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アンチ・コケティック



 緑。黄緑。黄。白。光。光が明滅している。
 緑から黄緑、黄緑から黄、それらがゆっくりと移り変わったと思えば、すべての色が同時に点灯し、混ざり合っては床に落ちる光は白に染まる。輪郭を曖昧にして揺れ動く色たちがぼんやりと光り、消え、ふとまた光り、消える。浮かび、沈み、浮かび、沈み。照明チェック中の舞台袖から見える光というものは、得てしてどこかの狭間を眺めているかのようだった。そして事実、袖で待機中のクーデール生たちは、公演から次の公演へと移る、その狭間に存在していた。さながら冠婚葬祭が一挙に押し寄せたのごとくである舞台袖の猛烈な忙しなさを横目に──時折生徒たちへのハンドサインや裏方への指示を飛ばしてはいたが──ガーネット・カーディナルは歩を進め、舞台のすぐ手前でぼんやりと立ち尽くしている、すこぶる姿勢の良い人影を見た。それから、ボーダーライトから差すあやふやな光と、フットライトの不明瞭な明かりを。
「オリーブ」
 もうすっかり用意された一幕一場目の舞台セットを眺めたその背に向かって、ガーネットが呼吸めいた静けさで声をかける。常であれば床をヒールが叩く音だけで弾かれたみたいに振り向くオリーブであったが、こんにちばかりは呼びかけから瞬きほどの間があったのち、
「先生」
 はっと、たったいま気が付いたという様子で自身の睫毛を上げていた。
 ガーネットはそんなオリーブが振り返るより早く彼の横に並んでは、舞台上部から差す決して鮮やかとは言えない、しかし色とりどりに光る明かりたちをつと眺めやった。目の前に広がるのは、平衡感覚を失った視界さながらにぐにゃりと歪んだ舞台美術に、どこでもないどこかの、どうも建物らしい何か──人によっては、頽れた人の山にも見えるだろう──を描いている背景幕、そして、輪郭を持ち得ず霧のごとくに揺らめいている名状しがたい照明。その白昼夢と悪夢をないまぜにしたような風景に、赤い緞帳の内側はもう、現実世界とはとても呼べない様相を成している。
「お前、さ」
 ガーネットは揺れ動く光たちを見たまま呟いた。
「生まれたときのこと、憶えてる?」
「生まれたとき、ですか?」
「ああ」
 言葉だけで頷いて、ガーネットは舞台上で漂いながら光る照明を変わらず見つめ続けた。オリーブはそんな相手の横顔を少しのあいだ目に映していたが、ややあって、彼もまた眼前の──しかし何故だか遠くに見える明かりたちの方へと顔を向ける。
「……俺はたぶん、こんなふうだったと思うよ」
 呟いて、ガーネットはその柘榴色をした目をふっと細めた。
「こんな光を、見ていたような気がする」
 そうして彼はオリーブの方へと顔を向け、隣で自分と同じように幕開け前の舞台を眺めている緑がかった金の睫毛を見やった。薄暗い舞台袖の暗やみと淡く漂っては翻る浅霧の照明のあわい。オリーブの上を向き続けるよう固定された睫毛の先が、しかし化粧のためではなく光っている。気を抜くと浅くなる息が、深めに吸って吐かれる音がした。オリーブはまなざしを動かさないまま、ゆっくりと瞬きをしていた。
「緊張してるな」
「……はい」
 そう、つと発されたガーネットの言葉にオリーブは短く頷き、
「主演なんて、考えたこともなかった、ですから」
 と、腹の前で組んだ両手の指先にぐ、と力を込めた。
 それからはたとして彼は瞬きを一つすると、目の前の担任教師を安心させるためにちょっとだけ微笑む。教え子のその様子にガーネットは少しだけ喉を鳴らして、皺の寄っているオリーブの眉間を指先でとん、と小突いた。
「ふ、……くく、そうだろうよ。主演だって言われたときのお前の顔ときたら。今でもよおく思い出せる。あれこそ豆鉄砲を食らった鳩、散歩だと騙されて病院に連れてこられた仔犬の表情だったな」
