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エバーラスティングの坊や



 それは、アリア・アリスがまだアニス・アドニス・アドリアティックとは遠く離れた場所におり、歌劇というものにも、はたまた物語というものにも出会ったことがないまま、果ての分からない道を小さな一歩一歩で進んでいた頃の話である。
 このときのアリアは、齢にして五歳になって少しといったところだった。彼は明け方すぐにちりちりと古びたスピーカーから流れるデンテメネ、デンテメネ。降り口は右側です……≠ニいうアナウンスを頭上に聞きつつ、歩くたびきしきしと不安げな音を出す列車から母親と共に寂れた無人駅へと降り立った。
 彼の母はまるで葬式のような──といっても、この頃のアリアにはまだ葬式がなんたるかは分からなかったが──落ち込んだ真っ黒な服を身に纏い、顔色は病的に青白くぼうっとしており、しかしながらそれとは不釣り合いな真新しい指輪がぴかぴかと輝く手で重たそうなトランクを握り込んでいた。アリアは駅のホームで振り返り、黄色が褪せてアンティックゴールドのようになった、あるところでは趣を感じる姿をした列車をじいっと見つめた。自分たちの他に降りる者はいなかった。
 時季は五月上旬、日中は初夏らしい暖かさを見せていたが、それでも朝方は未だ花冷えの残り香が色濃く身体を冷やす気候であり、それはローレアの中央部に位置するこのデンテメネであっても無論さしたる違いはなかった。冬期休暇も春季休暇のシーズンもとうに過ぎたこんにちでは旅行客や観光客も列車内には見当たらず、やたらな大荷物を持って列車に乗っていたのはアリアと母の一組だけであった。
 ただ、デンデメネはローレアの首都エクランをぐるりと囲う田園都市計画のために生まれた農村であり、辺りにはひたすら濃い茶の土に瑞々しい緑や若い緑、そして色とりどりの花が咲き誇る健康的な田園風景が広がるばかりであるため、たとえ行楽シーズンだったとしても、わざわざ劇場国ローレアに降り立ってまでデンデメネという自然だけが取り柄の景色を見に来る者も少ないだろうと思われたが。
 そういうわけで、アリアは暦上は初夏と呼んでも差し支えない五月の空の下、しかし肌寒い駅のホームにてぶかぶかとした深々とした海のような青色のコートを着込み、母に導かれるまま階段を上って、駅の待合室にあるくたびれたベンチに腰掛けた。他に人の姿は見当たらなかった。乗客も、駅員も、誰もいない。言葉通りの無人駅だった。
「ここで、いい子で待っているのよ、アリア。必ず迎えに来ますから」
 それがデンテメネに着いて彼の母が口にした最初の言葉だった。アリアは驚きに顔を上げる。彼はその言葉の内容にというよりは、母親が発した声の柔らかさに驚いたのだった。それは、物心ついてからアリアが聞いたこともないような丸く、優しいかたちをした声だった。アリアはその声をまるで母が発したとは到底思えずに、小さな唇をぽかんと開けて、けれどもきゅっと結んだ。アリアは幼かったが賢い子どもであったので、自分たちの他に人がいないこと、すなわち今しがたの声は母が発したものに他ならないということに気付いていたのだ。
「だけれどね、アリア」母は煙った青色の瞳に昏い輝きを宿しながら、囁くみたいに微笑んだ。「どうしてもお母さんのことが待てなくなったら、この駅を出て少し行ったところに魔法使いの家≠ェあるわ。そこへ行って、お母さんのことを待っててくれる?」
 頷く以外の選択肢がないように思えて、アリアはこくりと小さく頷いた。母はにっこりとした。アリアはそんな自分の母の顔つきを自身の青の瞳──アリアと母はそのおそろしく長い睫毛以外に似ている箇所がほとんどなかった。母の瞳は青と呼ぶよりはラベンダーブルーと呼ぶべき色合いであり、打って変わってアリアの瞳はまさに碧眼のホライズンブルーの瞳であった上、目の形も母はアーモンド形でアリアはくりくりとした鈴のように丸い目だった。髪の毛に関しても母の方はほとんど茶髪に近いブロンドで、アリアは絵に描いたようなプラチナブロンドであり、じつの母でさえ訝るほどにアリアは誰にも似ていなかった。早くに亡くなった父親にさえも──に映してはまじまじと眺め、たった一度だけぱっちりと瞬きをした。
