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プライド・アンド・プレリュード



虎よ! 夜の森のかげで明々と燃えている虎よ!
死を知らざる者のいかなる手が、眼が、お前の畏るべき均整を造りえたのであるか?

いかなる遙かなる深淵で、或いは大空で、爛々たるお前の眼の焔は燃えていたのであるか?
お前の造物主は、いかなる翼をかって天に昇り、いかなる手を用いてあの火を掴みえたのであるか? - ウィリアム・ブレイク『虎』より



 春の夜は己の季節以外に咲くものを赦さないように冷たく、それに似た温度で磨きすぎた床の前では、水も濁りようがない。
 こんにちの授業と清掃活動を終えた校舎には、ほとんど生徒の気配はなかった。
 それもそのはず、今日は新人公演を終えてから、初めて通常授業が行われたその放課後である。大抵の生徒は、新人公演で演じた役の型や癖を抜くために空いているレッスン室で自主練習に励んでいたが、陽も沈みきった今ではその多くが疲弊した身体を引きずり、羽を休めるために自らの寮へと戻って行ったのだろう。時計塔グラン・ククが日没を告げてからもう、しばらくの時間が経っていた。
 ダンスルームに風は吹いていなかった。ここでは今、誰も踊っていなかった。唯一ダンスルームに残っているヘザー・ヒースブラウでさえ、バケツの中に満たされた水を覗き込んで、モップの柄のてっぺんに自身の片腕を預けるのみである。そうしてふと、床に爪痕のごとくこびりついている黒ずみの前に、彼はそっと片膝を突いた。
「それ、上からワックスかけちまってるから取れないぞ」
 が、しかし、背後から放たれたその言葉のために、ヘザーはぴたりと身を硬直させてから後ろを振り返る。「……先生」
「遅くなって悪かったな。会議が長引いた」ガーネットはひらりと片手を振った。「しかしヘザー、お前なんで掃除なんかしてるんだ? 自主練ならまだしも」
「考え事をするにはちょうどいいんですよ」言いながらヘザーは立ち上がった。「動いていないと落ち着かないし……でも、踊ると夢中になってしまうので」
「ま、クーデール生の道理だな」
「……それに、汚れてるのは気になるから」
 呟いて、ヘザーは床の黒ずみをぼんやりと見つめた。ガーネットの言った通り、汚れの上からワックスのかけられているそれは、よく見るとただの黒ずみではなく、傷付いた床に汚れが入り込んでいるためにできた、どちらにせよ落とし難い黒ずみであることが分かった。そんな汚れた床の傷痕を前に、そのどうしようもなくなった汚れに、ヘザーはなんだか見ているだけで総毛立つような心地になる。
「それで?」レッスン室のパイプ椅子に腰掛けてガーネットが言った。「何か話があるんだろ」
 ガーネットの言葉に、ヘザーはしばしの間押し黙った。彼はパイプ椅子の上で脚を組んでいるクーデールの鬼軍曹をそっと一瞥したのち、全身鏡に映る自分の姿を見やる。ひやりと冷たいのに、どこか曖昧に湿ったぬるい沼のようなまなざしが、彼のことを見返していた。
「その」ややあってヘザーは小さく、しかしどこか意を決したように口を開いた。「僕のオディーリアは、ほんとうに月だったのでしょうか、と思って」
「ほう?」ガーネットは片方の眉を吊り上げた。「一応、そう思った理由を聞こうか?」