 冗談半分、本気半分にガーネットは笑った。そんな彼の言葉で一月半前の自分を思い出したのだろう、オリーブはどこか気恥ずかしそう肩をすくめ、ちょっぴり首を傾げるふうにして笑む。その表情もまた、いつものものにしては固まっている。いつだって舞台は、観客は、物語は、緊張や不安などでは一秒たりとも待ってくれないことを、彼はもうとっくに──それこそ新人公演の幕が上がった瞬間から知っているはずだろうに。ガーネットはパチと指を鳴らした。そうして彼はこことは全くの別世界が築き上げられている舞台の方を指差した。
「ああまったく、何を恐れることがあるんだか? 今日のお前に失敗だけはあり得ない。だって、今日だけは──今日からは、何をしたっていいんだから。何をしたって、クロウもダッキーも思いのままに破滅する。そのように世界が出来上がってる=c…」
 言いながら、ガーネットはこんにちの主演であるオリーブの出来栄えを頭のてっぺんからつま先までじいっと確かめた。
 オリーブの持ち味である緑みの金髪は常よりも空気をはらんで非日常的にセットされており、髪の下で待ち構えている漆黒のアイラインなどは、彼の猫目の周りをこの世のすべての悪意を背負ってはきつく、更につり目がちに見えるよう引かれている。瞼は玉虫色の鮮やかなアイシャドウで彩られ、それはオリーブの白目にハイライトが入る斜め四十五度を向いたときにだけ赤く偏光をしてみせる。そして、その下の瞳は無駄な色を重ねず、生まれたままの緑色を宿して光っている。今回の演目では、ウィッグもカラーコンタクトもあえて使用しないことをガーネットは選んだ。そうせずとも、オリーブ・オーカーは悪の色を生まれながらにして持ち合わせている。ならば、それを尖らせないわけはない。
 極めつけには、衣装。オリーブがこんにち纏うそれは世界一黒い黒色、衣装に使うことはタブーとされているヴァンタブラック一色のみで仕立て上げられたパンツドレスである。無数の鳥の羽根のようなドレープを上下に切り替えることでドレススタイルとパンツスタイルを素早く行き来することができるこの衣装の構造は、男にも女にも見える、けれどどちらとも捉えがたい人物を演じる今回のオリーブにとっては欠かせないものであった。
 無論、世界一の黒と豪語しているのだ。ヴァンタブラックのみで作り上げられたそれは服の凹凸が全く目視できないために、観客はそこに飾りがあることさえ認識することはできないだろう。彼らには、舞台上でぽっかりと闇が口を開けていて、そこからオリーブが顔や手足を出しているようにしか見えず、また、オリーブが動き踊り躍動するときでさえも、闇が轟き翻り、舞台を侵蝕していくふうにしか映らない。まさしく、狂ったような黒。おそろしい黒! ガーネットは悪の華そのものと化しているオリーブを今いちど上から下まで眺めやってにっこりとし、
「──ん?」
「え?」
 それから、訝しげに眉をひそめては細めていた瞳から笑みの形を失した。突如として表情から弧を取り去ってしまったガーネットにオリーブはぱちぱちと瞬きをして、少し慌てた様子で自身の頬をぺた、と触る。目の奥に微かな焦燥と疑問符を浮かべているオリーブにはお構いなしに、ガーネットはずい、と己の顔を相手へと近付けた。
「えっ、あ、何か変、ですか?」
 その問いかけに、ガーネットは瞬きもせずに自身の人差し指をオリーブの唇の端へと当てた。
「や、……オリーブ? お前、口紅はどうした?」
「口紅?」
 オリーブは相手の質問をおうむ返ししながら、答えを得るまで離れる気のなさそうな指先と、ほんの少しだけ唇をへの字に曲げているガーネットの顔を交互に見やって、その間にある記憶の糸を辿った。
「あ、ああ……その、ついさっき、マジョリカさんがドレッサーの裏に落としちゃって、いま捜索中で」
