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Mr.Tinker Bell



 なんて日だ。
 それは霧めいた小雨が木の梢を濡らし、風の音とはまた違う、湿った葉擦れが辺りにそっと響くような明け方だった。まるで、大気中にさらさらと小川が流れているみたいな朝だった。
 彼らの戦いはいつもエクラン市街のフェアリー・フィルズの路地裏や高架下等々でひっそりと行われ、大抵はエクラン劇場──フェアリー・フィルズを抜けた先の突き当りに、エクラン劇場は輝きながらどっしりとそびえていた──の幕間よりも短い時間で片が付く。
 戦いの後に残されているのは数人、十数人、数十人の気絶した少年たちで作り上げられた山であり、そんな景色を眼前に見下ろすのは常に一人の少年だった。ふんわりとウェーブしたブロンドヘアに、三つボタンのスーツとえらく細身のトラウザーズの上からミリタリーコートを引っ掛け、長い睫毛をアメジストの瞳の上で気怠げに伏せた一人の少年。彼は憐れな山の頂をぼんやり眺めた後、はあ、と短い溜め息を吐いては相手を殴ったことで微かに切れた片手を軽く払って、すぐそばにある廃棄用のコンテナの上へと腰掛けた。
 そんな少年のことを平たく言い表すなら、強い=Aその一言に限る。彼は強かった。身体的な強さにおいても、精神的な強さにおいても、そして、外見的な美しさにおいても、とかく彼は強かった。
 彼はほとんど物心ついたときから人がどこをどう殴られると心底痛いのかを知っていたし、どこをどれほど殴られると死に至るのかというのもおぼろげながら理解していた上、相手の攻撃の威力を削ぐための自身の動き方、すなわち己の身の守り方というものも一緒に把握していた。どのような声を出して威嚇すれば、戦う前から相手が足先から冷えるように怯え出すのかも。
 彼は強かった。だからこそ、無意味な暴力を、喧嘩とも呼びがたい喧嘩を心から嫌っていた。それは彼の正義感やプライドとはまた違うものだった。十五の少年の心は幼かった。彼は、頭に血の昇りやすい父親や逆上しがちな年上のずんぐりむっくりから力任せな暴力を振るわれるたび──当然、彼はそのつくづく避けやすいパンチをひらりと躱して、相手が一撃で沈むパンチを打ち込んではいたが──ただ、こう感じていたのだ。
 何が面白いのか分からない、と。
 ゆえに、彼はいつも一人だった。やはり、物心ついた頃から、彼は一人だった。彼は強く、美しく、常に孤独の中にいた。
 そして、そんな彼に、フェアリー・フィルズの学生たちは惹かれた。まるで少女とも見紛うほどの美貌を持った少年が、しかし何者にも怯まず、恐れも知らず、更には決して負けることもなく、どこか冷えた表情で道を悠々と歩む姿に、少年少女はもちろん、青年から中には婦女子までその心を奪われることだって珍しくはなかった。彼が歩けば、彼を知る者は身を引いて道を作り、彼を知らない者は足を止めてぼうっと少年の美しさに見惚れるものだった。無論、それらはすべて、彼を遠巻きにして行われるものだった。
 当然ながら、彼は憧れの的となるのと同時に、周囲から恐れられてもいた。近付けば機嫌を損ねるのではないか? 機嫌を損ねれば殴られるのではないか? そのような印象の決め付けによって、好意を寄せはすれど、彼へ直接自らの想いを伝えに来るような勇気ある者は、このフェアリー・フィルズには一人たりとも存在しなかった。彼は自分より強い相手にしか興味がない、というどこで聞きかじったのかも分からない噂話に乗せられて、喧嘩を吹っかけてくる軽薄な者たちを除いては。
 彼の澄ました態度が気に食わない人間、面白半分で暴力を浴びせようとしてくる人間、彼への羨望や恋心やその他の欲望を幼稚な肉体言語で解決しようとしてくる人間、相手にしなかったことで逆上し襲い掛かってくる人間、そういった多少腕に自信がある者たちに、気持ちよく気絶できる一撃を叩き込んで黙らせる。それが、彼の毎日であった。変わり映えのしない、平坦な日常。