「地味」ヘザーはローブラウンの瞳でガーネットを見た。「色々言い訳を並べても、結局僕のスワンはそうだった。違いますか?」
「ラシャに言われたことを気にしてるのか」ガーネットは目を眇めて、組んだ脚の上に頬杖をついた。「なんでもかんでも派手なら良いってわけでもないだろうに」
「でも、地味なのはもっといけない」
 ヘザーの物言いにガーネットは微かに息を吐いた。「何がそんなに引っ掛かってる?」
「月が太陽に比べて劣るなんてあり得ない」ヘザーはモップの柄をぐっと握り込む。「ラシャ先輩が言った通り、僕はスワンには向いていないんじゃあないですか」
「それこそあり得ない」ガーネットは一切の淀みもなく、きっぱりとそう断じた。
「なぜ?」ヘザーは眉根を寄せる。「少なくともラシャ先輩は嘘は言わない」
「嘘はな」ガーネットは声色で頷きながらも自身は緩くかぶりを振った。「だが、じつに主観的だ。それにあいつは思い込んだら頑固なところがある」
 ガーネットの水に餓えた柘榴めいたボルドーの瞳が、すっとヘザーのローブラウンを捉えている。ヘザーはもうすでにこの教師を呼び付け、自分の領域に招いたことを後悔しはじめていた。確かに今、ヘザーにはこれから何かを白日に晒されるような感覚があり、その恐怖のために彼は無意識にモップの柄に爪を立てていた。そして、こんな夜に日が差す合図は、ガーネットが足組みを解いた際に鳴るヒールの音によってもたらされた。
「鏡を見ろ」ガーネットはパイプ椅子から立ち上がり、顎をしゃくって全身鏡を示した。「何に見える?」
「え?」
 何にとは? ヘザーは担任教師からの質問の意図が汲めずに困惑した。何にって、そんなのもちろん己以外の何者にも見えない。だけれど、ガーネットの問いに別の意味が含まれているのだとしたら? つまり、人物そのものを指しているのではなく、その人物が舞台上で属する枠組みを問うているのだとしたら。だとしたら、鏡に映っているこの人物は……
「訊き方を変えようか」そんなヘザーの胸中を言い当てるみたいにガーネットが言った。「男に見える? それとも女?」
 言われて、ヘザーの心臓はどきりと鳴った。しかも嫌な音だ。異物に引っ掛かっては軋みながら急停止する車輪のような、階段を踏み外しながらもどうにか床を探して、それでも無慈悲に叩き付けられる踵のような音。ヘザーは視線を微かに下げて、しかしすぐに持ち上げた。彼はまなざしの他は何も動かさなかった。とにかく、この酷い音で鳴った心臓が気付かれないことを願った。ガーネットがレイヴンやスワンという名称を用いず、あえて無遠慮な尋ね方をしたのは分かっていた。分からないのは。ヘザーは息を吸う。分からないのは。
「……男でしょう、それは。ただ、立っているだけなんだから……」
 分からないのは、自分のことだ。
 ヘザーは目を擦る代わりにぱちり、ぱちりと数度瞬きをした。動揺のためではない。こちらを冷ややかに見返している鏡の中の輪郭が、靄のかかったように曖昧になって見えたからだった。男でしょう。そう言った自分の声がどこか遠い。男? しかし、男の自分は舞台の上に必要ない。いや、板上で自分は男にはなれない。ならば男の自分はダンスルームにはいないはずだ。だって、踊れないじゃあないか、自分は。男の姿では。それじゃあ、鏡に映っているのは? 僕だ。女か? 違う。では、お前は誰だ? 誰だ? 誰だ? 誰だ?
