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蛇のよにあるいはバームクーフのよに



 
 さあ踊りましょう ルビルビルン
 さあ踊りましょう ルビルビルン
 さあ踊りましょう ルビルビルン
 さあ踊りましょう 昨日の晩と同じように

 右手をちょっぴり振ってみて
 左手をちょっぴり振ってみて
 おつむをちょっぴり振ってみて
 ぐるっとまわって一回り
〔さあ 踊りましょう〕 -『マザー・グース』より



 それは、じわじわと熱が這い上がるような、暑い夏の日のことであった。
 ルビー・ルージュは常と変わらずまったくもって意味をもたない鼻歌を口ずさみながら、およそ歩くためには設計されていない装飾過多のヒールを鳴らしてルニ・トワゾの正門をくぐっていた。彼は正門を過ぎてすぐに見えるフランス式庭園の前で足を止めると、にっこりと微笑むようなかたちで視線を左右に走らせて、そこら中に飛び回っている忌々しい蝶や蜜蜂の類を眺める。
 からりと晴れて澄み渡った青空、その下で咲き誇る草花と、そんな植物のにおいを宿す爽やかな夏の風に、生命力を湛えて羽ばたく鳥や虫たち。ローレア、特にこのルニ・トワゾが存在するエクラン市の夏の風景というものは人間の過半数にとって目に美しく素晴らしいものとして映り込むが、いつでも堂々たるマイノリティであるルビーの視界ではそうはいかず、彼は小花のようなモンシロチョウが舞う庭園をわざわざ迂回しながらこう呟いた。
「あっつ」
 と。一滴も汗を流さないままに。
 そうして彼は石畳から上ろうとしてくる熱気をその踵で踏み付けながら歩を進め、やはり日陰≠フ一人でも連れてくるべきだった、と胸中で毒づいて手にしている真っ黒なドーム型の日傘をくるりと回した。傘は人類史において偉大な発明であることはルビーも認めるところではあったが、しかしながら彼は、傘を差すという行為が当然のごとく不好きであった。まず重い。次に、片手が塞がるところが悪かった。ああ、邪魔。面倒。じつに面倒だ。
 ルビーが傘に対してうっすらとした燻りを感じはじめ、それを真っ黒な傘ごと地面に放り捨てようとした瞬間、
「ル……ッ」
 しかし、そんな呟きと共に別の方向からどさどさどさ、と何かが大量に落ちる音がして、ルビーはちらりと音のやってきた方へと顔を向けた。
「ル──ル──ルビー・ルージュ……!」
 そしてそこでは、まあるく見開いた瞳でこちらを見つめながら、唇をわなわなと震わせている赤毛の少年が一人、陽の中に立っていた。ばちり、と視線がかち合う。ルビーは降り注ぐ日差しのまばゆさを嫌ってその目を細め、
「やあ、ごきげんよう」
 ついでに口角をうっすらと上げた。面白半分に、今ここにはいない隣人の表情を装って。それを目にした少年はおよそ直射日光のためではなくぼっと頬を染め、震わせていた唇を今度ははくはくと動かしはじめる。ルビーはその場から動かないまま、こてり、と淡く首を傾げた。
「君、新一年生かな?」
「はっ、は──」
「はあい、落ち着いて。……新一年生かな?」
「あっ! は、はい! そうです! クーデール一年、ミリアン・バームと申します!」
「声デカ」
「すみません!」
「てか、すっげえ落ちてんよ? いいの?」
 ルビーは、多少食い気味に、かつ勢いよく返事をするミリアンの足元に転がっている教本や筆記具の類を示したのち、自分の髪の毛先を指でくるくると遊ばせた。そんな相手にミリアンは、すみません! と再び声を上げると、地面に落ちた荷物を慌ててかき集め、けれども視線ばかりはほとんどルビーの方を向いていた。
「ん、まあ、知ってんだけどね」
 そんなミリアンを見下ろしながらルビーは呟いた。
「君さ、新人公演で三年とダッキーやってたでしょ? ダッキー。ナイチンゲール・ダッキー」
「えっ!?」
