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おまえ以外の災厄などいらない



「一週間だけ。飼い猫とでも思って面倒見てあげて」
 と、マドンナ・マジェンダから突如言い渡されたのは、サファイア・サイアンがルニ・トワゾ歌劇学園を経て劇団ロワゾに入団した年の冬であった。
 その日は、冬でも比較的温暖なエクランにしては皮膚を裂くような寒さだった上、未明頃からずっと濃い霧に覆われている街はじっとりと濡れながらも凍えていた。街に人通りは少なく、水滴に湿った家々の外壁は酷く脆いものに見え、明け方路上を跋扈するカラスでさえこの朝では鳴りを潜めていた。夜のような朝だった。
「明日からトワゾの修学旅行なのよ。この時期なのは、まだアナタだって覚えてるでしょ? だから私、向こう一週間はどうしてもこっちにいられないの」
 マドンナは申し訳なさそうに肩を落としながらも、有無を言わさんとばかりにはっきりとした声色でそんなふうに発しては、自身の隣に立ち尽くしたまま動かない一人の人間を示した。「頼めるわね?」
「マドンナ」無論、この唐突な白羽の矢に、サファイアは抗議した。「私、……何か気に障ることをしましたか? 正直なところ、思い当たらないのですが」
「つまらない声で鳴くのはおよし」けれどもそんなサファイアの言葉を手刀めいた声で叩き落として、マドンナはひらりと片手を振る。「呪うならちょうど公演直後でそれなりに時間的余裕があって、ちょうど一人暮らしで、ちょうど中国語が話せる自分自身よ」
「私、何も悪いことしてませんよ?」
「まあ、ちょっと犯罪者予備軍的なところもあるけど、凄い才能を感じる子だし、基本的には言うことを聞くから」無視である。「じゃあ、後は任せたわ」
 そうしてサファイアが止める間もなく、マドンナはそのヘリオトロープの瞳でぱちりとウインクを残すと、金糸のような髪と羽織っているマントを無慈悲に翻してコツコツとその場を去ってしまった。
「……はい?」
 そんなあまりの暴挙にサファイアの薄く開かれた口から出てきたのは、こんな間の抜けた言葉にも満たないような言葉のみだった。彼は血管が浮き出るほどの白い肌の上で微笑を湛え、瞳はいかにも理性的で涼しげなそれを保ちながらも、しかしその脳内は大いに混乱を極めていた。なんという横暴に、なんという無理無体か! かつての自分の担任教師だったオウカ・オミナエシでさえ、これほど無意味で無秩序な無理難題を吹っかけてくることはなかっただろう。
 サファイアは人目も憚らず盛大に溜め息を吐きたくなるのを堪えて、ちらりとマドンナの置き土産を見やった。
 おそらく、自分と同じほどの青年であると思われるそれは、けれどもかろうじて人間の形を保っている≠ニいった様相であり、マドンナが隣にいたときから今に至るまでの間、微動だにしていない。生まれてこのかた手入れなどしたことがないのだろう質の髪はマドンナによって多少整えられていたがそのあちこちが不規則に跳ねており、傷みすぎて漆黒と呼ぶほど色濃くも艶やかでもなく、ところどころに若白髪の混じったそれは最早黒というよりはグレイと呼ぶ方がふさわしいように思える。あまりのみすぼらしさに、見ているだけで肌が粟立つようだった。両の目は厚い前髪に覆われていて何色をしているのかさえ分からない上、そもそもあまりにも動きがないために目が開いているのか開いていないのかすらも定かではなかった。身に着けているルニ・トワゾふうのブラウスやスラックスはマドンナが誂えたものだろうが、まったく服に着られているといった様子で似合う似合わない以前の問題だった。飼い猫と思え? これならばまだ捨て猫の方がましな見目と愛嬌を備えているだろう。
 だとしても、劇団ロワゾの女王マドンナの言いつけを足蹴にするわけにもいかない。サファイアはくるりと踵を返し──言わなくとも勝手についてくるものと思ったが、そんな気配もなかったので彼は仕方なしに自分についてくるよう、相手に声をかけることとなった──元々予約していた稽古場へと向かった。もちろん、先日千秋楽を終えたばかりの公演での癖を抜き、次にどのような役を当てられても問題のない状態に仕上げるためである。
 マドンナの置き土産はそんな彼の後を無言かつ無機質について歩き、稽古場ではサファイアが指示した通りに隅のパイプ椅子に腰を下ろしていた。サファイアはなるべく集中力の妨げにならないような位置に相手のことを座らせたが、それでも全身鏡越しに温度のないまなざしが背中を這っているのだけは感じられた。前髪が長すぎるために前が見えているのかは微妙なところだったが。とかく、それでもサファイアは演劇界の至宝、劇団ロワゾに属する役者らしい速度で自分自身と向き合うと、やはりこれも劇団ロワゾらしい恐るべき集中力で基礎練習に没頭し、背後に座している重たい荷物の存在を忘れてある種の安息を得ることができた。
 しかしながら、それも数時間のあいだのみの話である。サファイアは一通りの基礎練習を終え、自身をなるべく役の癖のないフラットな状態に仕上げると、食堂へ向かい軽く昼食を摂った。マドンナの置き土産は目の前に置かれた食事を前にしても、何を食べようともしなかった。そうしてサファイアは置き土産を引き連れて再び稽古場へと舞い戻り、先ほどと全く同じ基礎練習をひたすら何時間も、何時間もくり返した。
 劇団ロワゾでもルニ・トワゾと同じように、歌い手は踊り手と同じ練習をし、踊り手は演じ手と同じ練習をし、演じ手は歌い手と同じ練習をする。他の役割同士が繋がり合っており、ロワゾでは舞台上の役割が完全に分業になることはないのだ。そこでまずサファイアは、『これはジャックのたてた家』の一節一節を腹式呼吸でひと息で諳んじはじめた。


