悪戯っぽくにやりと歪んでいた。「今まで息を止めて弾いていたようなものなので、ピアノを弾きながら呼吸ができるなんて素敵な話ですね」
 夏の空にはない少年のしなやかな強かさに、ラフスは内心舌を巻いた。自分のための音楽がまだ在る、とそう分かったときの音楽家の強さというのは、まさに鳥の風切羽そのものだった。己の不自由さをすべて忘れてどこまでも飛んでいくような速さが、血液に音符を飼う者たちの中には確かに存在しているのだ。
「ひとまず、どれくらいで取り寄せられるものなのかこっちで調べてみよう」
 言って、ラフスはがさごそと鞄の中を漁り、そういえば名刺を持ってきていないことに気が付くと、手帳の一片を雑に切り取ってそこに自身の名前と電話番号を書き付けて少年に手渡した。少年にも名前と連絡先を手帳に直接書かせて、ラフスは頷きつつそれをクラッチバッグに仕舞い込んだ。
 少年はたいせつそうに手帳の切れ端を眺めた後、しかし指先でラフスの名前が書かれている辺りをなぞっては困惑したように眉根を寄せた。「ありがとう──ええと、クララ、さん?」
「……俺の字はそんなに読みにくいか?」
「え?」
「いや、なんでもないよ」ラフスは少しばかり眉を下げつつ、微かに笑ってかぶりを振った。「それより、さっきの曲をもう一度弾いてくれないか」
「うん、いいよ」
「ああ、待った」ラフスが呟き、持っていたスマートフォンを軽く振った。「その前に呼び出さなきゃいけないやつがいるんデシタ」
 少年がはてなと首を傾げる。「誰?」
「魔女」しかし、にべもなくラフスは言った。「歌う方の魔女フェアリー・ゴッドマザー
 そうして彼はクラッチバッグの中から折り畳み式のスピーカーを取り出すと、それをスマートフォンに繋ぎつつ、電話帳アプリを開いて目的地まですいすいとスクロールを続ける。ややあって、彼は行き過ぎた地点から少し遡ってFの列まで戻ってくると、ここ最近よくやり取りを図るようになった三人の友人──と少なくともラフスは思っている──の内の一人に電話を掛けた。
 そして、数コールののち、
「──アンタ、いったい今何時だと思ってるわけ?」
 という、この夏の鮮やかなる青空に全く相応しくない、いわゆる寝起きそのままの低い嗄れ声がスピーカーから響き渡って、ラフスは思わずぎょっとすると共に出鼻を挫かれたような心地になった。
「はい?」ラフスは相手の言葉に空を仰ぎ、まるで意味が分からないといった調子で答えた。「十時過ぎだと思いマスケド」
「……今どこにいんの?」呻きめいた声と共に、がさがさと衣擦れの音がする。
「シドニー」
「アタシがどこにいるか分かってる?」
「エクラン」
「時差は?」
 時差? 問われて、ラフスは困り果てた猫のようなまなざしでちろりと少年の方を見やった。
「……クララさん、八時間だよ」少年は呆れに目をまんまるにして、自分より年上の青年に助け船を出した。「ローレアのエクランなら今は午前二時くらいだと思う」
 それを聞いたラフスは無意味に少年とスマートフォンを交互に見やった後、今までにないくらいしゅんと自身の肩を窄めた。見かねた少年がラフスの代わりに顔も知らない相手に向かって謝ると、受話口の彼はからからと慣れたように笑い、声の調子を取り戻すために咳払いをした。
「よく分かんないけど、そこにいる坊やの方がよっぽどグッドボーイね」そうして、カタンと水か何かが入ったグラスをサイドテーブルに置く音がする。「それで、なんの用なのよ?」
「歌」ラフスは申し訳なさと不機嫌の色が半々くらいになった声で短く言った。
「はあ?」
「それ以外ありマス?」
「切るわよ」
「すぐ切りたくなくなりマスよ。ええと……」ラフスが少年の方を見る。
「モア」
「モア。さっきの曲を」そう言う頃にはすっかり元の調子を取り戻して、ラフスはピアノをとんと軽く叩いた。「有名なアニメ映画の主題歌だろう? ロワゾでも舞台をやったことがあるはずだ。このスピーカーの魔女が歌うから、それに合わせて君も歌ってみろ」