 彼の暴力気質がある父親が数か月前に急性アルコール中毒で他界してからも、彼の毎日にはほとんど変化がなかった。変わったのは、せいぜい、日々襲い来る暴力の数が一つ減ったことと、彼の片腕にいつも父親の形見のポータブルレコードプレーヤーが抱えられるようになったこと、それから父親がプレーヤーと共に残したレコードのジャズ・ミュージックに影響を受けて、彼がモッズのファッションを好んで着るようになったこと──彼はなんでも形から入るたちだった──数えればその程度である。無理やりに付け足すとするならば、彼は自身が腰掛けているコンテナの側面に、愛を皮肉るスプレーアートが描かれていることを知った。たった今。
 コンテナの上に座る彼は、ポータブルレコードプレーヤーにスイッチを入れ、膝の上に乗せた。そうしてプレーヤーの針を回るレコードの上に置こうとしたところで、
「誰?」
 と呟き、しかしその視線は動かさないまま、路地裏の入り口へと注意を向けた。
「レディバグ」
 そして、それと同時に、よく響く声が彼の意識の終着点で鳴った。レディバグ、と呟いたその声は決して張っているわけでもないのに、けれど鼓膜をゆっくりと確かに揺り動かすような声をしていた。
「……君が、フェアリー・フィルズのマドンナ?」
 声の主は、突然声をかけられたことに驚く様子もなく、至極落ち着いた声色でそう問うた。
「テントウムシちゃんがこんなとこに一体なんのご用事で?」
 なんだか不躾な質問に、少年はいかにも迷惑そうに眉根を寄せた後、レコードプレーヤーのスイッチを切った。浅い溜め息を吐くように、しゅるしゅると回っていたレコードの回転が止まる。
「アブラムシならこの通りだ」
 そうして彼は、伸びた少年たちでできた小山を指してにべもなく発した。それから自身の伏せていた睫毛を上げ、ようやく視線を路地裏の入り口へと向ける。
「ううん」
 少年の言葉に、声の主──レディバグはそっと微笑んで小さくかぶりを振った。
「どちらかというと、女神の鳥って呼んでほしいけどな」
 少年のきんとした菫色の瞳が、初めて相手を捉えてはっとする。レディバグは奇しくも彼、フェアリー・フィルズのマドンナ≠ニ同じ年頃の少年であったのだ。
 そして、薄暗い路地に立っていてもそうだと分かるほど、レディバグはフェアリー・フィルズのマドンナに負けず劣らず、見目麗しい少年だった。
 美しいホワイトブロンドの髪が、そっと路地に入り込む風に微かに揺れている。陶器のように滑らかな肌の上には、左右で少しばかり色が違って見える黒目が宝石のごとく填め込まれており、特に左目は薄暗がりの中でおぼろに青く光っていた。高い位置にある腰からすらりと伸びる脚が、一切の恐れも感じさせずにそこで姿勢良く立っている。身なりはモッズともロッカーズとも異なる、独特のスーツ──襟元や袖口にやたらフリルが多い──姿をしていて、それはどこか貴族めいた出で立ちをしていた。だというのに、手にしている傘はなんの装飾も施されていない濡れ羽色の蝙蝠傘で、少年一人が持つには些か大きすぎる代物のように映った。
 ぱた、とレディバグの濡れ羽の表面に雨粒が落ちる。その音に少年は再びはたとして瞬きをし、
「……いつまで見てんだ」
 そう呟いて、無意識に相手の瞳に吸い込まれていた自分の視線をついと逸らした。
「物見遊山も大概にしときなよ、坊ちゃん。怪我したくないでしょ」
 少年は言いながら、淡く息を吐く。彼はレコードプレーヤーが雨に濡れないように両腕の下に隠し、辺りに満ちる朝と雨の冷えた空気よりもひんやりと睫毛を下ろしては、視線を自身のつま先へと向けた。路地裏の泥で汚れた、革靴のつま先へと。
 そんな少年の言葉に、ふ、とレディバグは可笑しそうに笑ったらしかった。
「君は、見境なく人を殴るような子なのかい」
 その何もかもを見透かしたような態度に、少年は感じたことのない類の苛立ちを覚えて、眉間にぎゅっと皺を寄せて顎をしゃくった。
「だとしたら、あんたはもうこれの一員になってるだろうよ」
「うん。なら、問題はないわけだ」
「あ?」
