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「ごらん、これこそわたしがこれから生きる夜よ」



「覚えろ、踊れ」
 と、いうのが、入学試験を受ける学生たちに対して発した、ガーネット・カーディナルの最初の言葉だった。
 ルニ・トワゾ歌劇学園。合格率が著しく低いこの学園の入学試験には五科目あり、しかしそれらは学園の狭き門に対するイメージとは反して、ひどく単純で明快なものであった。まず基礎的な知識を試す筆記試験、それから実際に声を発し、歌を歌う声楽のテスト、同じ要領でダンス、演技のテスト──演技とは銘打っているが、この試験に関しては蓋を開けてみればいわゆる即興劇のテストである──そして最後に、簡単な面接がある。これら五科目の入学試験は、現在ルニ・トワゾにてクラスを受け持っている四人の教師たちによって進行され、また、同じくその四人によって受験生の入学の可否、入学後の組分けのほとんどが決められている。
 現在のルニ・トワゾ歌劇学園は、職員のすべてが劇団ロワゾの関係者である。
 まず受験生たちは、自分たちの入学試験を担当する、と言う教師たちの顔ぶれを見て、度肝を抜かれることになるのだ。ココリコクラスの担任教師であるマドンナ・マジェンダは、ルニ・トワゾ入学を志す者なら誰もが知っている、劇団ロワゾでの代表的な現歌姫──メルルであり、クーデールクラスのガーネット・カーディナルはロワゾ・ミュージカルと言われれば真っ先にその名が呼ばれる、ロワゾの現ピーコック。そして、来年度新設されるというエグレットクラスのダリア・ダックブルーと言えば、ロワゾの元有名レイヴンであり、現在ではロワゾの脚本のほとんどを手がけているという、こんにちの劇団ロワゾにおける生きる伝説である。最後に、他三人に比べればやや知名度は低いが、未曾有の名脇役として現役時代は無数の舞台に引っ張りだこになっていた、元クロウのアンチック・アーティーチョーク。彼はアトモスクラスの担任教師だ。いずれにしても、受験生たちの目の前に現れたのは、世界中におそろしい数のファンがいる名だたる面々だった。
 眼前の顔ぶれにぽかんと口を開けて立ち尽くす者、ざわざわと辺りを見回す者、待っていましたと言わんばかりの顔をする者、多種多様な反応を見せる受験生たちに向かって、ぱんぱん、とその両手を叩いたのは、ココリコの担任であるマドンナだった。彼は、お歌のチェックの前につまらないけど大事な筆記のテストをしましょうねえ、と言い、受験生たちをぞろぞろと率いては、全体の生徒数が少ないために空き教室だらけの巨大な校舎の方へと消えていく。教師たちもそれに続いて校舎へと歩き出したが、けれどガーネットだけはしばらくの間その場で足を止め、各々のスピードで歩を拾っている受験生たちの足取りを眺めていた。
 それから、やや時間は過ぎる。
 受験生たちは筆記の試験と声楽のテストを既に終え、ダンスのテストもまた終わりに近付いていた。
 ダンスのテストは試験会場として、普段ルニ・トワゾの生徒たちが授業で使用している、鏡張りの稽古場が選ばれている。もちろん、他の教師三人も参観をすることになっているが、原則として試験監督を務めるのは身体表現の得意なクラス、クーデールを担任しているガーネット・カーディナルその人である。試験内容は分かり易いもので、ガーネットがダンスを踊り、学生がそれを覚えて踊り返す、というのを交互に十回くり返す、といったものだった。ガーネットは一度につき、三十人までしか試験会場に入れない。今年度の受験生の数は三百名を超えている。
 故に、ガーネットは休みなく、もう百回以上踊っていた。無論、彼はこの程度で疲れなどは見せることなく、声楽のテストを終え、すでに自分たちよりも疲れた表情をしている学生たちを稽古場へと入れて、背骨の流れ、立ち方、呼吸の仕方、表情、最後に目を見る。
 真っ直ぐにこちらを見つめている者、そもそも目が合わない者、目が合っているようで合わない者、ちらちらと教師たちの様子を窺っている者、それから──一度目が合った後、ばつの悪そうに視線を逸らす者。これが、ガーネットがテストをする、今年度の受験生、最後の三十人だった。