 彼のそのまるでなんでもないことのような物言いに、ミリアンは再び目を溢さんばかりに見開いて、せっかく拾い上げた荷物をまた取り落としそうになる。
「ご、ご覧になってくださったんですか!」
「他にやることなけりゃあ観るよ」
「あっ、ありがとうございます! えっどうしよう? その、俺、ルビー、ル、ルージュさんの大ファンで……」
「知ってる」
 ミリアンはぱち、と瞬いた。ルビーは少しだけ日傘を傾げると、その隙間から差し込む白光に自身の鮮やかな紅色をちかりと光らせた。
「二階席に座ってたことあるでしょ、君? 俺、あの辺よく見るからサ。二階席を見れば白目にハイライトが入って瞳がぎらりと輝く。ナイチンゲールの角度はその四十五度。君もガーネットに教わったンじゃない?」
 そう問うたルビーの言葉は果たしてミリアンに届いていただろうか。ミリアンは今にも卒倒しそうな表情で眼前のルビーを見つめ、今度こそいくつかの教本を地面の上にどさりと落とす。最早ルビーは何も言わなかった。その代わりに彼は一歩ミリアンの方へと近付くと、相手のアプリコット色をした瞳を覗き込んで目元ばかりで微笑んだ。
「君、カワイイから目立つよね」
 言って、ルビーは首を傾げる。
「それとも俺の目がいいのかしらん」
「あっ、あ、あり、ありがとうございます! 素敵です! ルビーさんがカワイイです!」
「声デカ」
「すみません! つまり、とっても視力がいいってことですか?」
「そういう意味でもないけど、マ、それはそうだね」
「新情報! すごいです! カワイイ!」
「え〜? 意味分かんねえけどアリガト」
 瞳をきらきらと輝かせてほとんど叫ぶように発するミリアンに、ルビーは傾げていた頭を今度は反対側に傾けて、右目にだけ面白げな光を浮かべてにこりとする。
「そッ──それでその、ル、ルビーさん!」
 そんな相手を視界いっぱいに映して、ミリアンは発した。
「何?」
「ち、近いです! 眩しくて灰になりそう!」
「そりゃあ困るねえ。死人出したらお縄ンなっちまう」
 そうして目をぎゅうっと瞑ったり、また見開いたりしているミリアンに向かって、ルビーは半ば肩に預けている傘を力の入っていない指先でゆるりと回した。植物の湿気を適度に吸い込んで吹く風が、汗の一文字も感じられないルビーの髪を素通りし、額に首筋にと汗を流してるミリアンの肌を労わるように撫でていった。ミリアンははたとして、周りをきょろりと見渡し、小首を傾げる。
「あ、ところで今日はどうしてこちらに……?」
「臨時講師だよ、ダンスレッスンの。ガーネットのヤツが海外公演で空けてるでしょ、今?」
「え! り、臨時!」
「うん、二、三年のだけど。一年はまだ座学が多いっしょ、机に向かってイイコにしてなね」
 ひらひらと片手を振りながら軽々と断じられたその言葉に、ミリアンは幼子のごとくぴかぴかとさせていた瞳に落胆の色を浮かべ、それから自身の肩もがっくりと落とした。そのどこか大げさにも映る彼の身体表現に、ルビーは日傘の下、舌の上だけでアハハ、と笑う。
「ま、ガーネットの不在を祈ることだね。訊きたいのはそれだけかな? なら、あっちいから俺はもう──」
 緩く振っていた手でぱたぱたと顔を扇いでは、半歩を踏み出しここから立ち去る気配を匂わせたルビーに、しかしミリアンがそれよりも早くその身を一歩ほどルビーの方へと近付けた。
「何?」
 と、ルビーが先ほどとほとんど変わらない声色で問う。彼は暑さのためではない微かな気怠さを八本骨の影の下でゆらりと光らせて、相手とかち合った視線の中でそれを隠すこともなく見せつけた。瞬間、ミリアンは息を止め、けれどもまた呼吸をしたようだった。深く。
「その、」
 それから、地面に落ちなかった教本の類を片手でぎゅう、と握り締める。
「……その、ルビーさんから見た俺の演技って、」
「覚えてない」
「え?」