 レディバグはにっこりと端正な笑みを浮かべて、つかつかと濡れて薄汚れたコンクリートを蹴り、少年の元まで歩み寄った。彼は少年が履いているものよりもずっと高価そうな革靴が汚れることも、またすぐそこで伸びて山になっている少年たちの姿も意に介さないようだった。
 そうしてコンテナの前までやってきたレディバグが当然のようにそこに腰掛けると、さすがの少年もぎょっとして思わず身を引いた。喧嘩以外で他人から距離を取ったのは、少年にとってこれが初めての経験だった。
「……なんの用事?」
 レディバグの差す傘の分だけ相手から距離を取った少年は、まるで新種の動物でも見るふうなまなざしで、訝しげに靴の踵でコンテナの前面を蹴った。
「内容によっては一発入れるけど」
「いや? 特に用はないんだ」
「はあ?」
 なんとはなしにそう言ったレディバグの左目がつるりと輝き、傘よりもずっと雄弁に濡れ羽の色を語りながら少年の方を見た。
「──ただ、綺麗だなと思ったから。だから見てた」
 少年の睫毛の上に雨粒が落ちる。それが目に入って痛みさえあるのに、どうしてか彼は瞬きもできないまま、隣に我が物顔で腰掛けているレディバグの方を見つめた。
「そうしたら、君から声をかけてくれた。今日はラッキーだな」
「……ラッキー?」
「幸運って意味さ」
「それくらい分かるよ。馬鹿にしてんのか?」
 少しだけ挑発的な色が滲んだ少年の声に、レディバグは心の底から幸運だと感じているような顔をして首を傾げた。どうやら、それ以上の返事をするつもりはないらしい。
 なんだこいつは、話が通じない。少年はふつ、としてコンテナの上で脚を組んだ。話が通じないというより、上手く、いつもみたいに会話の主導権が握れない。普段のあれが果たして会話と呼べるものなのかは微妙なところではあるが。だが、いつもなら、こちらが何かを話せば相手は心此処に在らずにぼうっとして、それからはろくに物が言えなくなるのだ。誰だって、俺の話を聞こうとしない。まともな返事もしない。目さえ合わない。
 少年は、レディバグの方を見た。彼はこちらのことを感情の読みにくい瞳で、しかし真っ直ぐに見つめている。声を掛ければ相応の返事をし、まったく自分の意思をもって、問いを躱すことさえしてみせた。なんだこいつは、と再び少年は思った。なんだこいつは、話が通じない。のに、通じる。その傘の下には、すべてがあった。そこは最早、少年にとっての別世界だった。
 つ、と、レディバグが相手から視線を外し、眼前で未だに気絶している少年たちの方を見た。
「君、どうして人を殴るんだい」
「は。どうして、って」
 そんな視線を無意識に追いかけて、フェアリー・フィルズのマドンナは眉をひそめる。
「だって、向こうが殴ってくるからな……」
 呟いて、彼は興味なさげにかぶりを振り、雨に濡れて水滴の垂れる前髪を触った。レディバグの視線が、少年の方に戻ってくる。
「……話すより早いだろ」
「話すより?」
「そもそもこいつらは人の話を聞かねえし」
「君だって話す気はないんだろう?」
「何?」
 やさしく断ずるような声色でそう言うレディバグに、少年の頭の中で何かがぱち、と弾けて、彼は鋭く相手へと視線を投げた。
「違うかい?」
 けれど、レディバグは首を傾げることさえしなかった。
「せっかく君は持って≠「るのに」
 誰もが怯むような光を宿して閃く視線を向けられて尚、彼は羽根が降るみたいな柔らかさで微笑み、相手のことを揺るぎなく見つめるばかりだった。
「それがなんのことか、君には分かるかな。自分自身のことだよ」
 レディバグはその場から動かないままで、すっと少年の心臓の辺りを指差した。少年は一瞬だけ示された心の臓を見下ろしたが、考えるまでもなかった。彼は気怠そうに前髪をかき上げて、はあ、と口を開く。
「力」
「ああ、そうだね。どんな力?」
「そりゃあ、腕っぷしの強さだろ。それとも顔か?」
「それも大きいだろうけどね」
 そうでなかったなんだと言うんだ。少年はそんな思いをありありと表情に浮かべて、それでもどこか焦れたように相手のことを見据えた。レディバグは己の気配ごと、声を潜める。
