Page to top

古めかしい、新しい、面白い、すばらしい



「みたいじゃあなくて、ほんとにお話なのよ。何だってかんだって物語だわ。あなただって一つの物語だし──私も一つの物語よ。ミンチン先生だって、やっばり物語だわ」 - フランシス・ホジソン・バーネット『小公女』より



 新しい年だ。
 鳥のさえずりで目が覚める朝があるように、楽の音で目が覚めるという朝もある。
 こぢんまりとした屋敷の中に打鍵音が広がっている。その旋律は今の時期になると街の至るところで聞きかじることができるニューイヤー・ソングを奏でていたが、しかしそれは時折思い出したみたいに転調をしては、またどこかで聴いたことのある旋律となり──たとえば今はオータム・オーカーの『オールド・ニュー・アンド・ファニーイヤー』だったし、それはたった今、舞台『ハッピーハロウィン、ハッピークリスマス、ハッピーニューイヤー、ハロウピーズ!』の劇中歌『新しい年じゃなくても歌っちゃおう』に変わり、一体どこから手に入れてきたのだろう、ソナタ・ソレントゴールドがまだエグレットクラス以外には発表していない『雪だるまの中に入って転がるためのマーチ』となった──気が向けばまた元のニューイヤー・ソングへと戻って、年明けにしては暖かな気候の朝を包み込んでいた。
 音楽はいつも、幾つもの絵画が飾られた廊下の突き当たりにある洋室から聴こえてきていた。夜が明け、日が昇ってからはまだ間もないが、冬におけるローレアの太陽というものは朝寝坊をしがちである。イーゼル・クルーゼルは冷たい廊下の床の上を、彼の通っている学校の学園長兼現保護者が用意した内ボアの室内用ブーツでふかふかと踏み鳴らしながら、音が生まれてくる方へと歩いていた。『美しく青きドナウ』から『ラデツキー行進曲』へ、ニューイヤーコンサート、ウィンナ・ワルツの音色。イーゼルは楽の音に無意識に合わせるように歩を拾う。そして血管が透けるほどの白い肌からそうっと息を吐き出し、廊下の果てに存在するこの屋敷の主、レッドアップル・レグホーンの寝室の扉をノックする心構えを彼は整えた。
 けれども、そんなイーゼルの緊張に反して、扉は突然内側から開かれる。
 そして、そこから音楽と共に突然飛び出してきたのは、まだ生まれて一か月に満たないニューファンドランド犬のハッチ──「ナナの息子だからハッチ≠ナす。日本語で八を意味するらしいですよ。その名前で有名な犬いるとか」とは、レッドアップルの言葉である──だった。そのグレイの毛玉は迷いなくイーゼルの身体に突撃すると、少年の足元にくるくると纏わりつき、はふはふと興奮ぎみに新年の挨拶をくり返している。
「おや、ハッチに先を越されてしまいましたね」開いた扉に手を添えながら、レッドアップルが熱烈な挨拶を受けているイーゼルに言った。「寒いでしょう。中へどうぞ」
 誘われるままに部屋の中へと入ったイーゼルは、きょろり、とまだ見慣れないレッドアップルの自室の中を見回した。
 パチパチ、とマントルピースの下で暖炉の火が拍手みたいに爆ぜている。ルニ・トワゾの学園長室と似た雰囲気の内装をしている彼の部屋では、学園長室で彼が飼っている動物たちもまた年末年始に合わせて、彼の屋敷へと冬期休暇を楽しみにやってきていた。
 暖炉の前に敷かれた絨毯の上には常と変わらずニューファンドランドのナナがまったりと寝そべっていたし、黒と白のぶち猫テンポ=フィフティ──多くの場合、彼はフィーと呼ばれていた──はマントルピースの上を陣取って、尻尾をゆらゆらとさせている。白いカラスのミス・ジェンヌは入り口近くに置かれたチェンバロ、その横の止まり木に留まって、さながら置物のごとく微動だにしていない。天井までびっしりと本が詰められた書架、金色の冠羽が美しい大きなオウム、上質な布張りの一人掛けソファが二脚、昨日脱皮をしたばかりのカメレオン、バルコニーからそっと差し込む朝の日差し、そこで日光浴をしているリクガメ。学園長室と異なる部分といえば、大きな執務机の代わりに、それほど大きくない寝台が設えられている点だろうか。それでも、いつも寝た形跡のある二人掛けのソファよりはずっと眠るのに適した形をしている寝台を目に、イーゼルはそっと胸を撫で下ろした。