 そして彼の母は、それをアリアなりの頷きだと思ったらしい。彼女は大きな革張りトランクをベンチの上に乗せると、そこから大きな赤い帽子を引っ張り出してアリアの頭にそっと被せた。そうして彼女は訳ありふうにアリアの青いコートのトグルを留め直してやると、「いつもいい子にしてるのよ」と言って、待合室のドアに手を掛けながらアリアを名残惜しげに振り返り振り返り、けれどもついには出て行った。アリアは駅の改札を抜けたところで走り出した母の背が消えて見えなくまで、その黒いワンピースの腰で揺れるリボンの先を見つめていた。そしていよいよ、母の姿は影の端すら見えなくなった。
 それから、アリアは待った。待ちに待った。日が高く昇り、ダッフルコートが暑苦しく感じるひなかになっても上着を着込んだままアリアは待った。昼になると空腹を覚えたために、アリアはトランクの蓋を開けて中身を確かめた。子ども用の洋服が二セットとタオルが数枚に、まだ新しいペンポーチに入った筆記用具とノート、古く薄ぺったい革の財布、小さいけれどたいせつなテディベア、歯ブラシセットの隣には三種類の瓶が詰め込まれていた。チョコレートの瓶と、キャンディの瓶と、ジェリービーンズの瓶。アリアはマーマレード色のジェリ―ビーンズを一粒手に取って、ぱくりとする。一粒では食べた気がしなかったので、もう一粒、もう一粒とやった。そこでようやく甘みを感じたので、アリアは瓶の蓋を締め、少しぼんやりとした。それでも一時間もすれば寂しさが胸に募り、二時間ともなるとえもいわれぬもの哀しさが身体中に広がったので、アリアはトランクからテディベア──名前はアニスだ──を取り出して、その小さな友だちと心の中で会話をした。
(アニス。おかあさんはいつかえってくるかな?)
(さあ。でも、おかあさんはかならずと言っていたよ、アリア。かならずというのは、ぜったい、という意味なんだ。何がなんでもという意味だよ。だから、おかあさんはいつかかえってくるよ)
(いつかっていつのこと?)
(いつかはいつかだよ。そのうち)
(またねってこと?)
(うん。遠いまたねだ)
(つまり、さよならってこと?)
(分からないけど、そうかもしれない)
(魔法使いの家≠ヨ行ってみる?)
(悪くないと思うよ、もちろん。ここは誰もいないし、何もないし、夜になったら寒くなるしでいいことなんてひとつもないもの)
(よし、それなら行ってみよう)
 アリアは待合室のベンチから降り、母の言っていた魔法使いの家へと行ってみることにした。ずしりと重たいトランクを運ぶのはまず間違いなく難題だったが、アリアはテディベアのアニスを小脇に抱えつつ、なんとか待合室を出て改札まで歩いていった。
「ごめんください」
 と、アリアは頭上の改札窓口に声を掛けてみたが、返事がなかったので彼はトランクを踏み台にして中を覗き込んでみた。やはりこちらも無人だった。アリアはぱかりとトランクを開けて財布を引っ張り出し、しかしここまでの運賃が分からなかったために、その財布をまるごと窓口のところに置いて改札を抜けていった。
 長い階段を下って駅の外に出ると、辺りはすっかり日が落ちて薄暗かった。青と紫の重なり合う空に、ぴかりと眩しい星が一つ浮かんでいる。月は満ち足りてまあるく、そっとやさしい光を差し出していた。アリアはまるでどこまでも続いていくように思えるあぜ道を見やって、ぐっとトランクを握り込み、意を決して歩き出した。薄明かりにも鮮やかな小麦の緑色をした絨毯をさらさらと揺らす風は微かに冷たく、それらは踊りながらアリアの髪の間をすり抜けていく。
 そうしてしばらく──星々がざらめを振りまいたように夜空を支配し終えるほどのかなりの時間──歩いていくうちに、アリアは分かれ道に辿り着いて、おやと足を止めた。道は右手と左手にぱっかりと分かれており、見通しの良い道の先を見てみれば、どちらにも遥か遠くに家らしきものの姿がぼんやりと映る。アリアはふうっと一度トランクの上に腰掛けて、小脇のアニスに声を掛けた。
(ねえ、アニス。ぼくはどっちに行ったらいいと思う?)