「はあ? なーにをやってんだか、あいつは……」
 拍子抜けたように息を吐いて、ガーネットは余っている方の手で痒くもない首の後ろを掻き、それからやっとオリーブの唇を自身の指から解放する。なんとなく話しにくそうにしていたオリーブはすうと息を吸って、クーデールの楽屋がある方角を見やった。
「それで、マルヘルくんが探すのを手伝っててくれてて。俺も手伝おうとしたら、主演なんだから集中してろ≠チて怒られちゃいましたけど……」
「へえ、そりゃ一体どこのどいつに似たのかな」
 ガーネットはなんとはなしに呟いて、しかし心の中だけでくすりとした。ルニ・トワゾの舞台の心を勝ち取った人間が背負う重責と誇りをクーデール現二年生の中で一番はじめに知ったのは、他でもない、新人公演でレイヴンを務めたマルヘル・ブルーナだ。ああ見えて内側に熱いものを灯しているマルヘルが、未だ集中しきれていない様子のオリーブを見て目を三角にして苦言めいた助言を発する姿は、ガーネットにとってあまりにも想像に易かった。
「つまり、俺はこう言うべきなんだろう──おや、これは失敬。邪魔したな?」
 冗談めかして怒ったみたいな笑みを浮かべてそう発するガーネットに、しかしオリーブは大真面目な表情でかぶりを振り、それからそっと微笑んだ。
「……まさか。先生が来てくれてよかったです」
 そして、そんな台詞をオリーブが迷いなくはっきりと、それでいてあんまり柔らかい笑みで言うものだから、ガーネットは思わずぱっちりと瞬きをして、それから呼吸から滲んだように淡く笑った。なんて顔をするものだろう。なんて、こんにちの演目に似付かわしくない顔で笑うものなのだろう。ガーネットは息を吸った。頭の中で光が明滅している。ああ。それから彼は微笑みながら目を伏せた。ああ、そうか。そうだな。そう心の中で確かめる。自覚をする。負けたくない。勝たせてやりたい。勝たせて、やりたい。勝ちたい。
 彼は伏せた視界の中に何かがきらりと閃くのを見留めて、自分たちの方へと飛んでくるそれを人差し指と中指でひゅ、と掴んだ。おっと、とガーネットは唇の端から洩らして、今しがた捉えたそれをオリーブの顔の前で緩く揺らした。
「さて、ご所望の品のご到着だ」
 ガーネットは瞳で弧を描き、手にした口紅の蓋を外してくるくると底を回す。そして、導き出されたその先端を確かめると同時に自身の目を眇めた。
「ごらん、アイシャドウに合わせた綺麗な緑色だな」
「あの、先生。今、マルヘルくんが何か、」
「ん? ああ、言ってたな。絶対その色! らしいですよ=c…」
 口紅が飛んできた方を見やっているオリーブにガーネットもまた頷いて、くつくつと己の喉を鳴らした。こちらが確実に受け取れると踏んで、この薄暗がりの中、若干の呆れと共に口紅を投げ飛ばしてきたのはヘアメイク担当ではなく、当然、マルヘル・ブルーナその人である。ガーネットはそんな彼が見せた眉根を寄せた表情と、クーデールクラス内でのみ通用する、絶対を意味するハンドサインを片手で真似て、おどけるように小首を傾げた。
「絶対、だとさ」
「……先生」
「絶対。絶対って言われるとなあ? 呪いの言葉だからな、絶対は……」
「先生、叱られちゃいますよ」
「お前がばっちり演れば問題はない」
 情もなく、非常識に、心底面白げにそう千両の笑みを浮かべて、ガーネットは鮮やかな緑の口紅を手の中でくるりと回した。
「だが、オリーブ。今日の俺たちに絶対はないだろう? まったくのノンバーバル舞台、主演は男でも女でも一人二役でもないピーコックのナイチンゲール、そのナイチンゲールは墓場で歌わず、いつも死ねないお前は死なない。今まで築き上げたものをすべてぶち壊したら、その先に何が見えるのか? 俺にだって分からない舞台だ」
 ガーネットは伏し目がちにした瞳だけを動かして、足元までやってきている舞台の光を視界に映した。