 そして、そんなミリアンの一部始終を視界に映していたルビーがまずはじめに行ったのは、自身の表情から過飽和状態になった砂糖のような笑みをぺりぺりと剥がし、口の中でさくさく噛み砕くことだった。
「何かを言ってほしいンなら、悪いけど覚えてないよ。君がダッキーを演ってたのは覚えてるけど、君がなんの役で、どんな演技やダンスをしたのかは覚えてない」
 彼はこちらを見つめたまま動きを止めているミリアンを真正面から見下ろして、ファン・サービスでは到底あり得ないまなざしを向けてみせる。ミリアンは唇を少し動かした後、ぴたりと言葉を発するのを止めてじっとルビーの方を見ていた。演劇の世界へ足を踏み入れてまだ数か月という雛鳥の幼い思考回路が、手掛かりを求めてうろうろと一所懸命に走り回る音がして、ルビーは口の両端を微かに持ち上げた。
「俺の演技は未熟だったと思います」
「だね」
「それももちろん、ですけど、ア、アンサンブルの」
「ん?」
「俺が──アンサンブルのダッキー、だったから、というのもありますか」
「あ?」
 そう低く唸ったのち、ルビーは思わず声を上げて笑った。自分の言葉に失笑をする相手に、けれどもミリアンは口から溢れ出てしまった答えの不正解にいち早く気が付いたらしい。彼はどこか居たたまれない様子で睫毛を少し伏せていたが、しかしすぐにルビーへとその視線を戻していた。
「ああ、違う違う。君がもしスワンだとしても、俺は覚えてないよ」
 ルビーはそんなミリアンに対して、ほとんど情も感じられない光を目の中に宿しながら、自身の双眸を可笑しみのかたちに細めては顔の前で片手を振った。 
「舞台の上で歌と踊りとお喋りがお上手なんて、当たり前にできて当然のことだし。実際、レイヴンだったコの演技やダンスも覚えてないなあ。そもそも、どんな公演だったっけ? 俺、記憶力悪くってね、いちいち覚えてらんないンだよ」
 くるり、とルビーの黒い日傘が回転する。事もなげにすらすらと言葉を並べ立てる彼の声だけが耳障り好く、ルビーはその口元にくつくつとした笑みを浮かべてさえいた。ミリアンはそんな相手の発する内容に愛想笑いを浮かべるような余地は当然に持たず、ただ静かな面持ちでルビーの言葉を聞いていた。
「つまんなくてサ」
 睫毛の下に暗い影を落としながらも真剣な面持ちで自分のことを見つめるまなざしを受けて尚、ルビーは呟きよりも遥かにはっきりとそう発して、呼吸の隙間で首を傾げた。
「つまんないよね、今のクーデール。なんか、俺の真似事? ってカンジ? すごいよねえ、思い上がりって言うの? ガーネットのヤツ、俺のことなんかなあんも分かりゃしないのに、ルビー先生のルニ・トワゾ公演≠作ろうとすンだからさあ。でも、一生できねえと思うけどなあ? 俺、今日と昨日で考えてること違うし」
 関節も骨もなく踊るような掴みどころのない声色で、ルビーはその顔に似合わず長い舌でしゅるしゅると、己が最も愉悦を感じられるかたちに言葉を吐いた。それは、真面目な人間ほど逆上できず、その場で蜷局を巻かざるを得ない、決して間違いではない、、、、、、、言葉の吐き方だった。
「で、なんだっけ? 覚えててほしいんだっけ?」
 それからつと、クーデール全体に向けられていた矛先がミリアン一人へと向けられる。ミリアンははっと瞬きをし、何か返事をしようとしていたが、ルビーは構わずに唇を歪めて言葉を続けた。
「簡単じゃん。覚えててもらえる演技をすりゃいいだけ」
「え? で、ですけど、俺はダッキーで、」
「え、だから?」
「え?」
「だから何?」
 心底不思議そうな声で、ルビーは瞳の中に疑問符を浮かべているミリアンのことを見た。息を吸い込む時間だけの沈黙を、鮮やかなアゲハチョウとその後ろを追うように飛んでいるモンシロチョウたちが横切っていく。ルビーは太陽の元だろうが日傘の下だろうが構わず際立つ紅色を細めて、片手の人差し指を顔の横で立てた。
