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もうきっとあなたには祈らない、ゲーテにゲルニカ、ゴッホと夜明け



「インディゴ、水族館に行くぞ」
「はい?」
 というのが、事の始まりであった。
 エクラン市街から数駅乗り継ぎ、観光モノレールに乗り込んだガーネット・カーディナルとその教え子インディゴ・インクブルー一行は、ローレア有数の観光名所であるビーチ・ペスボラドールの美しく翻る海を眼前に臨みつつ、ローレア有する陸繋島であるペルラ半島へと弾丸旅行を決行していた。それは半ばガーネットの突然で強引な意思によるものであったが。
「水族館かあ、随分久々だな」
 道中、車窓を眺めながらどこか他人事のように呟いたのは誘った本人のガーネットである。インディゴはそんな担任教師の方を慣れた様子でちらりと見やって、またすぐにその視線をきらきらと生命力を湛えて輝く初夏の海へと戻していた。
「インディゴ。お前、水族館は?」
「初めてです」
「おや、それはそれは──あ、トビウオが飛んでる」
 気のなさそうに返事をするインディゴに対して、ガーネットもまた教え子のそんな平坦な態度には慣れている様子であった。彼の指差した窓の向こうで、数匹のトビウオが陽の粒子のような水飛沫を上げて宙に舞っている。インディゴは導かれるままに、或いは律儀にガーネットの指先が示す先を眺めていた。それからつと、睫毛をぴくりとも動かさないままに口を開く。
「なんだか」
「ああ」
「踊ってるみたいですね」
「な、俺もそう思う」
 インディゴの言葉に頷いて、ガーネットは跳ねるトビウオたちを示していた指先を自身の膝上でとんとん、と踊らせる。
「いやしかし、舞台が広くてお羨ましい限りだな」
 それからそう発した彼は目を細め、平日中日で人もまばらな列車内で背もたれに身体を預けた。
 モノレールは緩やかな速度で進み続けており、そんな中でつと小さな子どもが一人、笑い声を上げながらガーネットとインディゴの前を走り去っていく。そのすぐ後ろから、両親らしき大人が二人、くすくすと笑みながら前方の幼子のことを追いかけていた。彼らの瞳には、きっとわが子だけが映されているのだろう。ガーネットは微かに口角を和らげ、インディゴの方を見た。インディゴはまだ、ぼんやりと海のすがたを眺めていた。
「……俺もさ」
 そんなインディゴの視線を追いかけて、ガーネットもまた夏の日差しに満ち充ちた海原を見やり、そう呟いた。目の前は、まったく澄みきった青空を炭酸水に溶かしたような様相を成していた。光を内包した泡々が、海面に浮かび上がると共に白く弾けて輝いている。けれどもガーネットの零すようなその呟きに、インディゴは海から視線を外して、自身がもつテラコッタの瞳を彼の方へと向けていた。
「この景色見てると腹いっぱいになっちまって。結局、水族館まで行かないで帰ること多いんだよな」
 やれやれと言葉だけでかぶりを振って、ガーネットはインディゴの視線と自分のそれをかち合わせてくつりと笑った。担任教師のそのような発言に、インディゴは当然常と変わらず、最早豪胆でさえある自身の無遠慮さをもって、首も傾げずにこう呟いた。
「……交通費もったいないんで、行った方がいいんじゃないですか」


 それからややあって、ぺルラ半島の水族館内である。
「──ああ、いたいた」
 そのように発して片手を上げたのは、やはりガーネットだった。
 八階建ての巨大な球体状をしているぺルラ水族館では、東西南北に位置する水槽でそれぞれ世界の海を表現しており、入り口のアクアゲートを抜けた先ではローレア周辺の海洋生物はもちろんのこと、パナマ湾からカリブ海、大西洋、熱帯雨林、南極大陸、グレートバリアリーフ、太平洋等々と、世界各地の海に生息する生物たちを広々とした水槽でじっくりと眺めることができた。
