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こたえを見つける



 ルニ・トワゾ歌劇学園を受験する誰しもが、この扉を叩くときには指先が凍るような思いをする。それがたとえ、雪の降らないよく晴れた冬の日であったとしても。
 シン、と静まり返った回廊には、自分自身の靴の音がよく響いた。ホワイト・ファーストフロストはどきどきと緊張の音に脈打つ己の鼓動を聞きながら、ルニ・トワゾ入学試験の最終科目である面接≠受けるべく、面接会場とされている学園内のとある一室へと向かって歩を進めていた。
 ホワイトは息を吐く。筆記試験、声楽の試験、ダンスの試験、演技の試験と、先の四科目を受け終えてから、すでに一週間ほどの時が経っていた。ホワイト含む受験生たちの大抵は、四科目を見られたのち、入学に値する者のみが最終面接に進めるのだと思っていたものだったが、しかし、蓋を開けてみれば彼らの予想とは反して、この学園では受験生全員が最終面接に進むのだった。
 例年から察するに、ルニ・トワゾに入学できるのは、多くて六十人程度である。けれども、受験生の数自体は三百を優に超している。つまり、入学試験で最終面接を担当する者──ルニ・トワゾ歌劇学園の学園長たるレッドアップル・レグホーンは、たった一人でその三百を超える学生たちの面接を行うのだ。この仕組みが作られたのは、聞くところによるとレッドアップルが学園長に就任してからのものであるようで、以前まではやはり先の四科目の結果によって最終試験に進む者が絞られていたらしい。学園側が簡単な面接≠ニ主張する最終面接は、同時にはっきりとした狂気の沙汰≠主張しており、受験生たちは皆それぞれ一体どのような質問が投げ飛ばされてくるのだろうと身構えていたが、先に面接を終えた者たちは不思議とその内容を語ろうとはしなかった。ゆえに、学園長室の優美な扉を叩くとき、誰もが心臓から指先まで凍るような思いをするのだ。
「──どうぞ」
 ホワイトが扉をノックすると、その向こうから扉をすり抜ける柔らかい声が聞こえてきて、彼はそれだけで微かにほっと安堵した。ホワイトは真面目な彼らしく、面接対策教本に書かれていた通りになるべく音を立てないように学園長室の扉を開いて、またそっと扉を閉める。そして、気付かれない程度にふうっと緊張の息を吐いた。
 広々とした学園長室には、上質なマホガニーの執務机と黒い革張りの肘掛け椅子が大きな窓を背に置かれ、窓と窓の間には幾つかの風景画や静物画、動物画が掛けられている。壁際には天井まである棚が無数の本を抱えてずらりと並んでおり、その中には時折見たこともない動物めいた陶器の置物や、植物の小さな鉢植えなども混ざっていた。美しい装飾のチェンバロは学園長室の入り口近く──執務机よりもずっと近い──に設置され、ピアノ椅子の劣化を見るに学園長はよくここに座っているのだろうということが分かる。窓際の最も暖かい場所には明らかに人が眠った形跡のある二人掛けのソファが、その近くにはイーゼルと布の掛けられたキャンバスが、凝った彫刻のマントルピースには火が、暖炉の前の絨毯にはもさもさとしたグレイの毛並みの大型犬が一匹、ぬくぬくと寝そべっていた。
「ニューファンドランドです。気になりますか?」執務机の前に設えられている、ゆったりとした肘掛け椅子に腰掛けながらレッドアップルは微笑んだ。「今年は動物アレルギーや心底動物嫌いの受験生がいないようだったので、寒がりな子たちはそのままにしているんです」
 ピーター・パンのナナですよ、とにっこりしたレッドアップルに、ホワイトは突然この場所が面接会場であることを思い出して、背筋をしゃんとさせた。けれども、堪えきれずに再度ホワイトは辺りをきょろりとする。よく見てみると、相手の言う通りマントルピースの上には黒と白のぶちをした猫が尻尾をゆらゆらと垂らしていたし、レッドアップルの肩越しには白い鳥が止まり木に留まって、来客に挨拶をするために──カア、と鳴いたので、ホワイトはびっくりして瞬きをした。