 彼はそんな学生たちを前にして、二言目にこう言った。
「姿勢が悪い」
 そうして、ダンスのテストを終えた後である。
 十五分間の休憩時間。ガーネットはパイプ椅子に脚を組んで座って、他の教師たちが付けていたこれまでの試験の点数表をぱらぱらと捲りながら、時折とんとんと紙の端を叩く。受験生たちに踊ってみせた十種類のダンスの内、一つは彼自身のお気に召したのだろう、彼は指先で踊りつつ、瞬きの少ないその目を少し閉じた。
「ぱっとしない」
「今年?」
「ああ」
 ガーネットはうっすらと目を開けて、点数表を手にしている彼よりもずっと真剣なまなざしでその紙面を見つめていた、隣のアンチック・アーティーチョークへと言葉だけで頷いた。不服そうでも不機嫌そうでもなく、ただ淡々とそう呟いたガーネットに、アンチックは口の中でんん、と唸ると、手の中のペンをくるりと回す。
「今年の受験生、ダンス経験者が多いみたいだよ」
「見りゃ分かる。確かに上手いが、まあそれだけだな。いまいちつまらん」
「言ってもいいよ。休憩中だし」
「俺のクラス、今年は十人以下だ。流石に学園長サマに怒られっかな」
 そう良いながらも悪びれることなく、ガーネットはパイプ椅子の頼りない背もたれに身体を預けて息を吐いた。使い古した椅子からは、きし、と金属と布のはざまから鳴る音がする。アンチックはそんな彼の隣に立ったまま、柔く咎めるような声を出した。
「好みだけで決めるからだよ」
「これは失敬」
「もう……」
 呆れた色の光を目の中に浮かべながらも、実際のところはこんなガーネットの言動にすっかり慣れている様子のアンチックは、はあ、とぬるい溜め息を吐いた。鏡に映っている彼の表情は諦めのそれである。対するガーネットはと言えば、は、と軽く鼻で笑っていた。
「どの口が言うんだか。この学園で、てめえの好みで生徒を選んでないやつなんかいないだろうが。かわいこぶっても無駄だっての」
「それでも、試験の点数もちゃんと見なきゃ」
「そんなもんいちいち紙で見なくても覚えてる。目の前で見てりゃあ分かるし」
「ほんと、すごいこと言うよね、君は……」
 息を吐くみたいにそう発したアンチックに、ガーネットは自身の長い睫毛を伏せながら、どこを見ているのか分からない瞳で点数表を眺め、次々に捲っている。彼の指先は未だ踊り、アンチックは紙面をステージとしているガーネットの長い指を見た。二人だけの稽古場で、彼の踊る金色の爪だけが楽しげである。ガーネットは、休憩に入ってからずっとこれだった。彼にしては、随分と長い間考え込んでいるらしい。
「それで、どう」
 放っておいたら、ずっとこのまま指先を遊ばせていそうなガーネットに、アンチックはそろそろいいかな、と助け船を出した。その問いかけにガーネットの紅みがかった目が瞬き、たったいま思い出したように点数表を指で叩く。それはリズムを刻むための音ではなく、答えを出すための音だった。
「あの癖毛の黒髪。セミロングの」
 すぐに合点がいったのだろう、アンチックは短く頷いた。
「うん。マルヘル・ブルーナくんだね、ガーネットくんが好きそうだ。ミリアン・バームくんは?」
「当然クーデールだな。まあ、即興劇のテストにもよるが」
「ダリアさんのクラスはもういっぱいじゃあないかな。すごい、選り取り見取りだ、みんな入学しなよって言って喜んでたよ」
「いや、だってお前。あれのことだ、何をしでかすか分からないだろ。言葉通りに馬鹿みたいな数の生徒を自分のクラスに入れるか、面白いと言いながら振るいに掛けてえぐめに絞るか……」
 五十人も百人も自分のクラスに入れては、毎日毎日そこここでゲリラ公演を開演させるダリアや、本心から面白いね才能だらけだ、と笑いながら、でも分かり易いだけならこの学園は難しいかな、と言って不合格者を大量に出すダリアはどちらも想像に難くない。彼は自由で独創的な創作者であり、公正で厳格な選択者でもある。
 アンチックもそのさまが頭の中で見えたのか、仕方なげに少し微笑み、楽しみだね、と呟いた。ガーネットは頷く代わりに、組んだ脚の上に肘をつく。点数表は次々に捲られていたが、あまり関心を向けてもらえないそれが立てるぱらり、という音は心なしか気怠げだった。