「お前が一人ならそうだろうな、もちろん」つと、ガーネットが呟いて、鏡ではなくヘザー自身の顔を覗き込んだ。「ヘザー、目を瞑れ」
 彼の言葉にはっと思考を床につけたヘザーは、言われた通りに瞼を閉じる。入学から一か月余り、自身が今まで所属していた劇団とは全く異なる──異なりすぎる、桁違いの厳しさをもったガーネットの指導によって、彼には指示されたことに対して考えるより先に身体が動いてしまう癖がすでについていた。瞼の裏の暗やみに、淡くダンスルームの照明を感じる。聞こえるのは、自分の呼吸よりも近付いてくるヒールの音だった。
「開けろ」すぐ近くの耳元で、はっきりとした声色でガーネットが言った。「お前自身は何に見える?」
 言葉と共にぐっと身体が引き寄せられるのを感じて、目を開ける。じんわりと光に滲む視界は、スポットライトのそれには程遠い。鏡の中の己を自分の目が捉えるよりずっと早く腰に回されたガーネットの手、その体温を感じて、ふっと身体が軽くなる心地がした。それから、瞬きと呼吸を一つずつ。ヘザーは意を決して、鏡の中の自分と対峙した。
「ヘザー。お前、口も利けなくなったのか?」
 呆れと呼ぶほど温度を感じないガーネットの声が鼓膜をわずかに震わせ、ヘザーの耳を通り抜けていく。そう問われて尚、ヘザーは返事をすることもなく、鏡の中の自分を見つめていた。
 まるで、第四の壁を隔ている観客のような気持ちだった。ガーネットに腰を抱かれた自分は薄く口角を上げてふうわりと微笑み、睫毛を微かに下げては、吹けば風に乗っていきそうな儚さを以てしてそこに立っていた。それが鏡に映る自分──役者──娘役──少女──スワン──女、だった。
「……少なくとも」やっとの思いでヘザーはそう言った。「少なくとも、クロウやレイヴンには見えません」
「あのなあ、ダッキーにだって見えないだろ。変な逃げ方をするな」今度は呆れ返った様子でガーネットが肩をすくめる。「うん。中々どうして悪くないな?」
 そしてそうどこか満足げに頷きながら、彼は両の目を半月の形に細めた。ヘザーは鏡の中の自分たちを見据え、そこに映る女と目を合わせる。自分ではないと思った。それと同時に、自分でしかあり得ないとも思った。この素晴らしく可憐な女は、自分が演じたスワンでしかあり得ないとも。
「……こうしていて」ヘザーは静かに呟いた。「僕が先生のスワンに見えるのは、先生がレイヴンの立ち方をしているからじゃあありませんか?」
 そこで初めてヘザーは鏡から視線を外し、隣に立つガーネットの方を見やった。「もし、先生がクロウの立ち方をしたなら……」
「変な逃げ方をするな」しかし、ぴしゃりと鞭打つようにガーネットが発する。「いいな? 三回は言わない」
 ガーネットの言葉にヘザーは少しばかり首を縮こまらせながら、はい、と口の中だけで答えたが、それよりもそこでさっと伏せられた彼の睫毛の方が返事としてはずっと雄弁であった。
「それに、たとえ俺がクロウの立ち方をしても……」
 ガーネットは言いながら、ずっとヘザーの腰を支えていた片手を外して、ほとんど音もなく今までとは逆側へと移動する。そうして彼はしなやかな羽根が床に降るさまのごとくヘザーの左側に位置を取ると、うっそりと微笑む教え子の瞳を目に映しては、自身の片手をそっと相手へと差し出した。
「──こうしてスワンの立ち方をしたって、お前は立ち方を変えない」そんな手をなんの躊躇いも疑いもなく取ったヘザーを見て、ガーネットは予想していたみたいにそう言いきった。「自分の軸がどこにあるのかくらい、お前になら分かるだろ? 役者をやってる年数だけなら俺と大差ないんだから」