「一つ、クロウやダッキーは必要以上に目立つべからず。レイヴンやスワン、ナイチンゲールを美しく舞わせる花、風、小鳥として物語に彩りを加えるだけにとどめるべし。いとをかし」
「……アンチック先生には、そのように教わりました」
「だろうね。アイツは天性のバランサーだから。アレみたいなのが舞台にいると、みぃんなアイツに甘えンだよ。クロウやダッキーだけじゃなく、レイヴンやスワンもな」
 ルビーは立てた指先をくるくると回したが、そこから旋風が巻き起こるはずもなく、ミリアンの首元には暑さと他様々な要因によって幾筋もの汗が流れていた。
「しかしながらね、少年。本来、バランスを取るのは主演の仕事なのではないかしらん。誰かが前に出過ぎたら、より自分が前に出て観客の目線を奪い返す。誰かが高く昇るたび、自分も更に高みへと昇っていく」
 ひゅう、と青嵐が吹いた。
「それができないなら……」
 言って、ルビーは今しがた通り過ぎていった蝶の一団の方へと指先を向け、風に乗ってアゲハチョウよりも高く舞い上がったモンシロチョウを目に映し──それから片眉を吊り上げて、おや、という顔をした。彼は蝶を指差していた手で、何かを握り潰す動作をする。
「……それができないならば、そいつはそれまで。そんなレイヴンやスワンはロワゾに要らない。これはそういう戦いではなかったかしら? いつの間にここはこんな腑抜けた場所になったのかしら?」
 彼らの視線の先で、地面に向かってはらはらと白い破片が落ちていく。高く舞ったモンシロチョウは次の瞬間、突如頭上から急降下してきたアゲハチョウよりも更に色鮮やかなハチクイによって、ぱくり、と嘴で捕らえられてしまったのだ。ルビーは喉の奥で、何か形容しがたい、ぐつぐつと煮られたような笑いを鳴らし、ゆっくりとミリアンのことを見る。
「君、アー、名前なんだっけ。ミカン・バームクーヘン?」
「ミッ、ミリアン・バームです!」
「そうそう、ミリアンね。それで、マーマレードちゃん」
「マ……?」
 そう脈絡のない呼び名に疑問符を浮かべるミリアンに、ルビーは手にしていた日傘を押し付けては、まるで相手へ巻き付くみたいにその顔を覗き込んだ。
「──君、憎しみって分かるかな?」
 その問いかけは、喉で煮えたジャムを舌を介さずに吐き出すような甘々く、それでいて苦々い声で発される。
「俺が誰かに殺されたら、君はどうする?」
「そ、」
「泣く? 怒る? 叫ぶ? 相手を殺す? 自分を殺す? 発狂しちゃう? もう笑っちゃう? 絶望する? 心の心の心の底から?」
 先ほどまでぐるぐると動く音がしていたミリアンの思考がかちり、と止まる音が聞こえて、ルビーは瞳にだけ浮かべていた笑みを更に深めた。同じく、傾げていた首を更に傾げて、彼は指先をミリアンの肩に滑らせる。
「できねえよなあ、そんなこと。最愛の推し≠ェ死んだくらいで?」
 ルビーはミリアンの朱色をした目を見据えて、瞬き一つでその笑みを失した。
「オーディエンスの愛はいつも薄っぺらい。だってさあ、俺たちはモノだよ。どれだけ美術品ぶったって、結局は景品や食いモンと同じ。芸術とは聞こえの良い、ただの消耗品サ」
 そうして反射的に傘を受け取ってしまったミリアンが作る八角形の影の下、両手の指先同士を口元で合わせて、ルビーは鼻歌でも口ずさむような気軽さで言葉を継いでいく。
「ね、君はナイチンゲールが好きだろう?」
 きっぱりと断ずるみたいな響きをもって発された問いと共に、ルビーはどこからともなく──大多数にはそう映るだけで、実際には肩に引っ掛けている、やはり大多数には理解しがたいデザインのブランドバッグから引っ張り出しただけであったが──一冊の本を取り出すと、それをミリアンの眼前にゆらりと吊した。
「これをあげる」
「これは……台本?」
「『マリー・メアリー・マリアゴールド』というお話だよ」