「……そういや、声を出さないやつもいただろ。あいつも良いんだけどな」
「ああ、……はは。声楽のテストが終わった時点でマドンナさんの予約済みになっちゃったね」
「ま、俺もマドンナさんの管轄だとは思うけど。完全にあの人の趣味じゃね」
「どの辺り?」
「顔。いろんな意味で」
 そう断ずるガーネットに揶揄の気持ちがないことは、その静かな声色からも受け取ることができる。マドンナは、傷口からめらめらと炎を噴き出す目をした人間がすこぶる好みなのだ。そしてそれはガーネットも、きっと他の教師たちも一緒なのだろうが、だからこそ己が狙う生徒の顔ぶれは大体いつも同じだった。ただ、それぞれが好む光のかたちが少しずつ異なっていたため、学生を取り合いながらもこの学園のクラス分けについては毎年どうにか丸く収まっている。本気でやり合うときもあるにはあるが。
 ぱら、ぱら、ぱら。連続して捲られる点数表で、ガーネットが視界に入れているのは紙面に貼り付けられている顔写真と、それから名前くらいだった。家名にはそれほど興味をそそられない。この赤毛はダンスそのものよりもステップを踏むときの視線の動きが印象的だった、この金髪は十回のダンスをその通りに踊り返せていた、この茶髪はマドンナとダリアが取り合いをしそうだ、上手いがどこか不安定な青髪、どきまぎとしつつも何か華やかなオーラがある金髪二号、橙は線は良いがとにかく体力がないのが問題──この辺りだけやけに色とりどりな並びだな。そう思ったところで、ああ、この点数表はすでにダリアが手を付けた後だった、と気付き、ガーネットは喉の奥だけで笑った。
「この辺りはエグレットだろ。面白いが俺のタイプじゃない」
「ふふ、分かるよ。賑やかなクラスになりそうだね」
「賑やかで済めばいいけどな」
 こちらには揶揄う気持ちがあったらしく、ガーネットは依然として視線を上げないまま、けれども目だけを細めて片手をひらりと振る。そうして点数表の頁を次々に追う彼は、当然だが一つひとつが教師たちによって厳しく採点されているそれらを、やはり読んでいるのか読んでいないのかの速さで捲り続けていた。
 しかし、
「ガーネットくん?」
「ん……」
 ガーネットはつと、或る学生の点数表の上でぴた、とその指先を止めた。それから、とん、と彼の指先が緩やかにリズムを刻みはじめる。アンチックは待った。彼がその爪先で踊る、思考と答えのはざまのダンスを眺めながら。
「これはまた随分と悲惨なことだな」
 彼がそう呟くまでに、およそ一分はかからなかった。ガーネットは指を止め、自身の赤い口元だけで笑ったらしい。
 頁は未だ捲られない。彼が視線を落としている学生の点数表は、きっとその親が見たら頭から卒倒するか、絶望するか、怒り狂うか、すっかり諦められるかのいずれかだろうという次元でずたぼろに採点がされていた。少なくとも同情はされても拍手はされる点数ではないことは明らかだった。するべきではないことも。特に声楽に関しては酷いもので、そもそも声が聞こえない、歌ではない、これでは嗚咽だ、とまである。対して筆記の試験はほぼ満点であることが、更に同情的だった。確かにダンスも粗削りで、お世辞にも上手いとは言えなかった。彼よりも上手かった生徒は何百といる。彼はとん、と紙面を叩いた。しかし、彼のあの悲痛な目を見た人間はいただろうか。何にも縋れず、くり返される足の運びに身体を追い付かせるしかできない彼の表情を。見ただろう、うちの教師たちは皆。見たからこそ、この評価だ。彼のことは何も知らない。家名もどこかで聞いたことがあるような気がするだけで、取るには足らない。だというのに、彼は何もかも剥奪されている、というのをこの一瞬でこちらに見事に伝えてきたのだ。身体の動きと表情だけで、ああ自分はあっちもこっちも食い荒らされているのです、とこちらに! 紙は無価値だ。言葉も無意味だ。どうでもいい。必要なのはこの目から得られる鮮やかでべたりとした色の輝きだけだ。すぐそこに、彼が足で残した爪痕さえ見える。才能だ。欲しい!