  これはジャックのたてた家
  
  これはジャックがたてた家に
  ころがってたモルト

  これはジャックがたてた家に
  ころがってたモルトを
  食べたネズミ

  これはジャックのたてた家に
  ころがってたモルトを
  食べたネズミを
  殺したネコ

  これはジャックのたてた家に
  ころがってたモルトを
  食べたネズミを
  殺したネコを
  驚かしたイヌ

  これはジャックのたてた家に
  ころがってたモルトを
  食べたネズミを
  殺したネコを
  驚かしたイヌを
  角でつついた雄牛

  これはジャックのたてた家に
  ころがってたモルトを
  食べたネズミを
  殺したネコを
  驚かしたイヌを
  角でつついた雄牛の
  ミルクをしぼった娘さん
  
  これはジャックのたてた家に
  ころがってたモルトを
  食べたネズミを
  殺したネコを
  驚かしたイヌを
  角でつついた雄牛の
  ミルクをしぼった娘さんに
  キスをした乞食男

  これはジャックのたてた家に
  ころがってたモルトを
  食べたネズミを
  殺したネコを
  驚かしたイヌを
  角でつついた雄牛の
  ミルクをしぼった娘さんに
  キスをした乞食男を
  結婚させてあげたこぎれいな神父さま

  これはジャックのたてた家に
  ころがってたモルトを
  食べたネズミを
  殺したネコを
  驚かしたイヌを
  角でつついた雄牛の
  ミルクをしぼった娘さんに
  キスをした乞食男を
  結婚させてあげたこぎれいな神父さま

  これはジャックのたてた家に
  ころがってたモルトを
  食べたネズミを
  殺したネコを
  驚かしたイヌを
  角でつついた雄牛の
  ミルクをしぼった娘さんに
  キスをした乞食男を
  結婚させてあげたこぎれいな神父さまを
  夜明けに目覚めさせてあげた雄鶏

  これはジャックのたてた家に
  ころがってたモルトを
  食べたネズミを
  殺したネコを
  驚かしたイヌを
  角でつついた雄牛の
  ミルクをしぼった娘さんに
  キスをした乞食男を
  結婚させてあげたこぎれいな神父さまを
  夜明けに目覚めさせてあげた雄鶏を
  飼っている働き者のお百姓さん

  これはジャックのたてた家に
  ころがってたモルトを
  食べたネズミを
  殺したネコを
  驚かしたイヌを
  角でつついた雄牛の
  ミルクをしぼった娘さんに
  キスをした乞食男を
  結婚させてあげたこぎれいな神父さまを
  夜明けに目覚めさせてあげた雄鶏を
  飼っている働き者のお百姓さん