「……カラス?」
「ええ、白いカラスです。驚きでしょう?」
 くすりとしながら、レッドアップルは目を落としていた書類から視線を上げてホワイトの方を見た。白っぽい彼の金髪が揺れて、左右で色が淡く異なる瞳が少年を捉え、ホワイトはその瞬間、自分の周りにある様々なものの輪郭が曖昧になり、焦点がはっきりとレッドアップルにだけ注がれるのを自覚した。劇団ロワゾの白いレイヴン、レッドアップル・レグホーン。レイヴンという役割の大胆さや豪傑さよりもそこに在る人間の繊細さや感情の移ろいを重んじて演じていた彼は、レグホーン家の中で他に見ない現役時代の短さからしても、異色のレイヴンとしてロワゾ・フォロワーの間で語られている役者である。そんな彼がすぐ目の前、手を伸ばせば届く距離にいることを再認識したホワイトは、先ほどとは別の緊張で背中に汗が滲むのを感じた。
「あなたもお名前に白がありますね、ミスター・ファーストフロスト?」まるでホワイトの胸中を読んだみたいにレッドアップルの瞳がちかりとする。「さあ、どうぞ掛けてください」
 ホワイトは言われるままにレッドアップルの向かいにある一人掛けに腰掛け、学園長が先ほどまで読んでいた紙面へと視線を走らせる。どうも、筆記試験の解答用紙らしかった。
「さて──何かを始めるのにも、まずは挨拶がたいせつですね」
 レッドアップルは深めに掛けていた椅子に座り直し、背筋をきちんと伸ばしてはホワイトの方を見て両手を腹の上で組み合わせる。
「こんにちは、ミスター・ファーストフロスト。私はここ、ルニ・トワゾ歌劇学園の学園長を務めております、レッドアップル・レグホーンと申します」そして、人差し指をひらりとさせて悪戯っぽく笑んだ。「気軽にレアと呼んでくださいね」
「はい、学園長」ホワイトは至極真面目な表情でこくりと頷いた。「今日はよろしくお願いします。俺──私のことも、気軽にホワイト、と」
 その回答に、まるで剥製のごとく静かだった白いカラスがつと鳴き声を上げ、レッドアップルの方へと頭を向けていた。レッドアップルはあまりつれないホワイトの答えが気に入ったようで、カラスの頭を指先で撫でながらくすくすと忍び笑いをしている。ホワイトは何が何だか分からずに首を傾げるばかりだったが、自分の無表情や物言いは人に不快感を与えることが多々あることを自覚していたので、どうにかこうにか愛想笑いを浮かべようと奮闘した。
 そんなホワイトに、レッドアップルが柔くかぶりを振った。「いえ、いえ、結構です。自然体でいてください」
 面白げに笑うレッドアップルの言葉に甘えて、ホワイトは常からそうであるようにきゅ、と生真面目そうに唇を引き結んだ。それと同じほどに几帳面な文字で答えの書かれた解答用紙をレッドアップルはするりと指先で撫でながら、ふと思い出したみたいにホワイトの金糸雀色をした瞳を見やる。
「そういえば、ここに来る前に何か言われたことはありますか?」
「言われたこと?」
「ええ。何か」
「ああ、ええと……」レッドアップルのその問いに、ホワイトは思い当たることがあった。「どれだけ時間をかけても構いませんと、マドンナ・マジェンダ先生が仰っていました」
 特に迷うこともなく、マドンナに言われたことをマドンナが発した語気を真似てきりりとそのまま口にすれば、言いそうですね、とレッドアップルが目を細める。わざわざ顎を持ち上げ、指まで振り回してマドンナを表現したホワイトの言い方に、きっとレッドアップルも指揮棒めいたものを振り回しながらきっぱりと言いきるマドンナの姿が想像できたのだろう。彼は上がっている口角の端っこを押さえて、赤みがかっている方の黒目をホワイトに向ける。「他には?」
「あとは、そうですね。……学園長を待たせることなど気にしなくてよろしい、とも」
