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羽化の日よ滅びろ



 十四の夏、親友が死んだ。自殺だった。その知らせを受けて一か月、俺は未だにピアノを弾いている。
 明かりのない部屋。窓は閉めきられ、外界の音はもちろん、時間すら正体をなくした室内。絶え間なく、休まることなく、止まることなく響き渡り続けるのはピアノの音色。少年は弾いていた。弾くことだけを行い続けていた。なんでもよかった。なんでもよかったから、彼は何をも構わず弾いていた。悲愴の響き渡る湖に白鳥が浮かびその岸辺で魔王は子どもを追う……なんだって、少年にとってはどうだってよかった。親友エドワード・ディードゥルが大変な事故に遭ったという話をラフス=ククラトス・ラマージュが聞いたのは、今から数か月前のことだった。
 エドワードは、ラフスにとって唯一無二の知己と呼ぶべき存在だった。当時ドレミがアルファベットであり、リズムが行動挙動であり、コード進行が感情表現、演奏が会話の代わりであったラフスがおよそ人並みの愛想と話術を手に入れたのは、天真爛漫なエドワードに音楽を楽しむこと、そしてその楽しさを自分だけではなく他者と共有することの素晴らしさを教えられたからである。そんな彼らが出会ったのは、ラフスが音楽とはそこらじゅうから常に絶え間なく生み出され、溢れてとどまることを知らない流動の生き物であるということに気付きつつあった八歳の頃であり、同い年だった当時のエドワードがまだルニ・トワゾ入学を志して役者の道を究めようと日夜努力を重ねていた頃であった。
 彼らの出会いは英国のシティ・オブ・オックスフォード、博物館の前に試験的に置かれた歴史的価値のあるグランドピアノ──のレプリカ──を前に、少年ラフスが齢一桁とは思えぬ類稀なる演奏を次々集まる聴衆を物ともせず披露してみせた際に突如として起こった。この日ラフスは向かいの劇場でラマージュ・フィルハーモニーのコンサートを終えたばかりの義父ラナーに勧められるままグランドピアノの前に座り、博物館の階段下に集まるぐるりの聴衆たちを一通り眺めてやってから、つるりと手入れされた鍵盤に指を置き、そっと一音鳴らした。調律のされた美しいその一音は、静寂の呼び水としてまったく相応しい音色をしていた。彼は不思議な緊張感──それは張り詰めた弦にも似た、音楽が始まる前の曇りない静けさと呼ぶほかない──に包まれている聴衆にはもう目をくれることもなく、指先を鍵盤の上で踊らせはじめる。ラフスはまず、ジャズのスタンダード・ナンバーの一つである『A列車で行こう』から始めることにした。博物館は駅から近かったし、今日はよく晴れて景色を眺めたくなるような青空だった上、ラフスは音楽が性質上知らない曲≠謔閾知っている曲≠最初に奏でる方が、人々にとって求心力がある存在になり得ることを知っていたためである。
 そんなラフスの考えは見事に功を成し、人々は彼の足取りの軽くなるような演奏にほうっと聴き惚れた。ラフスは生来、集まる聴衆が今どういった気分でこの場所に訪れ、どんな音楽が最も聴きたいのか、どの旋律ならば最も今この瞬間の彼らの心に添うことができるのかを、ほとんど無意識に感じ取っては楽の音の取捨選択を行うことができた。ゆえに彼はいつ如何なるときでも聴く者の心を満ち足りたものにする天才であり、生まれながらにしての楽聖であった。
 そういうわけで、音楽が人の形を成してこの世に生まれてきた≠ニは、いつでも彼を指す慣用句だった。まだ幼いがための高慢ちきで拙いばかりの手合いだろうとラフスを軽んじていた者も、実際彼を目の前にし、その演奏を聴いたならば、誰でも今しがたの言葉を口にせざるを得なかった。それがどれほど不本意であっても、そう言わざるを得なかった。真実心の琴線に触れたものに対して反抗するすべを、人類は未だどうしても持ち合わせてはいなかったためである。