 そう薄く笑んで、ルビーはぱ、と台本から手を離した。そして、それを見事な反射神経で掴んだミリアンの手から、しかしかろうじて残されていた教本たちが他の荷物と同じ道を辿って地面にどさりと落ちる。無論、ルビーはそんなことはお構いなしに悠々と息を吸い、それからどうしてだろう、微かにゆらりと身体を揺らした。先ほど自分がその指先で吊した台本さながらに。ミリアンが手を伸ばしたのと同じく、自分の中の何かを誘い出すように。
「舞台は宗教戦争真っ只中のウィスリルという国だ。主人公はマリーという軍人の女で、教会育ち。メアリーという双子の妹がいて、自分が養子に引き取られた後から音信不通。従軍しながら双子の妹を探している。けれどもマリーが異教徒を粛清し、その源流を辿るごと、それは自身が育った教会へと続いていき、そこには──? という感じの話だよ。俺がナイチンゲールを演る予定だったんだけど、おじゃんになっちゃったヤツ」
「上演しないんですか? どうして?」
「悲劇だったンだよ。俺の相手役がいないという、ね」
 ルビーは肩をすくめ、自身の涙堂を小指の先でなぞりながら喉の奥を鳴らした。彼の顔には確かに面白げな笑みが浮かんでいたが、けれどもミリアンの耳に届いた彼の声は笑い声と呼ぶには甘く煮えすぎており、それでいてあまりにも憎々しげなものであった。
「M・M・Mでの俺はナイチンゲール・ダッキー。名前はジャクリーヌ──通称ジャック。教会育ちの暗殺者で、底抜けに明るくて無鉄砲でイカれぎみ。同じく暗殺者の妹がいて、名前はジュリアン──ジル。ジャックに反して冷静沈着で皮肉屋だが当然イカれぎみ。よく似た双子の姉妹だよ」
 ゆらりゆらりと揺れていた紅色の視線が、再び朱色の元へとやってきて交じり合った。しかし、やってきて、という言い方には語弊があったかもしれない。彼のまなざしは眼前の朱色の元へ向かったのではなく、帰ってきた、というようなものであった。元ある場所に、本来在るべきところに、今しがた帰ってきたというような。
 そう、それはルビーの視線ではなかった。ルビー・ルージュの視線では、決して。
「二人は生まれてからずっとずうっと行動を共にしてきた。どこに行くにも、何をするのも、誰を殺すのも二人一緒。二人は生まれ育った教会にこう言われて育った。我々に徒名す異端者どもを殺せ。十三。マリーゴールドの花弁の数だけ=Aさすればその手に自由を与えてやらん≠ニ」
 いつの間にか右側に体重を掛けた立ち方をし、睫毛の先にきらきらしたものを光らせては屈託のない笑みを口元に浮かべているルビーの目線が、腰を折っているでもないのにミリアンには自分と全く──それこそ寸分違わず同じ高さにあるように思えた。きっと、この光景を見ている者がいたとしたら、その者も同様に感じることだろう。ルビーと同じ姿かたちをした誰かが、ミリアンを通して別の誰かに声を掛けている。
「教会がどんな悪事に手を染めていようと、その色に自分たちが塗られていようと、二人にはなんら関係がなかった。二人はただここではないどこかで一緒に暮らしていくだけの自由が欲しいだけだった。そのためには、どんなことだって平気で行う。そも、頭のおかしい教会で育った二人には、まともな倫理観というヤツは存在しなかった」
 呟いて、ルビーは片手で喉を掻き切る動作をし──噴き出す鮮血に、ジャックが堪えきれずに笑いを洩らし、ジルがやれやれと首を振っていた──それから彼はくるりと回転して何かを撒く仕草をし──家々が燃えている! しんと静まり返った夜中の街が叫び出し、それを楽の音としてジャックがジルの手を取って踊っていた──最後にそのヒールで鋭く石畳を叩くと、バン! と脳天を撃ち抜く銃声の音が鳴り響いた。
「……そんでマ、十三人目の標的、マリーを殺したところで二人はマリーの妹であるメアリーに捕まり──じつのところ教会の教祖であった彼女から、約束通りの自由を与えられるわけだ。死という名のね」