(どっちでもいいんじゃないか。だって、おかあさんはどっちに行けとは言わなかったよ。つまり、どっちでもいいってことだ)
(それならぼく、明かりの見える方に行くことにするよ)
(うん、それがいい。暗い方に行くことはないさ)
 アリアはすうっと息を吸って、トランクから立ち上がった。そうして彼は右手の方に折れ、遠くに見える家を目指して再び歩き出したのだった。トランクはもうほとんど引き摺っていたし、足もじくじくと痛んだが、それでもアリアは進み続けた。
 けれど、たった一度だけアリアが背後を振り返ったときがあった。(もしかしたら、おかあさん、もう帰ってきてるかなあ)
(そうかもしれない)アニスも言った。
(戻ってみようか?)
(でも、もうこんなところまで来てしまったよ)
(どれくらい?)
(さあ。だけど、少なくとも二万マイルは歩いたね。戻るとなると、また二万マイルを歩くことになる)
 事実、アリアは二万マイルも歩いた気分になっていたのだ。小さな彼が一生懸命に歩いた距離が精々六マイル程度だったとしても。アリアは再び歩いた。
 そして、いま一度アリアはその足を止めた。分かれ道のためではない。目の前に、ぽつと明かりのついた家がやっとの思いで現れたためだった。
 初夏の青い葉をつけた木々に囲まれるその中央にエドワーディアンスタイルの家が建っている。素焼き瓦の柔らかく青みがかったグレイの屋根に、外壁は一階が煉瓦積みで、二階が白く塗装されていた。玄関ポーチの鼻隠しには貝の装飾が施されており、玄関扉は屋根よりもう少し青の強いフレンチグレイの色をしている。アリアは時計を持っていなかったが、それでももう夜分遅いことは確かだった。そのために、二階の上げ下げ窓と一階の開き窓から橙色の明かりが洩れているのを目の前でしっかり確かめたときには心の底もぼうっと温かくなるような心地がしたのだった。
 ただ、問題はその手前に立ちはだかる白い門と、ぐるりの煉瓦塀であった。アリアはどうにか庭の方に入っていけないかと辺りを歩き回り──裏手に近いところの塀に何やら丸いドアノブの小さな扉が取り付けられてることに気が付いて、嬉々としながらその扉をくぐった。それはちょうどアリアが少し身を屈めれば通れるくらいの扉だった。
 そうしてアリアは玄関前までトランクを引き摺り引き摺りやってきて、ポーチの手前から明かりの灯っている上げ下げ窓を見上げた。扉に取り付けられた、きりりとした顔つきのクマ型ドアノッカーや、その隣のインターホンなどは位置が高すぎてアリアには到底届きそうもなかった。彼は玄関前でトランクに乗り上げて、本日二度目の「ごめんください」を発した。
 それからすぐに、がたがたという音がして二階の上げ下げ窓が開いた。ぱっちりと目が合う。窓から顔を出したのは、まだミドルスクールほどの年齢に見える少年であった。少年のもつ灰みの水色をした髪が驚きに肩上でふわりと揺れ、デイドリームの青く切れ長の目が驚きに見開かれている。ぱちぱちと数度の瞬き。アリアがぶかぶかの帽子を外してぺこりと深くお辞儀をすれば、いよいよ少年は片手に持っていたペンを取り落としそうになりながら、
「そこで待ってて!」
 と叫ぶや否や、どたんばたんと外からでも聞こえる物音を騒がしく立てながら窓枠から姿を消した。
「おや──これは……」
 そして次の瞬間、今度は窓の代わりに玄関扉が内側から開いて、先ほどの少年とは別の色をした声がアリアの元に降ってきた。