「おや! きみは正直者ですね」ふふふ、とレッドアップルは笑いを洩らした。そして、見えない指揮棒でマドンナのように自分の手のひらをぱしりと叩く。「もちろん、その通りですよ。ここは舞台袖ではありませんからね。焦らず慌てず、ゆっくりと、そして正直に」
 正直に。その言葉がホワイトの中でこだますると共に、暖炉の燃えさしがぱち、と爆ぜる。ニューファンドランドは落ち着いた色合いの絨毯の上であくびをしていたが、ホワイトはといえば自分の肺が突然緊張を思い出した心地がして、詰まりかけた息を慌てて吸った。
「では……」レッドアップルはちらりとテーブルに置かれたままの解答用紙を見やって、そこに記載されているいくつかの問いの上に指先を滑らせる。それから長い睫毛をすうと上げて、微笑みながらホワイトを見た。「スワン・スーダンが没した日は?」
 その問いかけに、ホワイトはどきりとした。それは筆記試験に出てきた問題と一字一句違わない、全く同じ問いだった。どうして同じ問題を? 筆記試験では歴史書通りの正しい解答をしたはずだ。同じ問いをして、一体なんの意味がある? 記憶力のテスト? 頭の回転速度を見ている? それとも気の緩みを? 分からない。分からないが、答えないことには始まらない。
「一八七三年──」急激にからからに渇いてしまった舌をなんとか動かして、ホワイトは解答用紙に書いた自分の答えを再びなぞった。「十二月の三十一日です」
 整然としたホワイトの解答に、レッドアップルは眉一つ動かさず、頷きもなくうっすらと笑んでいた。彼の表情からは可も不可も読み取れない。ホワイトはそんな相手を前にして、自分の発した答えに対して言いようもない不安感を覚えずにはいられなかったが、何故とも、何がともレッドアップルに問うことはできなかった。
「ホワイト」
 名前を呼ばれて、ホワイトは正していた姿勢を更に正した。雪の日の枝葉よりもかちこちになっている目の前の学生にレッドアップルは少しだけ目を細めたが、けれどもその睫毛から覗く瞳ははっきりとホワイトの方をまなざして、彼のことを推し量るようにじっと見つめている。やがて二人の目が合い、そのためにホワイトの呼吸は潜まり、レッドアップルは息を吸った。
「──きみは、役者の家の出でもなければ、芸術に関する人物を輩出したことのない家の出ですね」レッドアップルは穏やかな口調で、しかしはっきりとそう言い放った。「なのに。どうして、きみはルニ・トワゾ歌劇学園に入学したいのですか?」
 なんて質問だろう、とホワイトは思った。今しがた交わしていた他愛もない会話の続きのようなレッドアップルの声色は、最早愛想がないふうにさえも聞こえる。ただ事実を述べられただけだ、ただ理由を訊かれているだけだ、そう理解していつつも、ホワイトは内心むっとしながらレッドアップルの方を見た。きっと顔には出ていないだろうが。
 ホワイトに視線を向けられて、レッドアップルはやはり微笑んでいた。うっすらと、柔らかく。ホワイトのまなざしの奥底にある苛立ちめいた色さえも見透かしたように、彼はその視線を受け止めてはじ、と相手の答えを待っていた。
「私は、」思わず、考えるよりも先にホワイトの口が答えを紡ごうと動いた。
 答え。解答。この場合の正しい答えは? そこまで考えて、そういえばこの質問も筆記試験の中にあった問いと同じことにホワイトは気が付いた。そう、志望動機を問われた問題だ。それなら分かる。覚えている。何度も何度も、受験前に考えた言葉がある。「自分の、最も得意とする歌唱を通して、歌劇の世界の発展に貢献──」
 したいと考えております。レッドアップルと目が合った。きっと、先ほどよりも深く。レッドアップルが最初の質問の前に言った言葉が、突然ホワイトの耳の中で響いた。正直に=Bホワイトの喉が、言葉を発するのを拒否した。言うべきことは、自分の中に確かにあるというのに。こんなにも。ルニ・トワゾ歌劇学園ないし劇団ロワゾの独特で、いつ観ても新しい発見のある舞台を世界中の、もっとたくさんの人に知ってもらいたいです。そんな舞台を支える力になるためにも、ルニ・トワゾ歌劇学園という考え得る中で最も素晴らしい環境の中で、歌劇について学びたいです……
