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4分33秒のテディベア



「お前、馬鹿だなあ」
 目を開けた途端、そこに映る景色の輪郭がはっきりするよりも速くこんな言葉を浴びせかけられたものだから、キャメルは自分の瞼が眠気以外のもので重たくなるのをはっきりと感じた。
「ええ……?」もちろん、そんなキャメルの喉から絞り出されるのは困惑の声である。「酷くない?」
「事実だからね。酷く聞こえることもあるよ=vシルバーは眼下のキャメルを眺めやりながら、彼らの担任教師であるアンチックの言い方を真似た。「だろ?」
 ルニ・トワゾ公演の冬期公演エトゥルノーの千秋楽を終えて、二日後の朝である。
 枕の上、毛布を深く被っては目元ばかりを覗かせているキャメル・キャンティクラシコにとって、この朝というものはどういった顔で受け止めればいいのか分からない代物だった。同様に、ベッドの脇に立ち、こちらを名状しがたい──呆れているような、いや呆れを通り越して怒っているかのような、それでいてどこか笑っているような──表情で見下ろしている同輩、シルバー・シナバークォーツの視線の受け止め方もキャメルにはその正解が分からなかった。ゆえに、彼はもそりと毛布の中で身じろぎをし、自らの行動を最小限にとどめることによって己が発するべき答えを持たないことを語った。
「それで、体調はどうなんだ?」そんなキャメルにやれやれとかぶりを振って、シルバーが問う。「お前、ここ二日ほとんど意識がなかったんだぞ」
「最高かな」キャメルは溜め息混じりに言った。「この世の重力という重力を一身に背負ったような気分だよ」
「熱は?」
「下がった」言いながら、彼は額に自分の手を当てた。「と思う」
「お前、馬鹿だなあ」そう、しみじみ確かめるようにシルバーが呟く。
「二回も言った」
 あはは、と力なく笑ってキャメルはシルバーのことを見上げた。
 そんな相手にシルバーは少しばかり首の後ろを掻いて、ここ二日間閉まりっぱなしだった部屋のカーテンを無慈悲に開く。そうしてみれば、銀を溶かしたような冬の朝陽が白くおぼめきながらキャメルの沈んでいるベッドの上に広く差し出され、彼はその白々としたまばゆさに思わずぎゅっと瞼を瞑った。
「なんであんな無茶をしたんだ?」カーテンフックにタッセルを引っ掛けながらシルバーが振り返る。「風邪だって拗らせたら命に関わるんだぞ」
 キャメルはうっすらと目を開けた。「訊かなくたって分かるくせになあ」
「お前のことだろ。お前にしか分からない」
 言われて、キャメルは毛布を深く被ったままそうっとその目を閉じた。
 シルバーの言うキャメルの無茶というものは、その何もかもがルニ・トワゾの冬期公演エトゥルノー──つまるところ、アトモス公演の『ゴーズ・タウンへようこそ』に起因する。
 当初、キャメルはそのゴーズ・タウンの中でスカボロー・フェアのアクリリという役に抜擢されていた。彼らの担任教師のアンチック・アーティーチョークが配役発表の際にはっきりと明言していたように、ゴーズ・タウンの脚本はすべて現二年生へのあて書き≠ナある。アンチックが決めた配役に沿ってダリア・ダックブルーが書き下ろしたこの作品は、じきに三年となる二年生を鍛えるために用意された唯一無二の公演だった。そして何より、彼らにとっては初めてになる上級生のいない舞台だったのだ。
 と、いうのも、キャメルたちの先輩にあたる現三年生が、ちょうどルニ・トワゾの冬公演と時期を同じくしてイギリスのシックス・ペンス座にて出向公演を行うこととなり、やむを得なくルニ・トワゾ公演を欠席する運びとなったのだ。故に、ゴーズ・タウンでの練習はいつにも増して場に緊張感、そして不安の色が漂い、そんな焦燥からか生徒間での衝突も多く見られた。アンチックがイギリスとローレアを行き来して不在がちだったことや、その穴埋めとしてアトモスの前任教師であるオウカ・オミナエシがアンチックとはまた異なる厳しさを以て指導を行っていたこともその要因の一つだろう。