 ラフスは続けて『望みを高く』と『シング・シング・シング』を弾き終えると、わあっと割れんばかりの拍手を一人の少年ピアニストに贈る聴衆をちらと見やるばかりで、無表情に手の一つも振ることはなかった。そんなラフスを見かねた義父は息子のこの不親切の無愛想をいつかどうにかしなければと内心頭を抱えながらも、彼の代わりに聴衆へと手を振り振り、それから楽団ラマージュの楽長らしい礼を何度か行った。そんな父の姿を興味なさげに見やっては再び鍵盤に向き合ったラフスが気の向くままに何か弾こうとしたところで、
「ねえ、さっきのをもいちど弾いてくれよ」
 と博物館前の階段を駆け上り、上着のポケットを全部ひっくり返してはばらばらとした硬貨を近くに落っこちていたラフスの鞄の中に降らせながらそう発する者があった。柔らかくもよく通る声とちゃりちゃり鳴るコインの音にラフスがそちらを向けば、そこでは淡く日に焼けた肌によく映えるサフランイエローの金髪をもつラフスと同じほどの少年が、抜けるような青色の瞳でにっこりと笑っていた。言わずもがな、それがエドワードであった。
「いいけど」ぶっきらぼうにラフスは言った。
「よし、それならA列車から頼んだ」
 言われるままに、彼は今いちどA列車を弾き出した。そしてすぐに、ラフスはぎょっとする。金髪の少年が歌い出したからであった。いや、或いは、堂々歌い出したその少年の歌が、劇団ロワゾのオペラ歌手たちの歌声に包まれて育ったラフスにはあまりに稚拙に聴こえるものだったからだった。
 青空の下を爽やかに走るラフスのA列車に乗って、少年は身体を揺らし、その柔らかな声色をまるで生かせていない粗削りな歌声を、しかしじつに楽しげに聴衆に披露していた。見れば、人々もまた笑顔で、歌う少年を眺めていた。こんなに下手くそなのに、どうしてこうも楽しく自信ありげに歌えるのか! 何故だかラフスは嘲笑以外の理由で大声を上げて笑いたくなった。それが人と奏でる音楽の面白さのためであるというのを知ったのは、その後随分時間が経ってからだった。
「もっとまともに歌えないのか」ややあって演奏を終えたラフスは少年に向き直りかぶりを振った。「耳が腐る」
 エドワードは聴衆の拍手を受けながら振り返って笑う。「じゃあ、君はもっと楽しそうに弾いたらどう?」
「楽しそうに?」相手の言葉にラフスは心底不思議そうな顔をした。「呼吸に楽しいも何もあるものか」
「あるよ、そりゃあ」
「変なやつ!」ラフスが肩をすくめる。「息をするのが楽しいなんて」
 それから彼らは少年らしい速度ですぐに仲を深め、ラフスはエドワード──ラフスは呼びやすいからという理由で彼をエドと呼んでいた──から人と奏でる音楽の面白さと少しの愛想、エドワードはラフス──エドワードはラフスが初めて書いた曲から取って彼をクララと呼んでいた──から正しい発声方法やリズム感のコントロールを教わった。彼らが出会ってから一年、また一年と時が経っていったが、イギリスからローレアへと同時期に移住したこともあってか二人の交流は絶えることなく、ラフスは変わらずピアノを弾き、楽器と戯れ、作曲をしていた。
「クララ。俺、トワゾを目指すのはやめるよ」
 けれども、何も変わらないわけではなかった。十一の頃、エドワードはいつも通りに彼と奏でるためにピアノを弾こうと鍵盤に指を置いたラフスにからりとそう言ってみせた。エドワードがルニ・トワゾ入学を目指す子どもらが多く通うボーカルスクールに通い出して半年ほど経った時期だった。
「なんで?」ラフスはエドワードの告白に驚いて、両手を宙に浮かせた状態で固まった。「馬鹿を言うな、無理だろ。お前みたいなのは歌ってないと死ぬんだし」
「死なないよ」眉を下げて困ったみたいにエドワードは言った。「……死なないんだ。それに気付いた。だから、やめる」