 無論、それ以外にもマンボウやナポレオンフィッシュ等の泳ぐ特設水槽、不気味で不可思議な景色の広がる深海コーナー、クリオネやアザラシのみならず絶滅したオオウミガラスの標本が展示されている北極圏など、見どころというものは多々無数にあるぺルラ水族館である。平日半ばでもそれなりに人出があり、人気のある水槽の前では人だかりができていたが、かのガーネット・カーディナルとその教え子がほとんど変装もせずに来館したとなれば話は別で、彼らの歩く先には常に拓けた花道ができていた。ただ、マナーの悪い相手にフラッシュを焚かれようが動画を回されようが、二人があまりにも気に留めない様子であったため、館内は自然にその落ち着きを取り戻しつつあるようだった。そういう力が、この水族館にはあった。揺蕩う水を魚たちが動かす深い音が鳴っている。
 そんな順路の途中でインディゴとはぐれたガーネットは、その外れにあるクラゲ館の中に佇む相手を見付けて、
「どこ行ったのかと思ったぞ」
 そう笑いながら、彼の肩を軽く叩いた。インディゴがガーネットの方を振り向き、緩くかぶりを振る。
「いや……見ろ、ジンベエザメだ!≠チて言ってサメのこと追いかけていったの、先生の方ですよね」
「クラゲ見てたのか? お、こいつめ、中々ハイカラな見た目をしてやがるな」
「話聞いてます? 子どもじゃないんだから走らないでくださいよ」
 あまり動きのないように映る瞳に微かな呆れを浮かべながらもインディゴは、ハナガサクラゲっていうらしいですよ、と蛍光色のフリンジを自らの傘に飾っては海藻にくっついてじっとしているクラゲたちへと視線を戻した。
 ガーネットはインディゴの返答にほうだのへえだの言いながら、しげしげとハナガサクラゲを眺めまわし、眼下の解説パネルに視線を滑らせる。着飾った見た目の割にはその場から動かずにじっとすることが多いハナガサクラゲは、なんと飼育下では自ら餌を食べることもしないらしい。いちいち食べさせてやらなければ食べようともしないのだ。なんてやつだ、最早笑える。心の中でそう独り言つガーネットのの隣で、インディゴがふと頭上を仰いでいた。
「……思ったより」
「ん?」
「思ったより、生臭くないんですね」
 つられて、ああ、とガーネットも天井を見上げる。館内にはエリアごとにその海をイメージしたエアアロマが焚かれており、それは循環する空気と共に、微か香る程度に人々の鼻腔をくすぐっていた。常時六十種類ものクラゲが展示されているこのクラゲ館では、どこか鼻先の冷たくなるような、きんとした冬の明け方の香りがゆらゆらと漂い、水平線がぼうっと銀色に染まるのを想像させられる。
「んじゃ、生臭いところ行くか?」
 ガーネットは目を細めて、インディゴの方を見ながら首を傾げた。
「ペンギンコーナーとか」
「え……いいです。混んでそう」
「あのなあ。これでも空いてる方なんだぞ、平日ど真ん中で」
 インディゴの釣れない返事に、ガーネットは中身のない溜め息を吐いて少し笑った。
 インディゴの釣れない返事に、ガーネットは中身のない溜め息を吐いて少し笑った。インディゴは瞬きをゆっくりして、ハナガサクラゲの水槽からミズクラゲの水槽に移動しはじめたガーネットの方を向く。そうして、その場にじっとしていられない性分の担任教師の後をぼんやりついていった。
「先生、ペンギン好きなんですか」
「んー……かわいいよな、おしくらまんじゅうしてて。あれですこぶる泳ぎが上手いところも推せる。雛なんかもふもふだし」
「北極のところに標本がありましたよね」
「オオウミガラスか。だが……あれはペンギンに分類されるのか?」