 アリアがそちらの方へと顔を向けると、そこには水色の少年とは打って変わって別の色をした人物が、アリアを見付けてそれでもやはり少年と似た驚きの表情を顔いっぱいに浮かべている。三十台半ばほどに見えるその男性は、そう呼ぶ以外に思い付かない燃えるような、或いは沸騰したワインのような赤の髪に、月明かりのような謎めいた、こちらを見透かすみたいな灰色の瞳をしていた。その背後には、先ほどの水色の少年が不安げに男性とアリアを交互に見やっていた。
 アリアは相も変わらず、帽子を握り締めてぺこりとお辞儀をした。すると、赤毛の男性は片手に持っていた絵筆をステッキのように回して、こちらもこちらでお辞儀を返す。彼は絵筆を上掛けのポケットに差し込むと、玄関ポーチの階段をさっと降りてきて、トランクの上に立っているアリアの前で膝を突いた。
「やあ、パディントン」少し掠れたところのある優しい声で男性はアリアに問うた。「こんなところでどうしたのかな?」
「あ、あのう」アリアは突然緊張で胸がどきどきしてきて、口の中がからからと渇くのを感じた。「ここは、魔法使いの家、ですか?」
「魔法使いの家?」赤毛の男性はおうむ返しをする。「まあ、そう言われることもあるな、たまには。ただ……」
 アリアは焦って、言いかけた男性の言葉を遮った。「ぼく、魔法使いの家に行きたくて。でも、家がふたつ見えて、どっちに行けばいいか分からなかったの。ここで合っていますか?」
「テディ」背後で水色の少年の少しばかり凪いだ声がする。
「うん、そうだね」テディと呼ばれた赤毛の男性は頷いた。「じつは言うと、この辺りには魔法使いの家が二つあるんだ。ここはその片方だし、君が迷った方の家もきっともう一つの魔法使いの家だと思う。君は一人でここまで来たのかな?」
「えっと、はい」アリアは頷く。「おかあさんに、魔法使いの家に行くように言われて」
「お母さんに?」赤毛の彼の同じ色をした眉がついと上がった。「なるほど。そうなんだね」
 赤毛の男性はゆったりとしてあちこちに絵の具汚れのあるブルーズのポケットに両手を突っ込み、少しの間考え事をしたようだった。じつのところ、ここはアリアの母が示した魔法使いの家≠ナはなかった。彼女が指していたのは分かれ道を左手に折れた先にある育児院『魔法使いの家』であり、ならばここはといえば、ローレアでは著名な画家の一人である赤毛の彼の住居兼アトリエだった。あるところでは魔法使いの家といっても差し支えなかったが、しかし育児院でないことは確かだった。
「さて、それじゃあ」ポケットから両手を出して、赤毛の画家は家の扉を開けた。「ひとまずお入り。ええっと……」
「アリアです。アリア・アリス……」
「アリア。中へどうぞ? きっと不思議な国の長旅でお疲れだろう」
「あ、ありがとう、魔法使いさん」アリアは何度目かのお辞儀をした。
 呼ばれて、赤毛の彼は朗らかに笑った。「テディだよ。ダン・ダファディ、、ル。こちらはダリア・ダックブルー。私の息子だ」
「親子なのにおうちの名前が違うの?」
「色々あっていいのさ、我々は魔法使いだからね」
 鼻歌を口ずさむみたいにそう言って、彼は家の中へとアリアを招き入れた。そして目に飛び込んできたものたちを見て、アリアは瞬きも忘れて唇をぽかんと開いた。