「意味が分からない」
「才能ないんだ、俺。それなら君にも分かるでしょ?」
「才能って?」苦々しげにラフスが眉を顰める。「絶対音感なんて訓練すれば誰でも身に付けられる。滑舌の悪さは開口訓練を徹底すればいいし、四オクターブも練習次第で出せるようになるさ。オペラ歌手になるために生まれながらにして持っていないといけないものなんてのは、ほんとはそう多くないんだ。エド、だから……」
 エドワードは緩くかぶりを振り、ごくごく柔らかい笑顔でふっと呟いた。「でも俺は、いちばん……何よりもいちばん大事なものを持ってない気がする」
 それからというもの、エドワードは歌うことをすっかり辞め、今までは暇さえあれば劇団ロワゾについてあれこれとラフスを質問責めにしていたものだったがそれも完全に鳴りを潜め、ラフスは大いに混乱した。エドワードの行動は傍目には気まぐれな少年が歌劇への興味を失しただけのように見えたが、ラフスにはどうもそれだけには感じられず、けれども彼の心に添う言葉をラフスは持ち得ていなかったので、変わらずピアノを弾いていた。じきにエドワードも次の楽しみを見付け、それがヴァイオリンを弾くことだったため、嬉しくなったラフスはエドワードに感じていた憂いをすぐに霧散させ、今度は彼に弦楽器のなんたるかを惜しむことなく教えた。正直なところ、歌に比べて上達速度は緩やかだったが、それでもラフスは彼とセッションすることが楽しくて仕方なかった。
 それから、十四の夏。
 エドワードはラフスのピアノ・コンサートを観に行く道の途中で事故に遭った。じつに暖かな日和だった。エドワードの父親は車を運転しながら、直進ばかりが続く道路で少しばかりうとうととし、はっとしたときには目の前にトラックが迫っていた。そこで父親は動転し、ブレーキとアクセルを踏み間違え、トラックと正面衝突をし──彼らの乗っていた車は大破した。奇跡的に父親の方は片脚の骨折だけで済んだが、エドワードは一命を取り留めるのに難航し、片腕などは切断しなければならないほどだった。それは、エドワードの利き腕だった。
 この知らせをラフスはコンサートの後に受け、荷物も楽譜もすべて打ち棄て大急ぎでエドワードの搬送された病院まで駆けつけた。看護師の制止を振り切り面会謝絶の病室まで走っては、数人がかりで引き戻され、騒動を聞いた父に平手打ちをかまされて連れ帰られても尚、彼は毎日病院に通い続けた。それゆえに、エドワードに一番最初の面会を果たしたのはラフスだった。
「エド」
 病室の扉を開け、ラフスがまずはっと洩らすように発したのは一つ、彼の名前だった。エドワードは彼には似付かわしくない真っ白な病室の無機質な色をしたベッドの上に、首元まで毛布を掛けられてはまるで人形のごとく横たわって眠っていた。そのさまにあまりにも生気を感じなかったものだから、ラフスの声色には焦燥や不安にも似た色が滲んでしまっていた。
「クララ」けれどもそんなラフスの心配に反して、エドワードはぱっちりと目を開き、違和感ありげに身を起こしながら親友の方を見た。「驚いた、こんな朝早くに……」
 ラフスは眉を下げる。「それは……当然だろ。心配だった」
「そうか……そうだよね、ありがとう」ふう、と酸素が重たそうに呼吸をして、エドワードは仕方なさげに笑った。「でも、だいじょうぶだよ。なんというか、悪運は強いみたいで──あの状態で命があったのは奇跡だって」
 気が抜けたみたいに、ラフスは近くにあった椅子に座った。「生きててよかった」
「うん、ほんとにね」