 それから、少年は未だ威勢よく、じつに楽しげに自分の足元へと纏わり付いてくる仔犬の姿を目に映した。そうして彼はその仔犬と呼ぶには少しばかり大きいハッチを困惑ぎみに撫で──「あ」──ふと、思い出したように小さく声を洩らしてはっと顔を上げた。
「レアさ──学園長」言いながらイーゼルは慌てて立ち上がり、気恥ずかしそうに微かに咳払いをした。「……あけまして、おめでとうございます」
「はい。あけましておめでとうございます」レッドアップルは先ほど自身が座っていただろうピアノチェアには腰掛けず、一人掛けのソファの片割れに腰を下ろしてはイーゼルの方を眺めてにっこりとした。「レアでいいんですよ」
 そう笑んで、自分の向かいのソファに座るようイーゼルに手のひらで促すと、レッドアップルはいつもより気の抜けた様子でバルコニーの方を見やった。見れば、レッドアップルは寝間着に寝癖頭という、ほとんど起き抜けに近い姿をしている。陽の光が、その少し跳ねた髪ごと彼の輪郭を白く象っていた。イーゼルはレッドアップルが示した、日光が当たらず、しかし暖炉に近いおかげで暖かいソファの方へと腰掛けた。生まれた頃からイーゼルにとって、太陽の光というものは些か眩しすぎるものであったから。肌を裂くほどに。
「いい天気だ。今年も良い一年になりそうですね」レッドアップルが窓の外を見やりながらそう微笑み、向かいに座るイーゼルへと顔を向けた。「イーゼルは何か、今年の抱負はありますか?」
「抱負、ですか?」相手の言葉にイーゼルはおうむ返しをした後、そうですね、とぽつりと呟いて、しかしあまり迷いもなく自身の白い睫毛をそっと上げた。
「昨年は自分の身に余るほどたくさんの学びを頂いたので、今年はそれをもっと演劇や──執筆などに活かせれば、と思います。月並みな目標かもしれませんが……」イーゼルのウサギみたいに赤い瞳がちらりと重ねた手元を見て、彼はまなざしだけで指折り数えるように発する。「まずは先輩方の卒業公演を乗り切ること、でしょうか。ルニ・トワゾ公演の中でも大変なものだとお話は伺っているので」
「なるほど、なるほど」イーゼルが息を吐いたタイミングで息を吸って、レッドアップルは満足げに頷いた。「良いですね、きみらしい。私もきみの姿勢を見習って、教師や生徒をよりよい舞台へ導けるように頑張らなくてはですね」
 レッドアップルは左右で微かに色の異なる瞳を細めて、自分の膝の上に飛び乗ってきたフィーを緩く撫でた。それから自分の頭で跳ねている寝癖の存在にたったいま気が付いたような顔をして、どこか悪戯っぽい表情で柔く笑った。「……おや、新年早々先生のようなことを言ってしまいました。せっかくの冬休みなのにね」
 その言葉に、イーゼルは控えめにかぶりを振りながらも、しかし呼吸ほどの密やかさでくすりとした。眼前に座るレッドアップルは、学園で見る姿よりも更に柔和で何か曖昧な輪郭を保っているふうに少年の目には映る。或いは、まだ眠たかったのかもしれなかった。このまま暖炉の火だけが話す暖かな沈黙の中に置けば、きっと微睡みに攫われた彼の寝息ばかりがこの場を支配することになるだろう。けれども、今日の陽は、そんな年明けも悪くないと思わせる日差しの穏やかさだった。が、しかし、
「──坊ちゃん!」
 トトト、という素早いノック音と共に返事も待たずに扉が開かれ、恰幅のよい高年の女性が部屋の中へと入ってくる。品の良い仕事着に、使い古されているが清潔感のある前掛けをしているその女性はきょろきょろと辺りを見回した後、つかつかと一直線にレッドアップルを目指して突き進んできた。
「ゾーイ」そんな相手の名前を呼んで、レッドアップルは慣れた様子で物怖じもせず、いつもとなんら変わらない調子で言った。「あけましておめでとう。坊ちゃんはやめてくださいといつも言っているじゃないですか」