 テディベア、テディベア、テディベア。つるりとした焦げ茶のフローリングと柔らかなペールカラーの壁を覆うように廊下の片側に背の低い本棚が延々と連なっており、その上には無数の雑貨──とくにテディベアが所狭しと並んでいる。うるうるとした愛らしい瞳のもの、左右で色の違う瞳をしたもの、何故か風に吹かれたようになっているもの、姿は様々だった。本棚には色とりどりの背表紙の小説や画集や絵本がぎゅうぎゅう詰めにされていて、向かいの壁には至るところに絵、絵、絵、果てには床にも大小いろいろの額縁が立て掛けられていた。先導するダンテに続きながら、アリアはきょろきょろと辺りを見回した。これはさながら、とてつもないおもちゃ箱の中に迷い込んだようだった。
「……サンタクロース?」堪えきれず、アリアはダンテに尋ねた。「テディベアせんもん、、、、の?」
「ああ、ふふ。あと三十年もしたらそうなる予定さ」ホッホッホ、と彼は上体を逸らして太い声で笑った。「内定を貰っていてね、今は笑い声の練習中」
「テディはサンタ修行の一環で挿絵画家なんかもしているんだよ」アリアの後ろでトランクを持ちながら、忍び笑いをしていたダリアがそう付け足した。
「あ、あの、あのう、テディ」今度は興奮に胸がどきどきしてきて、アリアはずっと抱えた自分のテディベアをダンテに差し出した。「ぼくのアニス──このテディベア、あなたがクリスマスにくれたもの? ぼく、おぼえてないけれど、生まれてさいしょのクリスマスにこの子をサンタさんにもらったんだ」
「うーん」ダンテは振り返り、よくよく目を凝らしてはアリアのテディベアを見つめた。「ああ、これは私の先輩サンタが君にあげたものだね。もしかして、きみのところにはこの子の他には……?」
 アリアはこくりとした。「うん。ぼく、それきりクリスマスはつまらないんだ」
「やっぱりね」ダンテが肩をすくめる。「先輩は仕事をサボりがちなんだ。今年からアリアのところには三倍のクリスマスプレゼントを届けるようにお願いしておくよ」
「ほんと!」アリアは跳び上がった。
 そんなアリアに、ダンテがぱちりとウインクをして、目には見えない長い髭を触る仕草をした。「サンタクロースが嘘を吐くと思うかな?」
 ややあって応接室に辿り着くと、ダンテはダリアからトランクを受け取り、それをマントルピース前の布張り椅子に載せながら呟いた。「よし、ダリア。夜更かしの大得意なおまえにお願いしよう」
「何、テディ?」アリアのためにピッチャーの水をグラスに注ぎながらダリアが傾げた。
「彼にお水と──あ、もう持ってるな、さすがさすが──少し落ち着いたらお風呂に入れて差し上げて」言いながら、ダンテはダリアの頬を示した。「ついでにおまえももいちど入ってくるといいよ、インクが暴発したみたいだし。私はその間に色々確かめておくとするからね」
「わ、分かったよ、テディ」気恥ずかしそうに頬を押さえてダリアは言った。「それじゃあ行こう、アリア」
 バスルームは壁がペールブルーの陶器タイルで、床は幾何学模様の陶器タイルと、清潔感を保ちつつも何やら楽しげな雰囲気を醸し出していた。この家は最低限の礼節を保ちながら、それでいてどこもかしこもが楽しげだったのだ。アリアはまずひりひりと赤くなってしまった両足をダリアに冷やしてもらった後、身体に沁みないよう気を付けた温度のシャワーで頭のてっぺんからつま先までをごくごく丁寧に洗われ、今はちゃぽんとちょうど良い温かさの湯に浸かっているところだった。
「ねえ、ダリア」バスタブで肩まで浸かりながら、つとアリアが言った。
「うん?」
「不思議の国ってなんだろう。さっきテディが言ってた」
「ああ、それはね、まさしく言葉通りなんだ」バスタブに浮かべたアヒルをちょんと指で遊びながら、ダリアがそう笑った。「アリスだけが行ける不思議の国だよ。しゃべる動物や花や動き回るトランプや、猫のない笑いのチェシャ猫がいて、そうやってなんでもかんでもへんてこで面白いところなんだ」