 それから、しばらく二人の間に言葉はなかった。この数週間、ラフスはエドワードに面会したら彼を励まさなければと幾通りもの言葉を考えてきたものだったが、実際彼を──ほんとうに片腕をなくしてしまった彼を目の前にした瞬間、考えてきた言葉たちは音もなく崩れてラフスの中から消え去ってしまった。エドワードは淡く微笑み、窓の外を見ていた。鳥の声も、車の音も、もちろん楽器の音もしなかった。息が詰まるようなその空間に耐えかねて、ラフスは看護師が飾ったのだろう花瓶を一瞥し、椅子から立ち上がってはベッドから離れた位置にある窓をそっと開けた。
「その、これから」そして振り返りざま、ラフスはエドワードに声を掛けた。「これから俺たち、何をしようか?」
 彼の問いかけを可笑しそうにエドワードが笑う。「クララはピアノを弾くでしょ、もちろん」
「それは……そうだが。つまり、俺が訊きたいのは」ラフスは再び椅子に腰掛け、相手の青い瞳に視線をやった。「お前がこれからどうしたいかってことなんだ」
「きついリハビリをしなくちゃならないらしいね」
「そういうことじゃなくて」
「ごめん、ごめん。分かってるよ」エドワードは笑いながらかぶりを振り、それから息を吐くみたいに呟いた。「ヴァイオリンはやめる」
「……そうか」ラフスは両膝の間でぎゅっと両手を握り合わせた。
「音楽もやめると思う」
「どうして」エドワードの言葉に、ラフスは思うより先にそう発した。「お前にはまだ、歌があるのに」
 そんなラフスの言葉を聞いて、エドワードの瞳が不思議な色に輝いた。それはラフスの見たことのない、言葉では形容しがたい色だった。エドワードが一つ瞬きをすると、その色は間もなく消え去り、いつもの青空めいた瞳がラフスのブロンズの瞳を見返していた。そうだ、まだ、歌がある。ラフスは持ってきていた電子ピアノをケースから取り出し、二人が出会ったときに奏でたA列車を弾いた。エドワードは歌わなかった。『望みを高く』を弾いた。エドワードは歌わなかった。
「クララ」鍵盤から指を話したラフスを見て、エドワードが発した。「ごめん」
「何を……謝ることがあるんだ」相手に比べると随分と歪に口角を上げて、眉を下げながらラフスは言った。「エドは何も悪くない」
「うん。でも、ごめん」
 ラフスは首を横に振る代わりに、『シング・シング・シング』を弾いた。エドワードは歌わなかった。彼は枕に身体を預け、瞼を閉じてラフスの奏でる音楽に耳を傾けていた。この日初めて、ラフスは心の底からエドワードのためだけにピアノを弾いた。曲の素晴らしさも、演奏の出来のこともすべて打ちやり、彼はただ、目の前の親友のことだけを想って指を走らせたのだ。
「俺、君のピアノが好きだ」そんな相手の演奏を聴いては震え滲んだ声で、零すようにエドワードが呟いた。「歌いたくなるよ」
 きっとまた歌える日が来る。ラフスはそう信じきっていた。だから彼はピアノを弾き続けた。日が高くなり、エドワードの両親が病室を訪れるまで、彼はひたすら弾いた。ただ笑って、楽しんでほしかった。それが音楽であることを教えてくれたのは、他でもないエドワードだったから。
 けれど、その次の日、エドワードは死んだ。自殺だった。彼は四階の病室の窓の下で、強く全身を打った状態で見付かった。理由は不明のままだが、その首には白いタオルが巻き付けられていた。遺書はなかった。十四の夏だった。
 それからのことは、ほとんど憶えていない。
 葬儀には出席したはずだが、記憶にあるのはなんの音もしなくなったエドワードの白い顔と、その両親がこちらを見たときに確かに一瞬表情に浮かべた「エドに何を言ったの?」という言葉だけだった。何を言ったの? 何を? 何を言った? 俺は何を? 分からない。何も分からない。もう何も分からない。分からないまま、ただ、弾いている。ただずっと、ピアノを弾いている。何日も、何日も、何日も。もしかすると、何年も。或いは時間など経っていないのかもしれなかった。何を言ったの? 声が消えない。消えろ。消えろ。消えろ。曲が終わる。音が消える。消えるな! 消えるな。消えるな。消えるな。やめろ! やめろ。やめろ。やめてくれ!