 それからガーネットは繋がれた手を上に掲げて、その半円の下に在るヘザーのことをくるりと回転させた。ヘザーはまるでそれが当たり前だと言うように軸を違えることなく、一切の無駄が削がれた美しい娘の一回転をした。ヘザーの、事実としてはそこに存在しないはずの長い髪は広がる白い両翼であり、舞うドレスの裾は水面の波紋であった。目には見えない。触れもしない。それでも、真実としてヘザーの長い髪と纏うドレスはそこに存在していた。きんとした白鳥の美しさ、その一部として、確かに。
「お前はスワン以外あり得ない」ガーネットはこれまでのどの言葉よりもはっきりと、語気さえ強めてそう断じた。「それも、クーデールのスワン以外は」
 その言葉にはたとして、ヘザーは鏡に映る自分の姿を再び目に映した。ローブラウンの瞳が柔く光って、同じ色の視線がかち合う。瞬間、繋いでいた手が不意に離され、ヘザーは突如踵を返したガーネットの方を見やる。
「先生、どこへ……」
「モップ」ガーネットはダンスルームの出入り口に向かいながら呟いた。
「え?」
「モップ、取ってくるんだよ」
「……なんで?」
「なんでって、お前。掃除するには必要だろうが」肩越しに振り返って、ガーネットがついと口角を上げる。「クーデールの掃除は原則二人一組。俺の時代から変わらない、なんとも素敵なお規則様だな」
 そんな担任教師の言葉に、もちろんヘザーは大いに困惑した。しかし、内心首を傾げながらも彼はいつの間にやら床に転がしてしまっていたモップを持ち上げて、ダンスルームから出ていったガーネットの帰りを待った。
「それで、合図のお好みは?」
 ややあって、モップを片手に再びダンスルームに入ってきたガーネットがそう尋ねる。相手が本気であることを目に映すと、ヘザーはバケツの中でモップをじゃぶじゃぶやりながら短く答えた。「アン・ドゥ・トロワで」
「音楽は?」
「どちらでも。でも、流すなら『ジゼル』の第二幕を頭から」
「お前、この部屋を何周する気だ?」
 溜め息を吐くガーネットを横目に、ヘザーはモップを水切りで絞る。それからダンスルームの端に立つと、掃除の相方が隣にやってくるのをじっと待った。けれどもそのまなざしはほぼほぼ睨んでいるのと同等だったので、待つと言うよりはモップの絞りに甘いところがないかを監視する意味合いの方が強かったのだろうが。
 そうして彼らは並び立つと、ガーネットの合図を皮切りに一定のリズムでダンスルーム内を拭きはじめた。アン・ドゥ・トロワ。アン・ドゥ・トロワ。しかし声はすぐに鳴りを潜め、二人は己の身に染み付いたリズム感を信じては互いの歩調に合わせて進んでいく。そのたびに響く小気味よい靴音はガーネットのヒールのもので、レッスンシューズを履いたヘザーの靴音などはじつに静かだった。そんな調子で二人はぐるりと部屋を一周拭き終わり、もうそれ以上綺麗にしようがないそこでつと、ガーネットが自身のスマートフォンを操作する。
 それから響き渡るのは、『ジゼル』第二幕のパ・ド・ドゥだった。ヘザーは流れるとは思っていなかったそれにはっと視線を天井のスピーカーへと向けた後、怪訝そうにガーネットを見る。ガーネットはにやりとしてスマートフォンを近くのパイプ椅子の上に転がすと共に、手に持っていたモップも打ちやった。
 からんと無機質な音を立てるそれに、ガーネットはまるで人が死の沼に沈められたさまを見たような表情をして──それは恐怖ではなく、薄笑みだった──するりとヘザーの方を見た。そしてヘザーはそんな彼のことを目に映して、瞬時に理解する。最早ガーネットはここには在らず、在るのはウィリの女王ミルタであった。彼女と彼女の率いる処女の精霊ウィリたちは、自分たちを裏切った男を死ぬまで踊らせる。ミルタはふうわりと亡霊の裾を翻すと、重力を一切感じさせない動きでヘザーの隣を飛び越え、目の中に昏い光を宿して振り返る。振り返った先には、アルブレヒトがいた。身分を隠し、婚約者がいる身であるにもかかわらずジゼルに愛を囁いたアルブレヒトはジゼルを狂乱の死に追いやった原因の一人であり、そんな彼もまたミルタたちにとっては死すべき裏切った男であるのだ。