「ええ、坊ちゃん。あけましておめでとうございます」レグホーン家付きの執事であり、レッドアップルの乳母であるゾーイは、堂々とした態度でレッドアップルに向かって頷き、彼の頭の寝癖や寝間着姿を前のめりに示してみせた。「ですから、新年早々そのようなだらしのない恰好でお客様をお部屋に招かれては困ります。お掃除だって済んでいないのに!」
 レッドアップルは指先で寝癖を直す素振りだけを見せたが、悪びれる様子はちっとも見せずに肩をすくめて笑った。「まあまあ、今日くらい休んだらどうですか。その坊ちゃん呼びも?」
「私めにとっては坊ちゃんはずっと小さな坊ちゃんですよ」ゾーイはふんと鼻を鳴らして、腕を組みながら勝ち誇ったみたいに口角を上げた。「それで、ココアでよろしいですね? イーゼル様のものは角砂糖をいくつお入れしましょうか?」
「え?」ばちり、とゾーイの深いブロンズの瞳とイーゼルの赤い瞳の視線同士がかち合う。突如として白羽の矢が立てられて、イーゼルの喉元で言葉がごちゃごちゃと絡まった。「あ、僕は……」
「三つだよ、ゾーイ」しかし、イーゼルが何を言うより早く、レッドアップルが手をひらりとさせながらそう答えて──(そう言っておいた方がいい。彼女は子どもを甘やかさないと気が済まないんです)──イーゼルに聞こえるか聞こえないかほどの声量で、暖炉の火よりもこっそりと口を動かした。
「三つ! まああ、甘いものがお好みなのですね」ぱちんと両手を合わせて、ゾーイは心底嬉しそうに破顔した。それからちらりとレッドアップルを見て、得意げな表情で彼女は頷いた。「坊ちゃんもそれでよろしいですね、いつも通り?」
「いや」しかし、そんなゾーイに横目に、レッドアップルは自身の人差し指をすっと掲げた。「今日は角砂糖はなしです」
「なんですって!」彼の言葉に、ゾーイは大げさに身を引く。
「甘いものを飲む気分じゃないんだ」驚愕の声を上げたゾーイを尻目に、唇をへの字に曲げてレッドアップルはむっつりと言い放った。「せっかくの新しい年ですからね、僕も一味違ったテイストに挑戦してみないと」
「なんてわがままな方なのかしら」ゾーイはせっかく寛げた腕を再び組んでは、はあっと肺を膨らませる。「ですから、いつまでも坊ちゃんは坊ちゃんなのですよ!」
 それからゾーイはその勢いのままにくるりと踵を返して部屋を出て行ったが、しかし彼女が立てる靴の音はといえば、そこには何か嬉々としたものが感じられるほどに軽やかであった。学園で教師や生徒と会話をしているときには到底見られないようなレッドアップルの子どもじみた物言いに、イーゼルは部屋の扉が閉まると共に白く長い睫毛をぱちり、と動かして、半ば呆然とそちらの方を眺めることしかできなかった。
 そして、そんなイーゼルの表情を見て、レッドアップルはほんの少しだけ意地悪そうに目を細めてはにんまりとした。「……ちなみに、彼女はこういう甘やかし方も好みなんですよ。ビターが飲みたいときには、ぜひ参考にしてください」
 ナナが大きな口で欠伸をする声がする。
 ややあって、うきうきとした足取りで再び部屋に舞い戻ってきたゾーイは、レッドアップルとイーゼルの間に置かれたつるりとした丸テーブルの上にココアを二人分置き、またいくつかの小言をレッドアップルに浴びせかけながら、イーゼルの行儀のよさを少々脚色して褒めちぎった。イーゼルが普段はどこにいらっしゃるのか、とゾーイに問えば、彼女はまったく得意げな顔色で「大抵はこちらのお屋敷のお手入れを。けれど、私、こう見えて聖歌隊の指導員をしておりますのよ。ゴスペルシンガーなのです」と言い、レッドアップルは明らかにいたずらっ子の表情で、納得でしょう、という視線をイーゼルの方へと向けた。
 結局レッドアップルの寝癖頭と寝間着姿はそのままにして部屋を出て行くゾーイを見送った後、テーブルの上に乗せられた二つのマグカップを眺め、レッドアップルはイーゼルに対して首を傾げた。そんな彼の言外の問いかけに、イーゼルが「せっかくなので甘い方を頂きます」と答えれば、その返事に満足したのか、レッドアップルは「新年ですからね」と言って頷いた。