「ラフス」不意に部屋の扉が開き、廊下の光と共に人影が現れる。ラフスは目もくれなかった。そんな彼に、扉を開けた人物はすっと息を吸った。「ラフス!」
 鋭く響いてラフスの鼓膜を揺らす声の持ち主は、彼の義父であるラナーだった。ラフスは突然響き渡った人間の肉声に虫唾が走って、弾いていた曲を中断し、身の毛もよだつような不協和音を鳴らす。
 ラナーは、エドワードが亡くなってからというもの、部屋に籠もって一心不乱にピアノを弾く息子のことをこれも必要な時間だろうと容認していたが、彼がろくに飲まず食わずで言葉も交わそうとしないところを見ると、二日に一度は必ず部屋を訪れるようにしていた。ラナーは辺りを見渡し、部屋に無残にも散乱した楽譜や楽器、手をつけられていない食事や飲み水を見やった。しかし、ラフスの精神状態は快復に向かうどころか悪化の一途を辿っており、今日などは特に酷いようで、彼は今にも人を殺しそうな目で鍵盤のことを睨んでいた。
 少し逡巡ののち、ラナーはつかつかとラフスに歩み寄っては、驚くべき胆力で息子をひょいと持ち上げると彼をバスルームに連れていき熱いシャワーで身体を洗ってやった。ラフスにはそれに抵抗する気力がないことはラナーには分かっていた。そうして荒れ放題だった髪に櫛を通し、清潔な服に着替えさせると、彼の口にグラスの水を流し込みながらそのがりがりに痩せ細った腕や指先を見やっては眉根を寄せた。
「ラフス、お前はもう弾くのをやめなさい」そしてラナーは徐にそう言い放った。「お前のそれは音楽じゃない」
 瞬間、ラフスは予想外の力でラナーを振り払い、言葉もなく、何をも持たずに屋敷の外へと飛び出した。
 外は日の出直後のようだった。空では濃紺と紫が静かなグラデーションを作り出しており、その果てで月は未だ白くぼんやりと輝いている。顔を出したばかりの太陽はまだ低い位置にあるようで、それでも建物と建物の隙間から刺すような光をこちらへ差し出していた。ラフスはその光が肌に触れるたびに目の前がちかちかと眩む心地を覚えた上、走り出してすぐに息切れを起こし、吸った空気では肺がじくじくと痛んだ。だが、それが何だというのだろう。彼は構わずふらふらとした足取りで歩を進めた。自分がどこへ向かっているのかも、どこへ行くべきなのかも分からないまま、彼は足を動かし続けた。
 そして、気が付くと、目の前にピアノがあった。エクランの劇場街と名高いテアトル通りの中央広場に突如ぽつんと現れたそれに、けれどラフスはなんの疑問も持たずにピアノチェアに腰を下ろした。つややかな黒い体躯に、真白な枝葉の装飾が施されているそれは考えるまでもなく楽団ラマージュが設置したものだろうと思われた。よく見れば、鍵盤蓋に白い文字で音楽は記憶。想い出は音色になる。これは想い出のためのピアノ。メロディ・オブ・メモリー。どうぞどなたもご自由に!≠ニ書かれていた。これは父の言葉だな、と思うのと同時に、ラフスは鍵盤蓋を上げた。そして、ああ、一体何をしたかったんだっけ?