「歌?」ラフスの言葉に、モアは先ほどよりもぎょっとした表情をした。「ぼく、歌なんてろくに歌ったことないよ」
「なら、これから楽しくなるな」全くなんの淀みもなく、自信ありげにラフスは笑った。「ピアノを弾きながら肺活量を鍛えるならなんといっても歌だ、そうだろう?」
 スピーカーから仕方のなさそうな、それでいてどこか楽しむような声がする。「それで、準備は?」
「クララさんがまだだよ」モアがにっこりとして、自身の車椅子を少しばかり横に動かした。「隣、座って。一緒に弾こう」
 その言葉にラフスは虚を突かれたような、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてから、しかし驚くほど優しい顔で微笑んだ。彼はピアノ椅子をモアの隣まで動かすとそこに腰掛け、少年がそうしているのと同じように両手の指先で鍵盤に触れた。
 ふっとした静寂ののち、モアがはじめの一音を弾く。ラフスは伴奏を奏で、モアの踏めないペダルを今ばかりは自身の脚で補った。スピーカーから、およそ寝起きのそれとは思えない力強くも美しい歌声が流れ出す。さざ波のようなビブラートが大気を揺るがし、その震える空気に誘われるみたいにモアが口を開き、そこからそっと控えめな歌声が溢れはじめる。音程が合っているだけの歌い慣れていない者が発するそれは、けれども段々大きく、段々強くなっていく。なんだか、すべてがひどく懐かしかった。鍵盤に触れているといつも、自身の魂に触れている気がする。それならば人の演奏を、歌を、共に奏でているとき自分はその相手の心に触れているような気がした。心臓が痛い。目眩がする。息が詰まる。思うように弾きたい。自由になりたい。ああ、これはいったい誰の心だっただろう? もっと。もっと。もっと。この穴が埋まるまで。自分には、音楽しかない。音楽しか。
「モア」間奏でふと、囁くようにラフスが呼びかけた。
「うん」
「夢、あるか?」
「あるよ」モアが間髪入れずに答える。
「そうか」ラフスはペダルを踏み、鍵盤を弾くような自然さで微笑む。「叶えろよ」
「うん」モアは頷き、その瞳で真っ直ぐ鍵盤を見つめていた。「もちろん、そのつもり」
 それから小一時間ほどは続いた演奏会を終え、ラフスは家に帰っていくモア──彼は元々こっそり家を抜け出してきていたらしい──を見送った。彼は自然公園に朗らかに佇むストリートピアノの鍵盤蓋を閉じると、すっかり高く昇りつつある太陽を眺めて、未だ繋がったままのスマートフォンを耳に押し当てた。
「フランソワ」
「何よ」多少疲れの見える声が受話口から聞こえる。「アタシ、いい加減眠たいんだけど」
 ラフスはその言葉には気のなさそうな返事をして、ト、とピアノ椅子に腰を下ろした。そうして先ほどの少年の輝く瞳と、陽光よりもずっと視界がちかちかする未来の色を想い出しては目を細め、片手をすっと青空に伸ばしてそこで光る熱いものをぐっと掴み、言った。
「俺はやろうと思う」それは、まるで諦めみたいな声だった。「こういうのを、やろうと思う」
 諦めみたいな、覚悟の声だった。
 そして、電話を切る。ややあってピアノ椅子から再び立ち上がり、ローレアへの帰国準備をするためにオペラハウスに向かうラフスは、電話が切れる直前にスピーカーから聞こえてきた言葉を想い出して、堪えきれず笑ったのだった。
「……そんなの、聴けば分かるわよ」
 まったくおそるべき青空の日だった。鮮やかなる夏の日だった。十七の夏だった。親友の死によって空いた穴は、未だ愛すべき音楽でも埋められない。
「ハハ」それでも彼は少しだけ鼻歌を口ずさんだ。奏でたい、その未来のために。「魔女じゃねえか」


20220703 執筆

- ナノ -