「だけれど、君が持っているものの中で一番強いもの、それは……」
 彼は息を吸った。
「──それは、声だよ」
 そして、少年の首元を指し示した後、レディバグは自身の喉をその手で触って、自信ありげに両目を細めた。
「声?」
「ああ、君の声は特別なものだ。僕と同じくね」
「……自分で言うか、それ?」
「言うよ。自分の特徴くらいは把握していないとさ、色々不便じゃないかい、やりにくくて」
 悪びれることも恥ずかしげもなく、当たり前のことを言うようにレディバグは笑った。少年はそのあまりの確固たる様子に、思わず自分の片手で喉元を触った。
「現に、君が話しはじめると周りはしんと静まり返るだろう?」
「……まあ」
「君が何かを問いかけても、相手はしばらく黙り込む上、結局ああだとかううだとかの返事を発することしかできない。君の声はひどく心地好く、それでいて力強い。なんなら恐れ多さだって感じるものだ。いわば、女神様の声だよ。だから皆、君の言葉にまともに返事ができない。それがひどく恥ずかしいから、彼らは君と肉体的な言葉でどうにか会話をしようとするんだ。違うかい?」
 自らの目で見てきたと言わんばかりの物言いに、少年は相手の知ったかぶりに苛立つより早く、自身の頭を鈍器で殴られるのと同等の衝撃を感じた。
 自分の孤独の根源にある、名状しがたかったそれに突然答えを──しかも、歴史の教科書を開いて読み上げるみたいに、まったく珍しくはない、おかしなことではないと肯定でも否定でもない声色で──与えられて、少年の心臓の奥は苛立ちとは別の、けれど怒りに近いものでかっと熱くなった。まるで今までの人生を盗み見されている気分だった。不愉快だ! それに、ならば……
「君の返事は一貫しているみたいだけど」
 レディバグはちら、と積み重なった少年たちの方を見た。瞬間、ダン! とコンテナを踵で蹴る重い音が路地裏に響く。ならば、どうして、もっと早く教えてくれなかった? こんな顔に、こんな身体に、こんな声に生まれたのは俺のせいじゃあない。誰のせいでもない。なのに、この声に生まれたから、だから、そのせいで俺はずっとひとりだ。ひとりだと、この訳の分からない男は言うのだろう。これから先も! 絡まっていた糸が無理やりに伸ばされて、しかし癖付いた形に戻ろうとするような苛立ち。眼前の男に詮のない怒りを覚える自分にも、同じほどの苛立ちを感じる。
 どうしようもなく、少年は息を吸った。息を吸って、レディバグが言った言葉を頭の中で反芻した。女神様の声。なんだその言い方、寒いな。もっと別の言い方があるだろうに。彼は息を吐いて、眉根を寄せながらレディバグの方をじっとり見やった。
「……あんた、探偵か何か? 俺のことを捕まえに来たのか」
「探偵に逮捕権はないよ。君、何か犯罪を犯したの?」
「人を殴った」
「子どもにはよくあることだね」
「あんたも子どもだろ」
「うん。僕も殴ることはあるよ」
「あんたが?」
 目を眇めて疑いのまなざしで相手を見やる少年に、レディバグはにこりとして片手を開いたり握ったりしてみせた。白くて長い、傷のない美しい手。虫も殺したことがないだろう……
「……無理だろ。やめときな」
 先ほどまで燃えるような衝動を覚えていた少年は、その苛立ちをすっかり忘れるほど呆れ返ってはかぶりを振った。それの何が面白いのか、レディバグは片手を口元にやってくすりとし、そうして少年が腕の下に隠しているレコードプレーヤーを指差して目を細めた。
「ところで。それ、聴かないのかい」
「あのな。あんたが邪魔したんだよ」
「そうか、ごめんね」
 これほどまでに反省の色が滲まない謝罪を聞くのも、少年にとっては初めてのことだった。こんなに軽い調子で誰かと話をすることも。
「でも。僕らの会話には、たとえば音楽があった方がいいと思わない?」
 だが、どうしても言葉選びはいけ好かない。少年はレディバグの申し出に心の中だけで舌を出しながら、しかしレコードプレーヤの電源を入れ、回転する円盤に針を落としたいという衝動を止められなかった。