 ラフスは己の骨張った両手の甲を見、それをひっくり返して手のひらを見た。瞼の裏が、目を開けているのにちりちりした。目の奥で、苦しげに笑うエドワードの首に真綿が纏わり付いているさまを見た。あんな顔のエドは見たことがないはずだ。知らない。知らない。いや、違う。違う。俺は、いつかエドがルニ・トワゾを諦めると言ったときに、あんな顔で笑う彼のことを見たはずだった。あのとき、俺は何を言った? 何を言ったの? 声が止まない。エドの声は聞こえない。音がない。手には、何故かエドワードの首の感触があった。俺は何を言った? 俺は何を弾いた? 俺の言葉≠ェ、音楽が、エドを殺した? エドを殺したのは俺? 両手の指先を見る。自分の指は、元々こんな色をしていただろうか。両手が震える。こんな手では触れない。鍵盤に触れない。もう、弾き方が分からない。俺が弾きたかったのはなんだ? それはどんなかたちで、どんな色だっただろう? 音楽って、なんだっけ? ラフスは両耳に手を当てて、椅子の上で枯れ草のような呼吸をくり返した。エドワードからはもう二度と、永遠に聞こえない音が自分の中で響いている。吸って、吐いて、吸って、吐いて。
「──ねえ」
 それから、つと、いつかみたいに声が降ってくる。
「ちょっとアンタ、だいじょうぶ? さっきからずっとそうしてるけど……」
 心臓が止まる心地がして、ラフスは耳から両手を離した。ラフスのブロンズの瞳が真っ黒な光に輝いて、声のやってきた方を見やる。
 しかしすぐに彼の瞳は昏く錆び、止まった心臓が無機質に動き出す。声は甘くも柔くもなく、身体に真っ直ぐ突き入るような強かさがあり、よく通るものだった。それがエドワードのものでないことは分かっていた。少し聞いただけで、役者の発するよく訓練されたそれだということが分かった。分かってしまった。それこそルニ・トワゾにいる役者のもつ声の質だった。ちゃりちゃりとしたコインの音も聞こえない。空の岸辺だけエドワードの青色が広がっていた。伸びきった前髪の隙間から、相手の瞳を見る。青だ。けれど、空ではない。湖水に映る月のようにきんと静かな水色が怪訝そうにこちらを見つめていた。自分と同じほどの少年だった。白い肌の上でソバージュふうのプラチナブロンドが朝焼けか月光かを受けてあちこちガラス片みたいに輝いている。まず間違いなく役者だった。立ち方で娘役だと思った。
「気分が悪いんじゃないなら、それ、弾かないの?」返事もないまま動きを止めたラフスに眉を寄せて、少年は訝しげに問うた。「弾きたくもないのに座る人なんていないでしょ」
 ラフスは下ろした両手を膝の間でぎゅっと握り締め、美しい白と黒の羅列を眺めた。それからぜい、と喉の奥を鳴らしながら息を吸って、
「弾けない」
 と、言った。ひどく渇いてざらついた声だった。もう長いあいだ声を発していなかったから、それが言葉になっているのかすらも分からなかった。
「はあ?」相手の言葉に少年は首を傾げる。しかしそれから彼は思い直したように宙を見た後、そのすらりと長い指先で白鍵の一つを示した。「ああ、まあ、そういう人もいるかしらね。なら、とりあえず好きに触ってみたらいいじゃない。ここがドで──」
「違う」ラフスは呟いた。
「違うわけはないわよ」少年はぴしゃりと言う。
「違う」ラフスが再び言い、握り締めた両手に力を込めた。「手が、汚れてる。から弾けない」
「手?」
 少年は不思議そうな顔をしたのち、ラフスが何を言う間もなくぱっとその両手を取っては手のひらや指先を確かめた。そこには血色の悪い、痩せぎすの青白い五指があるばかりだった。
「どこが? ちっとも汚れてないじゃないの」更に不思議そうな表情をして少年は言った。「いいから何か弾いてみなさいよ。せっかく人がひとり足を止めてあげてるんだから」