「ぼくも行ける?」
「行けるさ」ダリアは自信ありげに言う。「アリア・アリスの不思議の国にならね」
「どうやって?」
「もちろん、魔法を使うんだ。アリスが白ウサギを追いかけたみたいにね」空中に指先でくるりと円を描いて、ダリアは微笑んだ。「夢とも言うかな? まず、目を瞑ることから始めよう」
「つむったよ。それから?」
「行ってみたいところを考える」
「どこだろう」
「どこでもいいんだよ。行ったことがあって楽しかった場所でもいいし、好きなものだけがたくさんある場所でもいい。なんでも、どこでも」
 少し迷った後、アリアは呟いた。「海かなあ」
「海? 素敵だね、どんな海だろう」
「おかあさんと一度だけ行ったことのある海」
「そっか」ほんのわずかに言葉に詰まって、ダリアは頷いた。「うん、いいね。どんなものがある?」
「青空。白い雲が少しだけある。海はとても青いのに、すくうとぼくの手の中に青が溶けていってしまって不思議なんだ。砂浜はさらさらやわらかくて、雲と同じくらい白い貝がらがいくつも落ちてる。きれいなガラスのかけらが落ちてたから、ぼくはそれを拾って光にすかした。ぴかぴかまぶしくてびっくりして落っことしちゃったけど、おかあさんはそれを拾ってまたぼくに渡してくれた。波がこっちに近寄るたびに白くはじけて、笑ってるみたいだった。あれはなんて言っていたんだろう?」
「こんにちは、アリア。今日はとても素敵な日だね」ダリアがそっと囁いた。
 アリアは波間にしゃがみ込んで微笑む。「こんにちは、波の白い泡さん」
「君は今どこにいるの?」波はぱちぱちと弾け笑いをしながら尋ねた。
「海にいるよ、もちろん。だからきみと話してるんだ」
「これからどこに行くの?」波は更に問う。
「海に行くよ、もちろん。おかあさんに会うんだ。海はすべてにつながっているから、きっとおかあさんにもつながってる」アリアは水平線に目を細めた。「でしょ?」
「それなら、一人じゃあいけないね。仲間がいるね」
「仲間? どんな?」
「黄色いアヒルのダ──アドニスとアドリアさ。ごらん!」
 波の言葉にはっとしたアリアの目の前には、波間に浮かぶ自分と同じほどの大きさをした二匹のアヒルがいた。「やあ、こんにちは。ぼくを乗せてくれるの?」
「もちろん、もちろん」アドニスとアドリアがオレンジ色の嘴で笑った。「さあ、どうぞ?」
「アドリアの方に乗らせてもらうことにするよ」砂浜をとんと蹴って宙に浮かび、アリアはアドリアの黄色くてふわふわの背に抱きついた。「アドニスの方にはアニスを乗せてくれる? ぼくの友だちなんだ」
「言われなくともさ」アドニスはグレイの瞳を三日月にして笑った。「よろしく、アニス」
「やあ、置いて行かれるのかと思ったよ」アニスがそのもこもこした手でアリアの背を叩いた。「ありえないけどさあ」
「ありえないよ」アリアはアニスのもこもこの手をきゅっと握る。「ところで、アリスの不思議の国にはどうやって行くんだろう。ぼくのじゃない、アリスの不思議の国」
「ぼくのじゃない?」アドニスとアドリアが訊いた。
「うん。おかあさん、きっとほんもののアリスなんだ。だって名前もアイリスだもの。だから、白ウサギを追いかけて行っちゃった」アリアはアドリアの首元をぎゅうと抱き締めた。「この海は、おかあさんの不思議の国にもつながってるかなあ」
「繋がってるよ」アドニスとアドリアが言った。
「そうだよね」