「ああ、良い曲だね」
 安っぽいスピーカーから、何十年か前に流行ったようなジャズ・バラードの楽の音が流れ出す。騒狂なスウィングを用いているわけでも、難解なアドリブを効かせているわけでもない、メロディラインをたいせつにしたどこか甘く切ない演奏に、レディバグは舌の上で味わうふうにぽつりと呟いた。そんな彼に、少年はレコードプレーヤーを自分とレディバグの間、傘の下に置きながら、ほんの少しだけ身を乗り出して相手の方を見た。
「知ってるのか? なんて曲? うちにはジャケットが残ってなかったんだ。レーベルにも親父の悪趣味なシールが貼ってあるし」
「ジャズ歌手、オータム・オーカーの名盤だよ。『ワンダー・ボーイ』。でもこれ、インストゥルメンタルだ。君、歌詞を──この歌を聴いたことがある?」
 問いかけに、少年は素直な表情で首を左右に振った。
 その答えにレディバグは微かに微笑むと、息を吸うように瞼を閉じ、少しだけ唇を動かした。そして、ゆっくりと目を開けると同時に、自分の隣にあるレコードプレーヤーの針を持ち上げて、それを始まりの位置まで戻す。少年は、雨が降り出す前よりも、朝陽が昇る前よりも神聖な気配を感じて、ただただ息を潜め、レディバグが口を開くのを見つめていた。


 あるところに不思議な少年が一人
 変わり者で 賢い 無口な少年
 彼は生まれたときに泣かなかった
 彼は生まれたときに笑わなかった
 不思議な少年 冷めた目で世界を眺めていた
 不思議な少年 誰も彼には近付かない
 
 あるところに不思議な少年が一人
 変わり者で 賢い 陽気な少年
 彼は生まれたときに泣きわめいた
 彼は生まれたときに笑いころげた
 不思議な少年 光る目で世界を眺めていた
 不思議な少年 誰も彼には近付かない

 けれどいつしか二人は出会い
 陽気な少年は 無口な彼に 花一輪渡して笑う
 無口な少年 ぽろりぽろりと涙をこぼし それからちょっぴりほほ笑んだ
 不思議な少年 寂しがり屋の少年
 なんてかわいい 愛らしいこと

 わかるかい
 愛とはこういうものさ
 愛とはこういうものさ……



 波が引くように、月の輝く海辺に佇むように、いつしか辺りにはしじまが訪れていた。
 レディバグの歌声はおよそ同年代の少年とは思えないほど深く、それでいて鳥が両翼を広げるかのごとくに自由に広がり、辺り一帯を柔らかく包み込んだ。その歌は彼が今まで語ったどのような言葉よりも鮮やかで、降る雨よりもずっとあたたかく、無口な少年の目の前に差し出された花の濡れ方さえ分かるほどに繊細で美しかった。
 レコード針を上げるのも忘れて、少年は自身のアメジストを雨ではないもので濡らしていた。それは怒りや、まして悲しみでもなかった。彼は震えていた。からだのずっと奥底が、閉じていた扉の向こうに在るものが、かたちも分からない何かが、しきりに震えて自分自身にその存在を訴えかけていた。だから、目元から絶え間なくこぼれ落ちるものの止め方が彼には分からなかった。
「ね? 君にも分かるだろう」
 レディバグはそんな相手を見つめて歌声と同じほどのやさしい笑みを浮かべて、温かい涙で濡れている少年の頬を片手で拭った。
「──ハンカチくらい、持ってないのかよ……」
 少年は、レディバグの言葉に頷く代わりにそう呟いた。掠れた声で不服を述べる少年にレディバグは、言われるままに上着の隠しから真っ白なハンカチを取り出して、少年へと差し出した。
 ハンカチを受け取った少年は、それで涙を拭うでもなくその白色をぎゅう、と握り締めた。彼はたった今、人が身体一つで自分の元にぶつかってくる理由やコンテナのスプレーアートが愛を皮肉る理由、そして、自分の父親がこんな歌を愛し、おそらく気恥ずかしさのためにわざわざインストゥルメンタルを聴いていた理由を知ったのだ。簡単なことだった。それは、ただ。
「歌は心に真っ直ぐ届く。どんな言葉も、真っ直ぐに」