「──うちのだ、アンチック」
 隣で、アンチックが何事かを言おうと息を吸う音が聞こえ、ガーネットはその何事かが吐き出される前に己の答えを発した。アンチックがぱち、と瞬きをする。ガーネットは瞬きをしなかった。彼の長い睫毛の間から、紅色がちかちかと洩れている。蛍光灯の冷たい光に照らされるそれは鋭く、アンチックは理解も納得もしながら、しかしあえて頬を掠めるその火花を眺めていた。
「うちのだ」
「渡してくれないの?」
「クーデール以外はあり得ない」
「なんで?」
「俺の方が先に言った」
「そんな子どもみたいな……」
 アンチックは、真顔で駄々をこねはじめたガーネットに肩をすくめた。演者の割にある種の愚直である目の前の友人を、彼はどうしても嫌いにはなれない。友人は傲慢で、我が儘で、強欲だ。故にガーネットはミュージカルのスターであり、このたかの外れた学園の教師なのだ。彼の欲しい、は正義である。それがアンチックの結論でもあった。
「もう踊ることでしか道を拓けない人間だ。こいつは踊るしかない。俺に渡せ」
 すでに答えは決まったという様子で、ガーネットは再び点数表を捲りはじめた。それから、瞬きを一つ。彼は悪戯でも思い付いたふうな表情で、休憩に入ってから初めてアンチックの方を向いた。
「アービュータスさんの息子はお前にやる。お前、大好きだろ。ああいうやつ」
 なんの取引にもなっていない申し出に、けれどもアンチックはほんの少しだけ目を見開いた。ガーネットは自身の紅い目をするりと細めて、唇の端を小指でぬるく叩いている。パイプ椅子の魔王め。アンチックは心の中だけで小さく毒づくと、それが伝わるように自分もそっと口角を上げて、恭しくその場でお辞儀をした。二人はくつくつと笑う。ややあって、アンチックの溜め息が洩れた。
「まあ、……でも、そうだね。僕も彼は君のクラスがいいんじゃないかなと思うよ」
「お話が分かるじゃねえの。ひび割れてるやつほど、ぎらぎら尖って輝くもんなんだよ」
「良いご趣味で」
「お前にゃ言われたかないけどな」
「それはどうもありがとう」
 ガーネットは声を上げて笑った。次いで、アンチックの持つスマートフォンからピピピ、という機械的な音が鳴る。
 休憩の終了時間を告げるそのアラームに、はあっと息を吐いてガーネットはようやくパイプ椅子から立ち上がった。そうして今しがた自分が選び取った数人分の点数表をぽい、とくずかごに放ると、すたすたと稽古場を後にする。
「捨てちゃだめだよ、ガーネットくん。後で使うでしょ」
「俺は要らない。そういうのはお前に任せる」
 そう言って歩き去るガーネットに、アンチックは仕方なさげに眉を下げると、くずかごの中から点数表を拾い上げて彼の背を追いかけたのだった。



 それから、もうすぐ丸二年が過ぎようとしている頃である。
「先生!」
 と、いう呼びかけに、ガーネットは細いヒールでカツカツと床を鳴らすのと止め、身体ごと背後を振り返った。声の持ち主は大抵想像がつく。振り向きざまにガーネットは肩掛けの鞄に手を突っ込むと、長い丈の上着を引っ掛けることによって隠されているそこから、ぐいとペットボトルを一本引っ張り出した。
「水」
「わっ」
「お前はすぐ水分補給をお忘れになるな、オリーブ?」
 そうして彼は言葉が継がれるよりも早くそのペットボトルを相手に向かって放る。オリーブと呼ばれた青年は、あっ、という顔をしながらも、慣れたふうに放られたペットボトルを受け止め、すみませんと笑いながらその中身をごくごくと飲み干した。
 本日の授業を全て終えた十七時前の校舎の中は、秋の斜陽に包まれて眩しい。ガーネットは目の前のオリーブのことを見ているような、それでいて背後に伸びている影を眺めているような瞳をしながら、自身の鞄の表面で片手の指を踊らせている。
「……で、どうした?」
 満足げにふうと息を吐いて、ペットボトルの蓋を閉めたオリーブに対して、ガーネットは平たくそう問うた。オリーブの微かに褪せた緑の瞳が相手の方を向いて、ぱちり、と瞬く。
「ああ、そうだ。DVD借りたいんですけど、いいですか? 今の役で参考にしたい作品があって。ほら、前に先生が出てた……」
「『エスアイアム夫人と秘匿の血族』?」
「そう、それ! よく分かりますね」
「ま、先生だからな」
 言って、ガーネットは少し笑った。そうして彼は再びヒールを鳴らして歩を拾いはじめると、オリーブはそんなガーネットの隣について、姿勢よく歩みを運んだ。