 ガーネットはミルタでありながら、同時にアルブレヒトでもあった。アルブレヒトは迫りくるミルタとウィリに怯えた目を一瞬したが、彼女らに反抗するすべを持たない彼は、命じられるままに踊り狂うことしかできない。踊って。踊って。踊って。そうして最期の力を振り絞って踊ろうとしたとき、彼の前にそよ風のように現れたのがヘザーだった。無論、ジゼルである。ジゼルはミルタにアルブレヒトの命乞いをし、中空を見るともなく見るような静かなまなざしを上へと向けた。音もなくジゼルとアルブレヒトは踊り出す。夜明けが来て、ジゼルを含めたウィリたちが自らの墓に帰ってゆくそのときまで、共に在ることのできる最後の時を二人は踊った。ジゼルは、あまりアルブレヒトと視線を合わせることをしなかった。これが最後と分かっていることを、その深い悲しみを彼に悟られたくなかったのかもしれない。悲しみのあまり、彼女は彼の存在を一生懸命に感じようとはしていなかった。ジゼルとアルブレヒトの間には、わずか、定かではないほどの薄膜が一枚存在していた。それは生きる者と死した者の埋まることのない溝だったのかもしれないが、或いはそれだけではないのかもしれなかった。
 夜が明ける。朝の鐘が鳴る。ミルタとウィリは己の墓へと戻っていき、アルブレヒトの命は助かった。ジゼルは朝の真っ白な光を浴びながら、愛したアルブレヒトへと最後の別れを告げ、散る花びらのごとくに消えてゆく。音楽はそこで止んだ。
「ヘザー」それからしばしあって、重く息を吐くようにガーネットが名を呼んだ。
「……はい?」
「お前、……ラシャに似てるな」
「は……はあ?」
「似てる。でも、それでいて真逆だ」
 困惑を極めて、ヘザーは眉根を寄せる。「な、何が言いたいんですか?」
「つまり」ガーネットは腕を組んでヘザーのことを鋭く見た。「俺がお前のレイヴンだったらお前のことを殴ってるよ」
 思いも寄らない担任教師の言葉に、ヘザーは瞬きすらできなかった。そうして彼は呼吸より先に、胸に浮かんだ尤もな疑問を口にした。「……どうして?」
「自分で分からないのか?」
「分かりません」
「ほんとうに?」
 ヘザーは頷く。「だって……僕は、できる限りのことはやってるつもりです」
「それなら、お前のできる限りってやつは随分幼稚だよ」
 一切の淀みなくそう言いきって、ガーネットはカツ、とダンスルームの中を歩きはじめた。
「ラシャ・ラセットは典型的なレイヴン贔屓の役者だ」彼は呟き、普段ラシャがよくやるように指先で風を切った。「あいつはレイヴンこそが舞台上で何よりも素晴らしい存在であると思ってる。だからたびたびスワンをリードするどころか置いていくような演じ方をする。お前もクーデールなんだから、あいつの口癖は聞いたことがあるだろ? 俺についてこれないスワンなんか要らない=c…」
 その声色があまりにもラシャのそれに似ていたので、ヘザーの脳内には怒気を孕みながらも静かに、それでいて有無を言わさずに相手役を断じるラシャの姿がありありと描き出されてさえいた。
「まあ、言い方に問題はある。敵を作り易い考え方だから、もっと巧く隠せとも思う。だが、それはあいつのレイヴンへの憧れから来るもので、言わばラシャの信条──スタンスだ。そう簡単に変えられるもんじゃないし、ナギットなんかはそんなラシャに焚き付けられてこの二年で物凄く良い演技をするようになった。片方が上がればもう片方がそれに食らい付いて、また上がる……あの二人は一種の永久機関だな」