 さあ? という表情を目の中ばかりに描いて、インディゴはガーネットの瞳をじっと見た。それから淡く睫毛を伏せ、その隙間から、彼はふわふわと傘で呼吸をするように浮かんでいるミズクラゲたちを眺める。
「……オオウミガラスの最後の二羽って、人間が殺してしまったんですか」
「ああ、番いだったらしいな」
「確か、卵もあったって。割れてたみたいですけど」
 感情の読みにくい声色で呟かれたインディゴの言葉に、ガーネットは己のまなざしを海中の泡めいたクラゲらの方へと向ける。インディゴは、そんな水槽の中の呼吸する傘たちから視線を外さないまま、自身も少しばかり息を吐いたようだった。
「先生」
「ん」
「もういないんですか、どこにも?」
 そうして水の音を除いては深く静まり返った空間に、インディゴの問いが同じほどの静けさで鳴った。
「さてなあ」
 それでも、水のような揺らぎを内包しないインディゴの確かな問いかけである。ガーネットは、ふ、と笑んでは軽やかにそう返すと、両手を後ろ手に組んでぐっと伸びをする。
「意外にもその卵は孵ってて、生まれた最後の雛鳥ちゃんは我々人間様に隠れて楽しくやってるかもだ」
 言いながら彼は少しばかり視線を上へと向け、卵から孵った鳥の、その飛べない足跡を見たらしい。己と同じ姿をしたものとは、どこまで行っても巡り会えないその道行きを。インディゴはふと、何かを感じ取ったようにガーネットへと顔を向けた。
「でも、……ひとりぼっちは寂しい、だろうなあ」
 そして、ガーネットがぽつりと零した呟きを聞いたインディゴが、息を吐くのと同じ速度で再び水槽の方を見やる。おそらくは、彼もまた殻を割った雛鳥の孤独な歩みを開いた瞼の裏側、或いは睫毛の隙間から眺めていた。彼らの呼吸音よりも、水が絶えず循環する音の方がよほどこの空間を満たしていた。 
「なんか……ほんと好きですよね、動物」
「小さい頃は獣医になりたかったくらいだからな」
「そうなんですか」
「純粋に夢だったな。そうじゃなくても人間の医者になる予定ではあったよ」
「はあ」
「で、どっかのタイミングで気が変になって今に至る」
「飛躍してません?」
「飛んだり跳ねたり人生色々ってわけだな」
「はあ」
 インディゴは溜め息とも呼びがたい息づかいと共に、ほとんど興味もなさそうな相槌を相槌とも呼びがたいかたちで吐き出した。ガーネットもまた特段気にした様子もなく、クラゲ館の中を思いのままに歩き回り、サカサクラゲの水槽の前で立ち止まっては、え、死んでね? といくらか心配そうな声色で呟き、ウリクラゲの前では、え、ウミウシ? と分かり易く困惑の表情を浮かべるなどをしていた。インディゴはそんな実況を行う教師の横でパネルを覗き込み、死んでないです、だの、クラゲらしいです、だのといちいち発しては、ガーネットに隣する解説担当になっていた。
「そういえば、トビウオはいないんですね」
「だな」
「残念じゃないんですか?」
「ん?」
「好きなのかと思いましたけど」
 インディゴは観光モノレールでのガーネットの言葉を思い出しているのだろう、不思議そうな色を目の中に描いて彼の方を見上げていた。ガーネットは口の中で、ああ、と呟いて、
「だけど。ここだと飛べないだろ、あいつらも」
 それからそのように言ってからりと笑った。
「ま、いろんなのがいるけどさ。アジとかイワシとかもいいよな。なんだかんだ」
「急に地味ですね」
「そうか? でもあいつら、群舞がえらく達者だからさ。集まってるとやっぱり目が惹かれるもんだよ」
「そんなものですかね」
「そんなもんだ」
 目を細めてはっきり断じたガーネットに、インディゴのまなざしが淡く上を眺めた。彼は眼前のクラゲではなく、先ほど通り過ぎてきた大水槽の中に在ったアジやイワシの姿を思い出しているようだったが、しかしどうも上手くいかなかったらしい、結局は相手に向けて曖昧に頷くばかりであった。そして、そんなインディゴに、ガーネットがどこか悪戯っぽく口角を歪めて笑った。