 レディバグは言って、頷いた。少年は自分の心臓の少し下、胃の少し上辺りに片手を置いて、今までしたこともない、不格好な息の吸い方をした。少年は、この辺りに穴がある、と思った。人の心には、きっと、みんなこの辺りに空洞がある。歌はそこを通ってやってくる。そこを通って、人の最も深いところまで脇目も振らず、真っ直ぐに。
「……だから、君が歌ったら素敵だよ」
 その言葉には、何か、今までとは異なる不思議な緊張感が滲んでいた。ぱさり、と音を立てて、レディバグの持っていた蝙蝠傘がコンテナの前に落ちる。そこで初めて少年は、傘の影に隠れていたレディバグの瞳に、身一つで愛の告白をしてきた者たちよりもずっと必死の色が滲んでいることに気が付いた。
 ダン! と再び少年の踵がコンテナを蹴り、その音に二人は肩を揺らした。紛れもない動揺だった。レディバグは突然鳴った音に驚き、少年もまた、自分の中で大きな音を立てて開いた扉と、そこから吹いてくる風に驚いていた。
「……俺が?」
「あ──ああ、うん。つまり、君たちが言うところの……ウィキッド最高?」
「え? ダサ」
 素っ気なくそう切り捨てられて、レディバグは困ったようにかぶりを振った後、それでも目の前の菫色を確かに見つめて言いきった。
「素敵だよ。君が声の使い方を覚えたら、世界が変わる」
「誰の?」
「僕のだ。そして、君の」
「つまり、あんたを負かすことができるわけだ」
「そうかもね。だけど、そうなったらそれこそ僕の勝ちでもある」
 少年はレディバグの返答に、やっぱりあんたの言い方は好きじゃない、と呟いた後、
「でも、笑える」
 眉間に皺を寄せたまま、そう発してくつりと笑った。そんな相手にレディバグは目を見開いた後、地面に落ちた傘を拾い上げて、それを傾けながら少年に向かって差した。突然暗くなった視界に、今さらだな、という表情をしながら、少年は覚えたての歌を口ずさむ。心臓の少し下、胃の少し上辺りに両手を置いて、彼はそこにある空洞から歌を歌った。粗削りで、真っ直ぐな歌を。
「──ねえ、君が世界でいちばん強いと思う声はどんな声?」
 それからややあって、歌の終わりに漂う余韻の中で、ふとレディバグが少年に向かってそのように問うた。少年は彼の問いかけに少し宙を眺めた後、レコードプレーヤーの針を上げながら溜め息を吐いた。
「……母親」
「母親?」
「ああ。うちの父親はどうしようもないクズだったけど、母親が生きてた頃は、母さんの言うことならどんなときでもホイホイ聞くような、クズっていうよりは尻に敷かれてる情けないやつだった。俺だって母さんの言うことは聞いた。どんだけ虫の居所が悪いときだって、母さんの呼びかけだけは無視できなかった。ちゃんと、聞かなきゃいけない気がしたから。だから……」
 少年は言いながら、嫌々というようにかぶりを振り、けれどもどこか誇らしげに息を吸い、目を三角にしながらも力強い笑みをその顔に浮かべた。
「今でも覚えてる。いいこと? どんなときでも、挨拶と返事はきちんとしなさい。それが人としての最低限の礼儀です。飲み物を瓶から直接飲まないということもね=c…」
 そして、少年はにっこりとしながら人差し指でレディバグの額を小突いた。ほとんど無意識で行われたそれに、レディバグは愛おしいものを見るふうに目を細め、いま確かに少年に導かれて、彼の中から外側へと現れた少年の母親の姿を見つめては、相手に気付かれない程度に密かに瞳だけで挨拶をした。
「……そういえば、名前を聞いていなかったね。君、なんて言うんだい?」
 コンテナの上、傘の内側で二人は向かい合っていた。今さらに今さらを重ねるレディバグの言葉に、少年は少し変な顔をしてから、くしゃり、と自分の金髪を握り込んで苦笑した。
「何を言ってるんだか。あんた、最初に呼んでたのに」
 少年はコンテナから降り、真正面からレディバグのことを見据えてそのアメジストをちかりとさせた。路地裏の入り口から、ゆっくりとまばゆい光が差し込みはじめていた。
「マドンナ・マジェンダ。笑えるだろ? 親父が酔っ払って付けた名前だ」
 それから、マドンナは顎をレディバグに向かってしゃくった。あんたは?