「……レアさんは今年何かやりたいこと、ありますか?」
 ふと、イーゼルがそんなことを尋ねたのは、やはりこんな日差しのためだったのかもしれない。レッドアップルに向けて差し出される、触れそうなほど確かな春の気配のために。
「私?」イーゼルの問いかけに、レッドアップルはこそばゆそうにくすりとした。「やることはたくさんあるんですけれどね」
「その、……」少し躊躇いがちに泳いだイーゼルの視線が部屋の扉を見やったのち、レッドアップルの膝のフィーを伝って彼の瞳まで戻ってくる。「今お借りしている部屋に、綺麗なパンプスがあるのをお見掛けしました。壁のショーケースに」
 そっと発されたイーゼルの言葉に、この屋敷の主であるはずのレッドアップルは、しかし虚を突かれたようだった。「あ──ああ、あれですか」
 それから、数秒間の沈黙。レッドアップルの指先が撫でるフィーの喉がごろごろと猫々しい音を立てるのに混じって、彼の睫毛がそうっと瞬きをしていた。フィーの尻尾が一定のリズムで左右に揺れている。レッドアップルは、今まさに言葉を編んでいるのだということを隠し立てもせず、不思議な目の色で窓の外を眺めていた。
「じつはあの部屋、私がルニ・トワゾに入学する前に使っていた部屋なんです」そうして次の呼吸で、ココアを一口飲んだレッドアップルが、ふ、と微かに笑ってそう言った。「この場所が好きなので、小さい頃からここでよく寝泊まりをしていました。もちろん、ゾーイも一緒に、ですけれど」
 そしてレッドアップルは、声のない息を吐きながらソファにもう少し深く腰掛け直した。まるで随分と遠い昔を語るみたいにもう少し深く、もう少し力を抜いて。
 イーゼルは膝の上で両手をぎゅっと組み合わせて、そんな彼の姿を見る。彼が冬期休暇中の寝室としてレッドアップルから与えられた部屋は、今レッドアップルが自室として用いているこの部屋よりももう少し明るい色合いと、もう少し華やかな意匠の調度品で彩られていた。そのさまは、たぶん──おそらくは、エグレット寮の内装と、どこか似通っている部分があるように感じられた。
「舞台用のパンプス、でしょうか」イーゼルは壁の中に填め込まれた、曇りのないショーケースの姿を思い浮かべながらレッドアップルの方を見た。「でも、あれは……ガラス?」
「うん──はい、そうなんです」レッドアップルは睫毛を上げて、小さく頷く。「スワン・スーダンが晩年にデザインしたもので、彼は次の舞台ではこれを履く=Aと息巻いていたらしいです。実際にそれが叶うことはなかったのですが……」
「スワン・スーダンが?」それは座学の授業でも聞いたことのない話だった。
「ええ。何しろここは、レイヴン・レグホーンがいちばんはじめにした高い買い物──スワン・スーダンのための屋敷ですから」内緒話をするというよりは、教科書の頁と頁の間にある遊び紙をちらりと見せるように彼は発した。「一般家庭では、屋敷の中に少人数用の劇場や広い稽古部屋やものすごく広い衣装部屋なんか作らないでしょう? あったら素敵ですけれどね」
 レッドアップルは赤みがかっている方の目を微かに細め、彼のものとは比べ物にならない鮮やかな赤を宿したイーゼルの瞳を見やった。
「家は人のために物語る、とはレイヴン・レグホーンの言です」言いながら、彼はフィーのことを撫でていた指先を止めて、緩く天井を眺めてみせた。「実際、人が出入りしないと家は朽ちてしまいますからね」
 そんなレッドアップルのことが不服だったのか、膝上に乗っていたフィーが不意に床へと飛び降りて、扉の下部に取り付けられたペットドアから気まぐれに廊下へ出て行く。仔犬のハッチはその小さな扉をすでに通ることができないので、去っていくフィーを名残惜しげに眺めていた。ペットドアの前で右に行ったり左に行ったりと忙しなくしているハッチを見つめて、レッドアップルはもう一口ココアを飲んだ。