「それに、食っても美味い」
「え……もしかしてあの、スシとかいうやつですか?」
「慣れればけっこう、かなり、いやだいぶん美味いんだって。その顔やめろ」
「信じられないです。だいじょうぶなんですか? 信じられない……」
「こーら、声に出すな」
 仕方なさげに肩をすくめたガーネットがとん、とインディゴの頭へと軽く手を置いた。インディゴはといえば、まったくおそろしいことを聞いたというように、自身の眉間へ微かな皺を寄せては溜め息らしい溜め息を吐いている。
「……先生は、魚もかわいいって思うんですか」
「ん? うん、んー……いや……」
 ややあって、頭の上から手が離れると共にそう問うたインディゴに、ガーネットは自分の口元を触りながらぬるく唸った。それから、ほんの少し首を傾げて微笑む。
「魚はどっちかっつうと綺麗、だな」
「綺麗?」
「あとはちょっとだけ恐ろしさもある」
「先生にも怖いとかあるんですね」
「お前、俺をなんだとお思いなのかな?」
「え、先生は先生ですけど」
「あっそう……」
 さっぱりと捌けているのかそれとも掴みどころなく浮かんでいるのかよく分からないインディゴの返答に、ガーネットは半ば呆れの形に目を細めてかぶりを振った。
「じゃあさ、お前はクラゲが好きなのか?」
「いえ……どうだろう。よく分からないです」
 インディゴは声色というよりはまなざしだけで首を振って、目の前の水槽を見やった。二人はいつの間にかクラゲ館をぐるりと一周し、その一番はじめに展示されているカラージェリーフィッシュたちが浮かぶ水槽の位置まで戻ってきていた。青、白、赤褐色とそれぞれが様々な色合いをもつクラゲたちを眺めて、インディゴは自身の長い髪の先を緩く触る。 
「ただ、……参考になるかなと思って」
「参考? ああ、『ヨアケインザウォーター』?」
「それ以外に何があるんですか」
「おっと、これは失礼」
 冗談めかしてにっこりとしたガーネットに、インディゴはほんの少しだけ緊張したような息づかいで足先を動かした。ガーネットは何も言わない。水の巡る音がしている。クラゲの傘が開いてはまた閉じる音も聞こえてくるみたいだった。そしてそれは、インディゴの静かな呼吸音に他ならなかった。
「ずっと思ってたんですけど」
「ん」
「なんで、俺が主演なんですか」
「夏だからなあ」
「はい?」
 当然のごとく、それでいて何かしみじみとした郷愁すら感じさせる声でそう言い放ったガーネットに、インディゴは正真正銘、困惑に眉根を寄せて首を傾げた。
「夏だからさ、暑苦しいもんは観たくないだろ? その辺お前はぴったしだ」
「なんですか、その理由……」
「いーや、これだってご立派な理由だぞ。涼しげなイメージってのはお前の武器なんだし」
 きっぱりと確かにそう断じて、ガーネットは片手の指先でインディゴの額を控えめに押した。インディゴはそんな担任教師に何かを言おうと唇を開いたが、けれども特に言うこともなかったらしい、空気を呑んだだけでその口を閉じてしまった。ゆえに、二人は再び沈黙をし、眼前のクラゲたちをしばらくの間ぼんやりと見つめることとなった。
「……ちゃんと見たことなかったけど、クラゲってのも中々いいな」
 もうほとんど黒に等しい水の藍色を、決められた装飾の水中を、各々の個性で彩るクラゲたちの舞台を眺めて、ふと思い出したようにガーネットがそう呟いた。インディゴは頷きも首を振りもしなかったが、視線はガーネットが見つめる先のクラゲの動きを追っていた。
「浮かんだり沈んだり、何を考えてるんですかね」