「私、」ホワイトは真っ直ぐレッドアップルに見据えられ、はく、と言葉を呑んだ。
 ホワイトの心の中に、再びレッドアップルの言葉が浮かぶ。正直に=Bそれから、マドンナ・マジェンダのぴしりという指揮棒めいたものの音も。どれだけ時間をかけても構いません=A学園長を待たせることなど気にしなくてよろしい=B美しく、それでいて整然とした形で整えられた言葉たちが喉元ではらはらと崩れ落ち、肺の中で燃え殻となったそれはホワイトの呼吸を苦しくさせた。けれど。
「……俺は」
 けれども、その灰の底には、一つだけ、ひとかたまりの何かがあった。ホワイトはそこに手を迷いなく伸ばして、灰の中からそれを取り上げる。手が焼けるように熱いその何かは、たとえば熱、たとえば火と呼ばれるものだった。何もかもが燃えて崩れ落ちても、決して消えないもの。消えなかったもの。たとえば熱、たとえば火、たとえば生きる意味、たとえば、命。ホワイトは息を吸った。「俺は」
「──俺は、歌いたい」
 それは、呼吸みたいな言葉だった。
「何故?」相手の返答に、レッドアップルは傾げずに笑んだ。
「場所」ホワイトは今、どのような迷いも持たずに、ひとかたまりの簡素な理由だけを手にレッドアップルの方を見ていた。「居場所が、欲しい」
 レッドアップルはそこでやっと頷いた。「続けて」
 二人の背後で、ぱち、と暖炉の火が爆ぜる音がしていた。ホワイトはなんだか、延々と続く灰の海を裸足で歩いているような気持ちになった。気を抜けば足が取られそうな灰の道に、空は青かったがどこか茫漠として果てしがなかった。振り返ると、何があるだろう? ホワイトは背後を見た。何もない。何もなくなってしまった。何も。彼は足元の灰を掬うと、それが風もないのに指の間からさらさらと落ちていくさまを眺める。ただ、灰が手の中を滑る感覚だけが確かだった。手を握り込む。熱い。ホワイトは前を向いて、再び歩き出した。熱。日が差す、熱だけのある道。自分はどこへ向かっているのだろう? それはどのような熱にも燃えない場所。ホワイトはかぶりを振った。違う。向かっているのは、いつか、どれほどの火が広がり、どんな熱に燃えようとも──
「絶対になくならない、自分の居場所が欲しい」
 呟くように、しかし確かにホワイトは言いきった。学園はもとい演劇界の未来なんて全く眼中にない、自分のためだけの言葉を。けれど不思議と、ホワイトは失言をした、という気分にはならなかった。眼前のレッドアップルが期待を込めたまなざしを自分の方に向けていたからかもしれない。
 その瞳ばかりがホワイトを捉えたまま、口元が弧を描く。「歌劇の世界は絶対になくならない。そう思いますか?」
「はい。思います」相手の問いに、ホワイトは間髪入れずにすぐ答えた。
「どうして?」
「だって、物語は死なない」ホワイトは膝に乗せている両手をぐっと握り締めた。「死にません。語る人とそれを聞く人がいる限り」
 その返答を聞いて、レッドアップルは頷きめいた瞬きをゆっくりとした。そうして隣の白いカラスの額を指先で緩く撫でて、彼は部屋の入り口近くにあるチェンバロの黒に浮かんだ白い鍵盤を不意に見やる。それから、執務机の背後の大きな窓を。
「ホワイト」寒さで少し白んだ窓から視線を戻して、レッドアップルの目が再びホワイトの方を見つめた。「どうして、居場所が欲しいのですか?」
 問われながら、ホワイトは何故だか、足元の見えない灰が風に舞い上がるさまを目に映していた。そして同時に、レッドアップルは今、学園長室の窓を開け放ちたいのではないか、と感じてもいた。きっと、この部屋は自由な情熱を語るには暖かすぎるものだから。