 そうして、セオリーだよねえ、と浮かべた笑みは果たしてルビーのものだっただろうか。彼はどこか冷たい光を目の奥に宿しながら、ミリアンが手にしている台本の表紙を指先で軽く叩いた。
「で、問題はここから」
「問題?」
「メアリーに殺されるのはジャックだけなのサ、マーマレードちゃん」
 ルビーはミリアンに向かって、両手で何か花びらめいたものを形づくった。それが双子にとっての秘密のサインであることがミリアンには分かったのだろう、彼はごくりと唾を呑む。
「ジャックという己の半身を奪われたジルの絶望と憎悪と憤怒ときたら、一体どんなものだったろうねえ。どんなときでもよく狂気的な大笑いをするジャックに対して、いつでも生真面目で物静かで動じないように映るジル。だけど、この舞台には、ジルにだけ『ジルの絶叫』という場面が用意されている。叫びながら殺陣のようなダンスをすンの。ジャックの魂もジルの身体に乗せてな」
 喉の奥を震わせるような笑い声を発して、ルビーはミリアンの周りをぐるりと回り、それから彼の背に当たる位置でぴたりと足を止める。
「けど、ダメなんだよね、どいつもこいつも。後のダンスに気をやりすぎて、叫びがぬるい。絶望が、憎悪が、憤怒が、ジャックへの愛が薄い。それが薄いと、後のダンスも軽く見える。物語における二人の存在すらも。ここがジャックとジルの一番の見せ場。だからこそ、ここが弱いと二人の存在感は奈落の底に真っ逆さまってワケ」
 ミリアンからは見えない位置で言葉を継いで、ルビーは青空の下にある黒い空を視界に映し、その紅い目を眇めた。
「とかく、逆上したジルはメアリーまでも殺し、最後に自死をする。そして誰もいなくなった、でジ・エンド。自死のシーンはジルを演じるダッキーに一任されているから、特に細かい指示はない。これも難所の一つ」
 ミリアンは手の中の台本を見下ろし、何かを考えているようだった。そんな相手を頭のてっぺんからつま先までじいっと眺めながら、ルビーはひどく緩慢な速度でコツリ、コツリとミリアンの前まで戻ってくる。
「ジルはジャックを愛している。ジャックはジルを愛している。どんな枠組みも超えて世界や宇宙の何ものよりも、彼女らは己の半身を愛している。ナイチンゲールに必要なのは憎しみ、それからこの世の何よりも歪な愛……」
 両手を祈りのかたちに組み合わせて、ルビーは見上げるみたいにミリアンを見た。
「な。そうでしょ?」
 ミリアンは頷かなかった。彼には、頷くだけの材料がまだ自分の中に持ち得ないらしく見えた。ルビーは両手を解いて、相手の持つ傘の柄を軽く押してくるりとさせた。
「この話はね、マーマレードちゃん。マリーがスワン、メアリーがナイチンゲール・スワン。そしてジャックとジルがナイチンゲール・ダッキーのお話だよ。でも、最後の最後に入れ替わる≠フサ」
 入れ替わる。ミリアンは口の中でおうむ返しをし、はたと睫毛を上げていた。ルビーが息を吐くついでに、ふ、と笑む。
「ジャックの死から自死までの短い時間だけ、ジルはナイチンゲール・ダッキーから、ナイチンゲール・スワンないし人によってはスワンにまで昇り詰める。それによって、ジャックもまたスワンにまで引き上げられる。ほんの一瞬だけね」
 そう発して、ルビーは薄く開いた唇を少し動かし、それを指先でなぞる。その所作はどこか、先ほど舞い上がったモンシロチョウを捕食したハチクイの姿を連想させた。危険で、魅力的な鮮やかさを併せもつ……
「──面白い。だろう?」
 問いかけるルビーの声には、しかしひらりと惑わせるような響きは存在しなかった。ただ問うだけのルビーの言葉に、ミリアンはこくりと頷き、それから睫毛を伏せて眼下の台本を見つめる。
「だからね、君にジルをあげる」
 ルビーの悪戯で気易いその言葉に、けれどミリアンはどれほどの衝撃を受けただろう。彼は瞬きもできずにルビーのことを見つめ、信じられない、という表情ではくり、と口を動かした。
「お、……俺に?」