「スワンの死後、そんなレイヴンの意思に従って、この屋敷には様々な人が住みました」彼は立ち上がり、扉の前のふさふさとしたグレイの毛玉を抱き上げながら言った。「そして私が今、その最後尾に立っているというわけです」
 赤子のように抱かれたハッチがべろべろと主人の頬を舐めている。くすくすと笑い声を立てながら仔犬の暴挙めいた愛情表現をさせたいままにしているレッドアップルに、イーゼルもまたつられてほんの少しばかり笑みを零した。そして今度は、そんな少年の笑みにつられて、レッドアップルがイーゼルの方を見る。
「それなら、……その、レアさん」視線がかち合うと同時に、イーゼルの喉から問いかけの音が洩れ出た。
「なんでしょう?」
「舞台のためにつくられた靴は、誰のために物語るでしょうか」
 その質問に、レッドアップルはゆっくりと瞬きをしたようだった。彼は抱いていたハッチのことを絨毯の上に下ろすと、辺りをぐるりと見渡し、自身の唇を触る。バルコニーへと続く大きな窓の前まで歩いて、誰がためだろうか、レッドアップルはそっと頷いた。
「やはり……それも人、でしょうね」それはほとんど呟きに等しい声だった。「物語の登場人物のため、それを演じる役者のため──そしてもちろん、いちばんは観客のために」
「履かなければ、朽ちる?」イーゼルが問うた。
「履かなければ、朽ちる」レッドアップルは答えた。
 ぱちり、と火が爆ぜて薪の一部が砕ける音がする。レッドアップルはヒールを履いているかのようなつま先立ちをすることもなかったし、膝を曲げて柔らかな輪郭を演出することもなかった。ただ彼は堂々と、じつにレイヴンらしい足取り歩幅でイーゼルのところまで戻ってきては、再びゆったりとその身体をソファに沈めた。
 しかし、何故だろう。そんなレッドアップルの仕草はかえって、ふうわりとした白色を彷彿とさせるばかりであった。それは彼が未だに寝癖頭のままだからだろうか、寝間着姿のままだからだろうか? 或いは……
「けれど、ガラスの靴です。舞台で履いて演じれば、たちまち割れてしまうようなつくりなんですよ」レッドアップルは脚を組んで手を組んで、さながら探偵のごとく前のめりになった。「それこそ、スワン・スーダンでなければ」
 或いは、それこそが、レッドアップルが劇団ロワゾの白いレイヴンと謂われた所以なのだろうか? イーゼルは相手の声が自分の中で輪郭を持たずに流れて出ていることにはたとして視線を上げた。目が合う。なんだかたった今はじめて、目が合ったような気さえした。レッドアップルは微笑んでいた。光そのものを見るようなまなざしだった。
「でも、いずれ。きみたちの中にこの靴を履きこなす役者が生まれてくるかもしれない」そして、レッドアップルは睫毛を上げ、確かな輪郭と共にそう発する。「私はそれが楽しみなんです、とってもね」
 ぱちぱち、と火が手を鳴らす。仔犬のハッチは母親のナナのところへと近付き、彼女の腹にからだを沿わせるようにして横になっていた。レッドアップルは椅子に深く背を預けながら、まだ何か言葉を隠し持っていそうなイーゼルの瞳に目配せをする。
「レアさん」その視線に誘われるように、イーゼルは喉奥の言葉を引っ張り出した。「こんなこと、訊いてもいいのか分からないのですが……」
 彼はかぶりを振った。「子どもが大人に尋ねてはいけないことなんて、この世にはありませんよ」
「その」イーゼルは息を吸った。「スワンに、……憧れていた?」
「憧れ」レッドアップルはおうむ返しをし、それから迷いなくかぶりを振った。「いえ、私はもっとつまらない……凡庸な人間です」
 レッドアップルは微かに笑って、ぼんやりと落としていた視線を天井の照明へと向ける。朝の日差しを受け取るそれらは、まるで灯さないままに発光しているようであった。 
「ただ、羨んでいただけですよ。自分以外のすべてを」彼は微睡むみたいに目を閉じて言った。「いつだって、他人の芝生は青いですから。ただスワン・スーダンを、スワンを演じる役者たちのことを羨んで、羨んで……ただ、それだけです」