「俺は、忘れられたくない」手の中に緊張とは別の汗を滲ませて、ホワイトは言った。「だからです」
 どちらとも分からない呼吸音がすう、と響き、ホワイトは顔をぱちぱちと鳴る暖炉の方へと向けてはほんの少しだけ自身の睫毛を伏せる。ニューファンドランドがふと顔を上げて、きらきらとした濃い褐色の瞳が人懐こそうにこちらを見た。マントルピースの猫の尻尾は未だ気ままに揺れ動いている。ホワイトはどうしてだろう、そうしろと言われたわけでもないのに肘掛け椅子から立ち上がり、その暖炉の前に立った。寒くはなかった。「俺の両親は、数年前に火災事故で他界しました」
「俺は──自分でも、薄情な息子だと思います──正直もう、両親の顔や声もろくに憶えていません。写真や古いビデオ、そういう遺品もほとんど燃えて残らなかったので、思い出せる手段はスマートフォンに残った写真、一枚だけ」ホワイトは暖炉の火を見下ろして、愛嬌たっぷりに自分のことを見つめてくるニューファンドランドに向かってにっこりと──そうは見えなかったかもしれないが──微笑みかけた。「しかも手ぶれしてるんです。俺、機械が下手で」
 暖炉の中に積まれた薪の上で、炎が赤と橙色に揺らめきながら踊っている。ホワイトはそれを眺めながら、そういえば、暖炉は火のための劇場である、という話をどこかで聞いたことがあったな、と思った。小気味好い音を立てながら美しい色合いで燃える炎は、確かに美しい。ホワイトは睫毛を伏せた。
 時を重ねるごとに両親の顔が揺らいでいくだけでなく、あれほどおそろしかった火のことが今はもう美しいと思えてしまえるほど、自分は回復し、数年前のあの日のことを克服した。忘却は一種の防衛本能でもある、と医者には言われたが、それでも──それでも、これが自分の立場だったらどうだろう? 他人だけでなく、唯一無二の家族にまで存在の形を忘れられたとしたら? 忘れられていくとしたら? 俺は嫌だ。悲しいと思う。寂しいと思う。わがままな願いと分かっていても、自分がいたことを、どんな姿でどんなふうに話し、どう生きたのかを憶えていてほしいと思う。
 自分の中に、両親のことで一つ、揺るぎのない記憶が在るのと同じように。
「それでも」ホワイトは顔を上げ、レッドアップルを見た。「二人がよく一緒に歌っていた歌のことは憶えているんです」
 言って、ホワイトは自身の喉元に片手をやり、すうっと息を吸ってはそこから歌を紡ぎ出した。
 

  かがり火が消えても 星のはざま
  いつか 残した火の粉が舞いあがり



 楽団は背後の暖炉だけだったが、最初の一音目を発する頃にはもうホワイトはここがどこなのかを忘れ、夢中で歌の中にある物語と、それを愛した両親の姿を追いかけた。少女とも少年とも取れるホワイトの歌声が部屋の中いっぱいに響き渡り、暖かな空気をどこか雪が降るみたいに細く震わせた。
 レッドアップルはそんな相手を眺めたのち、彼もまた椅子から立ち上がってはチェンバロの前に腰掛ける。そうして両の指先を鍵盤の上に乗せると、いまホワイトが紡いでいる歌の伴奏をそっと奏ではじめた。星明かりがやさしく光るさまを表すように同じ二音が伴奏の中で何度もくり返されるこの歌は、ホワイトの両親が愛したこの歌は、その名前を『ホワイト・ライト』といった。それは長い劇団ロワゾ史の中でも初期のものとして数えられるとても古い歌で、作曲者もどの公演で使われたのかも不明だがレイヴン・レグホーンとスワン・スーダンも舞台上で歌ったことがあるとされ、現代では様々な人間にカヴァーされている楽曲である。
 レッドアップルはホワイトがスワンの音域を歌っていることに気が付くと、じつにやさしいテノールで自身もレイヴンの箇所を歌い重ねた。それはまるで、カラスのものとは思えないほどに大きくて柔らかな翼が広がり、歌となって部屋ごとホワイトを包み込むかのようだった。
「ホワイト」
 そして、レッドアップルにそう名を呼ばれる頃には、ホワイトは両目の瞳から静かに涙を流していた。