 それから彼は自然な共鳴のために喉を開き、音域は徐々に上げる訓練を行い、そして、開口訓練で母音を完ぺきに仕上げた。次にフレージングを確かめ、台詞は明晰に、交流を第一に考え発する鍛錬。表現者──特に、アトモスクラスの──にとって最も大事なのは、在りて、聴いて、語ること。表現力と空間把握能力。基礎練習。基礎練習。基礎練習。
 そんなルニ・トワゾ及びアトモスクラスでの習慣が身に刻み込まれているサファイアがはたとした頃には、外はもうとっぷりと暮れ、一日の終わりを告げていた。彼はごくごく静かに息を吐くと、手早く後片付けを済ませ、稽古場のすぐ近くに設置されているシャワー室で汗を流しては身支度を整えた。そうして彼はそのまま帰路に就こうとし──稽古場に忘れ物をしていることを思い出して、稽古場の中を覗き込む。
 サファイアの飼い猫もどきは変わらずパイプ椅子の上で三角座りをしたまま、身じろぎもせずじいっとただ一点を見つめているようだった。相変わらず前髪に隠された目は見えなかったが、唇が薄く薄く開いてはひっそりと呼吸しているさまは認めることができる。サファイアはそんな相手に努めて柔和に聞こえるよう、たとえばどんな者にも寛大な神父の台詞を発するようなつもりでマドンナの置き土産に声を掛けた。すると、相手はその唇をぴったりと閉じて、緩慢とも性急とも言いがたい微妙な速度でサファイアのところまでやってきた。サファイアは自身の口元に明け方の三日月めいた微笑を湛えながらも、内心は不安滲みの辟易を渦巻かせながら、その猫にしては従順で人にしては無機質な置き土産を連れて今度こそ稽古場を後にしたのだった。
 ああ、それにしても。サファイアは自宅うへと向かうタクシーの中で思う。それにしても、今日という日は、まるで両肩に岩を載せられたまま過ごしたかのごとくにどっと疲れた一日だった。後のことはハウスキーパーに任せて、今日はもう早めに休むとしよう。彼はそんなふうに考えながら、未だぼんやりと虚空を眺める相手からそっと視線を逸らして窓の外をただ見るともなく眺めていた。
 が、自宅のドアを開けるなり、サファイアは愕然とした。一切の物音がせず、料理のにおいもしない室内を見て、彼はハウスキーパーが父親が急病のために数日間休みを取らせていただく≠ニいった旨の連絡を今朝がた電話で受けたことをたった今思い出したのだった。サファイアはにっこりと笑んだままに小首を傾げた。──では、つまり、この飼い猫もどきの面倒を一週間も見なければならないのは一体誰なのか?
「……とりあえず、シャワーを浴びてきてもらえるかな」
 サファイアはこめかみの辺りにちりりとした痛みを覚えながらも変わらず物腰穏やかな声色を絞り出して、すっとバスルームの方を示す。そんな相手の所作を見たマドンナの置き土産は示されたままにバスルームの中へと消えてゆき、それに続くようにして水の流れる音が浴室の中から聞こえてきたので、サファイアはそうっと息を吐いてリビングルームのソファに身体を沈めた。そうして彼はテーブルの上に置かれていた『パラダイス・ロスト』の台本をぱらりと捲る。古くからの根強い人気があるこの物語は、役者を変え演出を変え、劇団ロワゾの長い歴史の中で幾度も幾度も上演されてきた作品である。サファイアはルニ・トワゾ卒業後すぐにこの作品のレイヴン──ノウズ役に抜擢され、先日その公演の千秋楽を終えたばかりであった。サファイア演じるノウズは大変な好評を期したため、彼の『パラダイス・ロスト』は来冬の再上演も決定している。
 そうして台本を読み耽り、台詞をさらっていたサファイアはきりの良いところでちらりと時計を見やり、そこで初めてマドンナの置き土産がバスルームに入ってから三十分経過していることに気が付いたが、シャワーに時間が掛かる人間も少なくはないだろうとさして気には留めなかった。しかしながら、台本を一周どころか二周三周し終えても──時間にして、一時間経っていた──バスルームから聞こえる水音が鳴り止まないことには流石に気を揉んで、サファイアはソファから立ち上がり、バスルームのドアをノックした。
 けれども、返事はない。サファイアは再度ドアを叩いた。返事はない。もう少し強く叩いて彼は相手の名を呼ぼうと口を開いたが、しかし呼ぶべき名を知らないことに気が付いて、代わりに無事かどうかを問うた。返事はない。或いは浴室で倒れているのかもしれないと案じたサファイアはもう一度ドアをノックし、バスルームの中へと踏み込んだ。
 そして片足を踏み入れたところで、サファイアはバスタブの中で三角座りをしている青年のことを視界に映してほっと胸を撫で下ろしたが、同時に浴室に満ちる異様な雰囲気にも気が付いた。
 シャワーヘッドからはざあざあと大雨のような音を立てて透明な水が絶え間なく降り注いでいる。そのためにバスタブからは抱えきれなくなった水が溢れ、それはしゅるりしゅるりと弧を描きながらもどこか下品な音を立てて排水口へと休むことなく吸い込まれていた。おかしい。サファイアはもう一歩浴室に足を進めた。寒い。そう、寒いのだ。思えばこの浴室には蒸気がない。換気扇のスイッチは入っていなかった。ならば普通、入浴するならばバスルームは湯気で充ち満ちるはずだ。サファイアはバスタブに近寄って、シャワーから噴き出る水に触れた。湯ではない。水だった。冷水だ。無論、バスタブいっぱいのこの水も。
 サファイアは思わず裸の青年の両肩を掴んで顔を覗き込んだ。真っ青になった肌の上で、青紫色の唇が呼吸している。彼はとにかく相手のことを抱え上げてバスタブの中から救い出すと、こういった場合の正しい対処法も分からないままにシャワーの水を湯に切り替えて青年の足元から順に身体を温めてやった。サファイアはそうしながらバスタブの栓を抜き、今度はそちらに湯を貯め、青年の身体がとりあえず温度を取り戻したことを確かめるとその身体に一旦ふうわりとしたバスタオルを掛ける。それでもマドンナの置き土産は薄く唇を動かすだけで何も言わなかった。そんな相手を見て、サファイアは彼らしくもなくバスタブの縁に腰掛けると、前のめりに両手の指先同士を合わせては心底疲弊したような溜め息を吐いた。
「お前」思いのままにそう発して、けれどもサファイアは言い直した。「……君、頭がおかしいのかな」
 返事はない。最早期待もしていなかった。彼はこれでは埒があかないとバスルームを出て、テーブルの上のスマートフォンで成人男性を入浴を手伝う方法や入浴自体をさせる方法などを検索したが、しかしどれもこれも介護士や介助士が管轄するような内容ばかりで参考になりそうもない。自分には手に負えない。そも、自分で考えて動けないあの青年に役者の才があるとはとても思えなかった。今からでも青年をマドンナの元に突き返すべきかという思いがサファイアの頭をよぎった瞬間、しかし誤ってタップしたページで或る動画が自動再生される。泡だらけの仔猫の入浴動画だった。彼ははっとした。これならば。
 閃いたサファイアは脱衣所の泡風呂用入浴剤を引っ掴むとバスルームに舞い戻り、それを数袋分バスタブにぶちまけては大量の泡を作り出した。彼はマドンナの置き土産のことを再び抱え上げてバスタブの中に沈めると、ボディスポンジを取ってわしゃわしゃと相手の身体を洗い、ついでにその傷みきった頭にシャンプーとトリートメントもしてやった。サファイアはシャンプーのためにとついに青年の前髪を上げ、その顔を覗き込む。彼が思っていたより、マドンナの置き土産は幼い顔立ちをしているようだった。ただ、瞼が閉じられていたので、相変わらず瞳の色は分からない。唇だけが絶えず呼吸を行っていた。いや。サファイアは相手の髪を洗う手を止めた。いや、呼吸ではない。サファイアははたとして、先ほどとは違う理由で青年の顔を覗き込んだ。唇から、何か声が洩れていた。小さく、小さく、それこそ蚊の鳴くような声で、マドンナの置き土産は何かを呟いていた。