 そうしてレッドアップルは組んでいた両手をほどくと、らしくもなく肘掛けに頬杖をついて、壁に掛かったいくつかの絵画と、見上げるたびに立ち眩みを起こしそうな高い書架を眺める。よく見れば、その本棚には学園長室には確かに存在する空白が──そこに大小様々に並び立つ珍しい置物や不可思議な形の花瓶たちが──彼のユーモアまで本、本、本で埋め尽くされていた。
「結局、歴史が怖くて、人の目が怖くて、現役時代は何もできませんでした」そう言う彼の目ばかりが微笑む。「酷いレイヴンなんですよ、私。それに気付いたから引退したんです。みんな気付いているかもしれませんけれどね」
 そんな彼の告白に、まだあどけなさの残る一人の少年が一体何を言うことができるだろうか。肯定はもちろん、否定さえも声にしたところから陽に灼けて灰になってしまいそうだった。恐れではなく、他の何かのために。
 それからレッドアップルは、唇を引き結んだイーゼルの方を見て申し訳なさそうに淡く笑った。彼は冗談みたいに首を振って笑み、腕をいつもの位置へと戻して両手を組み直した。
「つまり、私のやりたいことといえば」まるでゆっくりと歩くように、彼は一つひとつの言葉を丁寧に発した。「……昔の私が見たら地団太を踏んで悔しがるような、心の底から憧れて、心の底から演じられるような、そういう学園をつくること、なんですよ」
 レッドアップルのまなざしが眼前の光めいたものを見つめていた。イーゼルは目を逸らさなかった。彼は目の前に差し出された細い糸のようなものを、ぎゅっと掴んで離さなかった。
「素敵です」白い睫毛が震えて、彼は握っている手に力を込める。「世界でいちばん素敵な学園になりますよ。いえ、……いえ、今だって」
 相手のはっきりとした言葉に一瞬だけ驚いた目をして、しかしレッドアップルはにっこりとした。「ええ、そうでしょう?」
「それに……」イーゼルは心臓と同じ色をした瞳を真っ直ぐにレッドアップルへと向けた。「ガラスの靴も、レアさんが履いたらきっと、きっと素敵ですよ」
「──はい」レッドアップルは今度こそ隠しようのない間を空けて、面映ゆそうに頷いた。そうして彼はどこか満足げな表情で笑い、赤みがかった方の瞳でぱちりとウインクをしてみせる。「ふふふ。その言葉をもらうために、長い前置きをした甲斐がありました」
 そうして彼はソファから突然立ち上がると、嬉々とした色が滲み出ている足取りで──そのさまはゾーイとよく似ていた──チェンバロの前に座り、雪の上でちらちら瞬く光のような高い音を小刻みに鳴らし、春のつくり出す木陰のような低い音を小刻みに鳴らし、『オールド・ニュー・アンド・ファニーイヤー』の真ん中辺りの音をハミングし、ラララ、それからついに彼は歌い出した。


  おしろいでめかしこんだ 古めかしく新しく面白い年よ
  今日からは子ネコに羽を 今日からは子イヌに蹄を
  ウサギに声を ツバメに角とクジラに涙 かわいい君にはブランケット
  それからできれば今日からは 僕にあの子をくださいな
  神様 だって今日からは
  おしろいでめかしこんだ 古めかしく新しく面白い年よ
  すばらしい!



「イーゼル」間奏の途中でレッドアップルがそう呼びかける。「良い年にしましょうね」
 イーゼルは頷いた。「そのために、もう一つだけいいですか?」
「おや、イーゼル。きみはなんだか私に似てきましたね」
「レアさんの好きな物語ってなんですか?」小首を傾げ、イーゼルは声色だけでウインクをしてみせた。目の前の人のように。「『灰かぶり姫』ではないんでしょう?」
 その言葉に、レッドアップルが声を上げて笑った。「しかも段々私のことが分かってきた様子だ。大変よろしい」
 白鍵で雪の色が鳴っている。黒鍵で春の気配が鳴っている。窓からやってくる日差しが、レッドアップルの肩を温める。そのままで、彼は歌った。きっと、光に選ばれていることも知らないままで。
「『小公女』。私、あのお話の中で、とても好きな台詞があるんですよ──」


20220124 執筆

- ナノ -