 西日の差し込みが激しいこの廊下は、壁も床も皆総じて金色に染め上げられている。じきに日は暮れて、これも紫から漆黒へと変化するのだろう。
 エグレットが優勝を勝ち取った学祭公演を終えてから、今日で四日目の夕暮れ。いまいち伸び悩んでいたファイン・ストロベリーフィールドが演じた学祭公演でのスワンは、紛うことなき彼至上最高の名演であった。ダリアが育て上げた役者が、授業ではなく舞台上で開花するさまをありありと見せつけられたあの舞台。踊るだけではだめだ。そんなことは分かっている。いいや、分かっていなかったからこのような体たらくなのだ。自分はダンサーを育てているわけではない。役者を育てている。クーデールは身体表現のクラスだ。考えなければ。考えて踊れと言いながら、思考停止をして生徒を踊らせていたのは或いはこの自分自身なのではないか。思えば脚本はいつもダリア任せで、音楽も楽団ラマージュの作曲家に頼りきりだ。いまいちつまらんなどと、彼らの入学試験でほざいていたのはどの口だ。負けてなるものか。クーデールは俺の欲しがった才能たちが集ったクラスだ。ガーネットは鞄の表面を指先でとんとんと叩く。オリーブがこちらを向いていることに気が付いて、彼は口を開いた。
「ってか。その演目だったら、また公演あるけど」
「えっ、いつですか?」
「明日」
「嘘でしょ……」
「いや、嘘じゃないけど」
 ガーネットはちらとオリーブの方を見てから、またすぐに前を向いてそう呟いた。彼の言葉を聞いて項垂れたオリーブは、肩をすくめて痒くもないだろう首の後ろを掻く。そういえば最近ぜんぜん情報追えてなかったなあ、とひとりごちながら、彼はふと思い付いたようにガーネットの方へ視線をやった。
「そういえば、ずっと思ってたんですけど」
「ん」
「先生、いつも色々持ち歩いてるでしょ。水とか救急箱。俺、持ちましょうか?」
「いーや、結構。正直にチケット寄越せって言えよ」
「やっ、やだな。違いますって」
 それもそれで不服だ。ガーネットはにっこりと微笑みながら眉根を寄せる。そうして統一された歩幅で廊下を進みながら、ぼんやりと腕を組んだ。
「……今はスワンの気分じゃないんでね。頭のてっぺんからつま先までレイヴンなんだわ」
「しかもナイチンゲール?」
「よくお分かりで」
「生徒ですからね」
 ガーネットはくつ、と喉を鳴らして笑った。それは、そう言ったオリーブの表情が随分得意げで、どうです、俺いま上手いことを言ったでしょ、という言葉が非常に分かり易く顔に書いてあったためである。
「先生」
「ああ」
「今日、どこを見てるんですか」
「前」
「前かあ」
 オリーブは眉を下げて、ちょっと困り顔で笑んだらしい。前。前を見ている。ずっと前を見ていた。光は前に差している。観客の目に映る光が、こちらに照り返る。刹那の時間、そのやり取りが永遠にくり返される。廊下は依然黄金に輝き、何もかもが白と金の間の輪郭を保っていた。
「明日の公演のこと、考えてるんです?」
「うん? いや、……そうだな」
「絶対嘘でしょ」
 ガーネットは足を止めた。同時にオリーブの足も止まる。そうしてガーネットはそこから数歩前に出て、背後を振り返る。彼に続こうとしたオリーブに彼は人差し指を突き付けて、その場に留めた。
「オリーブ」
「はい」
「踊るのは好きか?」
「えっ?」
 オリーブは瞬き、ガーネットは瞬かなかった。彼はオリーブに向かって一歩近付き、その紅い目で相手の瞳をじっと見据える。
「歌うのは、苦痛か」
 淡々とした問いかけだ。言葉としての答えを、最早ガーネットは求めてもいないようで、オリーブが何かを言うよりも早く、次の問いをその喉から発していく。
「ダンスと歌、どちらかしか選べないとしたら、お前はどっちを選ぶ?」
 その問いに、相手がどう返すのかなんてガーネットには分かりきっていた。たぶん、この言葉に意味などないのだ。自分は今、何故だろう、ただ後ろを向きたかった。あの入学試験で、筆記以外はこの世の終わりにも似た成績を叩き出していた少年。彼のあの悲痛な目。何にも縋れず、くり返される足の運びに身体を追い付かせるしかできない彼の表情。そんな彼が身体の動きで訴えかけてきたのは、踊ることの楽しさでも喜びでもなく、剥奪されている、という悲嘆と苦悩だけだった。あの場では、空間は無価値だった。台詞も無意味だった。そんな彼は今、この自分の目の前で、一体どんな姿をしている?