 少年はラフスの両手から手を離すと、ひらりと片手を振ってピアノの方を示した。ラフスはわずかな時間だけ目を瞑る。それから手には視線をやらず、鍵盤に指を置いた。滑り出す指先は、ただ感情をなぞるばかりだった。感情的になるのをやめられない。少し、父の言葉を想い出していた。音楽は記憶。想い出は音色になる=c…それから、お前のそれは音楽じゃない=Bならば、自分の弾いているこれはなんだというのだろう? 分からない。もう嫌だ。何もかも嫌だ。このまま音色に身体を切り刻まれて、下手な楽譜のようにばらばらになって、張り裂けた符と共に溝にでも捨ててほしかった。
「ちょっと待ちなさい、それ、『死の舞踏』?」ラフスの弾きはじめた数小節を聴いて、少年は思わずといった調子で発した。「アタシ、こんな静かで良い朝に骸骨と踊る気はないわよ。他のにしなさいよ」
 ラフスは鍵盤を叩く手を止めて、黒鍵を見るともなく見た。「なんでもいいだろ」
「なんでもいいってことはないでしょ」少年はその切れ長の瞳に呆れの色を浮かべる。「聴いてる人がいるんだから。ピアニストならそれくらい分からないの?」
「ピアニストじゃない」
「どうしてよ」
「もうやめる」ラフスは起伏なく呟いた。「俺のピアノを聴いた人が死んだから」
 少年はその言葉に目を丸く見開いた後、ぱち、と息を呑むみたいに瞬きをする。それから鍵盤とラフスを交互に見やり、長い前髪に隠れた相手の顔をどうにか覗き込もうとした。「……なんで?」
「分かってたら」何も考えずに言いかけて、しかしラフスは俯いた。「分かってても……」
 分かっていても、弾いただろう。楽しげなエドワードの隣でピアノを弾いた。少し苦しそうな笑顔で歌うエドワードの隣でピアノを弾いた。ヴァイオリンが中々上達しないエドワードの隣でピアノを弾いた。片腕をなくしたエドワードの隣でピアノを弾いた。構わず弾いた。いつでも美しい音色を弾いた。弾くことだけをした。どんなエドワードを前にしても、自分はずっとそうだった。楽しかった。俺はほんとうに楽しかった。だけれど、エドは? エドは楽しかった? いつから。いつから、彼は苦しかった? それが分かっていて、俺は、果たして弾かないことができただろうか。クララはピアノを弾くでしょ、もちろん。エドの言葉だけが蘇る。それは一体、どんな声色をしていただろう?
 ラフスは空を見上げ、そこに浮かぶ消え入りそうな月を視界に映した。もっと。自分はもっとやさしくなければいけなかったのだ。彼にふさわしい影でなければならなかったのだ。ラフスは頭上から差すそのはかなくやさしい光を弾いた。その下でもの悲しげに踊る人々を弾いた。ピアニッシモばかりで演奏されるその曲は、まさしく『月の光』と呼ぶよりほかなかった。
「へえ、良い演奏ね。綺麗だわ」ラフスが演奏を終えると、少年はほうと息を吐いて素直な賛辞を相手に贈った。「でもアタシ、これから公演があるのよ。だからもっと、歌い出したくなるような曲がいいわね」
 そう言うが早いか少年はラフスのことをとんと押し退け、ピアノチェアの半分に自分も腰を下ろすと、微かに唸って思案したのちに指先を踊らせはじめた。それは軽やかで華やかで、そして騒がしい、よくよく聴き慣れた──弾き慣れすぎた曲だった。スウィング・ジャズの代表曲の一つ、『シング・シング・シング』を少年は弾いていた。しかも彼は連弾のために、ラフスが鍵盤に触れるまで何度も、何度も同じ小節の行ったり来たりをくり返していた。
「弾かない」しばらく指先が旋律を奏でるのを見つめていたラフスが、ふと、言葉を落とすみたいにそう言った。「もう、やめるんだ」
「無理よ」けれど、少年は淀みなく言いきった。「アンタみたいなのは、弾いてないと死ぬんだから」
「何が分かる?」
「聴けば分かるわ」少年はまなざしばかりをちらとラフスに向けて、自信ありげに口角を上げた。「それくらい、アタシにはいつだって分かるの」
 それから数回の呼吸の後、ついにラフスは再び鍵盤に両手を置いた。指先が音符の導くままに踊り、旋律となった。