 言われてみれば確かにその通りである。ヘザーはルニ・トワゾ入学前から幾度かこの学園の季節公演を観劇したことがあったが、ここ一年のクーデールはほとんどラシャとナギットの独壇場であり、他の追随を許すことがなかったように思える。クーデールのレイヴンとして最も良い演技をするのがラシャ・ラセットであり、そして、それに唯一ついていけるスワンがナギット・ナンフェア──その印象はヘザー自身がクーデールの一年としてクラス分けされた後も変わらず、現状クーデールの中でレイヴンといえばラシャのことを指し、スワンといえばナギットのことを指すのだった。
「それで、お前は逆。自覚があるのかどうかは知らないが、お前もスワン贔屓……」言いかけて、しかしガーネットはかぶりを振った。「違うな。ヘザー、お前、自分贔屓の役者だろ」
「自分、贔屓……?」
「たった今分かった。お前が新人公演で真実月のスワンになれなかったのは、お前がオディーリアではなく自分のために後ろに下がったからだ」ガーネットは顎をしゃくって、ヘザーの喉元に言葉を突き付ける。「レイヴンとかスワンとか、そんなのは関係ない。ヘザー、お前は自分以外の役者全員を心のどこかで見下してるんだ。この俺にだって等しくな。お前は、自分が相手より前に出たら相手が霞むと思ってる」
「僕、そんなふうに思ったことなんか、」心外だ! 思わずヘザーは言い返した。「だ……第一、なんで先生にそんなことが分かるんですか!」
「分かるさ」
 語勢を強めたヘザーに、しかし頷くまでもないというようにガーネットが言った。彼は足を止め、何か感情の読み取れない瞳でヘザーの目を見つめる。ヘザーは刃の怪しい閃きめいたそれに、と、と無自覚に一歩退いた。
「お前の言う通り俺は教師≠ナ、ガーネット・カーディナルだ。一体今まで何人の役者と踊ってきたと思ってる?」ヘザーが退いた分、彼は歩を進めた。「お前と俺はいま隣り合って立った。そして、踊った。分からないわけがないだろう」
 そして彼はすっと息を吸い、真っ直ぐに伸びた指先でヘザーの胸のその真ん中を突いた。
「ジゼル! 彼女がアルブレヒトと過ごせるほんとうに本物の最後の瞬間に、あんなよそよそしいダンスを踊るはずがない」
 どう、と心臓が鳴った。それは心臓を握り潰されたときの音とも、鼓動が止まったときの音とも違う。心臓を鋭いもので突き破られた音だ。それがあまりに一瞬のことだったので、痛みを感じることもできないような音だった。ヘザーはこれ以上ないほどに目を見開いて、強張ったローブラウンで全身鏡を見た。同じ表情をしたジゼルが、けれども軽蔑するようにこちらを見ていた。
 美しい女! それを演じることへの躊躇いなどなかった。疑問を感じたこともなかった。純たる美しさのために身を削ぎ、心を捧げることに嫌悪感さえ覚えたこともなかった。だというのに、この有り様はなんだ。彼女の本当の美しさに泥を塗っていたのが、他でもない自分だったとは! 言い返せないのがすべてだ。心臓が破れた音を聞いたのがすべててだ。すべて、自分のせいだった! レイヴンと繋ぐ手に温度を感じなかったのも、指の隙間から砂と流れ落ちる感覚がしたのも、レイヴンの中に相手役そのものを見出し、最後の一歩踏み込んでスワンとしてレイヴンを心底愛すことができないのも、全部! ヘザーは自分の両手を見た。それからそっと顔を上げる。
「先生、……怒ってるんですか。それとも呆れてる?」
 ガーネットは困ったような顔で首の後ろを掻いた。「くだらないことを訊くな、べつにどうもしない。少し考えてるんだよ」
「考えてる?」
「だって、お前がそんな踊り方なのには理由があるんだろ。大方、今までいた劇団のレベルが低かったとかそんなところだとは思うが」彼は分かり易く溜め息を吐いた。「他のやつらの普通に合わせてたのか? だとしたら、ある種とんでもない役者だな。だけど……」