  これはジャックのたてた家に
  ころがってたモルトを
  食べたネズミを
  殺したネコを
  驚かしたイヌを
  角でつついた雄牛の
  ミルクをしぼった娘さんに
  キスをした乞食男を
  結婚させてあげたこぎれいな神父さまを
  夜明けに目覚めさせてあげた雄鶏を
  飼っている働き者のお百姓さんの
  野菜を盗み食いするカラスを
  轢いても止まらない役人の馬車を
  脱輪させた尖った石ころを
  掴んで投げたイタズラ小僧に
  落ちて辺り一面を焦がした雷で
  焼け死んだかわいそうな白鳥を
  巣へと運ぶアリの大群を
  降り注いで流す大雨に
  出航する大きな泥船の
  中で暴れる憐れな一角獣を
  呑み込んで破裂した大蛇に
  安らかな眠りあれと囁く修道女を
  嘘吐きと糾弾して炙る群衆の
  一人ひとりにパンを配る男の
  名前をただ一人知る修道女を
  火炙りにして殺した群衆を
  呑み込んでとぐろを巻く大蛇の
  口から吐き出された怒り狂う一角獣に 
  穴を空けられて沈みゆく泥船を
  飽き足らず粉々に潰す大雨に
  巣を奪われ溺れるアリの大群の
  横で波に攫われる死んだ白鳥に
  無意味な蘇生術を施す雷に
  怯える無力なイタズラ小僧の
  目を潰した尖った石ころで
  横転してあの世に向かった役人の馬車の
  死体を漁る浅ましいカラスを
  鍬で殴った働き者のお百姓さんの
  手を貫いた鋭い嘴の雄鶏を
  慈悲なく絞めた動物嫌いの神父さまに
  罪を暴かれて首を吊った乞食男の
  発見者になって気の狂った娘さんの
  赤いスカートを地の果てまで追った雄牛の
  揺れる尾を噛み千切ったイヌを
  長い爪で突き刺したネコの
  寝首を掻いたネズミの
  胃の中にころがったモルトが
  芽を吹いて蹂躙されるジャックのたてた家には
  もうだあれもいない誰も
  いないからと棲みつきはじめた神さまも
  誰かみたいな一種の化け物