「レディバグ・レグホーン。酔っ払ってたかどうかは分からないけど、父親が付けた名前だよ」
「ずっと思ってたんだけど、あんた。ユーモアのセンスがまるでないな」
「その代わり、歌が歌える。踊りもできるし、演技も得意だ」
「何それ? そんなテントウムシがいてたまるかよ」
 鼻で笑って、マドンナはじっとレディバグの方を眺め、それから何かを思い付いたらしく、相手の方に歩み寄った。そうか、分かった。そう言った彼は、相手に倣ってコンテナから降りたレディバグの両脚の間をつま先で蹴り、再び重たい音でコンテナを揺らすと、相手の青みがかった左目を覗き込んで口角をつり上げる。
「妖精だな? 俺を連れ去りに来たんだろう」
「うん……どちらかというと、鳥なんだけどな」
「……女神の?」
「そう、君の」
「うわ……」
 恥ずかしげもないレディバグの言葉に、マドンナは苦虫を噛み潰したような顔をして溜め息を吐いた。それでも彼はレディバグから雨傘を奪い取ると、元より誰かを入れるつもりであったというふうな大きさのそれを差して、もうじきに雨も止むだろう空の下を歩いていく。
「でもまあ……べつに同じことだろ。妖精にも虫にも、鳥にだって羽はあるんだし」
 そして、それが自然なことであるかのごとく、レディバグはマドンナの隣を歩き、彼の主張に対して全然違うよ、と首を振っていた。
 なんて日だ。
 朝陽で白む道の向こうへと遠ざかっていく彼らをうっすらと開いていた視界に映しながらも、今までずっと空寝を決め込んでいた少年の一人が、マドンナの前に倒れた仲間たちの山から這い出しては、そんな二人のことを追いかけて走った。
 なんて日。なんて日だ。マドンナが、フェアリー・フィルズのマドンナが、誰とも分からない男に負けてしまった!
 けれど、そんな少年の落胆にも似た高揚、興奮にも似た絶望を感じ取ったのか、ふと彼の前方で、もうほとんど見えなくなっていたマドンナが片手を伸ばし、どうやら自身の指を鳴らしたらしかった。それは、マドンナが戦いをはじめる前の癖だった。少年ははっとして息を吸った。殴られる、そう思って、思わず息を潜めさえした。
 しかし、マドンナは誰を殴ることもしなかった。
 代わりに、彼は歌を歌った。今しがた覚えたばかりの古いジャズ・バラードを、朝の白光で満ちるフェアリー・フィルズの真ん中で口ずさみながら女神の妖精を侍らせ、彼は今まで見たことがないほどに軽い足取りで、ふわりふわりと道の中心を歩いていた。
 その歌声は、今まで彼が放ったどんな言葉や拳の一撃よりも、ずっと雄弁に辺りに響き渡った。
 俺は、誰にも負けていない、と。
 


20210829 執筆

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