「──はい」
「きみは、人に忘れられたくない。憶えていてほしい。そうですね?」
「はい、そうです」歌い終えたあと特有の揺らぎとはまた別の色で、ホワイトの声は震えていた。
「では。忘れられることなく憶えていてもらうために、きみは何をしますか?」
「それは……」ホワイトはやっと自分が泣いていることに気が付いて、慌てて涙を拭いながらかぶりを振った。「それはまだ、分かりません」
 本心だった。分からない。ホワイトは心臓の少し下、胃の少し上の辺りを、歌のやってくる場所を両手でぐっと触れた。分からない。それでも。
「……でも、そのために、俺の歌は在るような気がします。だから、物語の力を借りたい。物語が必要だと、そう思います」
 歌を歌えば、歌を物語れば、心が弾んで身体もずっと軽くなる。そう断言できるほど、自分の心は、想いは歌の中に在る。『ホワイト・ライト』を聴けば、それを歌っていた両親の姿がありありと浮かぶように、想いの込められた歌は誰かの心にずっと残る。遺り続ける。美しく、色鮮やかなままに。それにきっと、歌は自分の感情だけでなく、聴く相手の感情も写し取るのだ。目の前のレッドアップルが、今まででいっとう優しい顔で笑んでいるように。
「もう一度、お尋ねしてもよろしいですか?」つと、レッドアップルが緩く首を傾げた。
「え? はい、もちろん……」
「それじゃあ」囁くみたいに彼は問う。「スワン・スーダンが没した日は?」
 その問いかけに、ホワイトの視線が自然と窓の方を向いた。白んだ硝子の向こうに、青く澄んだ冬の空とすべてを曝け出すための風がある。背後では変わらず火が爆ぜ、その赤と橙はホワイトの黒髪を瞳と似た金糸雀の色に照らしていた。ホワイトは瞼を閉じる。
「それは」そして、瞳より先に口が開いた。「から風の吹く、寒い日でした」
 ホワイトの瞼が開き、睫毛の下の金糸雀色がレッドアップルを見るともなく見つめた。「けれど、よく晴れて、空の色が水のように澄んだ日でもありました」
 暖かさを保つために厚手のカーテンが閉められた部屋は照明だけが柔らかく二人を照らし、それはどこか劇場の姿にも似ていた。カーテンを開いてまばゆい明かりを取り入れ、窓を開いて冷気と共に大声で歌えばいいのに、とホワイトは思った。ああ、なんて暗い顔! 君の暗い顔ときたら! 君がそんな顔をするくらいなら、こんな暖かさなどあってもなくても同じことだというのに。いつもみたいに、くるおしい悪戯っ子の光が瞳に差さない両目のなんてつまらないことだろう? この世界で一番たいせつなことは、いつだって君の瞳の中に在るというのに。
「スワン・スーダンは白いカーテン越しに光の差す寝室で、病によって細くなった指先を寝台のすぐそばに腰掛けているレイヴン・レグホーンに伸ばし、ふ、と息を吐きます。聡明な彼は、きっと自分の死期などはとうに悟っていたのでしょう。スワンは寝不足で隈のできたレイヴンの目元を撫でて、やさしく微笑んで言いました」ホワイトは細く息を吐いた。「楽しかったよ、バーディ相棒の鳥さん=A楽しかった。だから、君も楽しんで=c…」
 それから、彼の中のスワン・スーダンがそうしたようにホワイトはゆっくりと睫毛を伏せてその瞳を再び閉じた。唇にうっすらと弧を描いたホワイトのそれは、彼のスワンが見せた最期の笑みだった。ホワイトは心臓の辺りに片手を置くと、そこをぎゅっと握り締めてもう片方の手のひらを大きな窓へと伸ばしてみせた。
「それは、愛おしい日でした。たったいま死ぬとしても、これから先もずっと、きっと忘れることができないような」
 そのために、幕引きに必要なものがあった。ホワイトは息を吸う。もちろん、歌うための息だった。 


  かがり火が消えても 夜のしじま
  いつか 灯した明かりがどこまでも


 
 今度は、終わりまでレッドアップルはチェンバロを弾くことはなかった。彼はじっとホワイトのことを見つめ、その声や歌を聴くために耳を澄ませて座っていた。まるで、劇場の観客みたいに彼はピアノ椅子の上から動かなかった。