「月に一度、そうだなあ、十三日にしようか? 午後十一時、誰にも見付からないように、クーデール寮の空き部屋までおいで。そこにはジルを待つジャックがいる。二人で楽しくお喋りをしよう? 月に一度をこれから三年間、サ」
 驚きに台本を取り落とすのではなく、むしろぎゅうと破れそうなほどに腕の中に閉じ込めて、ミリアンは何にも構わずに言葉を続けるルビーのことを見ていた。
「ね? そうやって自分の中にもう一人の存在を生み出すんだよ、自分が押し潰れそうなほど。君はこの世界に生まれなかった、もう一人の君、別の君を手に入れられる。こんなにおそろしくて楽しいことはない、でしょ?」
 ルビーはうっそりと笑みを浮かべていた。己の中のジャックと溶け合いながら喉を震わせ、常よりも高い少女めいた声で笑う彼は、やはり子どものように楽しげだった。
「君が卒業したら、ロワゾでこの話を上演する。ジルに指名してあげるよ。そのときの通しリハはジャックが死ぬ手前まで。それ以降は本番にぶつける。どう?」
 首を傾げる彼に対してミリアンは返せる答えを持たず、そしてまた、ルビーも相手の答えを求めてなどいなかった。彼はミリアンの真正面に立つと、黄金色に塗られた自身の爪の尖りを相手の喉元へと突き付けて、どこか笑みに似た、けれどもこの上なく甘く冷たい表情をして口角を上げた。
「ミリアン・バーム。その舞台の本番で、君は本物の憎悪と愛に出会うことができる。その瞬間から君はわしは一ダースのレイヴンよりもアン、、の方がいいよ=Aそう言われるダッキーになるだろうね。でなきゃ、才能がないから一刻も早く辞めちまった方がいいや」
 そうして、一人で納得をしたように頷いて、ルビーはミリアンへと突き付けていた指を引っ込めて、全く悪びれる様子もなくその人差し指と親指でハートサインを作っては愛らしい顔でほころんだ。
「ア、返事は要らない。ただの気まぐれだし」
 ややあって、思い出したみたいにそう呟いたルビーは、まだほとんど放心しているミリアンのことを一瞥して、白々しくううんと唸った。
「でも、ルニ・トワゾにいるだけじゃあできないことだよ。君らの優しいガーネット先生には、ダッキーからスワンになんていう器用な芸当はできない。アイツは頭のてっぺんからつま先まで主演の役者だからね。それに、ダリア・ダックブルーもね、舞台上でとはいえ、学生を自死させるような物語はここでは書かないよ、絶対に」
 誰も口には出さないだけで半ば周知の事実を躊躇いなく呟いたルビーの方を、朱いまなざしが密やかにそうっと見やった。ルビーは残念そうに肩をすくめ、かぶりを振る。
「君にそんなナイチンゲールが演じられるかな? 甘美で密やかな自分のための裏切りが? ああ。ああ、できない。きいっと、できない、できやしないだろうなあ……」
 それはまったく子ども騙しのような、ひどくジャック≠轤オい挑発であった。常人では取るに足らないような言葉の羅列。けれども、ミリアン・バームは果たして常人と呼べるに値する人間だったろうか。少なくとも今日はローレアの夏にしては茹だるような暑さが辺り一帯を支配しており、熱に茹だる彼の眼前には突如としてルニ・トワゾを志すきっかけとなった役者が現れ、蝶が見たこともないくらい高く舞い上がり、その蝶を鳥が食らい、腕の中には手渡された台本があり、新人公演と春公演ではクラス優勝を逃し、腹の虫は絶えず姦しく嘶いていた。そんな日であった。
 少年は、片手にしていた日傘を取り落とした。足元に八角形の影が二つ分広がる。
 蜃気楼のごとくに消え去ったナイチンゲールの笑い声が、彼の耳の中で幾度も打ち鳴らされる鐘のようにこだまをし続けていた。
「──それじゃあねえ、ジル! マリーゴールドの花弁の日にまた会えますように!=v



20210801 執筆

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