 もちろん、キャメルとてその例外ではなかった。彼もまた環境の変化にめっぽう弱いアトモスクラスに広がる不安と焦燥の悪循環に呑み込まれ、闇雲に稽古に打ち込んだ。普段ならば同輩や後輩に声がけをして共に練習に励む彼が頑なに一人稽古を続ける様子はさながら宇宙服が微かに破けていることに気付かずに突き進む飛行士のごとくであり、ろくな休息もとらずに稽古をし続けたつけが回ってきたのか、彼は公演本番の一週間前になって突如高熱に倒れた。キャメルが演じる予定だったスカボロー・フェアのアクリリは後輩にあたるシスル・ティールグリーンが代役することとなった。そして、そんな高熱に侵されたキャメルは本番三日前にして熱が下がったと自覚した途端、あろうことかアンサンブルキャストとして公演に出してくれるよう、自身の担任教師とクラスの仲間たちに向けて頭を下げたのだった。それから実際、彼はアンサンブルキャストのクロウとして『ゴーズ・タウンへようこそ』に出演した。無論、病み上がりの身体に鞭を打ったキャメルは千秋楽を終えて楽屋へ戻ると同時に、再び高熱を出して倒れ、ほとんど丸二日間ベッドから起き上がることもできずに眠り続けたものだったが。
 キャメルはずきずきする頭を心の中ばかりで押さえながら、そんな冬公演の顛末をぼんやりとなぞった。噛み潰された苦虫の痛みが、頭痛とは別に頭の後ろで響いている。何故、あんな無茶をしたのか? キャメルはぼうっとする思考回路に電気を入れて、対アンチック用に準備していた台詞を口にした。
「アンサンブルキャストは舞台の大事な世界観だ。一人も欠けちゃいけない」彼は目を開けてシルバーを見る。「だけど、シスルがアクリリを……名前付きのクロウを演じるとなれば、アンサンブルキャストには一人の欠けが出る。だから俺は、それを補わなくちゃと思った」
 シルバーの赤みがかった琥珀色の瞳がベッドに広がる白い光を吸い込みもせずにキャメルを見下ろす。彼はむっつりとした表情で腕を組み、
「で、本音は?」と、そう言ってはあっと溜め息を吐いた。
 キャメルはシルバーから吐き出された呆れ色を纏った溜め息を指先でくるくるとやりながら、自身もふうと不平そうな息を吐いた。「意識もあるし身体も動く。そんな中で一人寝ているだけなんて耐えられなかった」
「だろうと思ったよ」シルバーは片手を振った。
「ほら。やっぱり訊かなくても分かってたでしょ」
 口をへの字に曲げて呟くキャメルに、シルバーがやれやれと言ったふうに少し笑った。そうして彼は同輩のベッドに遠慮なく腰掛けて、朝陽のまばゆさに目を瞬かせている睫毛の隙間を覗き込んだ。
「それで、気分は?」
「さっきも訊かれたよ、それ」
「体調の話じゃない」シルバーは相手の心臓の辺りをとんと叩いた。「感想の話」
「まあ……最高だったり、最悪だったりするよ」言いながら、キャメルの赤ワインの瞳がシルバーの方を向く。「目が覚めるたびに違うんだ」
「どういうことだ?」
「さあ」キャメルは宙に舞う、太陽の光の前にだけ現れる金色の粒子を見た。「俺にもよく分からない」
 呟いて、キャメルはのろのろと緩慢に身を起こす。扁桃腺も間接のあちこちもひどい重力が掛けられたように痛む上、瞬きの一つにも感じるおぞましい気怠さにまともに思考が纏まらない。ただただ、喉の渇きばかりが鮮明だった。
「シルバーはさ」キャメルは相手を見ずに囁いた。
「うん?」
「どうだった? 冬公演。『ゴーズ・タウンへようこそ』」
「三年生が出向中の今、考えられる最善の手は尽くしたと思う」シルバーは思い起こすように部屋の天井を見るともなく見た。「練習やゲネプロを振り返ってみても、今まででいちばんの公演ができたのは本番だったんじゃないか?」
「つまり?」
 声色で傾げたキャメルに、シルバーはにっこり笑って頷いた。「すっごい良かったな!」
「でしょ?」シルバーの返答に、キャメルもまた小さく頷く。「だから、最高だったり最悪だったりするんだ」
 肩をすくめて、キャメルは再びぼふりと後ろ向きに枕へ沈んだ。石膏ボードの白い天井が窓からやってくる光を吸い込んではぬるいまなざしでこちらを見つめている。頭の中が真空になったように脳が何かを考えることを拒否していた。