 それから、ダリアがそっと呟いた。「きっと、繋がってる」
 アリアはうっすらと目を開けた。なんだか温かい波の中をふわふわと漂っているような心地で、彼は一瞬自分がどこにいるのかよく分からなくなったが、ぼんやりと霞んだ視界の中にダリアの青い瞳が見えると、
「ぼく、今、不思議の国にいたよ」
 と、そう淡く呟いて微笑んだ。その拍子に頬から流れ落ちた水滴が口の中に入り込む。アリアはそこに何か海の名残のようなものを感じると、はたとして重たい瞼をどうにか開け続けようとした。
(ダリア。泣いてるの? 泣かないで……)
 しかし、アリアが発したそれは、テディベアのアニスに語りかけるときの言葉にしかならなかった。彼は温かい湯の中でうとうとし、ついにふっと意識を手放すと、ダリアに抱えられ、あれこれ身なりを整えられる間もずっと眠っていた。
 すやすやと眠るアリアをソファに寝かせてしばらくののち、ダンテはスマートフォンをテーブルの上に乗せ、もう今日は描く予定はないというようにブルーズを脱ぎつつダリアに言った。「──今日、育児院に新しい子どもがやってくる予定はないし、今のところアリア・アリスって名前の子がやってくる予定もないらしいんだ。一応、顔見知りの警官にも訊いてみたけど、そういう名前の行方不明者はいないって」
 原色の絵の具みたいに混じりけのないダンテの言葉に、眠るアリアの隣に座っているダリアはさっと顔色を曇らせた。ダンテはそんな息子の表情を見て、けれども隠し立てせずにゆるりとかぶりを振り、背後で開け放たれているアリアのトランクを親指で示した。
「日用品に菓子の瓶が三つだ、まともじゃない」言って、彼は一人掛けのソファで前のめりになる。「ひとまず、母親が育児院の方に迎えに来たり、捜索願が出たりすればこっちにも連絡を貰えるようにしたけれど……なんだか出生届が出されてるのかも怪しいから、その辺りも調べてみることにするよ」
「でも……だからってどうするの? テディ……」
「どうもこうもないな、この子の気持ち次第さ。私としては、パディントンがもうひとりくらい家にいたって構わないと思ってるからね」ダンテはそのまったく魔法使い然としたグレイの瞳で息子をそうっと見つめた。「ダリアはどう? 正直な気持ち」
「僕、もう約束しちゃった」アリアの頭を撫でながら、少し言いにくそうにダリアは言った。「そのう、つまり……力になるって」
 そして、そんなダリアの言葉を聞いて、ダンテはくつくつと笑った。「なんだ、おまえももうとっくにブラウンさんこっち側だったか!」
 その笑い声を合図に、アリアが毛布の中でもぞりと動いた。アリアはむくりと緩慢な速度で身体を起こし、なんだか頭がぼうっとするのと同時に全身にとんでもない重りがつけられているような感覚がして、どうしてだろう、ここはどこだろう、と思った。ぱちりとすると、赤毛の魔法使いと水色の魔法使いがこちらを覗き込んでいた。アリアは片目を擦り、そういえば自分は二万マイルも歩いてこの不思議な魔法使いの家にやってきたのだった、ということを思い出す。
「やあ、おはよう」その眠気まなこのアリアに、まずダンテが声を掛けた。
「おはよう、アリア」次にダリアだ。「だけど、もう少し眠った方がいいよ」
「うん──うん、でも、ぼくはだいじょうぶ」アリアはあくびをして、ぐぐ、と伸びをした。「何かたいせつな話をしていたでしょ?」
「そうだね、してた」ダンテが頷き、目を細める。「君は賢いね」
「どんな話?」