 レッドアップルはホワイトの答え≠聴くと、『ホワイト・ライト』の二音だけをそっと鳴らして、片手の人差し指を顔の横に掲げた。「ホワイト。最後に一つだけ」
「はい」ホワイトは頷く。
「きみの好きなものはなんですか?」彼は立ち上がり、ホワイトの元まで歩きながら問いを投げかける。「趣味、娯楽、動物……なんでもいいんですよ。個人的な質問なので──まあ、今までの質問もすべて個人的な質問ではあるのですが」
「そ……そう、なんですか?」
「もちろん。そうでなかったらなんだと思ったのです?」
 少したじろいだ様子のホワイトを見て、レッドアップルはくすりとした。そんな相手に真面目この上ない少年は、言われてみれば確かにそうだ、思えばずっと不思議な質問ばかりだった、と頭の片隅で納得をしかける。そんな雰囲気が身体から滲み出ていたのだろう、それを見てレッドアップルは更に笑みを深めた。
「ああでも、好きなものなら簡単です」ホワイトは考え込んでいた顔を上げて、レッドアップルのことを正面から見つめた。もう、声の出にくい場所はどこにもなかった。「歌」
「俺は、歌が好きです。歌うのが好きだ。ずっと、いつまでも歌っていたいくらい……」
「素敵だ」ホワイトの返答に、レッドアップルはにっこりとした。「ぜひ、その気持ちを忘れないでいてくださいね」
 レッドアップルの笑顔を見て、ホワイトもつられて微かに淡く笑った。身体の中の歌がやってくるところを片手で触れると、まだまだ出ていきたい歌がそこで渦巻いていることが分かる。ホワイトが息を吸い、今にも歌い出そうとすれば、
「ありがとう、ホワイト。私からの質問は以上となります」
 しかし目の前でぱちん、と優しく両手が打ち鳴らされて、彼はぴたりとその動きを止めた。
「えっ? もう終わりでいいんですか?」
「ええ、もうおしまいで大丈夫! きみのおかげで、じつに良い時間を過ごすことができました」満足げな表情で頷くレッドアップルが、微笑みながらホワイトの顔を覗き込んだ。「ちなみに、何かきみからの質問はありますか?」
 問われて、ホワイトは眼前に迫った色違いの黒目をじっと見つめた。「それなら、一つ。気になることがあって」
「はい。なんでもどうぞ」
 演劇人を志す者として大先輩に当たるレッドアップル・レグホーンに尋ねるべきことは無数にあるだろうが、けれどたった今、真っ先にホワイトが訊きたい、と心に浮かび上がったものはそれとはまるで別のところにあるものだった。
「……三百人も面接するの、大変じゃあありませんか?」
 至極大真面目な顔つきで、ホワイトはそう問うた。
 そんな彼の問いかけにレッドアップルはこみ上げる笑いを禁じ得なかったのだろう。あはは、と笑い声を上げては、口元を片手で抑えながらくるりと踵を返し、
「──いいえ」
 そう短く発しながら、肩越しにホワイトを振り返って悪戯っぽくウインクをしてみせたのだった。
「何しろ、簡単な面接ですからね」
 ルニ・トワゾ歌劇学園の学園長室。ルニ・トワゾ歌劇学園を受験する誰しもが、この扉を叩くときには指先が凍るような思いをする。それがたとえ、雪の降らないよく晴れた冬の日であったとしても。
 しかし、この扉を出ていくときはどうだろうか?
 少なくとも、ホワイト・ファーストフロストはもう、指先の冷たさを感じることはなかった。何しろ、全身が熱かったのだ。指が震えるとするならば、それはこの熱さのためだった。扉は最早、彼にとって劇場の開かれた緞帳に他ならず、ホワイトは青空の下、灰の道を抜けた先に、真っ白に輝くスポットライトが見えた気がした。
 だから、彼は歌った。学園の長い廊下を駆け抜けながら、何度も、何度も、涙や笑みの熱と共にこみ上げる歌を、何度も。
 ホワイト・ライト! ああ、明日を歌って生きる! 


20210926 執筆

- ナノ -