「なんだ、キャメル」そんなキャメルを眺めて、シルバーはからりと言った。「お前、凹んでるのか」
「あれで凹まなかったら俺はアトモス生の名折れだよ」
「何をそんなに落ち込んでるんだ」微かに眉根を寄せて、シルバーは小首を傾げる。「本番前に体調を崩したこと? それともお前よりシスルの方が遥かにアクリリのはまり役だったことか?」
「聞いてるだけで気絶しそうだよ」抑揚のない声でキャメルは呟いた。「どっちもだけど、どちらかといえば後者だね、遥かに」
「でも……お前の代役としてシスルを指名したのは、紛れもなくお前自身なのになあ」
「だって、それが最善の配役だと思ったからね」
 こいつはこれだよ≠ニいう呆れの表情とそれはまったくその通りだ≠ニいう表情を目の中にないまぜにして、シルバーはこくりと頷いた。そんな相手の顔を見て、キャメルは思う。こいつはこれだよ。
 再びベッドに身を任せたことによって全身からだらりと力が抜けていくのと同時に、脳を介さず言葉が喉元まで這い上ってくるのをキャメルは感じた。「正直……」
「ん?」
 思い切って、キャメルはその言葉を口にした。「シスルのことは、もっと早く言うべきだったとさえ思うよ」
 大気を少しも震わせないそれは、ほとんど独り言めいた声色だった。キャメルはシルバーの方は見なかった。ただ彼は、床に柔らかい果実が投げ付けられたときのような自分の心臓の音を聞いていた。
「俺が熱を出さなくたって、アクリリという役にいちばん向いていたのはシスルだった。はじめから」くしゃりと毛布の下でシーツを握り締めて、キャメルはぽつりと発した。「あの超短期間であそこまで完成させたんだ。今じゃあ、言わなくたってみんな分かってると思うけど」
 自ら言いながら、キャメルはアクリリを演じたシスルの怪演を思い出していた。シスルの演じたアクリリは自分が演じようとしていたアクリリとは似ているようで随分異なるものに見えた。自ら喜んで泥濘の中に飛び込み、恋に溺れながらトワルのことをまなざすシスルのアクリリの姿は滑稽で、それでいて憎めない。馬に蹴られたごとくに水浸しになった瞬間のアクリリの一瞬だけ驚きに冷えた表情が、けれどもすぐにトワルを見つめて恍惚となるさまは彼のある種の狂気と盲目さをじつに巧く表現していた。妄信的なトワルへの恋慕を両目に湛えて、傲慢と楽観の服を纏ったシスルのアクリリは、物語の中でレイヴンやナイチンゲールの器として機能しない。
 そう、彼が演じたアクリリはあの物語の中で、確かにクロウ≠セったのだ。悪い男ではなかった。悪そうな、滑稽で愛らしい男だった。で、あれば、自分の演じようとしていたアクリリはどうだったろう?
「……シスルには色香がある」キャメルが呟いた。「娘というよりは、男のそういう色彩を持っている。それはたぶん、あいつの舞台に賭ける情熱や……焦りや、しがみつく思いのようなものからもたらされるものなんだと思う」
 音を立てずに長く息を吐いて、キャメルは瞼を閉じた。そうしてみれば、目の裏の暗やみの中で振り返るシスルの瞳と視線がかち合うような心地がした。牙のような花弁をもつアザミ色の赤紫が、真っ直ぐに苛烈なその色が、闇の中でちらちらと閃きながらこちらを見据えている。ああ、そうだ。見て見ぬ振りをしていた。し続けていた。彼はいつも、ずっと、こんな目をしてこちらを見ていたじゃあないか。
「それこそ、目に映るものを全部食ってしまいたくて仕方ないような……」
 すっと立つ床が消え失せるような心地で、キャメルは呟いた。寝返りを打ってシルバーに背を向けたかったが、何故だか毛布や枕の感触に居心地の悪さを感じて、キャメルはいよいよふらりとベッドから抜け出す。足元には、まだ床があった。
「シスルは俺と同じ位置に立つ役者だ」窓際の壁を背に座り込んで、キャメルは呻き声のうるさいこめかみを押さえながら言った。「俺はずっと、あいつの視線が……目が怖かった。いつか、近いうちに、自分の立つべき場所の何もかも奪われるような気がして」