「さあな。でも、そういうのもいいんじゃないか、波のまにまに漂うだけっていうのも? それだけでも、こいつらにはどこか物語性があるし」
 言って、ガーネットはゆっくりと瞬きをし、何かを考えるように一呼吸分の時間だけ瞼を閉じた。
「──なあ、インディゴ」
 そうして再び開かれた彼の瞳は目の前のクラゲたちではなく、しかし眼前の水槽のよく磨かれたその表面に跳ね返る、一人の少年の姿を映していた。
「そこに映ってるのは誰だ?」
 ガーネットのそんな問いかけは、インディゴにしてみれば当然不可解なものだった。インディゴは、ガーネットが今しがた顎をしゃくって示した、カラージェリーフィッシュが漂っている水槽を──正しくはそこに映り込んでいる自分の姿を見やっては、まるきり意図が読めないといった様子で、はあ、と小さく溜め息を吐いていた。
「いま先生が呼んだ通りじゃないんですか? 俺ですよ」
「そうだろう? だから、今回の舞台はそういうことにした」
 インディゴの気のない返事に、ガーネットはそれでも満足げに笑んだ。
「ええ? 意味が全く……」
「そこに映ってるのはさ、インディゴ。お前と同じ姿、同じ声、同じ考え方をしたマリオネット──『ヨアケインザウォーター』の主人公だ」
 怪訝な表情をしてはつま先でとん、と床を鳴らすインディゴの両肩を、ガーネットが心やすくぽんぽんと叩いた。そうして彼はどことなく楽しげな光を目の中に宿しながら、水槽に映り込んでいるインディゴのことを見やる。
「だから、お前はお前のままで演じればいい」
「俺のまま? つまり、どういうことですか」
「つまり、他の奴らみたいに難しいことをごちゃごちゃ考えなくていいっつうこった」
 ガーネットはインディゴの両肩の上で軽く指先を踊らせると、相手の顔を上から覗き込んで、に、と最早邪悪にも映る、悪巧み決行前の少年のような笑顔を見せた。
「言っておくが、マリオネットの台詞がないのはお前がすぐに演技をサボるからじゃあない。お前にお前の演技をさせるためだ。お前はお前の解釈したマリオネットを、お前が考えるまま、感じるままに演じれば──つまり、踊ればいい」
 言って、ガーネットはその場でくるりと回った。コツ、とヒールの底が鳴って、クラゲ館の水音の中を反響する。水槽の硝子越しに自分の姿を見ていたインディゴが、水の中で泡ではない何かが爆ぜる音を聞いてガーネットの方へ顔を向けた。
「自分を役の形に変形させることだけが演劇か? 俺は、舞台というものはもっと、ずっと自由でいいはずだと思っている。物語だって、演じる人間によってどんなふうにも変容するだろう? それにどうせ、この学園のお抱え脚本家サマは、そんな役者たちの奔放な演技に絶え得る物語しか書けないんだ。ならば、それを俺たちは存分に使わせて頂こう。だから、お前はそのままでいい。お前はただ、お前が最も美しいと思うかたちでマリオネットを踊ればいい」
そう発するガーネットの視線の先は、ただインディゴへと向かっていた。五彩に綾なすクラゲたちを背に立つインディゴを見て、彼はうっそりと、そのまなざしばかりで頷く。
「それだけで、お前は綺麗だ」
 ガーネットはインディゴの瞳を見て、まったく何も恐れるものはない、というように悪戯っぽく、微かに邪悪に、そして祝福とはほど遠いかたちでふっと微笑んだ。与えられる側には選択の余地もない、暴力的なそれをおそらく、人は信頼と呼ぶのだろう。インディゴは溜め息混じりにかぶりを振って、少し俯きがちにつま先を鳴らした。
「あーあ……踊りたくないんですけどね、俺」
「でも踊る。違うか?」
「なんだかクラゲの気分ですよ。勝手に押し流されてる感じ」
「ああ。ちょうど髪も長いしな」