「いわゆる──君がどちらの魔法使いの家に行きたいかなって話さ」やはり率直にダンテは言った。彼は子ども相手にこそ、たいせつなことについては隠し事をしないたちだった。「もう一方の魔法使いの家にはカヴァルさんという人がいてね、とても優しいおじいさまだよ。向こうの家には君の他にもたくさんの姉妹兄弟がいて、とても賑やかだと思う。まあ、ここほどテディベアはないけれどね」
 ダンテはソファから立ち上がってアリアのところまでやってくると、はじめにそうしたのと同じように彼の前で膝を突いた。アリアの丸く温かな頬を撫でて、ダンテは相手の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「アリア。これは君のことだからね、これからどうするかは君が決めるんだ。ひどく聞こえるかもしれないけれど、実際のところ、君にしか決められないことなんだよ。君の道を作るのは、いつでも君だから」
 アリアは目の前のグレイを見つめ返した。きっと答えなど聞かなくても、ダンテはこちらの言いたいことを分かっている、そんなような気さえしてくるまなざしの月だった。アリアはソファに座り直すと、ぎゅっとテディベアのアニスの手を一度だけ握って、すうっと息を吸った。
「ぼ、ぼく」アリアは心臓の辺りで片手を握り締めた。「海に行くんです、ここから。そうやって約束したの」
 その言葉にぱちと瞬いたのはダリアだった。もちろんそれを見逃さなかったダンテはにやりと口角を上げて、
「なるほど、そうか?」
 と笑った。そしてダリアの方をちらりと見やって、「私も連れてってくれるのかな?」
「テディは乗せる側だよ」ダリアは最早毅然とした態度でそう答えた。「お風呂のアヒルの片方ね」
「そいつはいい。一度アヒルになってみたかったんだ、まっ黄色のやつにさ」
「ぼく、ここにいたい」ついにそう呟いて、アリアはその小さな手のひらでソファの布をきつく掴んだ。「テディベアもたくさんあるし」
「ハハ、やったな!」にっこりと明るい笑顔を浮かべて、ダンテはアリアをぎゅうっと抱き締めた。「テディベア愛好家ってのはこれだからやめられないよなあ。だろう、ダリア?」
「テディ、笑い方」突っぱねるような言い方だったが、しかしダリアもにこにことした笑みを顔中に浮かべながら言ったのだった。「そんなふうだと、立派なサンタクロースになれないよ」
「ダリア」つと、抱き締められて息を詰めながらアリアが呼んだ。
「うん?」
「ダリアは先生なの、魔法の?」
「え、えっ?」突然の問いかけに、ダリアは動揺して首も手も両方振った。「いや。いやいや……」
「じつはそうなんだよ、ダリアはこんなふうで私よりも魔法の扱いが上手くてね」そんなダリアに構わず、ダンテがアリアに耳打ちした。「もしかして、彼の魔法を教わったかな? いろんなところに連れて行ってくれるだろう?」
「うん」アリアはゆるゆるとダンテを抱き締め返し、彼を見上げながら笑った。「ぼく、ぼくの不思議の国まで行ってきたよ」
「そりゃ羨ましいな!」ダンテはくしゃくしゃとアリアの金髪を撫で回した後、ちらっと顔を赤くしているダリアの方を見やり、ぱちんと片手の指先を鳴らした。「なあ、先生。ひとつ私にも魔法を聴かせておくれよ。おまえの大得意な、物語の魔法を?」
「それじゃあ」ダリアははにかみ、こほんと咳払いをした。「いちばんありふれていて、簡単なものを」
 だから、その物語はいつもこんな言葉で始まるのだ。


 むかしむかし、あるところに……



20220611 執筆

- ナノ -