 ガーネットはヘザーの後ろに立ち、その両肩をぐっと掴んでは全身鏡の方に向き直らせた。
「俺たちは役者だ。しかもただの役者じゃない。ルニ・トワゾの役者だ。そもそも役者に普通がまかり通るやつなんかいないだろうが、俺たちはそれよりももっと普通じゃない。まともではない」
 そして彼は後ろ側に立ちながら、ヘザーの胸板を握り拳で強く押す。
「いいか、お前がいるのはぬるい劇団なんかじゃない。演劇の最高峰、その登竜門のルニ・トワゾ歌劇学園だ」鏡に映るヘザーを真っ直ぐに見据えて、ガーネットが言った。「他人に合わせて自分をねじ曲げる必要はない。ここでは、舞台の上ではどれだけ狂ったっていい」
 ヘザーはそののちに自分の目の前にやってきたガーネットのことを半ば呆然と見やった。柘榴の滲むボルドーに、言葉を吐くために開いた口に、ヘザーは微かに血飛沫の気配を見ていた。
「だから、あまり舐めるな。本気でやれ。ここにはお前を馬鹿にするやつはいない。むしろ、今のお前を馬鹿にするようなやつだらけだ」
 だが、言われたところでどうすれば? ヘザーはやっと心臓はおろか全身に広がる痛みを感じはじめていた。だって、自分は今まで、ずっとこれが己の本気なのだと思ってやってきていたのだ。それが最善だと信じてやってきていた。自分の今までを手ぬるいと、火遊びだと断じられたところで、正しい炎の燃やし方など分かりようもない。他人に合わせて自分をねじ曲げる必要はない? ここでは、舞台の上ではどれだけ狂ったっていい? 簡単に言う。自分を信じて貫こうとした結果があれだ。舞台の上で演じることに狂った結果があれだ。人の言葉を額面通りに受け取った結果があれだ。あの白い目の十年間だ! あの目のおそろしさを知らない人間なんかが。噴き出る火のような焼け付く痛みを知らない人間なんかが、僕の演技を。僕のスワンを。僕の、女を。
「先生」不意に、ヘザーはいやに据わった声を出した。
「ああ」
「……考える時間をください」
「と、いうと?」
「僕を、スワンから外してほしいんです」彼ははっきりと唇を動かしてそう発した。「僕は、こんなんじゃ……スワン失格です。僕がスワンなんて、それこそあり得ない」
 そんな後ろ向きに聞こえる台詞に反して、しかしヘザーの声色も表情も、何か心を決めたように凜としていた。ヘザーは最早自分の中に生まれた怒りに近いものを自覚していたし、それを目の中に宿すことを隠せなくなっていた。
 だって、十年だ。十年、一緒にやってきた。ヘザーにとって娘役というのは、それに頼らなければ上手く立てないほど、彼にとっての不可侵的な誇りだった。最早、自分自身の人格そのものが攻撃されるよりも、己の中に在る女≠毛ほどでも傷付けられる方が、ヘザーにとっては脅威だった。彼はそれをたった今自覚し、何がなんでも自身の中の娘役を守ろうとしたのだ。自らのスワンの羽根を毟るという究極の方法で。それが正しくないと分かっていても。
「それは、望まれなくてもそうするさ」ガーネットは昏い覚悟に満ちるヘザーの瞳を見返して、こくりと小さく頷いた。「そんな調子じゃあ、クーデールのスワンは務まらない。それに、さっきも言ったがうちのナギットはあれで相当な負けず嫌いだ。少なくとも今のお前じゃ、あいつからスワンを勝ち取ることはできない」
 自明のことを述べるように、ガーネットは淡々と、けれども明確にそう言い放った。ヘザーはぐっと唇を噛むのを堪えて、ただ黙ってガーネットのことを見つめる。
「ヘザー。ルニ・トワゾに来た以上、自分を特別だと思いながら努力する時間は終わりだ」そして、そんな教え子に、ガーネットは更に言葉を継いだ。「これからは、自分を平凡だと思いながら努力しろ。それも、舞台に立ち続ける限りは永遠に」