 くつりと喉の奥で笑ってみせるガーネットに、インディゴは相手だけが気が付くような密やかさで、そうっと自身の口先を居心地悪そうに尖らせた。それから胸の下で組んだ指先を躊躇いがちに動かしているインディゴの姿が、彼の担任教師には何か不機嫌な家猫のように見えてしまって、ガーネットはその頭をわしゃりと撫でる。
「お前もじきに三年になるだろ」
「……気が、早くないですか?」
「そしたら、先のことを考えるようになる。嫌でも」
「ええ、嫌だなあ……」
「お前がお前らしく踊っていける場所って、……どこだろうな?」
 ガーネットはインディゴの頭を撫でながら──彼の予想とは反して、インディゴは大人しくされるがままになっていた──つとクラゲ館の天井を見上げた。インディゴはちらりとガーネットを見やって、相手の真剣なまなざしに唇の尖りを引っ込める。
「どういう意味ですか?」
「正直、お前はどこにでも居場所を作れるやつだと思うよ。なんせ冗談みたいに図太いからな。でも、どうせなら、お前が踊りやすいところがいいだろ? それがロワゾなのかどうか、俺にもまだあまりよく分かってなくてな」
「……俺、やっぱり踊らないとだめですか」
「それが一番、お前にとって生きやすいんなら」
 ガーネットはインディゴへと視線を戻して、頷きはせずともはっきりとそう発した。明け方、日が昇る前の海のような色合いを宿している天井に、まばゆい朝陽が輝くことはないだろう。けれど。
「つまり……結局、どういう意味なんですか?」
「お前もちょっとは俺の情緒を汲めよな」
 けれども、それが水族館のクラゲにとって最も過ごしやすく、彼らが最も輝ける環境なのだとしたら。それはつまり。ガーネットは呟いた。つまり、さあ。
「俺には無数のコネクションがあるから、そいつを思う存分利用して、そん中でも一番好条件なとこに行こうぜってこと。使えるもんは猫も杓子も鬼でも金棒でもなんでも使うがクーデールの信条だからな」
「初めて聞きましたけど」
「いんや、クーデールのクラステーマにもあるだろ」
「なんでしたっけ、ああ、躍動=H……それとなんの関係が?」
「俺は群舞が好きだ」
「話聞いてます?」
 インディゴの呆れと諦めがないまぜになった平たい問いかけに、ガーネットは三日月の形に目を細めては、コツコツとヒールを鳴らしてクラゲ館の出口に向かって歩いて行く。
「一人きりで踊るのにも限界ってもんがある」
 発するガーネットの声は静かなものであったが、しかしそれは床に打ち付けられているヒールの音よりも強かで、確かな音色を宿していた。インディゴはそんな担任教師の後ろを追いかけて、相手の揺れる髪の先をなんとなく眺めた。
「だけど、インディゴ。少なくともお前は一人じゃあない」
 水族館の通路を進みながら、ふと足を止めたガーネットに合わせて、インディゴもまた歩を止める。ガーネットが、目元に笑みを浮かべながら振り返った。
「……だろう?」
 それは答えを求めない問いかけだった。問うだけ問うたガーネットは、インディゴの言葉も待たずに前を向いて歩き出し、小気味よい音を立てながら一体どこに向かっているのだろう、通路をツカツカと進んでいく。
 だから、インディゴはほんの少しだけ走った。ほんの少しだけ走って、彼はその口を開いた。
「先生」
「ん?」
「今日はそれを言うために、わざわざこんなところまで連れてきたんですか」
「いいや?」
 とんでもない、という顔をしてガーネットはかぶりを振った。それから彼は通路の先にある、初夏の光が差し込む方角を指差して、
「──じつは、イルカとアシカのショーが観たかったんだ。だってあいつら、えらくダンスが上手だろ?」
 そう、まったく意地悪げに笑ってみせたのだった。



20210808 執筆

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