 歌って、歌って、歌って。彼は目を開けたままで、肩を揺らしてあの下手くそな歌を披露するエドワードの姿を想い出していた。A列車に高く上り、ただ楽しげに歌うエドワードの姿を。ほんとうに楽しそうだった。「ねえ」、エドの言葉が蘇る。そうだ、エドははじめにこう言ったのだ。「さっきのをもいちど弾いてくれよ」と。そして最期にこう言った。「俺、君のピアノが好きだ。歌いたくなるよ」と。俺たちにはそれがすべてだった。それだけでよかった。ずっと、こんな日が続くのだと思っていた。瞳の裏側、耳の奥、肺の向こう、胃の少し下の辺りで、おそらく心と呼ぶべきその場所で、エドの歌が聞こえないままに響き出す。会いたい。ただ会って、一緒に笑って、音楽を楽しみたい。こんなふうに。ただ、こんなふうに。
「歌……」曲の狭間、ぱた、と鍵盤の上に一粒水滴を落としては、絞り出すようにラフスが言った。「聴きたい。歌が、聴きたい」
「歌?」少年は聞き返し、けれども迷いなくすっくと立ち上がって頷く。「なあんだ、それならちょうどいいわ」
 そうして彼はピアノの手前まで進み出ると、す、と背筋を伸ばし、言葉もなく身振りもなく息を吸った。ラフスは少年のそんないつでもどうぞの合図を受け、鍵盤に落ちた水滴を拭うこともなく再び『シング・シング・シング』を弾きはじめた。
 前奏に合わせて少年の腕が緩やかに振られ、肩が揺れ出す。それからその唇から紡がれるのは、エドワードのそれとはまるで比べ物にならない、じつに素晴らしい歌声だった。まったく揺るぎなく芯の通った、それでいてどこまでも自由に羽ばたいて街中を叩き起こして回るようなその声は、まさしく鳥の声であった。それは少年の言葉で、呼吸で、鼓動だった。ラフスは心臓がどう、と鳴るのを感じ、思わずグリッサンドをして旋律に更に華やかなアレンジを加えた。息を詰め、額に汗を浮かべながら彼は弾いた。それこそ彼の呼吸であった。
 ──クララはピアノを弾くでしょ、もちろん。
 エドワードの言葉が、その声と共にありありと鮮やかに蘇る。彼は笑っていた。可笑しそうに肩を揺らし、まるでこちらのことなど何もかも分かっているというふうに笑っていたじゃあないか!
 ラフスは弾いた。鍵盤を濡らしているのがもう何かも分からないまま、指先が滑っても転んでも踊らせた。歌のために。音楽≠するために。それはラフスが今まで生きてきた中で、おそらく最も酷い演奏だった。けれども彼は弾いた。ここでやめれば死ぬと思った。まだ、死にたくないと心が叫んでいた。
 ──クララ、ごめん。
 ラフスはかぶりを振った。エド、ごめん。その言葉を聞けば、きっとエドは笑ってこう言うのだろう。「何を謝ることがあるの? クララは何も悪くないよ」と。うん。でも、ごめん。やっぱり俺にはこれしかないよ。俺は、お前のためには死ねない。音楽のためには死ねない。生きることしかできないんだ。こうやって音楽を奏でて、生きることしか。お前が死ぬほど愛した音楽を!
 ラフスは弾いた。弾いて、弾いて、弾きに弾いた。ただひたすら、美しい歌のために音楽を奏でた。いつの間にか青に塗り替えられた空に見下ろされても尚、彼は名も知らない少年の歌と奏で続けた。
「ちょっと、どこ行くのよ」
 そうして演奏を終えた瞬間、すぐさま椅子から立ち上がったラフスに、少年がぎょっとした調子でそう声を掛けた。
 ラフスはぶっきらぼうに呟いた。「帰る」
「そう?」少年がやれやれと肩をすくめる。「それで、アンタ、名前は?」
 ラフスはもういよいよ脱水症状を起こしかけており、寝不足と栄養失調も相まって少年の言葉に返事をする力など微塵も残されていなかった。そのため彼は片手を伸ばしてシャープのラを何度か弾くと、それからは声もなくふらふらと広場を後にしたのだった。
「アンタの演奏、死にたくなんてならないわ」そうして去りゆくラフスの背中に、まったくよく通る声で少年は話しかけた。「ただ、歌いたくなるだけよ。こんなふうに、ちょっとばかりね」
 十四の夏、親友が死んだ。自殺だった。その知らせを受けて一か月、俺は未だにピアノを弾いている。まだ、弾いている。これからも弾き続けるだろう。何があっても、ずっと、ずっと。
 こんな、抜けるような青空の日がある限り。


20220619 執筆

- ナノ -