 キャメルは訥々と呟きながら、立てた片膝に自分の額を押し付けた。線の細いキャラメルブロンドが彼の重く絡まった胸中とは裏腹にふわりと揺れ、膝を抱えるキャメルの手の甲を擽っている。もうずっと頭が痛い。こんな言葉を発するたびに、喉の奥も棘が刺さったみたいにずきずきする。
「だから今回、先生からアクリリの指名を受けたときは心底ほっとしたんだ。でも、それと同じくらい──この役は、シスルのものなんじゃないかって疑問も浮かんだ」それでも、キャメルは溢れる言葉を止められなかった。「その考えを口にも出せず、どうにかして振り切ろうとした結果がこの有り様だ。罰が当たったのかなって、今は思うよ」
 それからややあってキャメルが再び顔を上げたのは、シルバーが先ほどから一言も発さず、更には部屋の中に息が詰まるような沈黙が流れていたことに気付いたからであった。
 キャメルはようやく相手の方を見た。「……シルバー?」
「罰が当たったとしたなら」シルバーが呟く。
「え?」
「罰が当たったとしたなら、それは」彼は腰掛けていたベッドから立ち上がり、揺るぎないまなざしでキャメルの方を見据えた。「キャメル、お前が最後の最後まで自分のアクリリを信じてやれなかったからだ」
 そうしてつかつかとキャメルの前までやってくると、シルバーは相手の額を指先で小突いた。
「ゴーズ・タウンでアクリリとしてはじめに指名されたのはシスルじゃない。他でもないお前だっただろ、キャメル」どこか呆然としているキャメルに、かぶりを振ってシルバーは言った。「お前は先生のその選択を信じられなかったし、自分の力量のことも、お前の中で育てたアクリリのことも信じられなかった。だから、すり抜けたんだ」
 シルバーの左目が、じっとキャメルの両目を捉えていた。彼は相手の前にしゃがみ込むと、怒りや呆れというよりはさながら当然のことを子どもに教えてやるように、キャメルの片手をとんとんと叩く。
「シスルがお前のアクリリを奪ったんじゃない」シルバーはきっぱりと断じた。「キャメル、お前がアクリリの手を離したんだよ」
 言われて、キャメルははくりと息を呑んだ。
 喉が痛かった。心なしか、頭痛も増した気がする。言わなければよかった! そんな自分の嘆きが確かに身体中を巡っているはずなのに、階段を降りている途中にふっと身体が浮くような空恐ろしさはもう感じなかった。ただ、同輩の一言に掬い上げられるでも突き放されるでもなく、ばらばらに砕けた自分の姿が見えるだけだった。そして、それが不思議と清々するものだから可笑しかった。
「痛いこと言うなあ、シルバーは」キャメルは淡く笑った。
「そうやって鈍感なふりをしてるから悪いんだろ」
「……怒ってる?」
「ああ、……うーん、いや、よく分からないな」キャメルの問いに、シルバーは困惑ぎみに首を傾げた。「まあ、もっと早く言えよとは思うけど」
 それから、たった今思い出したようにシルバーはベッドサイドからグラスを取り、ピッチャーから水を注いではそれをキャメルに手渡した。
「一人で思い詰めるのは良くない」
「うん」
「不思議なんだが、話してみると案外楽になったりする。なんでもっと早く言わなかったんだろう、とさえ思うこともある」シルバーは少しばかり睫毛を伏せ、しかしすぐに上げた。「役者としてのプライドを失うくらいなら、弱音を百回吐く方がましだ」
「……うん」
「俺たちはライバルだけど、敵じゃあないはずだろ?」
「ああ、……分かるよ」
 キャメルは手渡された水をこくりと飲み下した。そうしてみると、冷たい水が喉を潤して熱を肩代わりしていくのと同時に、ひどく情けないことをよくもあれほど言い連ねたものだという自覚を唐突にして、彼は扁桃腺ではないところがかっと熱くなるのを感じた。
「……なんて、偉そうなこと言ったけどさ」けれども、そんなキャメルのことは構わずシルバーは言葉を継いだ。「俺はお前のこと、凄いと思うぞ」
「凄い?」
「出るって決めたこと。それを俺たちに伝えたこと。できると言いきったこと。それで、ほんとうに演じきったこと」先ほどとは異なる目の色でキャメルのことを見つめながら、強いまなざしでシルバーは発する。「それが正しいかはともかくな。でも、あの状況下じゃあそんなの誰にも分からないだろうし」