 ひと息だった。たったひと息で彼は、この長い詩を一切淀むことも詰まることもなく諳んじきったのだ。それは途中までは先ほど稽古場でサファイアが諳んじていた詩だったが、飼っている働き者のお百姓さん≠ナ転調し、以降は青年の母国語なのだろう中国語での独自の詩になっていた。彼は稽古場から今の今まで、ずっと、ずっと、延々と、この積み上げ詩の続きを考え、諳んじ続けていたのだ。開閉する唇は呼吸ではなかった。ずっと、呼吸ではなかったのだ。異常だ。紛れもない狂気。そんな相手にサファイアは、何故だろう恐怖よりも先にほの暗い喜びが舌上に広がり、うっそりと口角が上がるのを感じずにはいられなかった。
 それを誤魔化すためにサファイアはバスタブの湯を抜き、同時に頭からつま先まで泡まみれになっている青年をシャワーで洗った。そうしながら、サファイアは思えば今までずっとローレアの言葉で青年に話しかけ続けていたことを思い出す。身振り手振りでも意思疎通が取れていたのなら今のままでも構わないが、しかし。
 サファイアはシャワーの湯を止め、すっと息を吸うとじつに明朗な中国語で問うた。「名前、なんて言うの?」
 その問いかけに、音もなく青年の睫毛が上がり、彼は驚くほど真っ赤な、真紅と表現する他ない真っ赤な色の瞳でサファイアを見る。
「──お前、人間?」
 それはなんだか、耳から入り込んだ小さな蛇が背骨を這うようにこそばゆく、それでいて微かに湿った赤い舌に舐められるような甘やかさのある声だった。
「……それ以外に何に見えるの?」
 サファイアが怪訝を演じた声色でそう問えば、青年はまるで初めて誰かと周波数が合った孤独なクジラのような、或いは苦悩の梨を口から吐き出すことを許され解放された罪人のような、そんな昏い輝きを目の奥に宿して、にっこりと、それはそれは愛らしく笑ったのだった。
「嘘吐き」
 と。