「それは……ダンス、だと思います。俺は、クーデールの生徒だから。先生だってよくそう言ってるでしょう」
「俺はお前に訊いてるんだよ、オリーブ。クーデールの生徒だからという理由で、ダンス以外のすべてを奪われてもいいのか」
「誰に?」
「俺に」
 ぽつりと、しかし確かに発されたガーネットの言葉に、オリーブは眉根も寄せず、一歩も引かないまま、どこかきょとんとした表情をした。
「……先生は、そんなことしないですよ」
 ガーネットは瞬く。どうしてか、今やっと目が覚めたような気さえして、彼は少しだけ睫毛を伏せた。オリーブは姿勢良くその場に立ち、いつにも増して挙動のおかしい担任教師に向かって首を傾げている。その輪郭は金色で、背後に伸びる影は重く、長く、そして黒い。光は前。影は後ろ。
 影は、後ろ。
 そうだ。
 眩しい光の前に、激しい影の前に、空間は無価値だ。台詞は無意味だ。紙は無駄だ! もう踊るしかない。踊るだけではだめだ。それでも、踊るしかない。踊るしかない! 鳴かず、飛ばず、ただ踊るしか! 稽古場に残された爪痕。あれより鋭く、深く、重く、痛い爪痕を。出る杭だ。美しく輝き、ひび割れ、尖った、出る杭。決して砕けない、悪の芽。ガーネットは鞄の中に片手を突っ込むと、その中に仕舞われていた脚本の草案をどれもこれもびりびりに破いてその場に撒いた。彼は声を上げて笑い、はらはらと舞い散る紙片の中でオリーブの方を見る。
「らしくないことを言うんじゃなかった」
「え、ええ?」
「ぶち壊したくないか、オリーブ? ムカつくもんとかさあ、偉そうなやつらとかを、一回、全部、粉々に」
 そうして彼は、どこぞの魔王のような表情でにっこりと笑んでみせた。オリーブは困惑した表情でガーネットと床に散らばる大量の紙片を交互に見やり、その場から動かない。ガーネットはヒールを鳴らす。それからカツカツと数歩進んで、黄金の光を差し出す窓の方を見た。
「今、もう一度。踊るしかないところまで落ちてみたら、俺たち、どこに行けるだろうな」
 天国か、はたまた地獄か? 或いは、それとも。
 ガーネットは振り返り、立ち尽くすオリーブのことを彼にしてはたっぷりと十秒も待った。十秒待った後は、少しだけ餌をちらつかせる気でさえいた。けれどもそれも杞憂に終わり、オリーブは心配そうに足元の紙切れたちを一瞥した後、小走りでガーネットの方までやってくる。彼は口の中だけで笑い、自身の紅い瞳を楽しげに細めた。
「──エスアイアム。俺は貴様に、救済以外のすべてをくれてやろう=v
 そう言って彼がまずオリーブに手渡したのは、明日の公演チケットである。
 無論、それは、関係者用の特別席だ。


20210411 執筆

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