 キャメルは少しばかり眉間に皺を寄せて、申し訳なさげに笑んだ。「ワガママだったと思うよ」
「それは確かだな」シルバーは困ったように頷いた。「だけど、役者だった」
 そう言う彼の瞳が、窓から差し出される白光を受けてきらりと輝く。キャメルはそのぴかぴかする光を目に映して、そのまばゆさに、しかし瞬きをすることもなかった。
「アンチック先生も言ってたけどさ」そして、思い起こすようにシルバーが言う。「キャメルは空気を掴むのが巧いんだ、ほんとうに。自覚があるなら教えてほしいくらいだし──それはレイヴンやクロウを演ってるときもそうだし、アンサンブルを演じてるときもそうだ。空気に溶け込むのも、息を潜めるのも、それを切り裂くのも、お前は巧い」
「空気……」キャメルはおうむ返しする。
「シスルとお前はぜんぜん違う役者だよ」シルバーはその言葉を発するために迷いも躊躇いも必要としないらしかった。「俺は先生ほどの審美眼はないけど、でもあのゴーズ・タウンでレーヌを演じた役者だ。二人のアクリリをすぐそばで見てきた。だから、多少は信用できるだろ?」
 そう問いかけたシルバーへと向けるキャメルのまなざしと、静かな呼吸音だけが何よりも雄弁に物を言う肯定だった。シルバーはそんな同輩にふっと笑うとその場に立ち上がり、いやに自信ありげな顔つきで腰に手を当てた。
「仕方ないな。なんでアクリリのはまり役がシスルだったのか、その理由を教えてやるよ」
「理由?」
「キャメル」頷きながらそう名前を呼んで、シルバーは悪戯っぽくにやりとした。「お前、アクリリを演じるにはちょっと──性格が悪すぎるんだ」
 その言葉に、キャメルは今度こそぱっちりと瞬きをした。シルバーの突飛に聞こえるその指摘が、しかしぐさりと心臓と呼ぶべき場所に突き刺さった心地がキャメルにはした。見れば、心臓に刺さるそのガラス片は先ほどばらばらに砕け散った自分自身の欠片そのものだった。キャメルは思わず相手を見る。
「ゴーズ・タウンはかなりエンタメ的要素の強い脚本だったろ? シスルのアクリリは恋に盲目で真っ直ぐで滑稽な面が強く出てたから受け入れ易かったけど、お前のアクリリはなんていうか湿っぽいんだよ。惨めで憐れっぽい執着男」キャメルの視線を受けたシルバーは、目の形を三日月にして笑っていた。「シスルのアクリリは水を弾くけど、お前のアクリリは水を吸い込む。どっちも水も滴る良い男であることは変わりないんだが」
 最早、最後の言葉はキャメルの耳には届いていなかった。彼はずるりと音が鳴りそうな気怠さで壁伝いに立ち上がると、右目辺りを片手で押さえる。 
 そんなどこかふらついた同輩の様子に、シルバーが多少ぎょっとして相手を覗き込んだ。「……キャメル? 悪い、病み上がりに話しすぎたか?」
「いや」短く、けれど可笑しみを隠せない声でキャメルが言う。「……いや、違うよ。もっと話して、シルバー」
「はあ?」
「良いことを思い付いたんだ」それから、少し浮ついた口調でキャメルが発した。「そうか。俺、悪いんだなあ」
「少なくとも」怪訝な目を相手に向けながら、シルバーは溜め息交じりにかぶりを振った。「いい子は本番直前に舞台を引っかき回したりしないだろ」
 キャメルは喉の奥でくつくつと笑った。もちろん相変わらず喉も頭も痛かったが、これは単なる風邪の症状でそれ以上もそれ以下もない。なんだか、今しがた降りていた階段を踵を返してもう一度駆け上るような気分だった。床を踏む感覚はなかった。そこに階段があるかも分からなかったから、一段飛ばしどころではなく二段も三段も飛ばして駆け上れそうだった。そうか、なるほど。足元がなくなる感覚に震えるくらいならば、はじめから地面に足など着けなければいいのだ。
 キャメルは睫毛を上げて、どこか嬉々とした様子で相手のことを見た。「シルバーは俺のことをなんでも分かってるみたいだ」
「まさか。そんなわけないだろ」
「じゃあ、半分」キャメルは前髪で隠れたシルバーの右側を示した。「シルバーのここからここまでが、俺のことを分かってる」
「やっぱりお前は凄いよ」シルバーは渋々とした顔で肩をすくめる。「意味不明だ」