 それからというもの、今までの態度が嘘のようにマドンナの置き土産は生気を取り戻し、サファイアの家で悠々自適な生活を送るようになった。バスルームでの出来事の翌日には、彼は冷蔵庫の中身を勝手に使って朝食を用意し、驚くべき要領の良さでサファイアが起きるよりも早く家の掃除まで終わらせていた。意外なことに、彼はサファイアが舌を巻くほど料理が上手かった。
 その更に翌日、青年は突然呟いた。「サファイア・サイアン」
「何?」初めて名を呼ばれて、サファイアは思わず振り返る。
「名前」青年はスマートフォンの翻訳アプリとサファイアの台本を見比べて問うた。凍傷を起こしかけていたからだろうか、青年はバスルームでのやり取りをすっかり忘れているようだった。彼はサファイアには中国語が通じないと勘違いしており、とにかく相手のことを真似て片言のローレア語を話そうとしていた。「オマエの?」
「そうだけど」
「それは?」つい、と青年は指先でサファイアの唇を示した。「ローレアの言葉」
 サファイアは首を傾げる。「それって? ああ、口紅? ルルージャだよ」
「違う」青年は分かり易く不機嫌に口を歪めた。「オマエの発音、もっと」
 何を言われているのか今ひとつ分からず、サファイアは親指と人差し指で自身の唇を触りながら、自分が生まれた地域のアクセントで先ほどの単語をもう一度発した。「……ルージュ」
「ルージュ」おうむ返しをし、青年はどこから見付けてきたのかサファイアの宝石箱をぱかりと開けた。「ア、あー、これは?」
「リュビ──ああ、いや」そのリングホルダーの中に収まる真紅の宝石が填められた指輪を見やって、サファイアは先ほどと同じアクセントで発音し直した。「ルビー」
「ルビー。ルビー・ルージュ」青年は満足げににっこりした。「これにする」
「どういうこと?」
「ワタシの名前」自身を指差して、青年は頷いた。「ヒトは嫌い。ケモノも嫌い。ムシは最悪。オマエみたいな化け物がいちばんマシなんだ。ワタシもそうする」
 そんな青年──ルビーは一週間経っても彼はマドンナの元に帰る素振りは一切見せず、それどころか、サファイアに黙って彼のハウスキーパーを解雇さえしていた。彼曰く、「だって俺の方が料理上手いじゃん」とのことだった。はじめの三日ほどはサファイアの口調を真似た片言で愛らしいローレア語を話していたルビーだったが、彼の吸収力はさながら底なし沼のごとくであり、それから数日もすると標準ローレア語などはすっかり彼の手玉になっていた。ただ、こちらでの名前の表記が彼の母国とは異なり、サファイアが姓ではなく名で、サイアンが名ではなく姓であることには未だ気付いていないようであったが。
「──なあ」つと、サファイアの耳元で渇いた声がする。「お前、起きてンだろ」
 そして、あれからもう、二十年近くの時が経とうとしている。マドンナの置き土産は本当に置き土産として、まだこの部屋の中にいた。舞台の上で飛んで落ち、寝台の上で飛んで落ちをくり返すこの墓場鳥は、瞳だけがずっと変わらない色をしている。変わらない赤。鮮やかなる真紅。
 ああ、おそらくは、禁断の果実というのはこんな色をしていたのだろう。ならば罪深いのは、やはりその果実そのものなのだ。ぎしりと寝台のスプリングが軋み、そっと首に両手を掛けられる感触がする。ただ……
「ルージュ。重たい」
「吐くならもっとましな嘘を吐けよ。俺は羽根より軽いンだから」
「重いよ」
「死んだらもっと重くなる」ルビーはサファイアの首に腕を巻き付けた。「死んだ俺を何度も抱えたお前なら、それくらい知ってるでしょ?」
 サファイアは唇の端で笑って、閉じた瞼をうっすらと開けた。相手と対をなす真っ青な瞳が、薄暗い部屋の中で弧を描いた。
 ただ──自分が蛇ならば、この真紅を他人に明け渡しなどするはずもないのだが。


20220604 執筆

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