「ああ、いいなあ。俺も踊りたい……」
 そして、うっそりと、それでいて密やかに呟いて、彼はもう一歩オリーブの方へと近付いた。オリーブは目を逸らさず、ガーネットの瞳を見ていた。ゆっくりと瞬きをする。アイシャドウの玉虫色が暗やみの中で微かに煌めき、再び開かれた目はそれよりも光る緑でちかりとした。オリーブは少し微笑みさえしていた。
「……さ、あと五年早い色を貸してやる」
 ガーネットは当たり前の声色で発して、手にしていた緑色を肩に引っ掛けた上着の隠しに仕舞い、それと入れ替えに黒い革のケースに包まれた口紅とリップブラシを取り出した。彼は眼前のオリーブの瞳を一呼吸分だけ見据えた後、ほんの微かに笑んだらしい。そして、その笑みのあわいには、何か少し、不思議な色合いが宿っていた。
「俺のことも連れてきな」
 ガーネットがそう呟くと同時に、オリーブは自身の瞼を静かに閉じた。言葉のないそれは彼らにとっての返答と頷きであった。ガーネットは常日頃自分が差しているものと全く同じ赤をした口紅の先から、細いリップブラシへと色を取り、まだどんな色にも染まっていないオリーブの唇へとその赤をするりと塗った。今この瞬間、子どもと大人の間に立っていたのは、果たしてどちらであっただろう。ガーネットは開いたままの目で瞳を開けた。真実、瞳を開けた気が彼にはした。その口紅の色は、ガーネット、といった。
「オリーブ」
「はい」
「もうじきに幕が上がる。そこには千の観客がいる。すでにご存知の通り、ルニ・トワゾの客席は常に満席だ」
 その言葉に、オリーブがそうっと目を開けた。睫毛が上がっていく動作の一つひとつがガーネットにはゆっくりに見え、そこから己の視界まで開かれていくような心地さえした。視線がかち合う。赤色が緑色を見て、緑色が赤色を見ていた。ガーネットはオリーブの肩に手を置き、緞帳を、それからその向こう側にある、オーケストラピットと客席の間のエプロンステージを指差した。
「だから、喜べ。すべてがすべて、お前のための餌としてそこに在る。好きなように料理してやんな。なんならそのまま食っちまってもいい。それに、今日は銀橋を渡っていい、もちろん、お前が渡りたいんなら。いいか、オリーブ。それは何も、お前が主演だからじゃあない」
 息を止めて、ガーネットはオリーブの耳元に顔を寄せた。
「今日。お前が、この世界のすべてだからだ」
 魔法でも呪詛でもまじないでもなく、ただただ揺るぎのない事実を告げるために、ガーネットは普段と変わりない淡々とした声色で確かに、はっきりと、なんの迷いもなくそう言いきった。
「踊れ、楽しく演んな。それだけでお前は無敵だ、まったく言葉通りにな。歌も台詞も必要ないほどに」
 オリーブは息をするように瞬きをし、そうして、先ほどガーネットが指差した緞帳と、今は目視できない銀橋をしかし自身の目に映した。彼は息をする。息をしていた。生まれる前の呼吸、世界が開くのを待つ呼吸を、彼は暗やみの中、光の前で行っていた。
「……先生」
「ああ」
「幕が上がる」
「ああ、上がる」
「上がるんですね」
 そうして彼らは、今度はまなざしさえ交わさなかった。
 ただ二人は、今から何かが──何もかもが始まる気配と、すべてを壊してしまうために、今日という日で自分たちのすべてが変わってしまう予感を淡く、けれど強かに覚えていた。オリーブは音もなく笑み、ガーネットもまた声もなく笑んだ。相手と同じほどの色を唇に宿して、ガーネットはオリーブの心臓に指先を当て、
「──よし、踊ろう」
 それからそんな、はじまりの合図をしたのだった。
 世界一楽しい時間の、はじまりの合図を。



2021075 執筆

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