 ヘザーはおうむ返しした。「永遠に?」
「永遠に」ガーネットはヘザーの心臓を指で突いた。「お前のスワンを殺したくないのなら」
 はっとしてヘザーは心の中の顔を上げた。そこで初めて、ガーネットの目を見た気さえした。自分の隠しようがない怒りのまなざしを受けて、それでも尚爛々と輝く担任教師の瞳は不可解で、度し難かった。思えば自分はこれまで、相手役の瞳をこんなふうに心の底から真っ直ぐに見たことがあっただろうか? 瞳の中が燃えている。ああ、まともではないと思った。まともではない。予感はあったのだった。何もかもが白日に晒され、暴かれる予感は。こんな、正気ではない炎の前に。
「俺たちは果てしのない闇の中を進み続ける」ガーネットが不意に振り返り、全身鏡の向こう側を見やった。「そして、主演として舞台に立つ者は、いつでもその先頭を行く。俺たちは光だ。闇を切り拓き、後に続く者、それを観る者を照らす光であること──それはいつ何時も変わらない、主演の使命だ」
 そうして彼はすうっと息を吸うと、くるりと後ろを向いて再び教え子と向き合った。
「なあ、ヘザー。スターが何故輝くのか、その理由を知ってるか?」
 突飛にも聞こえる相手の問いかけに、ヘザーは首を傾げる。「それは……スターの名に見合うだけの努力を、その人が重ねたからじゃあないんですか?」
「ああ。でも、それだけじゃないんだよ」ガーネットは淡く笑った。「それだけじゃ足りない」
「足りない?」
「スターが輝くのは、自分が切り拓いてきた道の輝きに照らされるからだ」ガーネットはすっと片手を真上に掲げて、ダンスルームの光を掴んだ。「生まれながらに持つカリスマの一点のみでまばゆく輝けるほど、俺たちの立つ舞台は甘くない」
 それから彼はその光を掴んだ拳で、ヘザーの心臓を今度はぐっときつく押した。ヘザーはその重みに耐えかねて後ろに下がり、困惑ぎみにガーネットを見上げる。
「考え続けろ」けれども視線がかち合うと、彼は目を細めて笑うばかりだった。「だがな、ヘザー。足は止めるな」
 ヘザーは瞬いた。次の瞬間、手を取られて円く一回転させられる。手が離れると、ガーネットも同じように一回転していた。だから、全く同じタイミングで両翼を収められるように、ヘザーは相手の回転に合わせて自分の回転速度を調整した。考えるより先、思うよりも先に彼はそうした。そうするのが、最も美しく見えるから。理由なんて、それ一つで十分だった。
「とにかく踊る。そして、演じろ。ここじゃそれがすべてだ」
 ガーネットはヘザーの手を取って床に跪き、彼の手の甲にそっと口づけを落とした。
「そうしていつか、俺をちゃんと助けてくれよ──ジゼル?」
 そんなふうに微笑みながらダンスルームを去るガーネットの瞳の中に傷付いたアルブレヒトが在ることを、ヘザーは色濃くなる夜の前に知った。ジゼルに心から愛されなかったために、ミルタとウィリから逃れられなかった憐れなアルブレヒトの姿が在ることを。
 先に傷付けたのはそちらなのに、なんて傲慢で、身勝手な男なのだろうか。それでもジゼルはこの男を心の底から、魂の底から、肉体を失った後でさえ身を挺すほどに愛したのだ。それは狂気だ。美しい、狂気。
 ヘザーは床に転がったモップを拾い上げ、バケツもろとも部屋の端へと寄せた。彼はもう、床の黒ずんだ傷痕のことは忘れてしまっていた。彼は曲も流さないまま、『ジゼル』を第一幕から踊り出す。
 ダンスルームに音楽はなかった。台詞さえも存在しなかった。ただ、踊る者の足音だけが鳴っていた。夜が明けるまで。朝の鐘が響き渡るまで。


20220529 執筆

- ナノ -