「あ、知ってる?」そんなシルバーの言葉を意にも介せず、両目をうっそりと細めてキャメルが早口に言った。「あのさ、宇宙って真っ暗で音がしないんだ。でも宇宙はすごく大きくて今この瞬間も広がり続けてる」
「うん……熱が上がってるのか?」
「つまりね、つまりだ、宇宙にはいっぱい物が詰め込める」舌が縺れそうになりながらもキャメルは続けた。「それに光はいつも暗やみから生まれるんだ。星の光もスポットライトの光も、ああほら、この朝陽だってそうだろ?」
 キャメルは窓の外からやってくる光を一瞬だけ視界に映して、風邪由来の病熱ではない病熱に浮かされたように部屋の中をうろうろと彷徨いはじめた。今しがたまでずっと低迷を極めていた彼の脳が、眠っていた分を巻き返そうとぐるぐると動き出す。ほとんど酩酊しているふうにも見える同輩の姿を、しかし慣れた様子でシルバーは眺めていた。自らの思考を広げるとき、それと反比例して視野が著しく狭くなるのがキャメルの悪癖ということは、彼の同輩ならば誰もが知るところだった。
 キャメルはまだ少し水の入っているグラスを覗き込んで、ぶつぶつと何事かを早口に呟いている。シルバーはそれもいつものことだと聞き流していたが、不意に彼が自分の方を振り返ったので、思わずそちらに耳を傾けることとなった。
「在るべきところに一点の狂いなく降りてくる星明かり。欲しい場所に光を差し出すのに地上からでは決して手の届かない水の月」シルバーの腕をぐっと掴むような声色で、キャメルは確かめるように呟いた。「そういうお前の演技が俺には無限の宇宙に見えるんだ、シルバー」
 そうして、やっと呼吸を思い出したみたいにキャメルは息を吸う。それから額に汗を滲ませながらすたすたとシルバーの元へ近付いて、彼は今度こそほんとうに相手の片腕をぎゅっと掴んだ。
「だから、シルバー。春公演、お前の半分を俺にちょうだい」
 シルバーは鳩が豆鉄砲を食らった顔をした。「……はあ?」
「春公演で俺はナイチンゲール・レイヴンを演じるよ。それでお前は、ナイチンゲール・スワンを演じる」
「待て待て、そんな勝手な……」
「うん」キャメルは頷いた。「でも、選ばれるよ」
 まるでもう決まったことを話すさながらのキャメルの物言いに、シルバーは身を引くことも振り払うこともできずにただ黙って呼吸だけを行った。何より、手の力が強かった。キャメルのワイン色が光を呑み込んで怪しく笑っている。
「お前が褒めてくれた俺の空気を掴む力とやらで、シルバーの宇宙をもっと、ずうっと引き延ばしてあげる」シルバーが何も言わないのを良いことに、キャメルが熱を編むように言葉を継いだ。「お前は今より輝く。今よりまばゆく、静かに、激しく、強く輝く。俺がそこまで連れていってあげる」
 そんな相手に、腕を掴まれたままではあ、とシルバーは溜め息を吐いた。「なんだか急に随分偉くなったらしいな、キャメル」
「うん」
「うんじゃなくてさ」シルバーはいよいよ空いている方の手で自らの額を押さえた。「それで、お前はそのばかでかい宇宙で一体何になる気なんだ? 太陽? 月か?」
「そんなまさか」キャメルが笑って、手の中のグラスを傾けた。「宇宙にはたった一つ、絶対に欠かせないものがあるでしょ?」
「それは?」
「神様」
 当たり前に言い放って、キャメルはぼふりと仰向けにベッドに転がった。そうして呆然と自分を見下ろしているシルバーの方に手を伸ばして、彼の宇宙を隠している前髪の先に軽く触れる。
「シルバー」
「今度はなんだよ」
「もう一度あの言葉を言ってくれる?」喉に突っ返そうなほど甘えた声を出して、キャメルは悪どくにっこりとした。「俺。もしかしたら、あの言葉がずっと欲しかったのかもしれないから」
「……キャメル」
「うん」キャメルは微笑んだ。少なくとも朝にする表情ではなかった。
 だから、白々とわざとらしく、まったく呆れ返った表情でシルバーはこう言ったのだ。
「──お前、馬鹿だなあ」


20220327 執筆

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